中村屋サロン美術館
℡)03-5362-7508
往訪日:2021年9月4日
所在地:東京都新宿区新宿三丁目26番13号 新宿中村屋ビル3F
開館時間:10時30分~18時(最終17時40分)
入館料:常設展示 300円
最寄り駅:JR新宿駅東口より徒歩5分
≪カレーだけじゃないよ中村屋は≫
※写真の多くをネットより拝借いたしました。お許しくださいませ。
こんばんは。ひつぞうです。今夜は先週末の街歩きシリーズの最終話です。食事を終えたあと、僕のたっての希望で同じ新宿にある中村屋サロン美術館を訪ねました。カレーの中村屋ビルの三階にある小さな画廊のような美術館です。
美術愛好家の皆さんには今更のような説明ですが、中村屋の創業者相馬愛蔵は多くの芸術家を世話にしたことで知られています。その妻・黒光夫人とともに文芸サロンを起こし、高村光太郎、木下尚江、會津八一らと交流。荻原守衛、中村彝、中原悌二郎などを支援しました。錚々たる顔ぶれ。愛蔵は一介の実業家ではなかったことが判ります。とりわけ当館は中村彝の優れたコレクションを有していて、是非往訪したかったのでした。
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企画展のはざまだったので常設作品を鑑賞する亦とない機会でした。
荻原守衛 《女》 (1910年)
早速碌山先生の傑作が出迎えてくれます。郷土の碌山美術館(松本市)、東京国立博物館、国立近代美術館でも観ることができます。ブロンズ作品なので複数存在するわけです。女性の肉体美を余すところなく捉えてますね。ロダンの影響を受けた碌山先生は、解剖学的にも正確無比なデッサンに加えて、エモーショナルな息吹を作品に込めているように思います。(重要文化財の石膏原型は東京国立博物館の所有)
「はぎわらもりえってゲイだったのち?」
“おぎわら”だよ。なんでそう思ったの?
「黒光に恋したって」
それは雅号だよ。本名は相馬良(りょう)っていうんだ。武家出身の歴とした女性だよ。
「そうっきゃ」
※ちなみに我が家は-ワイルドしかり、ウォーホルしかり、F・マーキュリーしかり-偉大なるゲイカルチャーに尊崇の眼差しを向けるものである。
荻原守衛(碌山)(1879-1910) 31歳とは思えない老成ぶり
結核に苦しみ、最後はそれが命取りになり、《女》は遺作となります。碌山先生にはある悩みがありました。道ならぬ恋です。才気と美貌の黒光に先生は強い恋ごころを抱いていました。その想いに黒光も気づいていたといいます。《女》の表情は黒光に似ていると言われます。僕にはよく判りません。しかし、この後ろ手に縛られたような姿勢と、恍惚とも苦悶ともとれる表情は、筋肉の張った若い肉体と併せて、なにか嗜虐的な趣味を感じてしまいます。
黒光は愛蔵の浮気に懊んでいました。《家長》の我が儘に苦しむ女の姿と、赦されない愛に答える空想の姿を、作品として練りあげたのかも知れません。苦悶と忘我は紙一重。人間の生と死がそうであるように。ひとりの女性というモデルのなかに、美と情念が表現された近代彫刻の傑作ですね。何度観ても素晴らしいです。
「足がイモトの足だにゃ」
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今回新たな出逢いがありました。
太平洋美術会の理事でもあった洋画家の布施信太郎(1899-1965)です。布施先生は中村屋の包装紙のデザインを描いたことで、今でも中村屋とは繋がりの深い画家と云えるでしょうね。初めて作品を鑑賞しました。
布施信太郎《馬とび》
際立つ輪郭線が特徴的です。構図や色調も油彩というよりも版画のような処理ですね。和洋の折衷を感じます。飽きない絵です。
布施信太郎《浴後》
恐らくキュビスムの影響を受けていたのだろうと思います。アルカイックな人物の表情や陰りを帯びた灰青色の背景を観ていると、青の時代のピカソや初期のセザンヌのような、やや生硬で几帳面なタッチを感じます。健康的でグラマラスな女性の肉体美もたまりません。
「釘づけになってた」
布施信太郎 《秋》
四季シリーズの一作です。これら四点が包装紙のデザインになりました。仙台出身の先生ですので、おそらく白石の田園地帯から蔵王山を捉えたものではないかと推測します。やや通俗的ですが、僕ら昭和世代には何とも言えない郷愁を喚起してやまない素敵な作品です。
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さていよいよ中村彝(なかむら・つね)です。子供の頃、この「彝」が読めずに苦労しました。読めるようになっても女流画家だと思っていましたね。誰もが陥る陥穽なのでしょうけど。一番有名な《エロシェンコ像》は国立近代美術館で鑑賞しましたが、それよりも観たかったのがこれです。
中村彝 《少女》 (1914年)
「平べったい顔族だにゃ」
モデルは相馬夫妻の愛嬢俊子です。本人の名誉のために断っておきますが、当時としては目鼻立ちのしっかりした美人さんなのです。ややふっくらしていますが、それは育ちが好いせいでしょう。《少女》は、印象派風のタッチながら、近代的リアリズムと東洋的土俗性が綯い交ぜになったような、力強さがあります。非凡な存在感があります。
ボースと相馬俊子夫妻
彝の作品には幾つかの俊子をモデルにした裸婦像があります。相思相愛だった俊子は、彜のためならば、もろ肌脱ぐのも躊躇わなかったそうです。羨ましいですね。ただ、俊子の側はプラトン的愛だったのかもしません。なにしろその表情に屈託がない。
中村彝(1887-1924) 晩年の写真
しかし、肺病病みだった彝の結婚の申し出は断られます。悉く肉親を喪い、天涯孤独だった彝にとって、俊子は生きるよすがだったと云っても過言ではないでしょう。冒頭の《エロシェンコ像》を描いたあとは病状が悪化し、目立った活動もないまま37年の生涯を終えました。その後、インド革命の父ボースと結婚した俊子もわずか27歳で病死しました。
芸術家は根本的に我が儘かつ子供です。精神が小児的だから天才の業を発揮できるのか、天才だからいつまでも子供なのかは判りません。滝廉太郎、梶井基次郎、啄木に一葉。多くの天才が若くして亡くなった時代。彼らが天寿を全うしていたらどんな作品を残しただろう。そんな詮ないことを考えつつ新宿の街を後にしました。
「なかなかマニアックな美術館だったにゃ」
(おわり)
ご訪問ありがとうございました。