フォークの大物、ウディー・ガスリーは病の床にあった。そこへ一人の若者がギターを持って訪ねてくる。「ウディーに憧れているんだ」と語る若者に、一曲やってみろと言う。首からハーモニカを下げた、これまでにはないスタイルで、しゃがれ声で歌う若者に、ウディーは拍手を送る。そこに同席したピーター・シーガーは、その若者に、ライブバーへ招待する。「今日は新しい歌手を紹介しよう。ボブ・ディランだ」と紹介され、その若者はステージに上がる。半世紀もの間、歌を作り、歌を歌い、55枚ものアルバムを作成しヒットさせた、ボブ・ディラン誕生の瞬間だった。
ピーターの口利きで、コロンビアレコードで録音を行うことになったボブ。他の歌手の歌のカバーばかりを要求される。「自分の歌もあるんだが」というボブに、「そんなものは売れない」と即座に却下されてしまう。
録音風景がすごい。スタジオに、ボブ一人が立ち、アコースティックギターを持って一発録音だ。
「ちょっとマイクから放れて」とブースから指示が出る。戸惑うように距離を取るボブの表情が愉快だ。
ある夜、ボブはその店で、ジョーン・バエズに会う。彼女の透き通るような高音の声、素朴な歌詞にひかれたボブは、彼女に声をかける。すでに多くのファンを獲得していたバエズだが、一夜を共にした朝、ボブの部屋で一枚の歌詞カードをみつける。「これ歌って」とボブに言う。「How many roads must a walk down」それに即興でハーモニーをのせるバエズ。大変美しい歌ができあがる。それが、「Blowing in the Wind」。この曲を携えて、二人はツアーに出る。
ツアーを続けながらも、ボブは溢れるように浮かんで来る歌詞を書き留め、曲を付けていく。徐々にボブディラン節が感性していく。それにつれ、ソロで歌う彼の歌にも注目が集まり、オリジナルアルバムの発表、そして初めて手にした1万ドルの小切手。「飯を食える歌手になりたい」という夢がかなう。
ピーターは、フォークソングの復興、普及のために、自らが主催するニューポート・フォークフェスティバルへディランを出演させる。名だたるフォークソングの歌手達が次から次へと登場する。そこへ「特別ゲストだ。ボブ・ディランだ」と紹介されハーモニカを首から下げてディランが現れる。大きな拍手が湧く。もはや彼もスターの一人だった。「新曲だ」と言って歌い出したのは「As time, they are chaging時代は変わる」。観客からは大きな拍手、歓声とスタンディングオベーションが起こる。数万人の観客が総立ちとなる。
時代はビートルズの登場もあり、フォークからロックへと、流行は移りつつあった。ディランも、バンドを従えて歌うスタイルに挑戦しようと、ミュージシャンを集める。そして密かに進むレコーディング。
この年のポートランド・フェスでは、ディランはトリだった。ロックへと舵を切るディランに対してピーターは、「フォークをやれ。これはフォークソングフェスなんだ」と説得するも、ついにディランがバンドと共にステージに上がる。その手には、エレキギターが握られていた。客席からはブーイングが爆発。タンバリンマンを歌えよ!こんなノイズは音を切れ!と散々なブーイングだが、ディランは3曲演奏して、ステージを降りる。そのディランに怒りまくったピーターが、「このままじゃ締まらない。観客は納得しない。フォークソングを歌え」いう。ディランは差し出されたアコースティックギターを持ち、再びステージへ。「Like a Rolling Stone」を歌う。時代は変わっている。自分も変わっている。転がる石のように。歌い終わると彼は、急いで車に乗り込み、その場を去るのだった。
ホテルに帰ったボブは落ち込んで部屋の片隅に腰掛けている。そのまま朝を迎えた。ボブはバイクにまたがり、彼を最初に見いだした人、ウディーの病室を訪ねる。もはや死の床にある彼にハーモニカを差し出し、「じゃ、行くよ」と告げる。ウディーは笑顔を浮かべる。ディランはバイクにまたがり去って行く。
ボブ・ディランは、常に自分の歌、自分の曲を自分なりのスタイルで歌い続けただけだ。それがフォークであろうが、ロックであろうが、それは人が付けた名前だけ。彼がエレキを手にして、バンドを従えた時も、彼はロックへ転向したなどとは思っていない。自分の歌を最も自分らしく表現できる方法、道具としてそれを選んだだけだ。観客や周りがなんといおうと、アコギに弾き語りだろうが、バンドだろうが、そこにあるのは、常に、そして永遠に、「ボブ・ディラン」である。