白石はたくさんの著述をのこしたが、白石の書いたものには、あるはっきりとした特徴がみられる。
というのは、なんべんも言うように学問といえば支那の学問のことなのだから、学者の著述は「支那の古典について支那語で書く」ものにきまっていた。
白石と同時代の学者である荻生徂徠も伊藤仁斎も、そういうかたちで著述をのこしている。
これに対して白石のものは、そのほとんどが日本のことを書いている。
しかもまた、それを日本語で書いている、というのが大きな特色である。
(略)
日本のことが学問の対象になるなどとは、その時代、あるいはそれまでの日本人にとってはまず奇抜な考えだった。
日本語が学問を記述することばとして使えるということ、日本語で書いたものが学問的著述になるということも、だれにも思いつかなかったことだった。
新井白石は、学者でありながら日本のことを日本語で書いたという、まことに画期的なことをした人物なのだ。
「座右の名文
高島俊男(たかしま としお 1937~)
株式会社文芸春秋 2007年5月発行・より
光が丘公園のラナンキュラス(東京・練馬)4月26日撮影
![ラナンキュラス](https://stat.ameba.jp/user_images/20160615/06/hitosasiyubidesu/e1/da/j/o0567042613673103749.jpg?caw=800)