江戸時代の農業指南書   | 人差し指のブログ

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「 江戸時代と近代化 」

大石慎三郎 (おおいし しんざぶろう 1923~2004)

筑摩書房 1987年12月発行・より

 

 

 

  ~ 江戸時代の農書に見る近代の芽   佐藤常雄 ~

 

 

 

 元禄年間に著わされた 『農業全書』 という農書があります。

宮崎安貞という人物が書いております。

 

 

天保十三年(1842年・人差し指)に陸奥国の一農民が京都に遊びに来て、何冊かの本を買い求めました。

 

 

その中に この 『農業全書』 もありまして、値段は銀八十五匁であったそうです。

 

 

これがいまの金でいくらになるか、ちょっと換算がやっかいですが、当時の米価でいうと一石一斗弱という感じでありまして、それからすると六万円くらいでしょうか。

 

 

旅籠賃が一泊百八十文と、この人の日記にあるので、これを今のビジネス・ホテル代五千円と等しいと考えますと、八十五匁は約十五万円くらいに当たります。

 

 

いずれにせよ、付録とも全十一冊の書物代としては、かなり高いわけです。

 

 

しかし、これは趣味の本ではなく、実用書ですから、ぜひ欲しかったわけでしょう。

 

 

この 『農業全書』 は、元禄に発行されて以後、享保、天明、文化、安政に版が重ねられています。

 

 

ある意味でベスト・セラーでした。

版元は、京都の小川多左衛門という人物です。

 

 

この人もなかなか面白い人で、『農業全書』 がたいへん高い本なので、これを多くの人が買うことができないことを見ると、もっと安くて、実用的な本をつくろうと考えます。

 

 

これが、『一粒万倍穂に穂』 という本です。

これも天明、寛政、文化、安政の各版があります。

 

 

この 『一粒万倍穂に穂』 というのは薄い本で値段も 『農業全書』 の

十分の一くらいでしたでしょう。

 

 

つまり親版のダイジェストか、いまでいう新書版といっていいでしょう。

 

 

これを書いた人は、福山藩の隣にある備中国小田郡出身の川合忠蔵という人で、この人物は福山藩の塩田を開発したり、庄屋をつとめたりした人です。

 

 

のちにこの人の墓碑に管茶山が一文をよせているので、二人は親交があったものと思われます。

 

 

また福山藩侯の推薦をうけて京都で儒学を学び朝廷にも出入りするというような人です。

 

 

また、『一粒万倍穂に穂』 のさしえは円山応挙が描いております。

 

 

 

 

 それから、もう一つ、もっとも北限の農書である 「津軽農書」 について少し話しましょう。

 

 

津軽は日本列島ではもっとも厳しい条件下の農業生産ですので、よく凶作とか飢饉では登場するのですが、ここでも農書がかなり残されています。

 

 

ここの農書もやはり最初のものは元禄十一年のものでございまして 

『耕作口伝』 というのがあります。

 

 

つぎに、安永年間の 『農事聞書』 と 『耕作噺』。

 

 

『耕作噺』 というのは古老の話という形で、口語文で書かれた非常にユニークなものです。

 

 

それから幕末期の 『耕作古老伝』 、『案山子』・・・・・。

 

 

いま五点ほど挙げてみましたが、聞き書とか、口伝というスタイルのものが多いわけでして、著者というより編集者の作った本というのが津軽の農書の特色です。

 

 

ですから 『古津軽農書』 には、もっとも条件の厳しいところで生産を営んだ人物たちの衆知を集めたいという姿勢が、如実にあります。

 

 

そして 『農業全書』 も持ち込まれて、かなり読まれております。

 

 

 このように農書が全国各地に登場し、農書の技術が近世農書から明治農書というかたちで伝わって行きます。

 

 

明治三十年代に”乾田馬耕”といいまして水田を暗渠排水して乾田化し、そこに馬や牛を入れて鋤を使う。

 

 

そして、裏作をやりはじめ、これを明治農法と呼んで画期的なものとする評価もあります。

 

 

しかし、それはある意味で過大評価ではないかと考えています。

 

 

むしろ、江戸時代につくられた農書の技術にもとづいて、幕末期から明治四十年ぐらいにかけて各地で、”老農”      これは老人という意味ではなくて、精農という意味の尊称ですが     そそういった老農たちが

技術改良を行います。

 

 

そういうものの方が、より大きな意味を持っています。

 

 

農商務省あたりが外国から農業教師を呼んで技術改良に精を出すのですが、そういったものは最終的には あまり根付きません。

 

 

 

 

 それから、農書の一分野の蚕書というものがあります。

 

 

養蚕に関する本で、わが国最古の養蚕書といわれるのは、元禄十五年

(1702年・赤穂浪士討入りの年・人差し指)の 『蚕飼養法記』 です。

 

 

それから、もっとも代表的な養蚕書は、享和三(1803)年に成立した 『養蚕秘録』 です。

 

 

そしてこの 『養蚕秘録』 が わが国初の”技術輸出”になります。

 

 

つまり1848年にフランス語訳されまして、フランスの養蚕界にかなり影響を与えているのです。

 

 

養蚕に関してはかなりの技術のレベルを日本の近世社会が持っていたということが はっきりわかります。

 

 

                                    

 

 

「 この刺激的な眼 草柳大藏歴史対談集 」

草柳大藏 (くさやなぎ だいぞう 1924~2002)

有限会社 ワイエス出版 平成6年12月発行・より

 

 

~農耕民族日本人の魂~ 筑波常治 (つくばひさはる 1930~)

 

 

 

 

草柳 そういう意味でも、筑波さんのご本 (『日本の農書』中公新書) 

    はとてもおもしろい。

 

 

    どうして日本の中で近世から農学が始まったか、農業に関する本が

    書かれたか、あの中で、ぼくが胸を打たれたのは、武士が農業を

    やることになって鍬(くわ)の持ち方、苗の植え方などすべてゼロから

    始める。

 

 

    ふだん、民百姓(たみひゃくしょう)といっていた連中から教わらなければ

    ならない。

    この屈辱感といったら・・・・・(笑)。

 

 

筑波 ああ、宮崎安貞のことですね。

 

 

草柳 そう、そう。

 

 

筑波 江戸時代になると日本の各地で農書というのが出てきます。

 

 

    もちろん数からいうと豪農や庄屋さんの書く本が多い。

 

 

    しかし、そういう本は、ほとんど限られた地域、つまり庄屋さんの

    支配している村に関してです。

 

 

    他所(よそ)のことには口を出さないのが農民の守るべき 「分」 でし

    た。

 

 

    ところが安貞は武士ですから天下国家を論ずる立場にいて、初めて

    日本全国に通用する農業の基本書を書いたわけです。

 

 

草柳 うん、なるほど。

 

 

筑波 安貞の書いた 『農業全書』 は、明治以前では日本における最高

    の農書という評価を受けているんです。

 

 

    彼はサムライであったのが挫折してほかに生きる道がなくて、農民

    の仲間入りしたわけで、武士としては中級でした。

 

 

    しかも当時は無名ですから、現在でこそ農学史上の人物と見られて

    いても、伝記や出生などほとんど分かっていません。

 

 

    しかし、彼の農書をよく読んでみますと、断片的な言葉の中から彼

    の思想や考え方が、おぼろげながら見えてくるんですね。

 

 

    彼は、「拙者は武士だ」 という意識を捨てていないんです。

 

 

    たとえば農民に向ってつねに 「土民」 と呼んでいます。

 

 

    「吾(われ)土民を友として・・・・」 なんて書いています。

 

 

    「友として」 という言い方は、自分が土民であるという言い方じゃな

    いんですね。

 

 

    また、一般の土民がいかに知識がないか、だから自分は土民たち

    を啓蒙してやるんだって。

 

 

草柳 ほう、おもしろいですな。

 

 

筑波 武士として生涯をつらぬいた者は、教養はあっても農業の実際を

    知らない。

 

    その教養を身につけながら、農業を体験している自分以外に啓蒙

    できる人間はいないんだと、そこには武士を失敗した劣等感という

    か屈辱感       

 

 

草柳 コンプレックスですね。

 

 

筑波 そう、それが裏返しになって彼の仕事の支えになったんですね。

 

 

    本来なら武士であった昔のことを忘れかねていると、新しい境遇に

    適応できず たいてい駄目になっちゃうんですが、彼の場合は、

    忘れかねたことがバネになって 『農業全書』 を著すことになった。

 

 

    そういう意味では、幸運だった人ですね。

 

 

                                       

 

 

昔の農民は本だけではなく、行商人からも様々な農業改良の情報を得ていました。2018年12月12日に昔の行商人の情報力と題して加藤秀俊の文章を紹介しました。コチラです。

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12424015083.html

 

 

 

 

                奈良・東大寺二月堂の夕日 9月17日撮影