勝海舟に会ってきた・その2 | 人差し指のブログ

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「 新編 明治人物夜話 」

森銑三 (もり・せんぞう 1895~1985)

株式会社 岩波書店 2001年8月発行・より

 

 

 

 明治二十年十二月六日のことである。

 

依田学海(よだがっかい)は、勝海舟(かつかいしゅう)をその邸に訪問して、往事についていろいろ聴くところがあった。

 

そしてそのことを、日記の中に、相当精(くわ)しく記している。

 

(略)

日記の中のその部分を、口語文に書直して載せるならば、次の如くである。        

 

 

 きょうは、かねての約束通り、西村茂樹氏と共に、勝海舟伯を赤坂氷川(ひかわ)の屋敷に訪(と)うて、幕末におけるわが旧藩主文明公(堀田正睦(まさよし))の事跡に関することどもを聴いた。

 

 

 勝氏の住いは、古い旗本の屋敷であろう。

汚いというのではないが、いたく古びた、質素な家である。

 

 

門から玄関まで、石が敷いてある。玄関は極めて小さい。

幅がようよう一間(いっけん)あまりで、左右に提灯(ちょうちん)が立ててある。

 

 

上ると、そこは三畳ほどの一間で、それから狭い廊下を通って、居間の入口まで行った。

 

 

その時、取次ぎの小娘が、主人は病気で臥せっております。

無礼はどうかお許し下さいませ、といって、戸を開けてくれた。

 

 

 室に入ると、そこは六畳あまりで、二枚の屏風(びょうぶ)が立て巡らしてあり、海舟氏は蒲団(ふとん)の上に座っていた。

 

 

居間の向こうは庭らしいが、ガラス障子(しょうじ)が閉めてあるので見られない。

 

壁の隅には棚があって、その上に反故(ほご)ようの小冊子が積み重ねてある。

 

室には熊の皮が四枚敷いてあり、火鉢には、助炭(じょたん)とかいうものが掛けてある。

 

 

室内には何の飾りもない。

まるで貧士の住いだといおうか、茶や煙草(たばこ)の給仕は、先に取次ぎをした小娘がする。

 

 

外には四十恰好(かっこう)の女がいて、手紙や文房具の類の出入りをする。

 

(略)

 

 学海は、その時代に生きて来た人であるが、海舟の談話からは、得るところが少なくなかったらしい。

 

 

それは学海の起草した文明公伝にも取入れられているであろうが、今はそのことには触れない。

 

 

最初にも一言したように、学海は目のあたり見た勝家の様子を書いて、まるで貧乏侍の住いのようだとしている。

 

 

伯爵にも列しながら、海舟はそうした暮らし方をしていたのである。

 

 

(こと)にその形ばかりの玄関に、もう世は明治の二十年だというのに、

旧幕時代そのまま、高張提灯(たかはりちょうちん)を立てていたなどというのが、風俗史的にも感興が深い。

 

 

 海舟は夙(つと)に蘭学を修め、幕末に既にアメリカへも渡航している人である。

 

当時としては、新知識の一人だったのであるが、それでいて少しも西洋かぶれしていない。

 

 

国内には欧化の風が吹きまくっていたのに、かえって旧式な、時代遅れともいうべき生活をしている。

 

欧化の風など、どこを吹くかといった調子である。

 

 

海舟の人物には、いろいろの見方もせられようが、私は海舟が、明治の

二十年になっても、なおかつ昔ながらの状態で生きていたということに、

奥ゆかしさを感ずる。

 

 

ハイカラという言葉の生まれるのは、なお十年あまりも後のことであるが、ハイカラであってもよい海舟その人は、少しもハイカラでなかった。

 

 

そうした点が、私には好ましく思われる。

とにかく伯爵邸の玄関に、提灯が立ててあったのである。

 

 

                                         

 

 

 

2018年7月12日に 「勝海舟に会ってきた」 と題して薄田泣菫の文章を紹介しました。コチラです。  

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12382894295.html

 

 

 

 

2018年7月7日に 「乃木将軍の貧相な生家」 と題して安岡章太郎の文章を紹介しました。コチラです。  

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12383852420.html

 

 

 

 

 

 

                12月4日 和光市内(埼玉)にて撮影