江戸時代の大藩と小藩の学問 | 人差し指のブログ

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慶応二年(1866年)但馬(たじま)国(兵庫県)出石(いずし)出身の加藤弘之(かとうひろゆき)は、基本的人権は生まれつきのものであるという天賦(てんぷ)人権論を述べた『立憲政体略』を発表。

当時、ドイツ語のできる要人がほとんどいなかったことを知った加藤は、ドイツ語の要職を歴任する大出世を遂げ、憲法議会制度の骨格を作成した。

慶応三年に石見(いわみ)国(島根県)津和野藩出身の啓蒙思想家・西周(にしあまね)は三権分立、上下院制度を主張している。

加藤も西も江戸育ちではない。

地方から江戸に来た人々の活躍が目立っている。

幕末において、これら新しい時代に即した案を提出したのはこうした地方の人々で、幕府・薩長ともに新時代の革新的政策を創造できた人物はいない。

どうしても一人あげるとしたら大村益次郎(おおむらますじろう)のみである。


あとは無学と言ってよい。

特に薩長の無学ぶりははなはだしく、薩摩人は学問をする人間にたいして嫌悪感さえあったようだ。

西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通ともに、前記の人物より能力的に劣(おと)っていた。

  そもそも全国に藩学は多かったが、大藩は褌(ふんどし)の紐(ひも)をゆるめて精劤せず、小藩がそれぞれ学問に熱心であった。

人材が出たのも当然である。

笠井助治の『近世藩校に於ける出版書の研究』(昭和三十七年)によると、朝廷や幕府や寺院や昌平黌(昌平坂学問所)のほか大藩をのぞくと、会津(福島県)、津(三重県)、弘前(青森県)、新発田(新潟県)、安中(群馬県)、平戸(佐賀・長崎県)、守山(青森県)、黒羽(栃木県)、赤穂(兵庫県)、佐土原(宮崎県)、佐伯(大分県)若狭(鳥取県)、など、これらは小藩にして小規模なるものを摘出したのであるが、二万石だの一万八千石だのの小藩が、力を尽くしているのには感動する。

明治維新のはるか前から、学問の基礎ができていたのである。

「官僚、もういいかげんにせんかい」
谷沢永一(たにざわ えいいち 1929~2011)
株式会社講談社2002年6月発行・より


光が丘公園の野球場(東京・練馬)4月26日撮影
野球場