「 暮らしの世相史 」
加藤秀俊 (かとう・ひでとし 1930~)
中央公論新社 2002年11月発行・より
「あきんど」 は珍重されるべき異界からの使者だったのである。
そのことは神崎宣武の 『わんちゃ利兵衛の旅』 をよんでみれば、よくわかる。
この書物の主人公になっている利兵衛は明治末から平成のこんにちまで瀬戸物をもって全国に旅をつづけてきた行商人だが、かれは旅先でつねにあたたかく迎えいれられた。
とくに島根県などでは民家に一夜の宿を乞うと、ほんらいお礼を出さなければならないのに、いっさい受けとってもらえず、逆にかなり大量の商品を買ってくれる。
さらに親類縁者にまで声をかけて、利兵衛のもっている瀬戸物の販売を手つだってくれたりもする。
数日間滞在しても礼金は拒否され、出発時には弁当までつくってくれる。
いうなれば、かれは家々の 「賓客」 なのであって、けっしてあやしげな放浪者ではなかったのだ。
それというのも、こんなふうに村をあるく行商人たちがたんに商品を販売するだけではなく、いや、それ以上におおくの情報をはこぶメッセンジャーだったからだ。
そして、そういう情報業者としての行商人の役割をあざやかにえがく実例がたくさんのこされている。
たとえば、明治三十二年(1899)三月、山形県の米沢付近に富山から薬の行商にきていた青木伝次は塩井村の大木長吉という農民の家に
一夜の宿を乞うた。
イロリをかこんでの世間話のなかで話題が田おこしにおよび、大木が一日にせいぜい五畝しか耕せない、というと、青木は、それはすくなすぎる、
富山では一日に二反は耕す、と答える。
この生産性の格差は、当時、山形ではまだ人力で田おこしをしていたのに対し、富山では馬犂(ばすき)を導入していたからだ。
大木のつよい関心にこたえて、青木は富山式の馬犂技術を紹介しよう、と約束し、翌年の旅のときにはちゃんとその約束をはたす。
そればかりか、かれは富山式の馬犂を改良してのちに 「塩井式」 とよばれる農機具を開発し、かなりの期間、この村に滞在してその使用法をおしえたのである。
いいかえれば、塩井村のある山形県置賜(おきたま)地方に馬力による耕作が導入されるようになったのは、その土地の農民とひとりの行商人とのささいな会話からだったのだ。
この青木の功績を記念して村人たちは薬師堂に報恩碑を建てた。
その石塔はいまも健在である。
この事例を紹介した八木洋行によれば、冨山の薬売りは、置き薬というほんらいの行為以外に農事についての情報や技術を村々に普及させる力をもっていた。
かれらはレンゲの肥料効果を説き、米の品種改良をすすめ、そのしごとはいうなれば農業コンサルタントのごとき一面をもっていた、といってよい。
そして特記すべきことは、かれらが売薬という商売では当然の対価を要求するものの、こうした付加価値的情報についてはいっさいの経済的請求をしなかったことだ。
もちろん、例外はあっただろうが、農事のアドバイスなどはことごとく薬を売るための手段であって、けっして別途の有料サービスではなかったのである。
青森県の津軽地方には結婚の仲介あっせんをしていた行商人の事例ものこっている。
(略)
嫁さがしをしている家があれば、どこそこの村にこういう娘がいる、と情報を提供し、婿さがしをしている家には他村の若い男性についての話を耳うちする。
こんなふうにして商品以外の、そして商品とはまったく無関係な情報を持ちあるき、その情報力によって商品を売る、というのが行商人文化というものであった。
おなじような事例は九州博多にもある。
この九州最大の都市で青果の行商をしていた通称つんちゃん という人物は、都市内のあちこちの町をあるいて目ぼしい女性たちのリストをつくり、「嫁別品競」 という美人番付をつくった。
明治二十二年(1889)のことである。
青葉台公園(埼玉・朝霞)にて11月21日撮影