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千紫万紅

中国の文学、映画、ドラマなどの感想・考察を自由気ままにつづっているブログです。古代から現代まで、どの時代も大好きです。

 

 
金庸作品には、気合だけで敵を吹っ飛ばしたり、指から謎ビームを発射したりといった、超絶的な武術を習得した達人が多数登場する。その中でも、本編の時系列から外れたところでは、さらに規格外の伝説的な達人が出てきたりする。代表的なのは、「神鵰侠侶」「笑傲江湖」に登場する独孤求敗。生涯一度も負けたことがない、とんでもない剣法を創作、鳥だけがお友達、などなど色んな伝説を持ったお方である。金庸小説の強さ議論でも、毎回別クラスとして扱われることが多い。
しかし、である。よくよく金庸小説を読んでいけば、話題にならないだけで独孤求敗クラスのやばさを持った達人が意外といたりする。ここでは、そんな隠れ達人についてちょっと語っていきたい。
 
 
達磨大師
ご存じ、少林寺の開祖。「天龍八部」をはじめ、多数の金庸作品でその名が登場する。作中における少林寺は、正派きっても一大勢力にして名門という立場ながら、敵に寺ごと乗っ取られる、寺が豪傑達の戦場になる、強敵の噛ませなど、はっきり言って良い扱いは受けていない。が、始祖である達磨大師については、凄まじい偉業がいくつも伝わっている。ざっと挙げただけでも
・七十二絶技を全て習得
・九陽真経を作成
・易筋経を作成

の三つがある。
まず一つ目について。七十二絶技は、達人とされる少林僧でも、せいぜい五、六種しか会得しておらず、最も抜きんでた者ですら十種程度が限界とされる難解な武功。が、なんと達磨大師はそれを全部使用可能だったという(開発者なんだから当たり前と言えばそうだけど)。これだけでも十分伝説級の実力者だ。
二つ目、三つ目についてはあれこれ語るまでも無いだろう。九陽真経はその一部が伝わった少林・武当・峨眉の三派だけでも強力な威力を誇り、その全てを会得した張無忌に至っては、作中無敵の内力を誇った。
易筋経も、習得にヘンテコ条件がついた欠陥気味の奥義だが、ヒョロガリ御曹司の游坦之ですら簫峯クラスの達人になれる可能性を秘めている。
そんなわけで、これらの強力な奥義を単独で生み出した達磨大師は、間違いなく金庸作品屈指の達人であると考えていいのではなかろうか。
 
 
黄裳
射鵰英雄伝に登場。本編でも争いの元凶になった九陰真経の作者。作中では、その伝説的な強さが周伯通によって語られている。何分、語っている人間が人間なので、いささか誇張や脚色がある気がしないでもないが、ざっと要約すれば下記の通りになる。
1、黄裳先生は道教に精通したエライ学者さまだ。
2、道教の書物を隅から隅まで読んでいたら、いつの間にか武術にも精通しちゃった。天才だから。
3、ちょうど蛮族の異教徒達(明教のことね)が、宋へ攻撃をしかけてきた。連中は達人揃いで宋軍は歯が立たない。怒った黄裳先生は会得した武術で、異教徒の達人どもをボコボコにしちゃった。つおい。天才だから。
4、異教徒達も黙っていない。味方を総動員して黄裳先生をボコボコにする。
5、何とか逃げ延びた黄裳先生。誰もいない山中で、ひたすら敵を破るべく武術の研鑽に励む。天才だから、敵の技も一つ一つ全部覚えてる。その敵の技を、わざわざ一個一個破る手を考えた。一周まわって頭悪いような気もするけど、天才なんてそんなもんだ。
6、よっしゃ!全員分の技を破る手段を思いついた! ついに山を下りた黄裳先生。が、何と外では既に四十年が経過していて、敵は全部死んでいた。おーのー。
7、四十年も時間を使ったのに、その成果を残さないのは勿体ない!と、自分の武術の全てを書物にまとめる。それが、九陰真経じゃよ!
というわけで、規格外の強さを持った達人なのは間違いない。九陰真経の内容はかなりバラエティ豊かで、内功増強や、体を鍛える易筋鍛骨法、実践的な武功である九陰白骨爪、さらに相手を操る移魂大法なんて変わり技も収録されている。東西南北の四大高手はじめ、九陰真経の技に対する評価は高く、これらを作り出した黄裳の実力は疑いようがないだろう。ただ、上記でも述べたように、周伯通以外に黄裳のことを誰も語ってくれないので、読者の中でもいまいち印象が薄い気がする。
 
 
葵花宝典の作者
笑傲江湖に登場。名前は不明で、前王朝(笑傲江湖の舞台設定は明代のようなので、時代としては元だろう)の宦官だったとされている。笑傲江湖を読まれた方ならご存じの通り、葵花宝典を会得した武芸者は作中トップクラスの実力を手にしている。が、よく読んでみるとわかるのだが、本編の時系列で登場した葵花宝典は、完全な形で伝承されていない。簡単な経過は下記の通り。
葵花宝典が作られた後、作者の死後に福建少林寺で保管→崋山派の岳簫・蔡子峯がそれを盗み見る→福建少林寺では葵花宝典を武林の災いとして処分。これにより、完全な形では失われてしまった。その一方、崋山派のもとへ事実を追求すべく渡玄禅師を派遣→崋山へ来た渡玄禅師は、使命を無視。岳簫・蔡子峯の話をもとに法典の一部を復元。その後還俗し、法典の内容をもとに僻邪剣法を開発。→崋山派へ突如日月神教が襲来。葵花宝典を奪い取る。これが、日月神教にてその後も保管され続けた。
上記の通り、東方不敗の手元にあった葵花宝典、および僻邪剣法は、あくまでその一部分でしかない。葵花宝典の秘密を語る方証大師の言によれば、欠損はかなり甚だしかった模様。にも拘わらず、東方不敗や岳不群は江湖最強クラスの力を手に入れることが出来た。
そういうわけで、完全な葵花宝典を習得していたこの宦官の実力は、さぞかし恐るべきものだったのではないかと想像される。

 

 

金庸小説「天龍八部」に登場する主人公の一人。作中の呼び名は「北の喬峯」。数ある金庸主人公の中でも、とりわけ漢の中の漢と名高いキャラクターである。

 

劇中での活躍

段誉が慕容復ガールズに冷たく扱われ、やけになって酒楼入りした場面にて初登場。その場で段誉と酒を飲み、さらに軽功を競った後に意気投合。義兄弟の契りを結んだ。この時は、喬峯と名乗っている。そんな矢先、彼の治める丐幇で内乱が発生。なんと、喬峯が幇内のナンバー2である馬大元を殺したと疑いをかけられていたのだった。彼は見事な統率力で事態を収拾するが、配下の一人によって自分が契丹の生まれであることを暴露される。しかし、これは喬峯自身も初めて聞く出生の秘密だった。折しも宋と遼は国境を挟んで戦時中、喬峯は武芸・人徳並外れた逸材だが、敵国の人間を武林の一大組織のリーダーにすべきかどうか、幇内でも意見が割れる。喬峯は自らの疑いを晴らすため、また自分の出自について真実を確かめるべく、幇主の座を返上して一人旅立つ。

その後、彼はもと師匠である少林寺の玄苦や、育ての親である喬三槐を訪ねるが、いずれも不審死を遂げており、そのうえ下手人が自分であると濡れ衣を着せられてしまう。真相を探す道中、喬峰は忍び込んだ少林寺で慕容復の侍女・阿朱と出くわす。自分と少林僧の戦いに巻き込まれて、阿朱は重傷を負ってしまう。治療のため、当代随一の名医・薛神医のもとへ向かうも、そこには自分を武林の敵と見なす豪傑達が多数顔を揃えていた。阿朱の命を救うため、喬峯は集賢荘で激闘を繰り広げる。危うく命を落としかけたところ、謎の男(後に実父の簫遠山と判明)に命を救われ、何とか逃げ延びた。

やがて傷の癒えた喬峯は、宋と遼の国境で阿朱と再会。再び真犯人を追う中、少林寺の智光によって自分の真の名が簫峯であることを知る。その後、馬大元の妻・康敏から、自分を陥れた犯人が大理の段正淳だと知らされた。しかし、段正淳は阿朱の実の父親だった。彼女は父親を庇い、自ら簫峯の一撃を受けて命を落とす。さらに、実は段正淳が犯人ではなかったことも発覚。失意の簫峯は、阿朱を埋葬して一人旅に出るも、妹の阿紫につきまとわれる。簫峯は、悪人揃いの星宿派で育った阿紫の気性を嫌っていたが、阿朱の遺言に従って、仕方なく道中を共にする。が、些細な出来事から阿紫に重傷を負わせてしまう。その命を救うべく北上した簫峯は、女真族のアクダの世話になる。ある時、女真族と契丹人の争いに巻き込まれ、簫峯は敵の一人を生け捕りにした。が、それは何と遼の皇帝・耶律洪基だった。簫峯は彼に迎え入れられ、遼国で起こった内乱の鎮圧でも功績をあげる。しばらくの間は、遼で安寧の日々を送った。

その後、行方をくらましてしまった阿紫を探すべく、契丹の仲間を連れて中原へ。折しも、新たに丐幇のリーダーとなった荘集賢が少林寺へ殴り込みをかけているところだった。騒動に巻き込まれた簫峯は、段誉や虚竹たち義兄弟の力を借りて、慕容復・丁春秋・荘集賢らを打ち負かす。そのさなか現れた実の父親・簫遠山と慕容博により、自分を陥れた真犯人、かつて雁門関で起こった悲劇の真相が明かされる。

全てが終わった後、簫峯は遼へと戻ったが、耶律洪基に宋を攻めるよう命じられてこれを拒否、牢に繋がれてしまう。阿紫や段誉・虚竹、さらに中原の仲間達によって救われ、宋へ進軍する遼の大軍を雁門関で阻止した。しかし、このことで祖国の反逆者となってしまった簫峯は、耶律洪基のために自ら命を絶つ。その亡骸は、阿紫と共に雁門関の底へと消えていった。

 

 

人物

金庸作品の中でも屈指の好漢にして悲劇のヒーロー。武芸に巧みなのはもちろんのこと、一組織のリーダーにふさわしい人徳を持ち合わせている。頭も悪くなく、とりわけ戦闘面ではその知恵が発揮される。そのほか、冷狐冲と並ぶ酒好きキャラだが、あっちに比べて醜い酔っぱらいぶりを見せることは少ない。まあ割と完璧な人物。
女っ気が無い、人の好き嫌いがはっきりしている、疑いをかけられてもあえて弁解しかったりなど、無骨漢過ぎるところが欠点といえば欠点だろうか。また感情を自分の中にため込んで、必要な時に義兄弟や友人の助けを求めることもしないなど、孤高な一面もある。
ストーリー上では慕容復と同様、転落の一途をたどっていくが、あっちは後半の暴走など自分自身で転落の原因を作っているのに対し、簫峯の場合は全て外野のドタバタで悲劇に追い込まれているのがやるせない。国や人との間で板挟みになり、にっちもさっちもいかなくなった結果が、最後の自害という結果に繋がってしまった印象。
出自でいえば簫姓が遼国皇族の姓ということもあり、段誉と並ぶ高貴な生まれ。
どうでもいいけれど、翻訳では名前が「峯」の字なのに、原文では「峰」の字。もしかして誤植だろうか?
 
武功
登場時点で完成された実力を持っており、江湖でもトップクラス。正面からの戦いなら、基本的にまず負けない。江湖での戦闘経験も長く、各派の武功に関する知識も豊富。あまり触れられないが、少林寺・丐幇という武林二大組織の技を両方会得している珍しいキャラでもある。
主人公達の中では、段誉に比べ自分の内力が劣ることを自覚しており、虚竹も逍遙派三代達人の内力・武功を全てものにしているので、最終的な実力は案外一番下かもしれない。
 
降龍十八掌
ご存じ、丐幇に代々伝わる必殺武功。簫峯の優れた実力もあって、その威力は絶大。真正面から受けられたのは少林寺戦での游坦之くらいで、慕容復や丁春秋といった使い手すら身を避けるほど。金庸が改訂した最新版では、降龍二十八掌になっている。
 
打狗棒術
丐幇に伝わる守りの武功。幇主である以上、当然拾得しているものと思われるが、作中で披露する機会は全くなかった。理由を推測するなら、彼自身の戦いが基本的に徒手空拳のみであること、既に幇主を退いていたので、幇主専用の武功を使うのはためらわれた、といったところだろうか。
 
少林寺武功
幼少の頃は少林寺の玄苦に学んでおり、その武功についても詳しい。
 
太祖長拳
宋の太祖・趙匡胤によって生み出された武功。といっても大層なものではなく、江湖においてはありふれた平凡な技らしい。しかし、簫峯のような実力者が使うことによって、優れた威力を持つ技になる。まあ、ようはいつもの内力マンセーである。作中では、外来の武術を使う少林寺層に対して、宋国由来のこの技で応戦し、自らの潔白を説いてみせた。
 
人間関係
段誉・虚竹
義兄弟。三人で一緒に過ごした期間はかなり少ない。簫峯がもっと二人に自分の心を開いていれば、悲劇も防げたのではないかと思ったりする。

阿朱
最愛の人。とはいえ、二人の関係は恋人というよりも知己に近い感じがする。後述の阿紫への態度もそうだが、もともと女っ気の無い簫峯が恋愛をわかっているようにも思えない。
 
阿紫
阿朱の妹にして金庸大物悪女の一角。簫峯へ明確に恋愛感情を抱いていたが、その所行の悪さもあって相手にされず、完全に子供扱い。
 
簫遠山
実父にして簫峯が疑われた元凶。散々江湖をかき回して息子を孤立させた挙げ句、自分は出家してその後は知らん顔、というのはあまりに酷すぎじゃなかろうか。
 
慕容復
「北の喬峯、南の慕容」で知られる江湖の二大巨頭……のはずだが、現実には全然実力が並んでおらず、ライバル関係にはほど遠かった。
 
慕容博
慕容復の父にして、簫峯にとっては仇ともいえる存在。こっちも勝手に出家して、何やかんやで因縁を勝手に解決されてしまった。いいのかそれで。
 
游坦之
集賢荘で死んだ豪傑・游氏兄弟の生き残り。易筋経と氷蚕の武功で簫 に挑むも、経験差で惨敗。

段正淳
江湖屈指の色男。一時、仇だと勘違いして付け狙う。
 
・汪剣通・玄苦
それぞれ丐幇・少林寺における師匠。前者は病死、後者は簫遠山に殺されてしまう。良き師ではあったようだが、それでも簫峯が契丹人であることを危険視し続けていた。
 
耶律洪基
遼の皇帝にして義兄弟。簫峯には好意的だったが、兄として彼の心情を理解していたとはいえなかった。
 
アクダ
歴史にも名高い女真の英雄。最後の戦いで生き延びていたら、簫峯の落ち着き先は彼のところだったのではないだろうか。
 
掃除番の僧
作中最強候補の人物。とはいえ、簫峯の降龍十八掌にはダメージを受けている。オヤジ達に対する救済に比べ、息子達へのフォローが少なすぎではないだろうか。
 

 


射鵰英雄伝を読み返していたら、ふと気になる記述にぶつかった。
作中では、登場人物が口を揃えて「全真教こそが武門の正道」であると言う。
その正道というのは、何を基準に言っているんだろうか。射鵰三部作を読んだ方ならご存じの通り、全真教は江湖の正義を標榜する一方、ろくでもない連中が大量に存在する組織である(特に神鵰)。そんな彼らの武功は、本当に正道なのだろうか? 
 
というわけで、金庸作品における武術の正道について、ちょっと書いていこうと思う。
まず、上記で挙げた全真教武功がどのように正道なのか検証していく必要があるだろう。
全真教武功の柱は、内功と剣術にあるように思われる。色んなキャラが言及しているので、簡単に例を見てみよう。
洪七公…愚鈍な郭靖が奥義の降龍十八掌を習得出来たのは、全真教の内功を学んだおかげだと口にしている。また全真教武功が天下の正道であると称したのも七公。
金輪法王…尹志平と趙志敬が年齢の割に優れた内功の持ち主であると評価している。
李莫愁…全真教の武術を全般的に評価。
郭靖…楊過に対し、全真教武功の正当性を説き、内功修行を勧める。
 
このように、全真教の武功を好意的に捉えている人物は多い。
しかし、技が優れている=正道というのは少々理屈に合わない。より強力な武功を求めるのであれば、四大高手をはじめ、全真教を上回る連中がいくらでもいるからだ。では、全真教武功の正当性は何なのか。
 
これを考えるにあたって、正道の逆である邪道の武功について少々述べていきたい。作中で正道から外れた武功を使うのは、主に敵キャラクターである。その特徴を代別すると、大体下記のようになるのではないだろうか
毒系の技…ご存じ西毒の蝦蟇功や、李莫愁の赤練神掌、そのほか霊智上人の大手印功がこれにあたる。毒の作用次第では相手を再起不能にすることも可能であり、しばしば邪悪な武功として言及される。
正々堂々としていない陰険・卑怯な技…孫ばあやの使用した古墓派の技は、不意を突いての目潰しなど、陰険な技が多いとの記述アリ。他にも多数の悪役キャラが卑怯な技を使う。
修行法が危険・あるいは非道…死体を練習台にする梅超風の九陰白骨爪、梁子翁が育てていた蛇の霊薬による内力増強など、修行方法そのものに問題があるパターン。
暗器…代表的なのは彭連虎の毒針環や、李莫愁の冰魄銀針。どちらも強力な毒を持ち、前者は騙し討ち、後者は戦闘で容赦なく使用。善人側のキャラは基本的に使用を控えるため、局面にもよるが卑怯な武功の一例と言える。
 
こうしてみると、全真教の正当性が明らかになってくる。
例えば、全真教の技は毒も無ければ、暗器も使わない。修行法も安全。邪道と呼ばれる要素が無い。
そういうわけで、こと武功に関して言えば、全真教は確かに正道そのものなのだ。
そして興味深いことに、この全真教基準は他の金庸作品の諸門派にもぴったりてはめることが出来る。即ち、卑怯な技が無く、修行法に問題が無い、この二点をクリアしている門派は、大体正派に含まれている。少林や武当はもちろんのこと、笑傲江湖の五嶽剣派や倚天屠龍記の諸派も入れていいだろう。
これを踏まえれば、金庸作品中のちょっとした疑問も解決する。例えば青城派や嵩山派なんて殆ど悪の巣窟、なんでこいつらが正派なのかと思った読者も多いはず。しかし武功自体を見れば、そこに邪道な門派の要素は無く、正道からそこまで外れているわけではない。これが彼らの(一応)正派たる所以ではなかろうか。
他にも、倚天屠龍記に出てきた崆峒派の七傷拳は見るからに邪道の武功だが、これも門人たちがきちんとした内功習得と修行を怠ったせいであり、技自体に問題があるわけではない。事実、内力に優れた張無忌は正しい七傷拳を披露している。
もちろん、門派自体が正当だからといって、そこに属する人物が正当ということは全くない。金庸作品を読んでいる読者なら、そのあたりは言うまでも無いだろう。
 
これはさらに余談だが、金庸作品の主人公で正道の武芸のみを極めている例は意外と少ない。すぐに思い浮かぶのは簫峯、胡斐くらいである。
残りの連中は軒並み邪道の武功を横道で習得している。令狐沖は江湖中に忌み嫌われる吸星大法を修行したし、狄雲も血刀門の武功を学んで達人になった。段誉や虚竹なんて修行自体がインチキレベルである。まあそうでもしないと、若い主人公達が作中最強クラスのレベルまで到達出来ないという、作劇上の都合もあるんだろうけど。
 
以上、割と思い付きで書いた考察でした。
 
 

 

 

唐代伝奇の一編。作者不詳。短編ながらも、後の神仙ジャンル小説のエッセンスが色々詰まっている、非常に興味深い作品。
 
あらすじ
幼い頃、不思議な尼にさらわれた聶隠娘は、神仙の技を習得して家に戻ってくる。やがて彼女は夫と共に節度使の劉に仕え、襲い掛かる刺客を倒していくが…。
 
主人公・聶隠娘の「師匠が謎の仙人」「仙丹を飲んで強くなる」「体内に隠せる不思議な得物」といった設定は、後代の小説で同じパターンがよく見られる。色んな作品の元ネタになっていたのではなかろうか。
ちなみに、ストーリー自体は雑でまとまりも悪い。そもそも唐代はまだ小説創作の様式も成り立っていないし、読者を意識して作品が描かれているわけでもないので、これは仕方のないところ。とはいえ、その粗さゆえに面白くなっている部分もある。
例えば、(一応正義の味方らしい)聶隠娘の師匠の尼は、かなり外道な人物である。
・隠娘の父親に娘を譲ってくれと頼むが、拒否られので盗む。そして殺人マシーンに仕立てて親元に返却
・ある時、隠娘に一人の大官を殺してくるよう命令。が、隠娘は大官が息子と戯れている穏やかな姿を見て、殺しを躊躇してしまう。何とか仕事をやり遂げて戻ると、尼は叱責。「そういう時は先にガキを殺して、次に本人を始末するのだよ」と鬼畜なアドバイス。こんな師匠は嫌だ!
聶隠娘以外にも、神仙の力を会得したキャラクターとして、精精児・空空児の二人が登場する。が、作中での扱いはかなりいい加減。精精児は出てきたかと思ったら首と胴体が分かれてる有様。空空児も敵を一撃で仕留められなかったことを恥じてさっさとトンズラしてしまう。その諦めの速さは何なんだ。
ちなみに、仙人キャラ達の能力は後代の小説に比べ随分控えめに設定されているように思う。例えば、聶隠娘よりも実力が上とされる空空児は数時間で千里先まで行けるらしいが、西遊記の孫悟空はひとっ飛びで十万八千里を進める。時代を経るにつれ、作者がより面白さを追求した結果、神仙たちの能力もより派手に、よりスケールアップしていったのではなかろうか。
 
神仙小説のルーツを辿るうえで、是非読んでおきたい作品の一つである。

 

中央電視台が製作した1994年版のドラマ・三国志演義。思い出…というほどのものでもないんだけど、原作と比べて気になったシーンを、適当につらつらと書いてみる。
 
1、桃園の誓い
原作だとかなりサラっと書かれている場面だが、ドラマでは出会いの場面から三兄弟の契りまで、かなり尺を使っている。関羽と張飛の取っ組み合いはなかなかの名場面。喧嘩して仲間になつ、といういかにもな古典的ジャンプ方式だが、これはこれで良い。あと、劉備が自分の志について熱く語るシーンも良かった。
 
2、典韋の死
個人的に凄く好きなキャラである典韋。特に最期のシーンがいい。トレードマークの戟を奪われ、素手のまま多数の敵兵を倒し、仁王立ちになって果てる壮絶な戦いぶり。ところが、ドラマ版では数人の兵士を相手にしただけで、あっさり死んでしまった。もっと盛り上げて欲しかった。
 
3、的盧の渡河
これは凄かった。とりあえず見ればわかる。
 
4、関羽の死
関羽は死後も霊になってあちこちで活躍するが、ドラマでは首になって曹操をビビらせるくらい。それ以外にも、原作にあった霊的な描写はドラマだと大分省かれているように思う。
 
5、洛陽の劉禅
有名な「あ、蜀? 別に恋しくないっすよ~」の場面。原作通り、宴席で臣下達は泣いてるんだけれども、実際に映像化されるとなんともいえない可笑しさが漂うのだった。ちなみに呉の最期はナレーションで流されてる。
 
 
 
 
 
 
 

 

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元代の戯曲作品。作者は漢宮秋などで名高い馬致遠。

 

ものがたり
唐の時代。若き書生・呂洞賓は科挙受験のために上京する途中、宿で一人の道士・鐘離権に出会う。彼は仙人の素質を持つ呂洞賓を導くためにやってきたのだが、出世欲の強い洞賓はこれを断る。そこで鐘離権は、宿の婆さんが飯を炊いている間に寝込む洞賓へ一つの夢を見せる。洞賓は夢の中で十八年に渡る出世と没落を経験して目を覚ます。起き上がると、婆さんはまだ飯を炊き終えていなかった。人生のはかなさを悟った呂洞賓は、鐘離権を師と仰ぎ、晴れて仙人の一員となるのだった。
 
いわゆる神仙劇の一つ。物語を通じて、道教に帰依することをすすめたもの。出家すればこんなにいいことがあるよ!というのがお話の趣旨。まあ現代で言うなら、進研ゼミとか投資雑誌についてる付録漫画みたいなもんだろうか。
こうした宗教勧誘系の物語は、六朝時代に仏教が信徒を獲得するため物語を利用していた頃から存在しておおり、本作はその道教版といった感じ。元代は全真教・正一教など道教の隆盛期だったため、これらの神仙劇が作られたのだろう。
 
本作で面白いのが、主人公である呂洞賓のクズっぷりだろう。夢の中で朝廷から将軍に任命されて戦地に行けば、わざと敵に負けて大量の賄賂を貰うという外道行為に走る。妻が不貞をすれば、自分の悪事もそっちのけで殺そうとする。まあ、自分の子供に対しては人並みの愛情はあるし、科挙に受かるだけの頭の良さもあるけれど。また仙人としての素質は凄まじいらしく、作中では、天界から見えるほどの強大な気のオーラが、呂洞賓から湧いているという描写がある。どんな光景だよ(笑)
対する仙人側もやたら強引。いきなり呂洞賓の目の前に現れて、熱心に出家を勧め始める鐘離権。明らかに怪しすぎる。しかも相手に拒まれるや「仙人にならなかったら欲に目がくらみ、間男され、罪人になり、そのうえ子供は殺されますぞ!」という悪夢を見せる。何だか不幸をエサにする悪質な宗教勧誘とおんなじじゃなかろうか…。あと仙人になれるかどうかは生まれついての素質が重要らしく、人格とかはあんまり関係ないようだ。そんなんでいいのか。
 
タイトルの黄梁夢は、呂洞賓が黄梁の炊ける僅かな時間の間に、夢の中で長い年月を過ごし、悟りを得たことに起因する。話の元ネタとしては唐代の「枕中記」があり、展開自体もよく似ている。

 

 


おぎのひとしによる少年漫画。全四話。1997年から98年にかけて別冊コロコロコミックで不定期に掲載されていた。昔のことでいまいち記憶に残っていないのだけど、自分は別冊コロコロを結構買っていたようで、この作品もずっと記憶に残っていた。今回、アマゾンでおぎの氏の短編集を発見したので早速購入、再読してみた。
 
あらすじ
中国・唐の時代。盗人家業をして暮らしていた少年・北斗はある日、二人組の旅人から荷物を盗む。ところが、そこにあった不思議な棒・天罡棒が手から離れなくなってしまう。二人組の旅人――エガンとカノンは、北斗こそが天罡棒に選ばれた戦士であり、自分達と共に天竺までついてきて欲しいと頼むのだが…。
 
位置づけとしては西遊記のサイドストーリーとなっており、三蔵法師とその弟子たちがほぼ毎回ゲストキャラクターとして登場する。少年漫画らしく、主人公・北斗の成長とバトルが見物。コロコロらしく明るい作風。ギャグも多いが下品なものは無く、とても健全。何気に設定もきちんと練られており、少年漫画とはいえ作者の真剣な作り込みが感じられるのは良いところ。原作の西遊記を知っていれば、その設定のアレンジをなおのこと楽しめる。キャラクターの絵も癖が無くて結構好み。
惜しいことにたったの四話で終わってしまっている。やっぱりコロコロだとこういう真面目なストーリー漫画は長期連載に向かないんだろうか。最終話の四話で第一部・完というかたちになっており、おぎの氏もいつか第二部を描きたいと述べてはいるが、多分実現は難しいだろう。
 
登場人物
北斗
長安で盗人をしていた少年。天罡棒に選ばれ、天竺への旅をすることに。天罡棒の力で並外れた怪力を発揮する。怪盗時の異名は「天狗」。名前の通り犬の被り物をしている。三蔵法師の弟子・悟空とはライバル関係であり、これは「犬猿の仲」というところからアイディアがきているらしい。盗人をしていたので身体能力はそこそこ高いが、もとは生身の人間なので、妖怪との戦いには基本逃げ腰。最初は天罡棒の力に頼ってばかりだったが、旅の中で精神的に成長していく。
 
カノン
本作のヒロイン?ある目的のため天竺を目指している。天罡棒に選ばれた者が現れるのを待っていた。普段はおっとりしているが、時折ヒステリックな一面を見せ、北斗を強制的に戦いへ仕向けたりする。三蔵一行とは旧知の仲のようで、助けが必要な時には助力を頼むことも。首にはいつも龍を巻きつけている。
 
エガン
カノンの弟。老成してるような見た目だが若いらしい。成り行きで旅に同行している北斗に対し、兄貴分として厳しさと優しさを交えながら接する。杖術で北斗の稽古をしたり、それなりの実力はあるが妖怪を相手に出来るほどではないらしく、基本戦闘では北斗頼み。
 
三蔵法師
ご存じ西遊記の登場人物。徳の高い高僧。小用を足そうとして敵に捕まる、肝心な時に気絶しているなど、何だかんだ役に立たないところも原作通り。
 
孫悟空
三蔵法師の弟子。北斗のライバルとして度々登場。北斗とはいがみ合いながらも、次第に友情を築いていく。実力は非常に高い。何故か関西弁。
 
猪八戒・沙悟浄
同じく三蔵法師の弟子。それぞれ悟空と同じく方言を話す。何故だ。沙悟浄の空気っぷりは絶妙に原作を再現していると思う。
 
天罡
天罡棒に宿る龍。正体はカノンの首に巻きついている龍・龍王の娘。北斗の夢の中では人間の女の子として姿を現した。北斗を戦士として鍛えるべく、厳しい試練を課すことも。
 

 

1966年の香港古装映画。
書生の蓋良才は、ある時逗留した屋敷で美しい令嬢・秋容に出会い、卑怯な計略で無理やりものにしてしまう。その後、故郷に帰った彼は新たに名門の令嬢・文淑貞を娶る。秋容は密通が父にバレ、実家を追い出されてしまい侍女と共に良才を訪ねてきたが、彼は知らん顔。やがて秋容の存在を厄介に感じ、殺害してしまう。夫の非道な行いを目の当たりにした淑貞は、死んだ秋容のため夫を訴えに出るのだが…。
 
悲劇系の才子佳人もの。蓋良才のクズっぷりが突き抜けているのはキャラ造形としてありだと思うが、彼のせいで鬱展開が続くので、見ている方はイライラがたまる。セットも雪や雨のどんよりしたものが多くて、とにかく全体的に暗い。ラストもあんまりすっきりしないなぁ。見所はあのアクションスターの李丽丽が侍女役で出ていることだろうか。初々しくて可愛らしい。

以下キャスト
蓋良才
旅の書生として登場する。のっけから睡眠薬で秋容を手籠めにしてしまうなど、フツーの才子佳人ものではありえない非道を平然と行う。悪事はどんどんエスカレートし、最終的には殺人すら厭わなくなる。ちょっとやり過ぎなキャラ造形だと思った。
 
顔秋容
ヒロイン。最初から最後まで可哀想すぎる。女優さんが李香君という名前でちょっと驚き。
 
文淑貞
ヒロインその2。名門のお嬢様。良才に嫁いで真面目に仕えていたが、夫の行いを知って秋容を助ける。演じるは古装ものの常連・凌波さん。きりっとした顔立ちが秋容と対照的になっていて良い。
 
若云
秋容の侍女。才子佳人ものの侍女は主人と男をやたらくっつけたがるキャラばかりだが、若云は全然そんな雰囲気無し。良才の人柄についても、最初から疑ってかかっていた。
 
巧児
淑貞の侍女。あの李丽丽が演じているが、出番少なし。
 
盖父
良才の父。息子と違ってまとも。最終的に息子の裁判をすることになる。

 

 

張愛玲の小説作品翻訳集。光文社刊行。張愛玲の代表的な恋愛小説である「傾城の恋」ほか数編を収録している。巻末解説の充実ぶりが凄く、張愛玲自身の紹介以外に、年譜や翻訳作品の一覧まで載せている。これだけのものをお手軽な文庫で出してくれたことに驚き。
 
傾城の恋
戦時下を背景に繰り広げられる、旧家の出戻りお嬢様とイケメン華僑のロマンチックなラブストーリー。過去にも平凡社翻訳のものを読んだことがあり、今回再読。やっぱり最高に面白かった。改めて驚きだったのが、これが1940年代に書かれた作品だということ。同時期の大陸作家が抗日だの革命だの政治的な主張ばっかり繰り広げる重たい文学を書いている中、ここまで娯楽性が高く、かつテーマも深い作品を書いていたのが凄い。しかも現代人の感覚で読んでも、全然古臭さを感じない作風。作家としての感性も、時代を先取りしていたんだなと思う。これに比べたら丁玲なんて……。
あと、主人公である白流蘇のキャラクターが魅力的。離婚経験ありで、歳も女のピークとしてギリギリ、金も無く才能も無く職業も無し、実家で親兄弟に嫌味を言われながら暮らしているという超崖っぷちな状況。それを、父親譲りの駆け引きのうまさと忍耐強さで逆転しようとする。いやあ、かっこいい女性だなあ。惚れるぞ。
 
封鎖
日本による上海封鎖によって、日常を壊された人々の物語。こう書くと日本軍が都市で狼藉を働いて良民を虐殺……なんて展開を想像する人がいるかもしれないが、まったくそんなことは無く、封鎖によって日常を壊された人々が、束の間「真の自由」を謳歌しようとするお話。
日常が退屈で、時々「ミサイルが降ってきて何もかもぶっ壊れないかな」とか「何か事故に遭遇して仕事から逃げ出せないかな」とか、そういうことを考える人はいると思う。本作もそんな感じで、封鎖が人々を日常から解き放ち、普段ならやらないような行動をしてみようかと妄想したりする。そして、封鎖は割とあっさり解かれて、人々は夢から覚めて日常に戻る。
日本軍の外部的な抑圧が、人々の内的な抑圧を解き放つという構図が見事。張愛玲はやっぱり天才だ。
 
戦場の香港/囁き
どちらも張愛玲の自伝的小説。彼女の荒れた家庭生活、戦争の濃い影が浮かぶ日常、そして愛する文学についての描写が印象的。「囁き」では、留学を反対されたことをきっかけに喧嘩して空き部屋に監禁される話がある。誰だったか忘れたが、結婚を強要されて監禁された女性作家がいたような。こういう行為が許されるほど、当時は親の権力が絶対的なものだったんだろうな。父親から受ける暴力描写も凄く、読んでいて辛くなる場面も多い。一方で、どこまでいたぶられても戦う姿勢を崩さない張愛玲にも驚き。やっぱり中国の女性はたくましい。
 
 
とりあえず光文社に感謝。なかなか中国文学が文庫で刊行される機会はないので、是非多くの方に読んで欲しい。
 
 
 

 

 

 

巴金の中編小説。
日中戦争期の中国。小説家の私は、友人である姚の屋敷に逗留することになったが、その中でかつてこの屋敷の持ち主だった楊家の過去を知る。やがて姚家と楊家、二つの家に別々の悲劇が起きるのだが…。
位置づけとしては、正式ではないが巴金の「激流三部作」の続編ということになっている。没落してしまった楊家の姿は、そのまま激流三部作の高家に重なる部分が多い。
巴金の作品には、人の幸福というテーマがよく出てくるように思う。本作では裕福な姚家と、没落した楊家、二つの家庭を対比しながら、幸せとは何かを、主人公の小説家を通して問いかけてくる。
そのキーカードとなるのが、楊夢痴という人物だ。この男、楊家の当主だったのだが、家を切り盛りする能力がまるで無く、家財を切り売りして生活していた。もともとが資産家の生まれだけに、金の使い方も荒く、彼の代で楊家は一気に貧乏まっしぐら、とうとう先祖から受け継いだ屋敷まで売ってしまう。夢痴は妻と長男から恨まれ、家庭で身の置き所を無くすが、どれだけ貧乏になっても外で妾に金を使うことをやめない。しびれを切らした長男からは「あなたなど父親ではない」と切り捨てられ、家を追い出されてしまう。それでも、やっぱり外では暮らしていけないので、しばらくしては帰ってきて、家族と和解するのも束の間、同じ間違いを繰り返す。簡単に言えば、社会的生活能力ゼロのダメニートな父親だ。もし身内にこんな人間がいたら、迷惑でたまらないと思う人は少なくないだろう。
けれど、巴金の人間愛が光るのはここからだ。主人公の私や、夢痴の次男、それに楊家の古株の使用人などは、幾度も夢痴を生活の地獄から救いだそうとする。確かに夢痴は社会に適応出来ていない。だからといって、彼は何か悪いことをしたわけではない。本質的には善人だ。家族を愛しているし、自分の不甲斐なさを誰よりも自覚している。何故、生活能力が無いから、お金が無いからといって社会に見捨てられなければならないのか。巴金の幸福論は、人が救われない社会のシステムを非難するところに結実する。
なんとなく、今の日本に共通するものがあるなあ、と思ってしまう。若年ニートや就職氷河期世代の人々を、自己責任として片づけてしまう社会。お金を稼げない、周りに馴染めないから悪だという社会。そんな社会は、果たして社会として成り立っているのだろうか。あらゆる人間が救われる構造ができてこそ、理想的な社会だと思うのだけれど…。
不幸は、楊家と対照的な姚家でも起きる。お金があったらあったで、人の不幸を生み出すシステムが作られている。姚家の一人息子である姚虎は、典型的な小憎らしいお金持ちのお坊ちゃまで、最終的には自業自得ともいえる最期を遂げてしまう。
もっとも、作中には悲劇ばかりが起きているわけではない。楊家の次男が見せる無条件な父親への愛、姚の夫人・万昭華が家庭を良くしていこうと続けるたゆまぬ努力など、眩しい輝きを放つ善人達の姿が印象深い。ここらへん、「良い人間が増えれば、社会はきっと良くなっていく」という、ヒューマニスト全開な巴金メッツセージが感じられて、割と感動的。
長さも程よく、人間愛に満ちたストーリーに心温まること間違いなしな名作。書かれている内容も普遍的だし、現代の我々でも問題なく楽しめると思うので、是非広く読まれて欲しい。