企画展「白髪一雄展示室の歩み」(尼崎総合文化センター) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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白髪一雄展示室の歩み

℡)06-6487-0806

 

往訪日:2024年3月10日

会場:尼崎総合文化センター

所在地:兵庫県尼崎市昭和通2-7-16

会期:2023年9月23日~2024年3月17日

開館:10時~17時(火曜休館)

料金:一般200円 大高生100円

アクセス:阪神尼崎駅(北口)より約5分

駐車場:有(200円/30分)

※内部撮影はNGです

 

 

ひつぞうです。三月初旬に白髪一雄の作品を鑑賞しました。尼崎市の呉服商の家に生まれ、2008年に84歳で歿するまでこの地で活躍しました。その功績を讃えて2013年に尼崎市総合文化センターに記念室が設けられたそうです。以下、鑑賞記です。

 

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半年以上あると油断していたら、あっという間に会期末になってしまった。という訳で朝一番に阪神尼崎駅に降り立った。

 

 

北口からペデストリアンデッキが目的の建物まで続いている。間もなく目立つ建物が視界に入ってきた。

 

 

都ホテル尼崎。かつての住友生命ニューアルカイックビルだ。1993年竣工なのでまさにバブル絶頂期に計画された。施工は錢高組(設計会社は不明)。楔状に張り出した窓が印象的。尼崎総合文化センターの宿泊棟を兼ねている。

 

 

目指す文化棟に到着。設計は組織系大手の山下設計。1974(昭和49)年竣工。

 

 

支柱の面取りやさざれ石風の壁面処理が昭和的。ここからエレベーターで4階へ。

 

 

一番乗りだが、その後も客の姿はなかった。“記念室”というだけに展示スペースは10畳ひと間ほど。遺族から寄贈された(箆などの)愛用品と代表作約140点を所有する。オープンから10年の節目ということで、今回の企画では若描きから晩年まで各時代の作品が展示されていた。

 

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白髪一雄(1924-2004)。尼崎出身の洋画家。京都市絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。日本画から洋画に転じ、1955年に発足した具体美術協会に合流。パフォーマンス活動を交えつつ、代名詞となるフットペインティングで現代芸術の第一人者に数えられるようになった。

 

僕が具体という活動グループを知ったのは昨年のことに過ぎない。宿泊したししいわハウスの共有スペースに展示された一枚の絵。鷲見康夫だった。そして四箇月後に横須賀美術館で強烈な油彩画に出逢うことになる。白髪一雄の《天敗星活闇羅》だった。

 

芸名(?)かと思ったが本名だった。絵そのものも奇抜。だが(ポロックのような先駆者もいたし)フットペインティング自体はやや平凡に感じられた。むしろ思わせぶりなタイトルのほうが何とも怪しい。そしておどろおどろしい色。この時点で白髪という画家に心を奪われていたと云える。

 

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展示は若描きの水彩画から。

 

《京都東本願寺》(1947年)

 

23歳の作品。透視画法を用いたそれは浮絵と呼ばれた。京都の学校に在籍しただけに京都、大阪、そして故郷の風景を切り取ったものが並ぶ。従軍中にリューマチと肺病に罹患。一連の水彩画は失意の療養中に気を紛らわせるために描いたものらしい。

 

《大阪中之島公園》(1948年)

 

その後まもなく洋画に転向。1950年頃から新制作派協会のメンバーでもあった芦屋在住の伊藤継郎(いとう つぐろう)(1907-1994)の教えを受けるようになる。この年、24歳で富士子夫人と結婚。夫人の支えあっての画業だった。

 

《夜の風物》(1950年)

 

キュビスムの影響が色濃い。構図やモチーフよりも色の選び方、筆触鮮やかな描法に眼が行く。初期の油彩は現存数が少なくとても貴重らしい。

 

《妖草Ⅱ》(1952年)


遺族からの寄贈品。発見時、枠から外されて巻いた状態で発見されたそうだから顔料の剥落もあったに違いない。修復を終えての公開だった。陰鬱なイメージは愛読していた世紀末ウィーン文学、特にホフマンの影響がみられるという。夢をモチーフにオートマティスムで表現するという方法は瀧口修造の詩にも見られる。この作品からはシュルレアリスムの影響を感じた。

 

「いろんな技法に挑戦しているのきゃ」サル

 

時代だね。戦後は留学できなくても流入する情報量は格段に増えたし。消化が追いつかなかったとぼやく人もいたね。

 

《幼家具》(1952年)

 

1952年に(今では伝説的存在である)金山明、田中敦子、村上三郎0(ゼロ)会を結成。パフォーマンス主体の前衛活動を開始した。

 

村上三郎《紙破り》(1957年)

 

村上三郎(1925-1996)は第二回具体美術展で、21枚の紙の“キャンバス”を突き破る《紙破り》で注目を浴び…

 

「前情報なかったらタダの変なオッサンだにゃー」サル

 

田中敦子《電気服》(1957年)

 

かたや田中敦子(1932-2005)は《電気服》で観る者に衝撃を与えた。

 

「今なら現代アートの祭典でよく観るにゃ」サル  こーゆーの

 

今はね。何でもそうだけど最初にやるってのが大切でさ。たまたま来日していたミシェル・タピエというフランスの評論家が「日本にもアンフェルメルやっている奴らがいるぞ」って欧米のアートシーンに紹介したんだ。それで具体は一大ブレイクした。なので今でも海外での評価は高いよ。

 

《流脈Ⅰ》(1953年)

 

「面白い形が浮き出ている」サル

 

これは最初失敗作だった。ペインティングナイフで絵具を削るうちに波の文様が浮き出て、面白いので表現に取り入れた謂わば偶然の産物。

 

そして1954年。遂にフットペインティングを開始。更に次の年ゼロ会具体美術協会に合流する。具体の活動はリーダー吉原治良(1905-1972)の死をもって解散するまで続いた。

 

《祝いの舞》(1981年)

 

文化センター内のあましんアルカイックホールの緞帳の原画。能や狂言への造詣も深かったそうだ。

 

「扇形をしているにゃ」サル

 

箆(定規みたいな道具)をコンパスの要領で動かしているんだよ。とにかくね、動きと色なんだ。白髪のすごさは。

 

《群青》(1985年) 尼崎教育委員会(市立尼崎高校)蔵

 

母校の県立尼崎高校への寄贈作。珍しく群青一色。

 

白髪は“人の真似はするな。これまでになかったものを創れ”と強く主張した。その一方で“人は自分の生まれついた時に持っている質を先づ把握しなければならない。最初は好き勝手にやってもそのうち質ははっきりしてくる。”とも。闇雲に新奇さだけを追求してもモノにならんということか。

 

第1回具体展より《泥に挑む》(1955)

 

《泥に挑む》と題したパフォーマンス。小原会館の前庭でパンツ一丁でヌタ打ちまわる姿を観るとその言葉の重みがずっしり伝わってきた。

 

「ヘンタイだね」サル

 

最後に制作風景を記録映像で観た。まず一日は仏前での読経に始まる。1971年に47歳の白髪は比叡山延暦寺で得度した。フットペインティングに宗教的タイトルが与えられた意味がなんとなく判った気がする。その後、足裏をアルコールで念入りに消毒。キャンバスは神聖な場所だったのだろう。

 

(ネットより拝借いたしました)

 

次に開封した缶入り、あるいはチューブ絵具をまるまる一本ぶちまける。妻は受け取った空の容器を無造作に投げ捨てる。直後、釣り紐にぶら下がった白髪の足裏は摩擦力を失い、あらぬ方向に滑る(不謹慎だがウシの糞を踏んだらこうなるのだろう)。格闘のすえ一色を終えると白髪は大きく息をつき、妻は神妙な眼差しを画布に寄せる。

 

「奥さんキレイな人だね」サル

 

次なる一色。また一色。次第に絵具は搔き乱され、迂闊に動けば灰色一色になる。だが、無心にならねば作為が生まれる。二人の白衣は絵の具にまみれ、新聞紙を敷かれた床の隅には空のチューブと足を拭った紙が山となり、やがて絵は完成した。

 

「絵具まみれになるのはイヤだなあ」サル

 

別におサルはやらなくていいでしょ。

 

(参考資料)

《天女の舞》(2000)

 

最晩年まで現役だった。

 

白髪作品は国内美術館の常設展示で幾つか観てきたが、生涯を俯瞰したのはこれが最初。芸術は作品さえ残ればいい。それも真理だ。しかし、この日の僕にとって、人間白髪一雄、歯にもの着せぬ白髪一雄、ユーモアに満ちた関西人の白髪一雄を知ったことは一番の収穫だった。

 

「アツイね、ヒツも」サル いつもながらムダに

 

(おわり)

 

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