「 江戸時代と近代化 」
大石慎三郎 (おおいし しんざぶろう 1923~2004)
株式会社 筑摩書房 1987年12月発行・より
~ 多彩な手段を通しての民衆教育 芳賀登 ~
幕末にはまた、藩の政策としても他国修業、他国遊学、他所稽古をさせるということが出てきます。
自分のところだけで固定的に人を育てるのではなくて、人材をよそに出す。
さらに、自藩の学者の巡回講義などもさせる ということを見ると、今の開かれた大学のようなことが徳川時代にもあったわけです。
多くの藩は能力育成のための試験方式を採用しておりまして、佐賀藩などはたいへんに それが徹底していました。
ここでは石高制という、いわゆる扶持米、禄高の六割くらいを取り上げてしまって、四割をいわば”固定給”にし、残りは能力に応じて仕事を与えて、その仕事をする人に”能力給”として与えることにします。
そのために藩校の教育で厳しい能力テストをするのです。
試験をへて上級職につかせる。
明治以降の学校制度を見て、(佐賀出身の)大隈重信が、これはわが藩の学校とそっくりだと言ったという。
佐賀藩などでは早くから能力主義をとっていたんですね。
そしてその学問の適否を決めるための推薦母体もありまして、寺子屋だとか、郷校とか私塾だとかが推薦していくわけです。
そして修行中のものに対しても成績を評価し、賞罰を明確にする。
きわめて教育と立身を密着させるのです。
こうして、身分的にはには門閥支配の人事行政が打破され、人材登用の機会が増えています。
幕府が作った蕃書取調所は、はじめ幕府だけのものでしたが、安政五年(1858)には各藩に開放されました。
長崎の海軍伝習所も同じです。
自由に遊学する可能性をだんだん広げていくことによって、幕府自身がいろいろな人たちを自分の体制に組み込んでいくわけです。
その組込みによって徳川幕府そのものの中で開明派が育成され、日本の近代化に大きな役割を果たすことになります。
また、明治政府も幕府の開明派の中から たくさんの人を入れました。
藩閥にこりかたまった人間より、はるかに柔らかい頭を持っている、そういう人たちの知的な陶冶制を利用して、明治政府を運営したということです。
2016年6月17日に 「江戸時代の小藩と大藩の学問」 と題して谷沢永一の文章を紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12150162523.html
2016年9月15日に 「江戸時代に識字率が高かった地域」 と題して 司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談を紹介しました。コチラです。↓
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2016年9月7日に 「明治維新政府の美点」 と題して谷沢永一の文章を紹介しました。コチラです。↓
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奈良公園の猿沢池にて8月18日撮影