旅の思い出「河井寛次郎記念館」 一族で守る民藝の殿堂(京都府) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

河合寛次郎記念館

℡)075-561-3585

 

往訪日:2024年3月14日

所在地:京都市東山区五条坂鐘鋳町569

開館:10時~17時(月曜休館)

常設料金:一般900円 高大生500円 小中生300円

アクセス:京阪・清水五条駅から約10分

駐車場:なし

※内部撮影OKです

 

《至る処に寛次郎のセンスが光る》

 

ひつぞうです。近代陶芸といえば富本憲吉濱田庄司、そして河井寛次郎。先日訪れた大原美術館工芸館で充実のコレクションを鑑賞したばかりですが、その寛次郎が建てた自宅兼窯を見学しました。お孫さんたち自らが運営に携わっている点も特色。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

平日の午前中に時間がとれたので京都の五条坂に向かった。河井寛次郎の記念館を訪ねるためだ。民藝や陶芸など渋い趣味に観光客が集まるのだろうか。集まるのである。やや風変わりな彫刻や民芸品に異国情緒を感じるのだろう。外国人ツーリストにも人気があるらしい。

 

 

京阪でくるのが一番ラクなのだが、乗り換えが面倒で地下鉄・五条駅から歩くことにした。25分もかかった。アホだ。まだうすら寒い季節だったので汗をかかずに済んだが。着いてみると京都らしい町家が並ぶ一角だった。両隣り数軒先まで古くからの顔なじみ。そんな界隈に堅苦しいスーツ姿の見知らぬオッサンが早朝から立ちんぼしている。少し居心地が悪い。

 

時間ちょうどに開門。受付で参観料を払う。写真撮影は可能だが(商売目的を厭うのか)住所氏名を記帳するように言われた。お安い御用よ。

 

最初におサルのおさらいコーナーから。

 

「よろしくお頼む」サル

 

 

河井寛次郎(1890-1966)。島根県出身の陶芸家・文筆家。東京高等工業学校窯業科卒。1920年に独立。五条坂に窯を構える。中国古陶磁器に範をとった初期、民藝運動に共鳴した中期、《造形》の後期においてそれぞれ特徴を備えた作品を数多く残した。創作対象は陶芸に留まらず、書、木彫、随筆にも大きな足跡を残した。享年76歳。

 

ということで寛次郎の仕事を追ってみよう。

 

 

門口を潜ると最初の一間に据えられた大型の木彫が出迎えてくれる。木彫は寛次郎のレイターワーク。第一モチーフは合掌だろう。人間の下半身にも見える。豊穣や子孫繁栄のダブルミーニングが後期の作品には鏤められているように思える。

 

内部はやや間取りが複雑。配置図は御覧のとおり。

 

 

最初に受付前の炉を囲む部屋へ。

 

 

様々な民具が部屋を飾る。

 

 

中央は吹き抜けになっている。

 

 

炉の間の奥の一部屋。

 

 

更にその隣り。

 

 

寛次郎の作《木彫二面像》。ちょっとブキミ。裏にも顔がついていて深海魚のような表情でもっとブキミ。背後の箱階段濱田庄司からの新築祝い。

 

 

二階にはこの玉綱でバランスを取りながらあがる。

 

「お年寄りには大変かも」サル

 

使わないほうが楽かな(笑)。

 

 

二階はこんな感じだ。使い込まれた廊下に味がある。

 

 

「滑車?」サル

 

オブジェとして吊るされているんだろうね。

 

 

書斎だ。寛次郎愛用の書見机。脇には拓本摺りされた詩篇も。

 

 

座り心地を計算した木椅子。

 

「ホコリひとつないにゃ」サル 磨き込まれてゆー

 

朝一番に皆で掃除するのが日課らしいよ。

 

 

上段の間。

 

 

隣りには居間。

 

 

上段の間を横から観る。とにかく広い。残念ながらキャプションがないのでメモもここまで。

 

 

晩年特に力を注いだものの一つが木彫。ウサギの像は1955年頃(65歳)。100点近くに及ぶらしいが、ほぼ手許に残したそうだ。そのせいだろうか。他所の美術館では観たことがない。因みにこれらは開館15周年記念(昭和63年)としてブロンズ化したもの。生前、寛次郎の夢だったそうだ。

 

 

観光客も増えてきた。綺麗な写真を撮りたい方は早めの訪問がお薦め。

 

 

順路に従って陳列室へ。

 

 

真鍮製の煙管も自作(1955‐1960年頃)。

 

 

名著『火の誓い』(朝日新聞社刊)。二十年ほど昔、松岡正剛氏の「千夜千冊」で知った。現在でも講談社文芸文庫で読める。

 

ここから陶芸の一部を時代ごとに展示。

 

 

初期(1920-1925)

 

大正後期。寛次郎30~35歳頃。中国古陶磁器に深く傾倒。五代・清水六兵衛の窯を継承。鐘徯窯と命名した。その時代の作品。

 

 

文様と釉薬の研究の成果だ。

 

 

寛次郎の美意識が特に色濃く表れたのが辰砂ではないだろうか。

 

 

中期(1925-1945)

 

昭和の終戦まで。本人35~55歳。柳宗悦濱田庄司とともに民藝運動に参加した。いわゆる“用の美”を追求した時代だ。

 

 

とりわけ英国のスリップウェアに感化された。

 

 

辰砂。

 

 

彩色。

 

「すっごく多いね…」サル 全部同じに見えゆ💦

 

陶芸美術館の宿命だね(笑)。僕は愉しいけれど。

 

 

後期(1945-1966)

 

昭和41年まで。本人55~76歳。戦後復興から高度経済成長期と重なる。

 

 

後期になると釉、形ともに大胆、自在になっていく。


 

豊かな泥漿で縁取られた筒描きも後期の特徴。

 

 

釉薬の神様、寛次郎の海鼠釉。

 

 

やはり辰砂。

 

 

最初の家屋は室戸台風で倒壊。1937(昭和12)年に再建したのがこの記念館になる。

 

 

茶室

 

 

素焼き窯。天日干しをおえた器は、ここで8時間ほど600~700℃で素焼きにされる。使用されるのは松の割り木。

 

 

続いて休憩室へ。

 

 

休憩室の正面が寛次郎の陶房。もちろんガラス越し。

 

「粗相をするひとがいるといけないからにゃ」サル

 

サルとかね。

 

「ヒツジとかね」サル 最近ひどいもんだよ

 

 

学生時代の勉強ノートと日誌。奥には試験用の陶片が並んでいる。

 

 

休憩室には後期の銘品がずらりと並ぶ。(キャプションはありません)

 

 

スリップウェアの扁壺。

 

 

辰砂のオブジェ。

 

 

碧釉扁壺(1964年頃)

 

後期の銘品。何よりも釉薬の色が素晴らしい。そして、どことなく縄文的な豊穣の姿かたちも。

 

 

呉州貼文扁壺

 

 

花扁壺

 

 

灰釉筒描扁壺(昭和28年頃)

 

こうして見てくると、寛次郎がなぜ人間国宝や文化勲章を固辞したのか、少しだけ判るような気がする。権威はいずれ作家の精神の自由を束縛する。そして慢心する。最晩年まで新しい表現を追求した寛次郎には不要だったのかも。

 

最後に登り窯で見学コースは終了だ。

 

 

釉薬をかけらえた器はここで二昼夜焼成される。20軒の窯元の共同窯として利用された。

 

 

寛次郎は前から二番目の窯を使用。ここから銘品の数々が生まれたんだね。好いものを観させていただきました。

 

 

濡れ縁では人馴れした看板猫が小さな春に喉を鳴らしていた。

 

 

グルリと一周して見学終了。作品の入れ替えは家族総出で行っているそうだ。キャプション無しが少し残念だが、そういう事情があるので致し方ないのだろう。陶芸に疎くても建物自体が愉しい。五条坂観光のついでに是非寄って欲しい。そんな場所だった。

 

「骨董だけはやめてね」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。