参考資料745 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

神なる救世主に対する裏切り
「予言にはいくつかの種類があるが、次の、“神なる救世主”に対する裏切りについての予言を紹介する前に、そのうち二種類についてだけ説明しておこう。まず第一は、予言者が幻を見るか、声を聞くかする場合。そして第二は、声を発する存在が、最高の地位にある者に語りかける場合である。
 イスラエル王ダビデは、声を発する存在、つまり“主”が最高の地位にある者にじかに語りかけるという、第二のパターンの予言を数多く受けとった。これから調べるのは、そのような予言である。
 ゼカリヤは“神なる救世主”に対する裏切りを、その出来事が起こる五百年以上前にこのように予言した。

 わたしは彼らに言った。「もしお前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい」彼らは銀貨三十枚を、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを陶器職人に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を」わたしはその銀貨三十枚を取って、主の神殿で陶器職人に投げ与えた。
ゼカリヤ書 11章12,13節

 キリストが生まれる五百年以上前に、“神なる救世主”に対する裏切りに関して、三つのことが予言されていた。
① 裏切りに対する正確な報酬額(銀貨三十枚)。
② その報酬が《陶器職人》に《投げ与え》られること。
③ 投げ与えられる場所が《主の神殿》であること。

 だれだってばかげていると思うはずだ。分別のあるラビ(ユダヤ教の律法学者)なら、語句を変えて、意味が通るようにするのではないだろうか?だが、またしても、だれも予言者の記述を書き換えようとはしなかった。もしもイエスがみずから唱えるような者なのだとしたら、裏切りに遭ったとき彼の身にこれらのことが起こらなければならない。
 では、イエスに対するユダの裏切りにつづく出来事の記録を読んでみよう。

 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決がくだったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
 そこで、ユダは銀貨を〔主の〕神殿に投げ込んで立ち去り、首を吊って死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
マタイによる福音書 27章3~7節

 またしても、予言がなされてから五百年以上たってから、とうていありえないような予言が寸分たがわず実現してしまったのである。
★ 報酬額は、予言者が述べたのとまったく同じだった。
★ 予言者が言ったとおり、銀貨は主の神殿に投げこまれた。
★ けっきょく、その金は《陶器職人の畑》を買うために使われた。
 興味深いことに、銀貨の使い道となった《陶器職人の畑》は、古代の予言者の時代にはそう呼ばれていなかった。ゼカリヤは、その金がどう使われるかだけではなく、四百五十年以上たってからつけられる畑の名前まで予言していたのだ。
 残念なことに、宗教画はユダの見かけについての誤った印象を人びとに植えつけてきた。《最後の晩餐》に描かれた、ほかの弟子といっしょに座っているユダは顔立ちの醜い男である。また、ほかの使徒には後光がさしているが、ユダにはさしていない。実際のユダはイエスに愛された弟子であって、弟子たちのあいだでとびぬけて世俗的な人物だったわけではない。もしもユダが絵に描かれたような醜くて性格の悪い男だったとしたら、弟子たちが《主よ、まさかわたしのことでは》と訊いたことと矛盾してしまう。後光のさしていない、醜い小男がひとり混じっていたのなら、すぐさま“ばれて”しまったはずではないか。
 ユダは伝道のあいだずっとイエスにつき従っていた、師に非常に近い弟子であって、けっして背信行為を働くことを予想させるような男ではなかった。もっとも、もちろん、事件の千年以上前に書かれた、救世主に対する裏切りについてのダビデ王の予言を読んでいれば、話は別だ。次の予言は、声を発する存在が最高の地位にある者に語りかけた例である。

 わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足げにします。
詩編 41編9節

 当時の人びとは、このせちがらい現代に住むわたしたちよりも、はるかに友情を大切にした。友情の厚さを示すために大盤振る舞いをする習慣があった。にもかかわらず、イエスを裏切ったのは彼の親しい友人であり、しかもいっしょにパンを食べている最中のことだったのだ。これが偶然だろうか?
 ダビデ王の予言をまとめると、次のようになる。
★ 神なる救世主は、親しい友人としてつきあってきた者に裏切られる。
★ 裏切りはその男が救世主のパンを食べているときに行われる。
 その両方が、史上最も謎にみちた人物の身に起こったのだ!」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
やはり、聖書預言はシンクロニシティー程度である事の証明だね。「陶器職人に投げ与えた」と「「陶器職人の畑」という名前の畑を買うために使われた」では全然違うものね。
そもそも「もしお前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい」をユダの裏切りとする所からおかしい。
ただし、シンクロニシティーとしては見事だね。

>わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足げにします。
詩編 41編9節

これも「裏切りはその男が救世主のパンを食べているときに行われる」と受け取るのはおかしくない?このパンはキリストによる恩恵みたいな意味じゃないの?ユダはイエスを売っても「威張って足げ」にはしていないんじゃない?「終わりの時」の救世主に起こるのかもしれないね。

おまけ