藤原中納言山蔭を再考する その3 光る君へ | 近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

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近江八幡で寿し割烹と日本料理を楽しむお店「ひさご寿し」

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(京都・吉田神社内にある末社「山蔭神社」藤原山蔭を神として祀る)

 

庖丁式の始祖とされる藤原山蔭、本当のところ庖丁式を創始した記録はみつからない。

 

前回までのこのテーマで記してきた通り、藤原山蔭は藤原北家とはいえ、本流から離れた傍流下級貴族三男としての生まれである。はなばなしく同時期に朝廷政治の中心で活躍し、後の五摂家となる本流の良房や基経に比べると、日本政治史で特筆される事績を残したという事もない。

 

はっきりしている事は、清和天皇の立太子前、8歳の親王時代より近侍として支え続け、近衛という役職から離れても、清和天皇の信任厚く、崩御近くの行幸にもわざわざ従っているという事。働き盛りの時には昇進もなく、いざ朝廷の要職に任ぜられても、わざわざ辞退をしてまで清和天皇を近侍で支えようとした。しまいには朝廷内の要職を固辞することもできなくなり、譲位した清和上皇の別当として兼務するまでになる。清和法皇崩御後も陽成朝、光孝朝ではさらに位階を上げ、要職に任ぜられながらも、政争での登場はなく生涯を終えている。

 

この事から、朝廷内の権力闘争からは少し離れたところにいる藤原山蔭という人物の、誠実さが垣間見えるのではないだろうか。

 

 

  藤原山蔭と藤原道長

今年のNHK大河「光る君へ」は紫式部が主役、準主役は藤原道長という人間関係ドラマの様相である。

 

藤原道長といえば日本史でぜったいに習う、いわゆる平安時代を代表する藤原家絶頂期のメインキャラクターである。

 

道長にとって、藤原山蔭は母方のひいお爺さんである。

 

 

2人は100年近く生きた時代が違うため、道長は直接山蔭に出会ったことはないのだが、道長の母・時姫はむろん道長の曾祖父・山蔭について、幼少の道長に説いていることは自然な道理だろう。

 

ちなみにNHK大河の時姫役は、レジェンド声優・三石琴乃さんである。セーラームーンだのエヴァンゲリオンだの有名どころの作品で主役の声役の人。ある意味見ていて面白い。

 

道長の母方の出自は、山蔭亡き後どのように影響したのか。

 

 

 

  摂津・総持寺創建

摂津国は現代で言う大阪・神戸にまたがるエリアで、関西人ではなじみのある「阪神間」という沿線とその山側、大阪府北部あたりの事で、都からみて瀬戸内航路と山陽道へのアクセスラインである。

(山蔭が登場する「長谷寺観音験記」を想起させる亀が台座に)

(西国三十三観音霊場、22番札所、総持寺本堂。亀にのった秘仏の観音様が本尊)

 

藤原山蔭は、清和朝から陽成朝の仕事ぶりの結果なのか、光孝朝にかけるところで重要な知行国が多く与えられている。

 

備後・伊予・美濃・備前・肥後・播磨などなど。

 

これらは軒並み瀬戸内利権のエリアばかりである。遣唐使が廃止される894年までは、海外・国内交易収入が相応にあったとみるのが妥当だろう。また美濃は中世には近江国に次ぐコメの収量があった地域。これらを総合すると、藤原山蔭は政治的な権力と朝廷での位階としては藤原北家本流におよばずながら、経済的には中流貴族を超えたステータスへと到達していたことは安易に想像される。

 

そして元々摂津は山蔭の祖父代からの知行国としての縁があり、息子の藤原中正も摂津守である。

 

総持寺の創建において、山蔭ファミリーの根本居地で、交易ルートの要所・摂津であったことは、至極当然のことだっただろう。

 

 

一方、この総持寺創建にかかわり「長谷寺観音験記」と「今昔物語集」という中に藤原山蔭が主人公の物語が描かれている。他にも「和州長谷寺観音験記」「平家物語」にも類似の説話が記されている。現代まで、絵巻物と合わせて語り継がれているものである。

 

これらは「観音菩薩の化身と報恩」というところに共通点がある。総持寺の本尊・千手観音、京都・真如堂にある新長谷寺の十一面観音、どちらも山蔭が観音菩薩の恩に報いる、という事で開基・創建されたと伝わるものである。話の中身は、海の中に落ちたところを亀に助けられた、というおとぎ話的になっているのは、後世語り継ぎやすくするためのものだろう。

 

かくして、藤原山蔭が総持寺、そして新長谷寺を創建した理由は、「命を救われた観音様への恩返し」というのが伝承されてきたのである。

 

 

  平安時代の最新科学

 

時はまさに平安時代の密教全盛期。

 

現代人の知り得る科学から見れば、神や仏は目に見えないスピリチュアル的で観念的、ある意味非科学的なものの象徴といっても過言ではない。だが、目に見えない何かをどうにかしてとらえようと、当時のスーパー知能者たちが必死に取り組んで実践していたのが、「密教」なのである。

 

 

山蔭が生涯の中で最も長く、そして誠意をもって仕えた清和天皇。日本の歴史上初の幼帝即位に際して、父・文徳天皇、母・藤原明子、そして藤原明子の父にして時の最高権力者であった藤原良房とともに天台座主・円仁から菩薩戒灌頂を受けている。これは、当時最先端科学だった密教をもって、鎮護国家のために天皇を菩薩戒灌頂によって菩薩の化身たらしめんと、大真面目に取り組んでいるのである。天皇の菩薩戒灌頂は、亡き空海が平城・嵯峨・淳和の三帝に対して与えている先例がある。空海・最澄亡きあと、彼らに変わって天皇に灌頂を授ける事が出来るのは、当時円仁が密教界において最高位であったことを意味する。

 

 

父帝と母、そして最高権力者から一身に期待と希望を受けた清和幼帝。9才から32才で亡くなるまで近侍として仕え続けた山蔭にとって、総持寺と新長谷寺は、山蔭よりもずっと若くして亡くなってしまった清和天皇を思い、鎮魂や祈りのために開基・創建したとみるのが人間らしく自然なのではないだろうか。

 

ゆえに、総持寺の開基・創建年は清和天皇崩御の年、876年なのである。また新長谷寺についても同様に、清和天皇崩御後に京都での山蔭邸宅があった吉田神楽岡に882年頃に創建された。根拠地の摂津と都に二つ同時に、密教により菩薩の化身とされた清和天皇に重ね合わせるように、観音菩薩像を安置し、清和天皇を想ったのかもしれない。

 

 

  山蔭死後の総持寺と新長谷寺

 

後世になって山蔭流は絶える事となる。

(ゆえに、藤原山蔭は家門・家流として「四条家・四条流」とは本来は関係が無かった)

 

だが、先に記したように山蔭の女系子孫には、ひ孫にあの藤原道長がいる。道長は総持寺と新長谷寺において、特に主体的な何かをした形跡がない。ではなぜに今なおこの二ヶ寺はしかと残り、そして藤原山蔭を開基・創建として伝える事が出来たのか。

 

それは道長の4歳姉、東三条院(藤原)詮子の事績が一つである。

 

NHK大河「光る君へ」では吉田羊さんが演じる。個人的にも好きな女優さんなので目が離せない。

 

 

藤原詮子もまた山蔭のひ孫であり、彼女の生んだ皇子が一条天皇となる。皇母となった詮子は絶大権力者の弟と天皇に対して、姉、そして母として物申すことができる立場となり、実際の人柄はさておき、時代における影響力がもっとも大い女性であったことは想像に難くない。

 

そんな彼女は総持寺と新長谷寺再興をした、と伝えられる。再興と伝えられているところからすると、100年過ぎて寺は廃れていたことがうかがい知れる。

 

だが、一条天皇によって総持寺は天皇の御願寺となった。あきらかに皇母・詮子によるところが大きいだろう。

 

 

山蔭たちが生きた時代から100年を超えて、皇母・詮子の時には強大かつ巨大権門となっていた比叡山延暦寺。天台宗内は天台座主と受戒の特権をめぐって、権力者道長を含め朝廷も巻き込まれてドロドロの山門寺門の争い真っ最中だった。

100年以上前、世の平安を願い、文徳天皇・皇后・9歳の惟仁親王(清和天皇)・太政大臣藤原良房らみなみなにそろって円仁から菩薩戒灌頂を受けた。円仁が生きていたら、さぞ嘆くことだっただろう。

 

(詮子が延暦寺西塔内の阿弥陀仏を移したことに始まる「真正極楽寺」、通称・真如堂。まさに山門寺門の争いが始まった時代のことだった。)

(真如堂の本堂。遠景なので大きさが分かりにくいが、総持寺本堂の倍ほどのスケールであり、整然、端正、凛とした風格は、圧倒というよりもどこまでも「真正」という名にふさわしい。)

(江戸時代末期に建てられた三重塔も端正さが際立つ。真如堂は三井財閥となった三井家の菩提寺であることも、三重塔建立に関係するだろう。)

(ひっそりとたたずむ真如堂境内の中にある新長谷寺。もともとは吉田神楽岡の山蔭邸宅跡付近にあったが、神仏分離令により移された。)

(秘仏ではなく、だれでも新長谷寺の十一面観音像を拝むことができる。洛陽三十三所観音霊場第5番札所。)

 

 



皇母・詮子は、曾祖父山蔭らの時代ように皇・臣・僧そろった皆の誠実な祈りを再興したかったのかもしれない。

 

 

だが天台宗は絶大なパワーをもちながら、内外で混沌を極めた。まさに末法思想を体現するままに。

 

 

 

そして藤原絶頂期も永遠ではない。院政期・源平争乱・鎌倉・南北朝と時代を経ながら、やがて、総持寺と新長谷寺は藤原山蔭流が摂津を知行した時代を遠くに過ぎ、山蔭のかすかな記憶を乗せて次代に伝える事となったのである。

 

 

 

 

ここまで見てきたが

平安時代の藤原絶頂期にあった山蔭のひ孫たち、道長、詮子ら姉弟においても山蔭が神格化されるほどの特筆される理由は見当たらなかった。

 

では藤原山蔭を神格化したものは何だったのか。

次回吉田神社と山城吉田神楽岡という場所、そして吉田神道をひも解いてゆきたい。

 

 

 

参考:

官人としての藤原山蔭
中本 和

 

神佛習合より見たる上代佛教の宗派的性格
伊野部重一郎
 (高知大学文理学部・歴史学研究室)

 

天理大学附属天理図書館蔵『新長谷寺縁起』
The “Engi” Document of the Sinhase Temple belong
to the Tenri Central Library : A Transcription
日沖敦子

 

受け継がれる山蔭像
流布本系『鉢かづき』を中心に

日沖敦子

 

藤原山蔭関連寺社縁起二種
国立歴史民俗博物館蔵『久修園院縁起』
福岡県八女郡大光寺蔵『飛形山大光寺縁起』
日沖敦子

 

『総持寺縁起絵巻」の成立と意義11 常称寺所蔵絵巻を中心に

日沖敦子

 

山蔭中納言と天の羽衣
山岡敬和

 

鵜飼と明石の君

貴種をめぐる狩猟文芸史の視座から

野谷健

 

清和天皇の受菩薩戒について
河上麻由子

 

伊勢日記私注
松原輝美

 

今様起源譚の展開
中世聖徳太子伝から

植木朝子

 

山蔭中納言説話の成立
『長谷寺観音験記』の場合
星田公一