名建築を歩く「會津八一記念博物館」(東京都・早稲田) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

名建築シリーズ43

會津八一記念博物館(早稲田大学二号館)

 

往訪日:2023年12月3日

所在地:東京都新宿区西早稲田1‐6‐1

開館時間:10時~17時(日祝休館)

拝観料:無料

アクセス:東京メトロ・早稲田駅より徒歩5分

※キャンパスツアーあり

■設計:今井兼次、桐山均一

■施工:上遠組

■竣工:1925年

■東京都選定歴史的建造物(1999年)

📷一部撮影NGあり。大階段《明暗》は限定公開

 

《イチョウ並木は建物のベーシュによく似合う》

 

ひつぞうです。大隈記念講堂に続いて訪れたのは會津八一記念博物館でした。1925年に建設された早稲田大学二号館です。つまり、キャンパス内では二番目に古い建物。美術史家・會津八一(1881-1956)の蒐集品鑑賞のついでに建築散歩してみました。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

まずは會津八一の経歴から。

 

 

會津八一(1881-1956)。新潟出身の歌人、書家、東洋美術学者。早稲田大学英文科卒。戦前は東京の落合に居住。多くの芸術家と交流。母校で仏教美術の教鞭をとる。晩年は故郷新潟に暮らし、多くの歌と書を残した。享年75歳。

 

 

會津八一の名前は、かつて新潮文庫に収められていた『自註鹿鳴集』の著者として記憶していた。しかし、短歌と古美術に疎い僕には、黴臭く年配好みなマイナーポエットのイメージしか持ち得なかった。

 

二年半前のある日、中村彝の油彩目当てに新宿の中村屋サロン美術館を訪ねた。そこで特別展示されていたのが八一の墨蹟だった。書は輪をかけて縁がない。今思えば、能書家でもあった八一の墨蹟は“一見の価値あり”だったのに。取り返しのつかない好機の見過ごし。出逢った端はそのありがたさに気がつかない。人生そのものと同じだ。

 

 

會津八一記念館政治経済学部が入る三号館の正面に位置していた。ちょうど黄葉の盛り。午前の斜光線が向かいの窓ガラスを反射していて絵画的だった。

 

(キャンパスマップ)

(※ネットより拝借しました)

 

大隈講堂記念館の全てが正門周辺に集まっている。しかしキャンパスは広い。事前の予習がお薦めだ。

 

 

ちょうど開館の10時になった。週末ではあったが、渋い趣味の八一記念館。他に客はいなかった。

 

「よかったにゃ」サル 人混み苦手だもんね

 

うむ。

 

次に設計者の今井兼次について。

 

 

今井兼次(1895-1987)。東京都出身の建築家。早稲田大学建築科卒。欧州建築視察においてシュタイナーやモダニズムまで幅広く吸収。とりわけガウディに傾倒し、日本で最初の紹介者になった。

 

「シュタイナーってどんなひと?」サル ガウディは観たことあるけど

 

(参考資料)

《第二ゲーテアヌム》(1928年)

※写真を拝借いたしました

 

コルビュジエファン・デル・ローエに代表される装飾を排したモダニズム建築とは対照的に、曲線を多用した有機的構成を設計思想の第一義にしている。これはガウディにも通じるね。

 

 

ただギャンブレル風のファザードの二号館は、その細部にむしろ世紀末ウィーンの面影を感じた。

 

 

とりあえず館内に入ってみた。受付をすませて簡単に内部の紹介を得る。展示室は「近代美術」「富岡重憲コレクション」そして「會津八一コレクション」の三部構成。残念ながら「近代美術」は入替中で閉鎖されていた。まあいい。目的は建築と會津八一。まずはロビーを観察する。

 

 

デビュー作ということもあり、欧州外遊の成果を随所に鏤めた、今井のやや力んだ意気込みが感じられる。手摺や階段の側壁には曲線と直線をバランスよく組み合わせた小窓に鋳鉄製の飾り。クサビのような人工石の柱も印象的だ。

 

 

なんだろう。月?

 

 

表現主義的な意匠と和の折衷的なデザイン。

 

 

化粧タイルは市松格子風で色使いはオリエンタル。

 

 

続く一階ホール。一見コリント式のオーダーのようだが、柱頭部は蓮の花弁を思わせる。そして化粧漆喰の美しい格天井。この手の建築にしてはやや天井が低い。ホールには幾つか彫刻作品が展示されている。ただし、撮影可能なものは一体だけだ。

 

東大寺法華堂の国宝彫刻でおなじみの執金剛神立像である。

 

岡崎雪聲《執金剛神立像》(1892)

 

岡崎雪聲(1854-1921)は大型鋳造彫刻のパイオニア。京都の釜師の家に生まれ、上京後工房を開いた。パリ万博での成功で注文が増え、上野公園の西郷隆盛像(木型は高村光雲)、横浜掃部山公園の井伊直弼像、皇居外苑の楠公馬上像など、意外(失礼)にも有名な作品が多い。かつて校舎の一隅に必ずあった二宮尊徳像を最初に制作したのも雪聲らしいね。

 

「薪背負って読書している?」サル そーなんだ

 

そうそう。

 

 

細部がすごいんだよ。よくまあ鋳金でこれだけのものを制作したね。万博終了後に大隈の旧蔵となったが、東京大空襲で邸宅とともに崩壊。1994年に学内の倉庫で偶然発見されて修復に至っている。

 

 

鉾を振り上げる右腕は継ぎ足されたものかな。

 

「逆じゃない?」サル 左手新しくね?

 

 

二号館はかつて図書館だった。その玄関はこちら。大扉が八芒星を模っているのが判る。このレリーフが見事なのだが撮影するのを忘れていた…。最近こんなのばっかり。

 

建築鑑賞はここまで。以下、古美術コレクションから幾つか備忘録。

 

 

=富岡重憲コレクション=

 

日本重化学工業㈱の創業者・富岡重憲(1890-1979)の旧蔵品が寄託されたのは2004年。死後、山王に私設美術館が設立されたが、残念ながら解散してしまった。これもまた、ひとつの流れなのかもしれない。

 

「いい場所に引き取られて良かったのー」サル

 

古美術の鑑賞者は限定的だから。そういう自分も最近観るようなったばかり。偉そうなことは言えない。今回の展示は近代絵画コレクション。撮影NGだったので文章だけになるが、富岡鉄斎、武者小路実篤、矢部友衛の作品が充実していた。

 

 

=會津八一コレクション=

 

會津八一記念博物館は、昨年訪ねた奈良の志賀直哉旧宅で、谷崎が贈った菩薩像の収蔵先として知った。残念ながら菩薩像を拝見することは叶わなかったが、良いものがたくさんあった。

 

例えばこれなど。

 

伝 海北友松《芦鶴図》江戸時代(17世紀)

 

桃山時代から江戸初期にかけて活躍した海北友松の作(かもしれない)と言われる作品。友松といえば狩野派風の障壁画や力強い水墨画が有名。(とりわけ左奥の川面の)一気呵成の描線、鶴の濃淡、脚先の擦れを活かした靄のような表現。どれも素晴らしい。友松その人でなくとも、その周辺の腕のある絵師の仕事だろう。

 

「有名コレクションだからそう思ってるんじゃね?」サル

 

それもある(笑)。

 

伝 長沢芦雪《游亀扇図》江戸時代(18世紀)

 

これもまた、奇想の画家、江戸アバンギャルドの絵師と称される長沢芦雪(かもしれない)と言われる作品。

 

「そんなんばっかりだね」サル

 

そうだろうとなかろうと、この亀のデッサン力と、濃淡表現、甲羅のデフォルメ。どれを取っても味わい深くない?

 

王逸《雲龍図》清時代(1744)

 

以下、今年の干支、龍をモチーフにした作品選集だ。まずは中国・清王朝の王逸の作品から。とぼけた味わいの表情。鉤勒描法(輪郭を描いて塗りつぶす画法)の龍と没骨描法(輪郭を描かず濃淡で描く描法)の雲を組み合わせることで立体的に仕上げている。雲の怪しげな表現もいい。

 

陶芸も幾つか。

 

《白釉龍耳瓶》唐時代(7世紀)

 

ギリシャのアンフォラを模したものと言われる。実用品ではなく死者の副葬品らしいね。

 

「アンフォラって?」サル

 

(参考資料)

(※ネットより拝借しました)

 

こんなやつね。

 

「地中海の難破船から引き揚げられてたの見た」サル

 

それよ。龍のデザインは中国オリジナル。

 

磁州窯《白地鉄絵龍鳳文四耳瓶》元時代(14世紀)

 

磁州窯の特徴をよく表した逸品。白化粧した胴に鉄絵を施し、搔き落としで文様を施している。その迷いなき龍の鱗や雲の渦の線刻が小気味よい。笹耳と呼ばれるパーツには四弁花が型押しされている。粗野ながら躍動感のあるタッチが元時代の特徴だそうだ。

 

「そういわれてもアッシには…」サル こまゆー

 

景徳鎮窯《青花龍猿図洲浜形鉢》明時代(17世紀)

 

白磁に呉須で彩色し、透明釉で焼成した明時代の焼き物を古染付という。不老長寿の象徴である桃を捥ぐ猿の絵が気に入って撮った一枚。日本への輸出品として大量に制作された雑器の一種だけに素人が真贋を占うのはかなり難しいように思うが。

 

「よく鑑定団で出てくるよ」サル

 

いち、じゅう、ひゃく、せんで終わるやつね(笑)。

 

《黄釉暗花龍文鉢》清時代・康熙年間(1662‐1722)

 

鉄やアンチモンを呈色剤に酸化炎焼成することで黄釉は生まれる。見込みのデザインは毛彫りと型押しの併用らしく、そこに釉薬を薄く垂らして文様を浮き上がらせている。暗化という技法だそうだ。

 

八一の手紙から一点。

 

 

昭和三十年の元旦に會津博士紀念東洋美術陳列室に宛てた賀状だ。早大が自分の記念として設けた部屋を見て甚慨無量だったと喜びを伝えている。更に「私立大学は設備の上で官国立のものより貧弱にあるのですが教職員学生諸君の誠意と協力とによって意義深い完成を遂げたいものです」と激励。かつて武者小路は自分たちの美術館設立を企図するにあたり「官立は黴臭く権威的でダメだ」と貶していたが、当時の官と私の構図が透けて見えて面白い。そして字も旨い。

 

最後に水墨画を。

 

皆川淇園《書画冊》江戸時代(18世紀)

 

京都の儒学者、皆川淇園(1734-1807)は書と水墨画も良くした。やはり没骨で描かれている鶴亀と竹は長寿の象徴。辰年の新年をめでたく迎えたいという趣旨の展示だった。

 

 

二階のグランドギャラリーも残念ながら非公開。まあいい。會津八一に対して親近感を得たし、なによりも初めて眼にする今井兼次の建築に触れることができた。でもまだ帰らない。建築散歩は続く。

 

「好きにして」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。