「忘己利他」の精神と「慈悲」の根源 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

7月14~16日の期間、仏教では古より「盂蘭盆会」(俗に言うお盆)を夏恒例の宗教行事として取り行う習慣がある。

(盂蘭盆会に関しては同ブログの記事:京都・宇治の『平等院・鳳凰堂』の歴史と絵の制作、そして「お盆」の話 参照)

しかし時代の流れと社会の近代化に伴い、現代人の宗教離れは進む一方で、此の様な宗教行事は次第に廃れて行っている。

其れどころか最近の巷では「坊主不必要論」等を唱える人々まで出て来ているし、一部の仏教学者ですら今後30年以内に全国にある約7万件余りの寺院の内、約30~40%程が廃寺、消滅の危機に瀕していると予想している位である。

我が家では昔の様に仏様用の※御膳まで用意する事はしないが、其れでも余は我が家の家紋「丸に九枚笹」の描かれた岐阜提灯を組み立てて仏壇の傍らに置き、7月14~16日の3日間は勤行式用の経を一通り読み上げる位の事はしている。

(※因みに神仏に食べ物を供える習慣は日本や中国そして東南アジアの各仏教国にのみ見受けられる。 此の習慣の原点はどうやら古代インドのバラモン教に有るらしい。

他方でキリスト教、イスラム教には神に食べ物を供える習慣は全く無い。)

 

しかしながらここ4年程は「盂蘭盆会」直前の梅雨の時期には、毎年の如く「集中豪雨」が日本列島を襲い、幾つもの県が甚大な被害を受けている。

今年も同様に此の「集中豪雨」によって、九州では熊本県を中心に福岡、佐賀、大分、鹿児島、等の各県、更に中部地方では岐阜県と長野県でも河川の氾濫、堤防の決壊、山の土砂崩れ、道路の破壊、橋の崩落、建造物の浸水、破損、等の被害が出ている。

現在の統計では死者:78人、行方不明者:6人、家屋の浸水:1万5335軒、農林水産に関する被害額:920億円が被害状況である。

(此度も被災者の方々には心よりの御見舞いを申したい!)

一方で今年の1月後半頃より世界規模で感染拡大していた新型コロナウィルスは、日本国内に於ける政府による「緊急事態宣言」(4月16日)に依って一時的には感染を抑え込む事が出来たが、5月25日に此れを解除して以来、またしても感染は拡大し、全国の感染者は7月7月18日には664人、23日には981人、遂に29日には1261人が確認され、1日当たりの感染者が初めて1000人を超えた様に、「緊急事態宣言」の発令以前より日を追う毎に増加している状況で、※現時点での通算感染者数は3万4000人以上、死者は1000人以上にまで及んでいる。

(※其れでも日本国内の此の感染者と死者数は世界的には極めて少ない。)

参考までに全世界の感染者数は現時点で1500万人以上、死者は61万人以上と、驚異的な数にまで達している。

厄介な事に此の新型コロナウィルスの大流行は、当ウィルスの絶大な感染力、潜伏期の長さ、そして特効薬が未だに開発、普及されていない事等が原因で、未だに歯止めがかからない状況である。

 

扨、前置きが長くなったが、是よりようやく本題に入る。

余は此度の新型コロナウィルスの大流行の最中で自らを危険に晒してでも医療施設で一所懸命に勤務する医療従事者の方々、そして豪雨災害の被災地に於いては自分自身が被災者であるにも拘わらず、他の被災者をボランティアとして援助する方々の存在を知って、大変感服したのである!

我ら天台宗の開祖・最澄大師が其の著書「山家学生式」の中で「己を忘れ他を利するは慈悲の極み也。」(自分の事を度外視してでも他人の為に貢献出来る人は最も慈悲深い立派な人です。)此れを四字熟語『忘己利他』(もうこりた)と記し、以来、現在でも天台宗では最も重要な標語として唱えられている。

他方ヨーロッパのキリスト教の各Klosrerorden(修道会)例:Benediktiker, Dominikaner, Franziskaner,  Ziesterzienser や、Ritteorden(騎士団)例: Johannitter, Templer, ✠Deutscher に於いても同様に神やキリスト教徒の為に"Dienst mit Selbstveropferung"(自己犠牲を以っての貢献)がGeistliche Tugend宗教的美徳)とされていた。

  ✠Wappen von Deutscher Ritterorden

12世紀当時の修道院では、修道士達は世俗に於ける一切の私利利欲を捨て去り、己の人生の全てを神への奉公の為、そして民衆へのキリスト教の布教、啓蒙の為に捧げたのであった。

同時代のキリスト教騎士団は今日でこそ"Kreuzritterfahrt"(十字軍の遠征・1096~1270年)でイスラム教国を相手に華々しく戦った事で有名ではある。

しかし元来、彼らが組織された一番の理由とは聖地Jerusalem(エルサレム)を訪れるPiliger(巡礼者)達を保護する事だったのである。

ところが当時の聖地Jerusalemを領有していたイスラム教国からすれば、此のキリスト教の巡礼者や騎士団は「異教の侵入者」でしかなかった。

故に両宗教の陣営は拠無くして衝突し、上記の如く長きに渡って争う事になったのである。

(※此の歴史については同ブログの記事:天台仏教から見たキリスト教とイスラム教の対立について 参照)

 

此の天台仏教の『忘己利他』とヨーロッパの "Selbstveropferung"(自己犠牲)の美徳と精神は相通ずる物がある。

そしてこれ等の美徳と精神は長い年月が流れた今日でも尚、Egoismus(利己主義)や Utilitarismus(功利主義)に滅ぼされる事無く生き続けているのである。

では此の『忘己利他』の精神の根源となる要素は何かと考えて見ると、やはり最澄大師が御書きになられている通り「慈悲」なのである。

以前の論文でも記したが、「慈悲」とは一般的に「情け」と「哀れみ」の意味であると国語辞典では説明されているが、仏教では「」とは他人の利益になる事を為す事、「」とは他人の害悪を取り除く事と定義されている。

因みにキリスト教では"Die vier Tugende"(4つの美徳)と言うのがあり、Glaube(信仰)、 Hoffnung(希望)、 Demut(従順)、そして”Agape”(ギリシャ語:「真の愛」、ドイツ語ではNächste Liebe=隣人への慈愛と訳されている)は最大の美徳とされている。

此の"Nächste Liebe"と『忘己利他』は言語や宗教の違いを超えて、ほぼ同義語であると言っても過言ではない。

参考に「」と「」のそれぞれの具体例を挙げて見ると以下の通りである。

 

」(他人の利益になる事を為す事

ある人に人生の為になる知識や技法を教示、提供する。

ある人の(正しい)志や目的の実現に協力、援助をする。

ある人の幸福、健康、安泰を守る。

ある人を正しい道へ導いて行く。 等

 

」(他人の害悪を取り除く事)

ある人の心配、悩み、問題を真剣に聞き、解決策を考え出す。

ある人を苦境や逆境から救い出す。

ある人の病気、怪我、損害を治す事に協力する。

ある人を悪行から遠ざける。 等

 

次に『忘己利他』の根源となる「慈悲」は如何にして人間の心の中で形成されるかについて考察してみたい。

あらゆる学術分野、業務に於いてもTheorie(理論)と Praktik(実践)の2つのGrundlage(基礎)に依って成立している。

此の「慈悲」に関しても同様で、先ず慈悲についての「教え」が「理論」の基礎、そして慈悲の「実体験」が「実践」の基礎として成立する。

中国・天台宗の開祖、智顗大師(538~597年)が著書「天台小止観」の中で、「止・観、此の二法は車輪の二輪、鳥の二翼の如し。 もし偏えに修習すれば、即ち邪例に堕す。」(理論と実践の二大要素は譬えるなら、車の両方の車輪、又は鳥の両翼の如くである。 もしいずれかに偏って学習すれば、悪例として破綻してしまう。)と御書きになられているが如く、慈悲に就いての教門(理論)並びに観門(実践)の両方を習得する事が必要不可欠であると考えられる。

 

此の両要項のいずれかが欠落した悪例を挙げると、最近の一部の坊主共の中には、檀家や参拝者の前では偉そうに「慈悲」について講釈こそたれてはいるが、当人がこれ等の事柄を全く実践出来ていない。

其れどころか「布施」と云う名目で檀家から法外な金銭を巻き上げて、「贅沢三昧」、「酒池肉林」と言った放蕩生活に耽っている様な恥知らずの腐れ坊主もいる。(実践の欠落した例)

ある者は他人に(自分勝手な解釈で)親切はするのだが、相手の気持ちや立場を考えないでするので、かえって親切が「有難迷惑」になっている事もある。(理論の欠落した例)

ある者は他人から何らかの形で「慈悲」(又は恩恵)を受けた時、口先では礼の言葉こそ発するのだが、心の中では感謝もせず、其の正体はただ他人を利用するだけの「恩知らず」やEgoist(利己主義者)なのである。(理論、実践、共に欠落した例)

此の様に慈悲(恩恵)に有難味を感じないのは、此の者が親、親戚、師匠、等から慈悲の本質や重要性について教わっていないのが原因なのである。

誠に正しい心とは正しい教えを受けて初めて育まれると言える。

 

其れとは正反対に、前にも記した新型コロナウィルスの大流行の最中で自らを危険に晒してでも医療施設で一所懸命に勤務する医療従事者の方々、そして豪雨災害や大地震、等の被災地に於いては自分自身が被災者であるにも拘わらず、他の被災者をボランティアとして援助する方々、更には自らを犠牲にして家族の為に尽くしてくれている人達は、社会で其の名を知られる事は無くとも、人道上最も賞賛、尊敬されるべき立派な御仁なのである。

三度、最澄大師の御言葉を借りて言うなら、「一隅を照らす者、此れ国宝也。」(自分の置かれた境遇を照らすが如く活躍する人こそ国の宝です。)と言える。

詰まりこれ等の人達は「慈悲」について理論的に理解しているだけでなく、自分が他人から何らかの形で「慈悲」を与えられて、其れに大いなる「感謝」や「幸福」を感じた事がある人達なのである。

 

Raffael : Sixtinische Madonna (1512-13)

古の時代の哲学者や宗教家達が共通して述べている事だが、「慈悲とは見返りを期待しない、純粋な相手への思いやりや親切である。」と言うのがある。

余も此の意見には全くの同感なのだが、世の中とは不思議な物で此の様に他人に「慈悲」を与えられる人に限って、他人から尊敬や賞賛、其の他の恩恵を受けているのである。

逆に他人を利用するだけの「恩知らず」やEgoist(利己主義者)は目先の利益は得ても、最後には他人から見捨てられ、まして尊敬や賞賛を受ける事等決して無いのである。

此の現象は正に所謂(ラテン語の)SUUM CUIQUE因果応報)の法則に叶っていると言える。

我が母上も「他人に親切に出来る人は、他人からも親切にしてもらえます。」と言っているし、更には「他人に親切に出来る人は、自分自身が幸せな人です。」とも言っている。

余が社会心理学的な統計を取って見ても、慈善行為、又は慈善事業の出来る人は、高い人格のみならず学歴、教養、業績、財産、社会的地位を兼ね揃えた人、即ち自分の人生に於いて「幸福」や「満足」の度合いが高い人である事が多い。

此の事から「慈悲」を他人に与える為には必ず自分自身の人生に幸福、安定、満足を持ち合わせていなければならないとも言える。

 

以上の様な事を書き記して来たが、一部の読者は「では貴方は今までに何か慈悲として価値のある事をしているのですか?」と疑問に思われるかも知れない。

余が芸術家として出来ている事は、精々(営利を度外視した公益の為の)公共事業としての個展をドイツと日本で通算20回開催して来た事、そして自分の作品(約360点)を無報酬で此の両国の美術館、博物館、教会、寺院、等に寄贈している事位である。

これ等の我が作品群が現世のみならず、後世に於いても文化や理念の為の作用、貢献が出来れば、此れに依って我が仕事には大いなる「慈悲」が伴っている事が認められるのではなかろうか?

 

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