「 泣菫随筆 冨山房百科文庫 43 」
薄田泣菫 (すすきだ きゅうきん 1877~1945)
合資会社 冨山房 1993年4月発行・より
私が海舟翁に初めに会つたのは、さやうさ、何でも日清戦争の済んだ後だつたと覚えてゐる。
先輩某氏の名刺を持つて、赤坂氷川町に名高い、しかしながらあまり立派でない邸宅へ訪れてゆくと、行儀のよい小婢(こおんな)が出てきて、老伯の居間に案内してくれた。
そこは薄暗い居間で、老伯は床を敷いてむかう向きに寝ていた。
私が安芝居で記憶(おぼ)えた、厳(しか)つべらしい口上で丁寧に挨拶をしても、こつちに振り向うともしなければ、返事ひとつしない。
少々てれてゐると、だしぬけに、
「おまへは田舎出の書生つぽだな。一体何をしに東京へ出てきた・・・・」
と言ふのだ。
「はい、法律を勉強したいと思ひまして・・・・」
「法律をやると首を縊(くく)るぞ」
と浴びせ掛けておいて、老伯は寝返りを打つて、くるりとこちらに向き直つた。
髪の毛をのばさばさした、頬髭の伸びた病人らしい顔に、底気味の悪い眼が爛々と光つてゐる。
あの顔だ。栄華を極めた徳川十五代が運命に捨てられてゆく悲劇を面(ま)のあたり見たのは。
かう思つて私はその顔を見つめてゐた。
「どうだ、解つたかい」
私ははつと気がついてみると、自分は何も知らずに首を縊る学問をしてゐると言はれてゐるのだ。私は黙つて笑つてゐた。
「解つたらそれでいい。俺に何用があつて来たのぢや」
私は用事といふのをつい忘れようとしてゐた。
私のやつてゐる 「法律」 では、英雄であらうと、蕎麦屋の出前持であらうと、借金をした者は同じように取り扱ふことを知つてゐるので、私は別段英雄といふものに用事はないのだが、国元にゐる親爺が書画凶で、わけて海舟翁のものが好きなので、何としても書いてもらふわけにはゆくまいかと、五月蠅(うるさ)く催促してくるので、つい紹介状まで貰つて頼みにきたやうなわけなのだ。
「書を一つ戴きたいと思ひまして。国元の親が是非お願ひしてくれと申しますので」
私が恐る恐る言ふと、老伯は眼をそつぽうに逸(そ)らしたまま。
「俺は田舎者なんかに惚れてもらわんでもいいのぢや・・・それに俺の書には価値(ねうち)つて奴があるでの。どうぢや、御礼をたんともつてきてゐるかい」
私は手を入れて袂を探つてみた。
冷たい白銅がただひとつ指先に触つた。
私はいま少し持会せがあつたらそれを包んで、老伯へ黙つて差し出したかも知れなかつた。
私は附穂がないやうな気持で、妙にてれてゐると、老伯は小婢を呼んで押入れから円く包んだ書き物を取り出させた。
「このなかから気に入つたのを二,三枚撰り出してゆきなさい」
今度は打つて変つて親切な祖父(おぢい)さんのやうな調子でかふ言ふのだ。私はにこにこもので、気に入つた文句のを二枚ほど撰り出した。
「では、これだけ戴きます。親爺がどんなにか喜びますでせう」
お礼を言つて帰ろうとすると、老伯はやをら半身を起こして 「ちよつと」 と言つて呼びとめた。
「小遣銭があるかい」
私は変なことを訊く老人だなと思つた。
「持ち合わせてゐます 幾らか」
「嘘を吐(つ)け、天保銭ひとつない癖に。・・・・さ、どれでも一つ持ってゆくがいい、おまへたちにくれようと思つて拵(こしら)へてあるのぢや」
かう言つて老伯は枕許にあつた塗盆を取つて私の前に突き出した。
盆の上には紙包みが幾つか載せてあつた。
「でも、真実(ほんたう)に持合わせがあるんですから」
これまで他(ほか)から金を貰つたことのない私は、少し侮辱されたやうな気持ちで達(た)つて辞退すると、老伯は、
「老人がせつかく くれようと言ふものぢや、有り難く貰つておけ」
と、小五月蠅(うるさ)さうに言はれるので、私は小婢の手からその一つを貰つて外へ出た。
道の三町とはゆかないうちに、私は蕎麦屋の前へ出たので、ついそこへ飛び込んだ。
そして立て続けに天麩羅蕎麦を三つ喰べた。
心から海舟翁の健康を祝しながら・・・・包には五十銭銀貨が一つ入つてゐた。
(K氏の話) (大正13年刊『忘れぬ人々』)
4月9日 多摩森林科学園(東京・八王子)にて撮影