勝海舟と山岡鉄舟 | 人差し指のブログ

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「 史伝閑歩 」

森銑三 (もり せんぞう 1895~1985)

中央公論社 昭和60年9月発行・より

 

 

 

 俗に 三すくみという。

 

智略の縦横をもって任ずる勝海舟も、山岡鉄舟の勇猛心というか、

その内に蔵する力には、まいらざるを得なかった。

 

 

勝家の台所へは、旧幕臣の不平党が絶えずやって来て、出させた酒を

飲んで管(くだ)を捲く、おれたちを だしにして、自分だけが高官になって、

大きな顔をしていやあがる。

 

 

なんでもかまわぬから、飲み倒してやれ、というのが、彼等のやけっぱちな気持ちだった。

 

 

海舟はその者たちの 飲んで放言するのにまかせていたらしいが、時に騒ぎ立てて、手に負えそうもない時は、書生を鉄舟のもとへやって、来てもらいたい、と頼む。

 

 

よし、とばかり鉄舟が来て、台所へ顔を出して、皆さん、お揃いですか、という。  (鉄舟の身長は188センチ・人差し指)

 

 

今まで騒いでいた者たちは、ただその何でもない一言に萎縮して、手持無沙汰になってしまい、おい帰ろうと、促し合って、ごそごそ出て行くのだったという。

 

 

自分で顔を出して、かれこれいったりしないで、わざわざ鉄舟に来て貰う。

 

 

海舟は、そういう手段を知っていたのである。

やはり勝海舟は智者だったといえる かもしれない。

 

 

 鉄舟は、明治以後は剣豪をもって知られ、その剣は向うところがなかった。

 

 

しかし鉄舟の剣も、はじめはただ天賦の膂力(りょりょく)を恃(たの)んで、

技を二の次に置いた傾きがあり、ただ敵を倒せばよいのではないか 

というのが、その考えだった。

 

 

(高橋)泥舟は力量よりも、技を重んじて、その技をどこまでも精錬せしめようとした。

 

 

それで二人の議論する時は、根本的に一致しないものがあった のであるが、後に鉄舟が一刀流の奥義を悟った時、己の考え方の誤っていたことに気がついて、泥舟のもとに到って、これまでは誤解して居りました、と素直にいって、頭を下げた。

 

その態度がどこまでも担率だった。

 

 

その時、泥舟はにっこり笑って、それはおめでたい、しかし大分御手間が取れましたな、といったそうである。

 

 

剣の鉄舟も、槍の泥舟に対しては、一目置かざるを得なかったのである。

 

 

 

 鉄舟は終生剣をもって立っていたのであるが、 明治以後の泥舟は、

天下一品をもって称せられた槍も忘れたるがごとく、

 

     狸にはあらぬわが身は土の船 こぎ出さぬのがかちかちの山

 

とよんで、官途に就こうともせず、世を忘れ、世からも忘れられて、

その一生を終えた。

 

 

社会人として生きた鉄舟は、泥舟のその生き方に、敬意を払わずにはいられなかったらしい。

 

 

 泥舟には泥舟としての、そうした高風があったのであるが、その泥舟は、また海舟の機略を認め、それを および難いものとしたというから面白い。

 

 

「海舟は鉄舟を畏れ、鉄舟は泥舟を畏れ、泥舟は海舟を畏れた」 とは、『徳川の三舟』 の著者佐倉達山氏のいうところで、それをもって三すくみの形だったとするのであるが、佐倉氏は海舟と鉄舟とについて、さらに

一話を伝えている。

 

 

 

 明治何年であったか、朝廷から海舟と鉄舟に、維新当時に国事に尽くしたことどもを書いて出せとの御沙汰があったのに、海舟は気安く書いて

差出した。

 

それは相当に詳密なものであったらしい。

 

 

その後で海舟は鉄舟に逢ったので、

「あなたも差出しなさったか」

 と問うたら、 鉄舟は無造作に、

「自分で自分のことを書立てたりしては、自画自賛になってしまいます。

そういうものは、拙者は出しません」 

 といって、酒然としていた。

 

 

この一言は、海舟にはよほど こたえたらしく、

「おれは山岡にやられた。 どてっ腹に洞穴を開けられた」

 と人に語ったそうである。

 

(略)

 

 やや海舟を抑えて、鉄舟を上げるような内容になったが、序でに、少し前に明治の古い新聞に見えていた一事を記して、結びとしよう。

 

 

 どこかの理髪床の、海舟と鉄舟との額を掲げている店があったそうで、その紹介がしてあったのであるが、鉄舟の方は、道歌風の歌を一首書いているだけで、格別のことがない。

 

 

海舟の方は、暁の空に鳥が二、三羽飛んでゆくところを略筆で画いて、

その上に、

 

「朝寝すべからず」 としてあったそうである。

 

 

もしこれが床屋の亭主が請うて書いて貰ったものとすると、絵と文句とが

いかにも適切で、応病与薬の妙を極めているし、その床屋へ行く客たちにも、「朝寝すべからず」 の教訓は、そのままに うなずかれるものがあったであろう。

 

 

 床屋には床屋向きのものを揮毫して与える。

海舟は頭の自由自在にはたらく人だったことを感ずる。

 

                        ~『歴史と人物』 昭和49年8月~

 

 

                                       

 

 

明治天皇の教育係だった鉄舟は明治天皇を投げ飛ばしたこともあったそうです。2017年11月2日に 「明治天皇を投げとばす」 と題して林房雄の対談を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12324418288.html?frm=theme

 

 

2019年6月7日に 「勝海舟が手をつけた女たち」 と題して徳川夢声と子母沢寛の対談を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12452382835.html?frm=theme

 

 

2018年12月28日に 「勝海舟に会ってきた・その2」 と題して森銑三の文章を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12421226503.html

 

 

 

 

今日は写真が二枚あります。上の写真は奈良・興福寺の階段を降りてきて車道を渡って行く子鹿です。

何処へ行くのかは下の写真をみればわかります。 7月6日撮影