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なんのこっちゃホイ!

世の中の、これでいいのか、こんなことでいいのかを描くブログ。そんなにしょっちゅう怒っていられないので、ほどほどに色々な話題も混ぜていきましょう。

ローマ教皇。
世界のカトリック教会の頂点にある人物で、バチカン国の国主である。ある日突然、現教皇が、心臓発作で亡くなる。空位となった教皇を選ぶ、教皇選挙(コンクラーベ)が始まる。世界中から集まる100名を超える枢機卿の中から、無記名投票で2/3を獲得した者が、次の教皇となる。彼らは一箇所に集められ、厳重に封鎖された部屋で、外界との情報を一切絶たれた中で選挙を行う。野心、欲望、謀略、スキャンダル。閉ざされた空間で繰り広げられる聖職者の顔をした人間たち。結果が出るまで、何度でも繰り返される投票。不成立なら黒い煙。教皇が決まれば白い煙。集まった数万の信徒たちは、一本の煙突をみつめ祈る。新教皇は誰になるのか。

参考までに、枢機卿とは教皇によって指名される世界各国教区の最上位で、男性のみで構成される。キリストが指名した12人の使徒がすべて男性だったことを継承している。日本人の多くには馴染のない言葉だと思うので、付け足しておきます。
これ、重要です。

さてこの映画を観た後に、教皇フランシスコが神に召された。まもなくコンクラーベが始まる。これは映画だけではなくて、水面下で様々な駆け引きが始まっているようだ。すでに、有料候補の病気説やらのフェークが流れているようだ。

 

 

フォークの大物、ウディー・ガスリーは病の床にあった。そこへ一人の若者がギターを持って訪ねてくる。「ウディーに憧れているんだ」と語る若者に、一曲やってみろと言う。首からハーモニカを下げた、これまでにはないスタイルで、しゃがれ声で歌う若者に、ウディーは拍手を送る。そこに同席したピーター・シーガーは、その若者に、ライブバーへ招待する。「今日は新しい歌手を紹介しよう。ボブ・ディランだ」と紹介され、その若者はステージに上がる。半世紀もの間、歌を作り、歌を歌い、55枚ものアルバムを作成しヒットさせた、ボブ・ディラン誕生の瞬間だった。

 

ピーターの口利きで、コロンビアレコードで録音を行うことになったボブ。他の歌手の歌のカバーばかりを要求される。「自分の歌もあるんだが」というボブに、「そんなものは売れない」と即座に却下されてしまう。

録音風景がすごい。スタジオに、ボブ一人が立ち、アコースティックギターを持って一発録音だ。

「ちょっとマイクから放れて」とブースから指示が出る。戸惑うように距離を取るボブの表情が愉快だ。

 

ある夜、ボブはその店で、ジョーン・バエズに会う。彼女の透き通るような高音の声、素朴な歌詞にひかれたボブは、彼女に声をかける。すでに多くのファンを獲得していたバエズだが、一夜を共にした朝、ボブの部屋で一枚の歌詞カードをみつける。「これ歌って」とボブに言う。「How many roads must a walk down」それに即興でハーモニーをのせるバエズ。大変美しい歌ができあがる。それが、「Blowing in the Wind」。この曲を携えて、二人はツアーに出る。

 

ツアーを続けながらも、ボブは溢れるように浮かんで来る歌詞を書き留め、曲を付けていく。徐々にボブディラン節が感性していく。それにつれ、ソロで歌う彼の歌にも注目が集まり、オリジナルアルバムの発表、そして初めて手にした1万ドルの小切手。「飯を食える歌手になりたい」という夢がかなう。

 

ピーターは、フォークソングの復興、普及のために、自らが主催するニューポート・フォークフェスティバルへディランを出演させる。名だたるフォークソングの歌手達が次から次へと登場する。そこへ「特別ゲストだ。ボブ・ディランだ」と紹介されハーモニカを首から下げてディランが現れる。大きな拍手が湧く。もはや彼もスターの一人だった。「新曲だ」と言って歌い出したのは「As time, they are chaging時代は変わる」。観客からは大きな拍手、歓声とスタンディングオベーションが起こる。数万人の観客が総立ちとなる。

 

時代はビートルズの登場もあり、フォークからロックへと、流行は移りつつあった。ディランも、バンドを従えて歌うスタイルに挑戦しようと、ミュージシャンを集める。そして密かに進むレコーディング。

この年のポートランド・フェスでは、ディランはトリだった。ロックへと舵を切るディランに対してピーターは、「フォークをやれ。これはフォークソングフェスなんだ」と説得するも、ついにディランがバンドと共にステージに上がる。その手には、エレキギターが握られていた。客席からはブーイングが爆発。タンバリンマンを歌えよ!こんなノイズは音を切れ!と散々なブーイングだが、ディランは3曲演奏して、ステージを降りる。そのディランに怒りまくったピーターが、「このままじゃ締まらない。観客は納得しない。フォークソングを歌え」いう。ディランは差し出されたアコースティックギターを持ち、再びステージへ。「Like a Rolling Stone」を歌う。時代は変わっている。自分も変わっている。転がる石のように。歌い終わると彼は、急いで車に乗り込み、その場を去るのだった。

 

ホテルに帰ったボブは落ち込んで部屋の片隅に腰掛けている。そのまま朝を迎えた。ボブはバイクにまたがり、彼を最初に見いだした人、ウディーの病室を訪ねる。もはや死の床にある彼にハーモニカを差し出し、「じゃ、行くよ」と告げる。ウディーは笑顔を浮かべる。ディランはバイクにまたがり去って行く。

 

ボブ・ディランは、常に自分の歌、自分の曲を自分なりのスタイルで歌い続けただけだ。それがフォークであろうが、ロックであろうが、それは人が付けた名前だけ。彼がエレキを手にして、バンドを従えた時も、彼はロックへ転向したなどとは思っていない。自分の歌を最も自分らしく表現できる方法、道具としてそれを選んだだけだ。観客や周りがなんといおうと、アコギに弾き語りだろうが、バンドだろうが、そこにあるのは、常に、そして永遠に、「ボブ・ディラン」である。

 

関谷一平(水川たまり)は、夢にまでみたお笑いの台本を書くシナリオライターになってはみたものの、毎日のストレスに疲弊して、その日、ホームの縁に立っていた。

次の電車が来たら・・・

しかし、次の電車は前の駅で起こった人身事故のために来なかった。

死に損なった、関谷一平は、たいやきを買って家に帰る。部屋には、見知らぬ男が部屋に立っていた。どうやら、一つ前の駅で線路に飛び降りた本人、森口友宏(正名僕蔵)の幽霊のようだ。森口が先に飛び込んでくれあたおかげで、一平は命拾いをしたのだとせまる森口の幽霊。彼には思い残したことがある。それは一人娘の森口綾(唐田えりか)のことだった。彼女の夫は、彼女に暴力を振るい、離婚し、裁判所から接近禁止命令が出されているにも関わらず、友宏の葬儀に現れた。このままでは、自分が死んだ今、あの男は娘につきまとうに違いない。だから「あの男を殺せ!」と命じる。

それ以来、友宏の霊は、四六時中一平に憑き、毎回現れては「あの男を殺せ」とささやき続ける。一平以外には、友宏は誰にも見えていないらしい。だから、他の誰かにそれを頼むことはできないのだと、一平に懇願する幽霊。疲れてしまった自殺願望の男に憑いかれてしまった幽霊。ドタバタのお笑い話が進んでいく。

 

予告編で観て、面白そうだと思ったのと、なんだか最近、気持ちが晴れず、鬱な気分で酒もうまくない。睡眠はヤクルト1000のおかげで良好なようだが、なにか気分が晴れるものをみたいと思い、朝の8:15の回で鑑賞した。水川たまりという俳優は知らないなぁと思っていたら、お笑いグループ「空気階段」の人みたい。ちょっとタドタドしいけど、段々と自然に受け入れてしまっている。圧倒的に正名僕蔵の演技が映画全体を支えている。有名な俳優も出ない、それほど金もかかっていない。B級と言っていいだろう映画だが、どこか最後に爽やかな風を吹かせてくれる映画であったので、僕の気分も少しははれた。

 

1972年オリンピック夏の大会は、ドイツのミュンヘンで開催された。中盤も過ぎた頃、まさに9月5日未明に事件は発生した。

オリンピックを生中継する目的、独占的に放送を行うアメリカの放送局ABC。その通訳スタッフがふと、選手村の方角から聞こえた複数の銃声に気づいたところから始まる。現地のラジオ放送などを通じて、銃撃事件は徐々に報道されはじめ、ついにそれがテロリストによるイスラム選手団11人の人質事件だと分かる。現地に生放送の機材を持ち込み放送しているのはABCのみ。しかしそのスタッフはスポーツ専門のスタッフであり、本社からはニュース専門スタッフに任せるよう強い抗議が来が、彼らはこれを拒否し、自らカメラを配置して生放送を開始する。彼らの中でドイツ語が理解できるのは、女性通訳が一人だけ。飛び交う噂、ラジオや現地テレビの放送も、彼女抜きでは理解できない。そんな焦燥の中、瞬時の判断を求められるクルー達。

そこに写された映像を見たクルーの一人が、

「あれは、あそこに写っているのは、TVではないか?選手村の部屋でABCは観れるのか?」

彼らが放送する警察の動きもその他メディアの動きも、ライブ画像は、全て犯人達に共有されていた。

 

この事件はあまりに有名で、その顛末は世界中の人達が知っているだろう。

「血塗られたオリンピック」

これを報道側から、淡々と追いかけ、ドキュメンタリーのように描く。そのリアル感とスピード感は、派手な音楽や音響、映像もないのだが、緊迫感がすごい。

こういうの、日本人には作れないかも。すぐにお涙頂戴や、愛だのセックスだ、ギャグだのを入れ込んでしまうから。

でも、この映画は、後生のために残されるべき映画だと思う。