近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡で寿し割烹と日本料理を楽しむお店「ひさご寿し」

料理長のかわにしたけしが料理のことや、近江八幡のこと、営業日誌などを徒然なるままに書いとります。

 

(臨済宗永源寺派大本山 永源寺の典座寮 いわゆる厨房にあたる)

 

日本料理文化のイレギュラー「精進料理」。

 

 

  精進料理の生まれたころの世界へ

精進料理は、鎌倉時代の初期に日本に伝わった禅の思想と哲学が投影されたものであることは「精進料理は古臭い料理」でつづった。

 

鎌倉時代初期の日本で何故に禅の哲学が持ち込まれ、そして日本で広がってゆくのか。鎌倉時代は浄土宗・真宗・日蓮宗といった現代にも大きな宗徒をもつ日本仏教各宗がうまれた時代でもある。

 

禅と日本の食文化がどのように結びついてゆくところを掘り下げてゆく。

 

 

鎌倉時代の初期、源平争乱から源頼朝が武家政権として初めて日本全土を掌握し鎌倉幕府をひらいた事はよく知られるところではある。また、鎌倉新仏教のことも学校で教える歴史のあらましだろう。

 

この頃世界と日本はどのように繋がっていたのか。

 

 

  日本料理のハード形成

 

平安時代、

鮮卑族系王朝食文化の影響を受けて成立した宴席・饗応のための料理、「大饗料理」。中央集権の権力者の料理。貨幣経済発達前の現物経済の時代である。自由な資本移動が起こりにくいため、限られたローカル物産の中から選りすぐられた食材による、権力者の贅沢料理が食文化として記録される。その時代を生きる当人たちにとってはある意味究極の美食形態ではあるが、実際の料理は炙り焼・羹(あつもの)・鱠(なます)・干物という酒肴に、蒸米が主食の位置にある。現代と比して未発達と言っていい。

 

 

一般民衆の場合はというと、美食や贅沢を考えるよりも、自然災害、疫病、飢餓、そうした厄災と生死についてのほうがより生活に密着している。天皇や藤原長者であったとしても、食への関心よりは、哲学思想や権力闘争と政治基盤整理に対するパワー注力が大きい。吉田神道、密教、修験道、陰陽道、西国三十三霊場、平等院、南都北嶺、蝦夷、奥州などなど日本文化に深く突き刺さっているキーワードは、この時代に生きた人々の影響がおおきい。「秀衡椀」と呼ばれる日本料理の代表的な漆器のデザインは、奥州藤原氏の栄華に始まっている。

(近江軍鶏と信長葱の治部煮秀衡椀 atひさご寿し)

 

 

大饗料理の台盤や箸、漆器のデザイン、食材の国内物流と物産のリストアップ、公家と武家のすみ分けや法整備といった統治機構の進展、独自の文字などなど、日本文化を織りなすパーツがどんどん増えてゆく。

 

これらは全て日本の食文化のハードとなってゆくものである。

 

食器、食材、調味料、国家支配権力構造、記録方法。

 

鎌倉時代に禅宗が広がる前夜、精進料理がフォーマットされる準備が整ったという感じだろう。

 

  禅宗がもたらした日本経済発展

 

鎌倉から室町時代、

奇しくも欧州における「ルネサンス」と時期を同じくして、日本の経済発展と文化変革が起こる。

 

 

文化的な大きな変化としては、民衆へ仏教の浸透だろう。

鎌倉新仏教として一般民衆の間で爆発的に広がるブッダの言葉たち「浄土宗」「真宗」「日蓮宗」。

 

神仏習合、密教、古神道のような神秘的呪術的で貴族的・上昇志向的な一部の宗教思想から、一般民衆のだれもが思考できる救済の宗教思想が求められ伝播してゆく。

 

 

では精進料理の発生に関わる禅宗はというと、日宋貿易と交流によって栄西がまず伝えた。「臨済禅」と「抹茶」。そして曹洞宗を開く道元へと続く。時代が下って江戸時代にも「黄檗宗」が開かれるが、まあとりあえずはおいておこう。

 

(禅と茶の湯を世界に紹介した代表的な二作、鈴木大拙「禅と日本文化」、岡倉天心「茶の本」)

 

日宋貿易が伝えたのは南宋の豊かな文化と経済、科学である。

意外なことかもしれないが、南宋がモンゴル帝国に滅ぼされたのち大元帝国なったチャイナも、変わらず日本と貿易している。超大国「元」の経済にとって日本から産出される鉱物資源、金・銀・銅・水銀などは、帝国の金融政策としてマネタリーベースを支えるために必要不可欠だったからだ。また、南宋が滅んで元となったとはいえ、南宋だった地域の豊かな経済と文化は失われてはいないわけで、日元貿易においても南宋文化と銅銭はもたらされ続け、禅宗が担った役割は大きい。

 

鎌倉・建長寺や京都・天龍寺の貿易船は記録に有名。

 

 

経済はいつの時代も政治の行方を左右する。そして、新しい知識と科学は旧態依然としたものを徐々に変えてゆく。IT革命がわかりやすいだろう。

 

 

平安末期では荘園領主である公家と南都北嶺が経済を押さえている。これに対して後三条院や白河院は現物経済の泉源である荘園を整理して権力の掌握にかかったが、院政の終焉に向かって武家が荘園領地と経済力を取得してゆく。初期の鎌倉幕府の経済統治システムは、現物経済と荘園をもつ特権システムがまだまだ存在。

 

武家は「御恩と奉公」とよばれる武士の給与というか恩賞が荘園土地支配権というシステム。当然の話だが、配給したり分割相続が続くと土地が無くなり経済崩壊が見えている代物である。

 

だがしかし、日宋貿易の進展による宋の銅銭は徐々に日本の市場に流入し、いよいよ日本の貨幣経済の幕開けへとつながる。源頼朝の妻・北条政子にも重用された臨済宗の開祖・栄西はもともとは天台宗比叡山で得度したが、のちに南宋へ留学し、臨済禅による思想哲学の立て直しを志し、建仁寺を建立。京都五山、鎌倉五山などが公的に格付けされ、禅院は日本の新しい哲学思想として、そして公的権威として確たる地位を得る事となる。

 

これは、禅の哲学思想が武士にとって共鳴共感しやすいものだったこと、そして禅僧のもつ数学的知識や舶来の新しい科学知識が貨幣経済の浸透にとって優位であったこと、さらに禅寺の国内外ネットワークが情報と物流の両面で流れを作っていたことなどが重要な要素であると思われる。

 

つまり、禅僧・禅寺・禅の教えは政治経済の支配力をアップグレードさせるインテリジェンスであったのである。

 

また、白河天皇の有名な言葉にあるように「山法師」と呼ばれた輩、強訴を繰り返す既得権益勢力の南都北嶺らを政治に介入させたくない意志が見て取れる。

(山王総本宮日吉大社。中世、比叡山延暦寺の守神の威光として、神人・山法師たちが神輿をかついで強訴という政治介入を繰り返した。photo by斉藤文護)

 

 

 

鎌倉中後期、

一時鎌倉幕府は宋銭の使用に制限をかけ「緊縮財政政策」をとるのだが、貨幣の利便性と需要に押し流され、土地の売買にも貨幣が使用されるまでに広がる。様々な社会活動に対価として貨幣が支払われるようになることでいよいよ民衆にも経済力を持つ者が生まれ始める。現物経済から貨幣経済への移行。物々交換にまず貨幣が利用されるという事は物流業の発展、本格的な商人の勃興である。

 

こうなるといよいよ実力社会である。個人の才覚によって経済力を伸ばし、武装し、幕府権威に因らない勢力が生まれ始める。「悪党」の登場である。

 

中世の悪党というと楠木正成が有名であるが、要は中央政権の権威や支配に因らない実力を持ち、行動に武力行使も辞さないものである。現代であればヤクザですら反社的武力は抑え込まれている時代。鎌倉から室町にかけて、日本はめずらしく本当の実力社会が生まれた時代である。

 

 

貨幣経済の発展は、いよいよ支配者に総合力を求めることになる。血統、伝統、武力、宗教、そして経済。

 

実力社会において奢侈を尽くすのは権力者のステータスである。そんな時代になぜ「精進料理」は発生し地位を得ることが出来たのか。

 

次回はやっと「美食」と「精進」の本懐にふれるとしよう。

日本の文化変革である。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(近江神宮饗宴祭 熟饌の神饌。平安の様式を残している盛付けたち。)

 

美味しいは素晴らしい。

だが欲望の資本主義は奢侈を極めようとする。
必要以上の贅沢と美食は、刺激的で脳裏に焼き付く。
快楽の美食、向かうところは貧しさと同様のドゥッカである。

禅において美食も素食も本質はおなじなのだが、残念ながらなかなかそう思えないのが人間の普通である。

ところが日本人はある時代に、食の中に禅を見出すことができた奇跡的な事がある。

 

  精進料理が生まれるまでの道のり


経済的自由は競争原理として資本集中と格差をつくる。有史来、ローマもチャイナもアラブも、そして日本でも。



格差が生まれ、経済偏差が大きくなればなるほど、食に対する奢侈もふえるものである。美食文化が生まれるには、自由経済と格差は必要なのである。美食にとって権威・権力・経済力は正義なのだ。

(山鳩のフォアグラ包みロースト atラ・クルリエール 美食文化のフランス料理)



ゆえに美食文化の発達には自由に資本取引が可能になる「貨幣経済」の発達が必要不可欠である。



しかし日本の一般民衆が経済的自由を手にするのは、世界的に見て遅い。平安時代では経済後進国、富と権利は皇室と公家に集約された封建の時代は、「平安」と言われるくらい外敵の侵入のリスクが無い時代。遣唐使廃止によって経済・国際文化交流は極端に少なくなった代わりに、国風文化が育まれることになる。



世界に前例ない「漢字かな文字まじり文」という文字文化が生まれ、和歌や文学の興隆は大いに日本人を日本人たらしめた理由になる。大いに誇っていい。次の大河ドラマ「ひかるきみ」はまさに紫式部らをとりまく平安文化のど真ん中。



そのころの日本の美食はというと、わずかな資料だけを頼りに想像の範疇をでない状態ではあるが、贅を凝らせた饗応料理を見ることが出来る。

平安時代の大饗料理の成立である。


日本においても遣隋使・遣唐使によって持ち込まれた料理文化に、あきらかに影響を受けていて、「箸」「台盤」「醤」「羹」「醤」「唐菓子」が宮中や貴族の料理に記されている。

(唐菓子の名残り「餢飳ぶと」 at奈良漢国神社)

余談ではあるが、北魏時代(386~534年)の最末期に「斉民要術」という書物が大陸では成立している。発酵調味料、つまり現在の味噌や醤のように調味料として料理の味にバリエーションを持たせるものが、レシピ・情報として記されている。また、米を粉にしてとろみをつける、今で言う片栗粉やくず粉を使った調理法がすでに用いられている。



昨今でも当時の料理は味付けの無いものであったと言われているが、料理人からしてみれば調味料が存在するにもかかわらず全く調味しないというのは不自然である。まして、斉民要術に記される料理は「羹」というとろみをつけた煮汁物の記載が半数近くほどである。とろみをつけた煮汁物にうえから塩だの醤だの酢だのを掛けて食べるというもまたまた不自然。一方、「炙」といういわゆる焼物も多く記載される。これは手元にある塩や豉、醤、酢を自分でつけて食べるという、いわゆる通説通りの食べ方だろう。


(虎魚と白芋茎の葛煮 at井政)
もろもろ料理人の合理的思考からすると、当時の料理について、羹・汁物には味付けがあったとみるのが私の考えである。

 

  大饗料理は続く

 

大饗料理。

 

お上と東宮に用意される二宮大饗、藤原大臣大饗。

 

これらは隋や唐の鮮卑族系による華北宮中料理の影響なのだが、五代十国の戦乱に入り、遣唐使廃止後は日本の料理文化もある意味停滞することになる。
 

 

平安時代の日本の食に関する記録。

先だっても書いた延喜式においてもレシピはほとんどないのだが、味噌というか醤の作り方は記載がある。

 

延喜式 大膳下

 

これが斉民要術にもある醤と全く同じではないにしても、塩と酢以外に調味料があり、そして羹・汁物が献立にある以上、味付けがあると考えるの料理人からみて自然である。

 

当時の食文化料理文化において、記録されているものを見てみる。

 

類聚雑要抄

 

これは大饗料理で台盤に乗せられる料理を細かく示しているが、藤原家家人がまじめに記録していた文書であるから、料理法については記されていない。料理法などについては内膳職・料理番だった高橋家が家文として残していたのであろう、江戸時代に高橋氏が記したものには、ほぼ同様の料理が記されている。

 

『京都御所略解』

 

平安時代と江戸時代はともに日本が太平を謳歌し、日本文化が深まる時代。600年の時代差があるにも関わらず、宮中における食の儀式は変ってないのがおもしろい。つまり、大饗料理の名残りがまだ江戸時代にはあったのだ。

 

儀式的に用意されたものとはいえ、捨てる事はなく下賜される。江戸時代では、台盤に乗ったいかにも食べないであろう盛付けの料理というか食材女房衆や蔵人たちに分けられていたようだ。

 

 

  権威≠権力と美食

 

権威≠権力

 

ここに日本料理が世界の食文化と哲学的に相違するわかれみちがある。

 

平安時代のある時から、皇室は権威だけを持ち実質権力は藤原氏ら公家に移行する。一時白河法皇あたりで院政というイレギュラーは起こるも、その後平家、源氏、北条氏、足利氏、徳川家、そして現在の立憲君主制と、実質権力は民臣が司っている。

 

皇室は権威はもてど、力は振るわず。

英国風に言うと「君臨すれども統治せず」

 

これは専門家に言わせれば「偶然」「たまたま」皇室がそういう風でいられただけである。平清盛も足利義満も織田信長も、民臣最大出世の豊臣秀吉でさえ、天皇にとってかわることはできたであろう権力をもちながら、ついにそうすることが無かった。徳川にいたっては公家諸法度などと皇室に法的拘束をかけながらも、その座を追い落としたり放逐はしなかった。だが経済力と軍事力によって得た権力者は、皇室を上回る贅を凝らし、まさに奢侈を尽くす。

 

貨幣経済の浸透と自由貿易の発達が室町の武士諸家を成長させ、まさに群雄割拠、戦国時代を生んだともいえる。武士の軍事力と経済力の成長は、陽の沈まぬ国と呼ばれた絶頂のスペインですら日本侵攻を踏みとどまらせた。

 

このままいけば、絶対王政よろしく宮廷華やかなりしブルボン王朝がごとき、はたまた満漢全席のような豪華絢爛料理様式が成り立ってもおかしくなかったのである。

 

だがしかし、鎌倉時代に発生した新しい哲学がその欲望の暴走にブレーキをかける。

 

日本の食文化における哲学革命「禅」と「精進料理」の成立である。

 

 

 

 

 

 

さて、次回は鎌倉新仏教成立から、禅が料理文化にどう作用したのかについて考えてみよう。これこそが日本料理文化の根幹たる哲学なのだから。

 

 

 

 

 

 

(本堂から見える愛染庭、重森三玲最後の作庭at福智院)

 

 

  精進料理と茶懐石

 

精進料理を作ったり食したりすることによって感得することができる日本オリジナルの思想。日本哲学。

 

しかし一般日常で精進料理をそんな事を考えて作り、そして食べている人はほとんどいない。ただ日本という方法を料理の中から見つけやすいのが精進料理だという事なのだ。

 

一方、精進料理と同様に日本哲学を料理で感得することが出来るのが茶懐石である。

 

千利休によって茶の湯が研ぎ澄まされ、千小庵以降に定まったと言われる茶道と茶懐石。茶道においては禅寺が広く関わっている事もあって、茶懐石のフォーマットは禅による日本哲学を色濃く映している。

 

 

 

  茶懐石と懐石料理と会席料理

 

茶懐石の本質は禅である。茶道はつまるところ禅を旨としているもので、茶道の一部である茶懐石もまた禅なのである。

 

この時点でちんぷんかんぷんな話で、全く料理の香りがしない。おいしそう感もない。

(一汁三菜長月 膳出し向付 土佐魳焼霜と焼甘長菊花和え)

 

 

禅は精進とともに仏法修行における要素「六波羅蜜」のひとつであり、心が揺るがない状態を指している。

 

禅の話をやり出すと話がそれそうなのでこのくらいにして。

 

 

茶懐石は料理の形式というよりは、お茶事と呼ばれるおこない全体を指していると言ったほうが近い。お茶事への招待から始まり、前日の準備、当日のしつらえ、待合いから席入り、炭の手前や掛け軸、料理、主客の交杯、後入りからの濃茶、などなどお茶事の中にはいろいろな要素とフォーマットがあるわけだが、これらすべてをひっくるめたものがお茶事・茶懐石で、茶懐石に供される料理を指して「懐石料理」、または茶懐石=懐石料理というのが「南方録」(1687年)以降のもともとのネーミングである。

 

 

 

茶懐石は料理のみをもって感じるものでは無くて、席を同じくする人みなで場を作り出す、協演作と言える。一座建立、一期一会、和敬清寂、わりと広まった哲学用語も茶懐石でよく用いられる。

 

茶懐石は長い年月を経て、とても精細にフォーマットがブラッシュアップされていて、そこに身を投じてみると、日本文化とそれを生み出す思想哲学が、ふんだんにちりばめられている事が感じられるだろう。

 

だがしかし、現代の情報化社会では茶懐石に身を投じて懐石料理を体感するような面倒くさい事をするよりも前に、「懐石料理」という名称と画像、そして映像を先に手に入れる。日本料理に関わる料理人であっても、茶懐石に関わる人は多いわけではない。作り手も食べ手も禅を意識せずに触れる「懐石料理」は単純に料理であって、美味しいかどうか、食事の享楽という一元的な世界観に終わる。

 

料理は食べておいしいものが良い。

 

(海老と鰻の蓮蒸し清汁仕立て煮物椀)

 

同じカイセキリョウリと発音する「会席料理」がある。

接待やゲストをもてなす饗応、酒を楽しんだり、仲間との会食を楽しんだりする席に出されるコース料理の事でる。

 

会席料理は中世日本で藤原家大臣大饗に始まり、フォーマットされた武家の「本膳料理」、宮中公家の「有職料理」、これら饗応のための料理をルーツにしている。中世日本では公武ともに厳然とした階位階級があり、階級意識に基づいて饗応もフォーマットされ、料理もフォーマットが進んでいたが、やはり美味しさを重視するようになって、フォーマットの簡略化、つまり「くずし」が始まる。江戸時代中期には美味しさをもって饗応する「袱紗料理」と呼ばれるものになる。やがて一般化されて料理屋(茶屋)で「会席料理」へと変容し茶懐石と区別されたものだ。つまり会席料理は食べ手が求める美味しさにコミットメントしたものであり、禅を現す茶懐石とはベクトルが異なる。

 

現代日本で広く一般的に提供されているコース料理は、たいていがこの会席料理である。いかに料理がおいしく、楽しく食事が体験できるかどうかに重きを置いている。仏法や禅と交わるというより、自由闊達に料理人と食べ手が料理を楽しむ。

 

ややこしいのは、茶懐石がフォーマットされる以前、茶の湯の席で出される料理を指して、「会食」「会席」「ふるまい」「献立」「仕立」などとも呼ばれており、「南方録」以降も江戸時代は随所でお茶事の料理を「会席」とも「懐石」とも記されている事がある。初期はともに同義であったものが茶懐石のフォーマットによって、哲学性をまとった懐石と、饗応にコミットメントした会席へと分離させようとしたのである。

 

 

 

だが現状として、茶懐石と懐石料理と会席料理は大いに混乱し、等しく「カイセキリョウリ」となりつつある。

 

 

  日本の食は正式名称「和食washoku」

 

本来、茶懐石に供する懐石料理は、禅哲学ついて体現することが出来るポテンシャルを持つものであった。しかし茶道から離れて料理のみに特化してゆく事で単純化し、料理屋で提供される「カイセキリョウリ」は禅の表現というよりは、フランス料理のオートキュイジーヌに相当する、饗応のためのハイエンド日本料理みたいな意味合いを持つものになっている。これは料理屋や料理人が仕事として茶懐石に端を発しながらも、マーケットのニーズに応えているにすぎない。おいしい料理を求めているフーディーズに禅哲学は求められていないのだから。

 

一方会席料理はそもそも成り立ちから饗応料理であり、ブルボン王朝やハプスブルク朝、ロマノフ朝など欧州貴族文化におけるオートキュイジーヌに相当していると言える。

(紀州猪のロースト、モリーユとバターの香り at hotel de yoshino)

 

こういう流れを歩んできて、懐石料理と会席料理はともに「カセイキリョウリ」として、日常食ではないハイエンド日本料理、饗応料理として現在進行形なのが事実である。

 

よって本末転倒ではあるが、茶懐石と懐石料理は区別されつつある。

 

2013年ユネスコへの世界遺産登録の際には、名称の混乱を避けるようにして、日本食文化を総称して「和食washoku」を国際的なステージに上げたわけである。だから現在、日本の食を現す正式名称は「和食washoku」である。

 

まあカイセキリョウリの定義をいまさらしてみたところで、もはや大混乱を収拾できるものでもないが、日本料理をこれから学んでゆく料理人、また日本の食文化に関わる知識人を目指している人には、グローバルな交流の際には迷うことなく和食の事実を明示出来るようにしてもらいたい。

 

(八寸 at 八寸)

 

  精進料理の重要性

(高野山別格本山福智院の朝食)

 

ここで主旨にもどって。

古臭い精進料理。

 

和食という総称の中では、風土に由来する伝統的な日本の食すべてが包括される。本膳、有職、袱紗、懐石、会席、卓袱、郷土料理や家庭料理も。料理名を挙げてゆくと滋賀だけでも鮒寿しやじゅんじゅん、いとこ豆、贅沢煮、丁字麩の辛し和えなどなど枚挙にいとまがなく、とても豊かななバリエーションを持っている。節会や直会、講など儀礼式の料理も和食である。

 

古臭いはずの精進料理。

総じて眺めてみると和食の中で最も質実で哲学的であり、日本という方法に近いのではないだろうか。

 

神道・仏教・神仏習合をバックボーンにした日本の思想哲学が顕現化した料理として、精進料理は和食の中で異彩を放っている。という風に私には見える。

 

前回のブログにも書いたが、きっと精進料理はこれからもヴィーガン的なノリで一般的には消費されるのかもしれない。だがひとたび哲学として精進料理に触れようとした人たちは、膨大に蓄積された日本の先達たちの哲学と、日本という方法が埋まっている事に気が付くだろう。

 

 

精進料理を全てを感じ取ることが出来たならば、そこに待っているのは「空」であり「禅」であり「般若」であり・・・・・

 

 

 

精進料理が生まれその後の日本がどうなったのか、もう少し書きたいので、時間がある時に進めよう。

 

 

 

引用

日本調理科学会誌 Vol. 42,No. 5,269~274(2009)

食文化研究の蓄積と今後の課題 ―調理,料理形式,日常の食生活を中心に― 江 原 絢 子

 

日本料理の歴史 熊倉功夫

 

食文化研究 No.13. 43-54 (2017) 〔研究ノート〕 会席料理形式の形成と変化  菊池ますみ

 

 

 

 

 

(江州峯友会という講の常宿、洞川温泉・花屋徳兵衛の精進料理一品、虎杖イタドリの金平。当代・花屋徳兵衛さんは修験の始祖・役行者が従えた二匹の鬼の一人「後鬼」の末裔と呼ばれる。)

 

 

  精進料理の感受性

前回のブログに書いた「精進料理が賢者の料理」と言える理由。

 

 

「貪欲さからの解放」

 

 

ミヒャエル・エンデが「モモ」に描いた時間泥棒。

アーサー・C・クラークが「都市と星」に描いたダイアスパー。

欲望の資本主義シリーズでマルクス・ガブリエルらが伝えていたこと。

 

人は大抵貪欲なもんである。

 

 

精進料理は貪欲を解放する料理である。

 

だが別に欲をむさぼることや、野心をたぎらすことを美徳と思っている人にとって大して意味のない料理ではある。

 

一方で勝者であり続ける持続可能性に、ふと疑問を感じたならば精進料理が何なのかを体感した方が良い。

 

そのためにはまずちょっとした実験を自分にしてみるのである。

 

感度を上げて精進料理に接すると、美味しいという料理の絶対正義、飲食ビジネスの趨勢というものはあくまで料理の一面でしかなくなる。

 

  精進料理を食べる前に

精進料理は一般的に広く知られていることでいうならば、肉魚を使わない、生き物を殺さずに作る料理というところだろう。

 

仏教の戒律のひとつに「殺生の禁忌」つまり生き物を殺さないというものがある。十善戒の「不殺生」。今時の科学で言えば植物も細胞をもった生物なのではあるが、動物を殺さないといったほうが正しいかもしれない。

 

近しい感覚でベジタリアンやヴィーガンという料理と生き方も広く見られるところではあるが、精進料理から得られるものはもっと面白い。

 

単に生き物を無駄にを食べてはいけないルール、程度ではベジタリアンと変わらない感覚であるが、「精進潔斎」と呼ばれる限定条件を広げたものを行うと、精進料理における感性は大きく変わる。

 

精進潔斎で限定する例は次の通りである。

 

肉・魚・動物由来の食材を食べない。これはヴィーガンと同じ。

動物由来の出汁を使わない。

葱・韮・玉葱・大蒜等香りの強い野菜を食べない。

香辛料を使わない。

唐辛子・山椒等の刺激物を使わなない。

コーヒーを飲まない。

炭酸を飲まない。

酒を飲まない。

性行為を行わない。

 

日常で1週間程度。

これはあくまで精進料理とは何なのかを、もっと体感したい人へのおすすめである。

 

  精進料理の本意

(高野山金剛峰寺塔頭・別格本山福智院。江州滋賀の真言宗徒の多くが縁者であり、有名どころでは井伊家も。近代までは江州滋賀からの真言宗徒の多くが福智院を宿坊とすることが決まっていた。)

 

 

そもそもの

精進(しょうじん)をひも解いてみよう。

 

精進料理の「精進」という言葉が意味しているところは、誠実性とその実行、である。ひどく仏教的で、料理を作る方も食べる方も料理を通して仏法を感得しようとするものである。

 

多くの日本人は日常で仏法に関りが少ない。王仏冥合オウブツミョウゴウを謳う創価学会や、新興ブッディストは別として。

 

日々ご先祖様の位牌に手を合わせて、供養の日勤をしている人も多くは仏法を修めようとしているわけではない。精進料理と先祖供養はどちらも日本仏教的行為ではあるが、ベクトルの向きは違うし、接点もない。

 

つまり現代人の多くが目の前に精進料理が運ばれてきたとして、普通は空腹を満たし、美味しさをもとめる。美食の欲求を満足させられるかどうかにおいて精進料理を評価するだろう。

 

宿坊の精進料理や講の精進料理において、調理方法や盛り付け、食事空間、食器カトラリーにいたるまで大抵は前近代から大きくは変化していない。

 

ここに「精進料理は古臭い料理」という感覚が出てくるのである。

 

 

だが、精進潔斎によって貪欲を強制終了させ、しかるに精進明けに宿坊で出される精進料理を体験すると、精進料理といえどもご馳走感と豊かさを感じざるを得ない。

 

揚げの巾着や定番の胡麻豆腐にさえ、染み渡る美味しさを感じる。

 

ひるがえって、魚・肉の美味しさや飲酒のよろこびたるや、美味しさは150%、悦びは200%といった感覚すら起こる。

 

 

胡麻のコクと甘味がじんわりと、上品な舌触りとともに口に広がる。

豆腐を作り、油で揚げ、中具の献珍を合わせて居込み、干瓢を紐として口を縛る。薄甘い出汁で煮含めたもの。畑からこの料理が仕上がるまでに如何ほどの時間と労力が必要な事か。

糸蒟蒻の胡麻酢和え。完成度の高い秀逸な美味しさ。

南瓜と吉野葛を合わせたくず餅を揚げ出しにしたもの。マーブル調に合わせた葛と南瓜の混ざり具合が、かみしめた時にいろいろな味を生み出す。フォアブルローゼが乗っているのはある意味唯一現代的だったもので、福智院が近世から少しふみだしているところが料理にも表れている。

 

 

他にも4つ膳に様々な料理が並ぶのであるが、どれも現代日本料理からみて特別斬新な技術が使われているわけでは無し、味そのものも斬新なわけでもない。だがどれも先人の知恵が絞られた料理である。経済学的に高価なわけではないが、食の知恵がそこかしこに埋め込まれている。

 

 

思い馳せずにはいられない。

 

花徳宿での虎杖も、野山から摘み取り薄皮を剥き、乾燥させて、またもどして料理する。滋味深いと感じざるを得ない。

 

 

日本の食文化には多くの加工食材がある。

豆腐、湯葉、高野豆腐、漬物、蒟蒻、乾物野菜もろもろどれにも食べる時に思い馳せる事はほとんど無い。当たり前にありすぎて。

 

日本有史約2600年、仏教伝来から約1500年、先人が繋いできた様々な食の知恵、大いに愛でようではないだろうか。

 

戻し梅干しの天ぷらとおぼろ昆布の吸物。

梅干しはもはや語るまいが、おぼろ昆布など将来貴重品になりつつある事を考えると、歴史の新旧織り交ざったこの料理にもいろいろな思いが去来する。

 

精進料理は哲学することが本意の料理。

 

日本の食文化に茶懐石以来再び日本哲学を吹き込む糸口でもある。

松岡正剛風にいうと日本という方法を料理に映す、である。

 

 

まあほったらかしにしておいても食文化は変化してゆく。いずれ精進料理もベジタリアンやヴィーガンと並列化してしまえば、日本という方法も料理界からは消えてゆくのかもしれない。形式だけの精進料理を残して。

 

 

 

次回、日本という方法が現代料理人に伝わるまで。古臭い精進料理についてしめくくりに向かおうと思う。

(高野山金剛峰寺塔頭・福智院精進料理)

 

  賢者の精進料理

ここ近年続けてやっている事がある。
大峯山登拝である。

 

特になにか新しい宗教に入信したわけでもなく、神秘主義みたいなものに興味もない。ただ知らない日本文化の体験をしているだけなのだが、これがめっぽう面白い。

 

大峯山と修験道について詳しい説明はネットでもググれば色々出てくるのであるが、殊勝な宗教心など私個人にはほとんど無いもので、本当に興味心なのである。

 

(洞川温泉・花屋徳兵衛にある仏間、中央に不動明王と神弁大菩薩こと役行者。左右はなんだっけかな?多分蔵王権現。江州奉峯会という講の常宿)

 

 

 

何にそんなに興味が湧いてくるのか。

 

知りたい。

日本のあまねく文化と食、なぜ日本人はそうやって食べ生きてきたのか?

 

そこに在るそれは、なぜ今もそこに在り続けるのか。

 

 

ちまたではやれ持続可能性とSDGsをこの8年間言い続けているのであるが、その答えは随分と昔から知られている。

 

 

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

 

鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクの言葉である。

プロイセン、ドイツ帝国を世界の5大国たらしめた人物。

 

もっと古い答えで言えば

 

「温故知新」

 

孔子の論語為政編。

 

要は、歴史や過去の情報の蓄積には現代にも通じる答えがあるから、今の自分に活かせ、という事なのだが、歴史と過去からの蓄積を、日本料理ははたして現代に活かせているのだろうか?

 

 

調理師を育成する専門学校での授業や、一般的な日本料理の教科書を開くと日本料理の変遷を紹介している。大抵は次の通りである。

 

 

平安時代に藤原長者によって饗宴のかたちが登場

大臣大饗という酒宴料理。

 

鎌倉時代に禅宗が日本に。

禅の哲学による精進料理が派生。

 

室町に入り武士の時代になると、武家にも料理番が。

本膳料理という接待料理が登場。

 

江戸時代には利休の後に茶人によって茶懐石が、

町民・町衆によって酒宴の会席料理が登場。

 

そして現代は茶懐石と会席が混濁した状態にあって、次のフォーマットが生まれるのかどうか、はたまた世界のガストロノミーに混ざっていくのか。

 

 

 

(大津逢坂・走井月心寺の「お斎」と呼ばれる精進料理)

(たっぷりの炊合せ at月心寺  ※現在はもう月心寺で精進料理を食べる事は出来ない))

 

そこで注目したいのは精進料理なのである。

精進料理がなぜ賢者の料理であるのか。

 

茶懐石も禅の哲学を投影している部分もあるとはいえ、現代において懐石料理と会席料理は混濁している事を考えると、ややこしい。という事で、禅によってフォーマット化された精進料理を料理人側からひも解いていき、日本はなぜにそのように料理して、そのように盛り付けるのか、そして日本が何を考え精進料理を今も残しているのかを考えてみたい。さらに、日本人が100年後も日本という方法を料理に投影しているのか、繋いでゆくために書き残しておきたい。

 

 

長くなるので、また。

次回「精進料理の感受性」。

 

日本料理中興の祖、庖丁式の始祖、として業界の中では認識されている「藤原山蔭」について、もっと詳しく知ろうとするシリーズ。

(山王総本宮日吉大社西本宮竃社奥 庖丁塚 庖丁納めの儀)

 

 

  光孝天皇と藤原山蔭について真贋

 

藤原山蔭が庖丁式を創始した所以は、光孝天皇の御前にて「鯉の庖丁式をして見せた」とするエピソードに求めるものが多い。我ら清和四條流においても、四條流を源流にするゆえにそれを従来踏襲してきたわけである。だが前回のブログに記したように、このエピソードは藤原山蔭の時代より約250年後、白河天皇の御前で藤原家成という人物による事績であった。

 

では光孝天皇と藤原山蔭はどういう関係であったのか。

 

光孝天皇の践祚・即位は55歳、藤原山蔭は6つ年上で61歳。

 

光孝天皇は幼い時代より聡明で周りに対してもとてもとても気配りをされる人だったとされる。傍流であったために親王とは言え、贅沢はされず自ら料理をするような人だった。ゆえに清涼殿でも薪を炊いて炊事をしていたことから黒く煤けたところがあり、そこを黒戸と言う。

 

しかしこのエピソードは光孝天皇や山蔭の死後350年程も後に「徒然草」で吉田(卜部)兼好が記したものであり、詳細はデフォルメされている可能性が高い。親王時代の光孝天皇は当時としては高齢で、控え目に言って「質素な親王」というのが大方の事であろう。朝廷内の権力闘争を繰り広げる公家たちには都合の良い人物として白羽の矢が立ったととらえられている。いわゆる本命までのつなぎ的な立ち位置だったと言える。だがこの光孝天皇系が現在の皇室にも直系としてつながっているのは事実である。

 

光孝天皇の本当の事績としては、和歌や相撲の推奨、そして鷹狩など文化的事業が今に受け継がれている。和歌については特に自身の御製もさることながら、現代の皇室においても和歌が重要なものとして受け継がれているところを見ると、功績というものであろう。

 

一方藤原山蔭はというと、先々代の清和天皇を幼い頃より崩御の時まで近侍・近衛将として支え、朝廷内では右大弁という重責を兼務する老齢の中納言である。備後・伊予・美濃・備前の4つの上国の国司として知行し、陽成朝には肥後・播磨の大国2つも知行国として追加された。これにより、自身の荘園整備や税収などにおいて藤原山蔭が経済的に大きな力を得たであろうことが容易に推察される。

 

だが光孝朝において山蔭がなにか朝廷で特筆される事績を残したかどうかについては記したものが見受けられない。

 

これらの事を整理して考えると、光孝天皇と山蔭が庖丁を儀式化したというのはやはり無理がある。

 

 

 

 

  古式にのっとるとはどの式?

 

藤原山蔭の庖丁式創始において、もう一つ根拠らしく語られるもののひとつが貞観式における関与である。古式というものに藤原山蔭が庖丁式を定めたかのように語られるのである。

 

現代に庖丁式を記事にして語られる場合、

「古式ゆかしく・・・・・」

とつづられることが多い、これの事である。

 

 

貞観式

 

年号の貞観は清和天皇の御代で、貞観式とは現代風に言うと「貞観時代にさだめた法律・規律」の事だ。

 

朝廷の弁官たちが作成し、天皇へ上奏、そして天皇の命によって施行される。

 

 

古式という法規律に藤原山蔭が「庖丁式」を規定したかのような言い回しがあちこちで散見されるが、山蔭の生きていた時代にあった貞観式という法規律作成に携わったのは8人の弁官(現代で言う官僚)で、藤原山蔭は含まれていない。まして藤原山蔭は清和天皇の近衛であって全く違うセクションである。この時点で時康親王(のちの光孝天皇)とともに貞観式作成に関わることなどとても考えにくい。

 

 

仮に光孝天皇の御代に非公式になんらかの○○式が作られたというのであれば、次に公式で定めた法規律に記載されるのではないだろうか。

 

貞観式は現存しているものがなく、その内容は30年後の延喜式へと受け継がれるので、延喜式で庖丁式と呼べるものが記載されているのかを確認してみたい。

延喜式 32巻 大膳

延喜式 33巻 大膳

延喜式 39巻 内膳

 

大膳司、内膳司は公的な祭祀などの食や、宮中の料理に関わるセクションなので内容をざっと見まわしてみたが、まずもって「庖丁」という文言すら見当たらない。まあ「庖丁」という名詞の成立についてはまた別段にするとして、書かれている事は例祭や行事において分配される米や豆や塩や味噌などの詳しい数量、同じく神社や寺に分配する数量などが中心で、朝廷が法規律として庖丁の儀式を規定したような記載は見受けられない。

 

 

 

見方を変えると、延喜式に記載されている分配物の数量規定というのはわかりやすい話である。朝廷は各地から税として資本を徴収し、公的な行事や公的機関と認める寺社へ資本を分配する。まるで現代の補助金や地方交付税のようだと考えると、もっともな内容である。

 

 

さて

このように藤原山蔭が庖丁式を創始したという説話には現時点でかなり信ぴょう性が無い。そして光孝天皇についても同じである。先例の無い「庖丁式」を創始せよ、などと非公式な新儀を光孝天皇が創始したとするのは失礼な気がする。ファンタジーで皇室の歴史を作ってはいけないはずである。

 

まして、天皇・公家たちの料理を担当していたのは伝統的に膳臣・高橋氏がになう内膳司たちで、高橋氏が内膳司の要職を独占している時代である。彼らを差し置いて、専門外の藤原山蔭が食や庖丁について儀式を創始したり、新儀として光孝天皇が勅を発するなどファンタジーと言えるだろう。

 

 

 

  藤原山蔭をさらに深く知る次回

 

山蔭の事績として大きなもののひとつに摂津国・総持寺の創建がある。そして吉田神社創建がある。かなり深い話なので次回にするが、総持寺・吉田神社創建についてやその周辺事情を明かしてゆくと、藤原山蔭が生きた時代の人々がどう考えていたのかを垣間見ることが出来るのである。

 

 

 

 

前回のこのテーマからはや1年が経とうかというところ、あらためて書き進めたい。

 

今日は庖丁式の祖、日本料理中興の祖、と呼ばれる「藤原山蔭」について、現代令和として新論というか実像について考え、藤原山蔭と日本料理、そして庖丁式というものについて再考してみたい。

 

 

(近江神宮令和五年勅例祭 清和四條流式庖丁奉納にて)

 

藤原山蔭については割と多くの伝承と事績が伝えられているが、実のところ彼が本当に庖丁式を創始したかどうかについて、実績を記録されたものが無い。

 

私自身、料理業界の諸先輩方が残してきた四條流の伝書や、世間一般に出回る藤原山蔭の言い伝えを鵜呑みにしてきたが、よくよく知ろうとすると整合性の取れない事が多い。

 

私も過去に引用してブログに書いているかもしれないが、藤原山蔭と光孝天皇にまつわる逸話は代表的である。

 

文言に多少の違いはあるものの、おおよそのストーリーはこうである。

 

 

「みずからも料理をしていた料理好きの光孝天皇の御前で、藤原山蔭が見事な鯉の庖丁式をしてみせた」

「光孝天皇に料理作法諸事をまとめるように指示された」

 

しかしこのような公式記録は一切無いのである。

 

一方同じような事績が時代が下った白河天皇の御代、1136年に藤原家成という人物が白河天皇の御前で鯉庖丁をして見せたことが公式に記録されている。

 

古今著聞集 (有朋堂文庫)

 

藤原山蔭の時代からは250年くらいの差がある。

 

また、四條家の家名も藤原家成の玄孫、藤原四條隆衡から始まる。ゆえに藤原山蔭が四條流や四條家を名乗った事は一度も無いのである。

 

 

しかし、実は藤原四條隆衡と藤原山蔭をつなぐ唯一の点がある。15代さかのぼると藤原魚名という共通のご先祖がいて、四條家がもっている私文(四條家庖丁道入門)ではその藤原魚名がなぜか料理にくわしく、古式の庖丁技を定めたとなっている。さらになぜかその技を四條家につながらない系統の4代後の藤原山蔭にゆだね(生没年に41年の間があるのに)、またまたさらに藤原山蔭の子孫ではなく、突如として藤原家成が登場するのである。

 

藤原家成の息子・隆季が邸宅を四條大宮に構えたことから、さらにその息子の隆房から四條家を家名とした。四條家は、藤原魚名家系の嫡流として現代にも存在していて、これが現在さまざまに分派した四條流にはじまる庖丁道の権威とされている。

 

なぜに彼ら四條家と日本料理の先達だちは藤原魚名の傍流である藤原山蔭をかくのごとく庖丁式・日本料理中興の祖と打ち出しているのか。四條家は藤原魚名の嫡流だというのに。そして現在の日本料理に関わる多くの人や、藤原山蔭に縁のある社寺までもがそれを追随しているのか。

 

まあ、今風に言えば四條家そして四條流を料理の権威にしてきた一門による長きにわたるブランディングである。

 

しかし仮にそうであったとしても始祖たる藤原魚名を持ち上げるべきであるところを、わざわざ傍流の藤原山蔭を持ち出してきている。もはやどうしても藤原山蔭を庖丁式の始祖としたいという意図が四條家に、いや四條流を標榜する料理人一門にはあったのだろう。

 

藤原山蔭(824~888)は平安時代の公家であったことは言うまでもない。伝説的に庖丁式の創始や日本料理中興の祖とされている不明瞭な事績は廃して、彼の生きた時代と彼の本当の事績、そして記録について明確にしてみよう。

 

 

  藤原山蔭が生きた時代

藤原家は誰もが日本史で習う藤原不比等によって始まり、日本朝廷内においてどんどんと権力基盤を強固にしてゆき、現代日本においてもその子孫は有力者が多い。

 

さて藤原山蔭が生まれたころ、日本は空海が密教を持ち帰り、天台宗と真言密教が日本の思想や価値観を動かしていたと言っていい時代だった。まさに当時の日本哲学は「密教」である。

 

南都六宗法相宗大本山・興福寺、藤原氏の氏寺でさえ空海によって南円堂が建立されていて、以後藤原氏の中で特別な場所であったと現在でも伝えられている。

 

藤原山蔭も例にもれず、長谷寺観音験起と呼ばれる伝説になるくらい、真言密教に帰依していたことがうかがい知れる。

 

 

  密教という最先端科学

弘法大師・空海と伝教大師・最澄が遣唐使として入った大唐帝国は、安史の乱以降大混乱におちいっていたが、二人が入唐したタイミングが一良く、14代憲宗の治世によって落ち着いていた。

 

しかしその後の大唐帝国は廃仏のあらしが吹き荒れることになり、内政の崩壊からチャイナ史上最大の混乱・五代十国に突入する。

 

このチャイナの大混乱ゆえに、日本は外敵に攻められることの無い、長い平和の時代、日本独自の国風文化を醸成する時代を謳歌するのである。

 

これが平安時代と呼ばれる理由の一つである。

 

 

弘法大師・空海、そして最澄の弟子たちがもたらした密教。現代科学からすれば神秘主義的な怪しい呪術か何かみ見えるかもしれない。炎の中に護摩木を投げ込みながら、なにやら呪文のようなお経のようなもんを唱えている姿を、現代でもニュースか何かでよく見かけるものだ。当時としては大真面目に最先端科学である。

 

密教はその名の通り「秘密仏教」。

 

本来は師弟の間でのみ伝達される奥義がヒミツだかららしいが、日本では真言宗と天台宗によって独自の密教へと発展、瞑想や山岳での修行などの親和性もあってか修験道と習合してゆき、この世の苦しみからの救い(現世利益げんせりやく)を求める一般ピーポーにも広く受け入れられてゆく。

 

 

藤原山蔭や密教伝来の時代に人々を最も悩ませたものが「地震」「噴火」「疫病」。まさに東日本大震災と同じ震源地で同等の規模で発生している。また今でも散々注意喚起されている南海トラフ地震が仁和地震として起こっている。そして富士山の大噴火。極めつけは天然痘の流行である。現代も続く祇園祭がはじまったのはまさにこの時代で、藤原山蔭が生きたその時、人々は人智ではどうすることもできない天変地異と疫病によってバタバタと人が死んでしまうのを目の当たりにしたのだ。

 

この時代の災害は日本三大実録に記されている。

 

今では科学的解明によってウイルスや地殻変動と結論付けられているが、当時は妖怪・もののけの類・悪霊、悪い虫によって疫病や天変地異がもたらされると考えていたわけで、加持祈祷という密教の実践をもって立ち向かおうとしたわけである。

 

 

現代でもこの密教の加持祈祷が行われているくらいである。天台宗や真言宗を中心に、平安時代それはそれは隆盛を極めたことであろうことはうかがい知れる。

 

 

  藤原山蔭の実績

藤原山蔭が生涯で何をしたのか。

 

華々しい平安貴族がイメージされる藤原氏、しかし山蔭の父・隆房は中流どまりの官位で、山蔭の官職スタートは低い位からだったと推察されている。そんな彼が後世に名前が残されている実績のひとつが、858年に惟仁親王(後の清和天皇)の近侍になった事である。山蔭34歳である。

 

近侍は日常的にそばにいるわけであり、8歳の皇太子・惟仁親王が即位したのちも崩御するその時まで近衛・蔵人として清和天皇(上皇)を支え続けた。

 

清和天皇の治世、貞観年間(859~877年)には三大実録の通りまさに天災続きで、清和天皇は幼い皇太子に譲位して、その後出家して仏道へと進んだ。すでに幼少の折には天台宗本山慈覚大師・円仁より受戒していた清和上皇は、密教の師から教わった事を実践しようとしたのであろう。仏寺をめぐり諸国を行幸した際、清和上皇(法皇)は他の近衛を退けてまで山蔭を連れている。

 

密教という方法ではあるが、鎮守国家、世の安寧を祈るという行為に真摯に臨む姿は、どこか現代の上皇陛下と重なるイメージがある。

 

この時政治権力をにぎっていた藤原氏のトップ・藤原良房は皇籍ではない一般人として初めて摂政に就き、後を継いだ藤原基経が関白のはじまりとされる。一見すると藤原氏の専横ではあるが、逆に天皇・上皇自らが政治権力から離れて、「祈り」に向かった先例ではないだろうか。惜しむらくは、清和上皇が出家後わずか1年で崩御されてしまったことだ。

 

清和天皇の親王時代から合わせると、藤原山蔭は22年間も最も近く信頼の厚かった側近という事だった。

 

その後

陽成天皇の朝廷においても重要なポストのままであったことは、父である清和天皇同様に陽成天皇からも信任されていたことを示している。

 

官人としての藤原山蔭

 

だが陽成天皇は藤原氏に翻弄され退位、ここで55歳老齢の光孝天皇践祚・即位となるのである。時に884年、山蔭死去まであと4年のタイミングである。

 

 

ちなみに清和天皇の子孫は後に源性を賜り、清和源氏として武家の頭領となってゆくのだが、清和四條流を起こした家元・新宮章好氏は清和源氏・新宮十郎がご先祖という。昭和の時代に清和天皇と藤原山蔭の関係など料理人には調べるすべが無かったであろうが、現代にこうして清和天皇についても知る機会が得られたのは個人的には奇貨なのかもしれない。

 

 

長くなってしまった。

 

次回に光孝天皇と藤原山蔭が庖丁式を創始したという伝説について、そして吉田神社や総持寺、山蔭その後について再考したいと思う。

 

【真近の脱水〆淡い酢橘割り醤油をそえて】

 

最近、「海外で働く寿司職人が○○○○万円稼ぎます~~~」

みたいなニュースを見るたびに思う事がある。

 

これは「すでに幸せだ」という人には関係のない話である。

 

  料理人の幸せとは?

 

これから料理人になりたいという人に聞いてみたいことがある。

 

「料理人としてどうやったら幸せになれると思いますか?」

 

10代~30代には答えられなかったこの問い。

 

たまたま良縁あって運よく料理人を続けてこられたから、これから料理人になる人がこれを見て、早いうちに幸せになる方法にたどり着いてほしいと思うだけである。

 

料理人の幸せとは?

 

有名シェフや有名店になること?

より大金を稼ぐこと?

お店を大きくする事?

世界で活躍する事?

お客様に喜んでもらう事?

美味しい料理を作る事?

自分にしかできない料理を創る事?

社会のためになる店づくり(SDGs)?

 

これらは目指す目標にして良いものばかりであるが、料理人が幸せになる方法ではない。

 

 

  幸せの順番

 

小学校でキャリア教育で子どもたちに話をしに行くとき、「幸せになりたい人~~~」と尋ねると、ほぼ全員が手を挙げる。

 

まあそうだろう。

 

どんなに性格や能力に個人差あっても、そして願望がどうあれ、求めているのは「幸せ」にほかならない。

 

幸せの定義については人それぞれである。

地位、カネ、名声は大抵の人が望んでいる。

愛、恋、自由、美貌もそうだろう。

高齢になれば特に健康と答える人も多いはずだ。

 

では願望がかなうと幸せになれるのかというと、必ずしもそうではない。

 

これは脳科学的に解明されていて、専門的な話は科学者さんにお任せするが、簡単に言うと手短な幸せをコツコツ重ねる事である。

 

 

なぜに脳科学が出てくるのかというと、人が幸せを感じるのは頭だからである。無論「心が満たされて幸せになるんだよ」という哲学的な事を否定しないが、心が満たされるということにも理数チックな言い方でも要点は同じである。

 

 

 

幸せを感じるための良い順番

 

1.安心

綺麗な景色や花、美味しい食べ物、リラックス、癒しなど1人でも感じる事の出来る幸せ。

 

2.つながり

誰かと一緒に感じる心地よさ、恋愛、恋人、夫婦、仲間、友人、家族、さまざまな人間関係の中で感じる安心と幸せ。

 

3.成功と高揚

仕事の成功、大会での優勝、大金の取得、地位や名声の取得など、時間と労力を経て到達する達成感、社会のなかで成功する幸せ。

 

 

順序を見ると分かるだろうが、明らかに3番目はすぐには得ることが出来ないものでも、1番目は今そこにすぐにあってだれでも手に入れることが出来そうである。

 

 

多くの人が3番目を欲しているのであるが、3番目の幸せを感じさせる脳内物質のドーパミンは快楽物質でもあり、必要以上に分泌されると依存症を引き起こすことでも知られている。覚せい剤は中脳腹側被蓋野から大量のドーパミンを分泌させる物質だ。ドーパミンは人をポジディブにさせる重要なホルモンではあるが、コントロールを失うと反作用も大きいのだ。

 

つまり、多くの人が欲してやまない成功には嵌りやすい落とし穴がある。

 

そんなことは多くの人がドラマやニュースで見たようななんとなくでもわかる話なのだが、いざ自分の話になると成功を欲してやまない。

 

だがしかし、1番目と2番目の幸せを感じさせるセロトニンとオキシトシンは、そんなドーパミンを抑制させることもできる。

 

まあこんな話は専門家の本やサイトに山ほど載っているのでそっちを見てもらおう。

 

 

要は、簡単な幸せをコツコツ積むことだ。

 

「今日は良い日だった」という日が1週間に4日あれば、「今週は良い一週間だった」となる。

 

良い一週間が1カ月に3週あれば、「今月は良いひと月だった」となる。

 

良いひと月が7か月あれば、その一年は良い年だったとなる。

 

そういう一年が人生の半分以上あれば、人生は幸せだったと目を閉じることが出来る、という足し算なのだ。

 

無論、非道に晒されないという条件付きである。

 

 

 

  料理人が幸せになる方法

 

順序良く行こうではないか。

 

 

第一段階

まずは1人でも得る事の出来る幸せをコツコツと重ねる。

 

美味しい料理を食べる。

美しい自然や美術にふれる。

スポーツ・運動をする。

リラクゼーションに浸る。

 

 

これは料理人の幸せの第一歩であり、これを飛ばすことは結論から言って精神的に不安定になりやすく、おすすめしない。

 

なぜかというと、労働集約型産業と言われる料理人にとって、身体の健康無くして良いパフォーマンスを維持できないからだ。また精神的な安定をもたらすホルモン、セロトニン分泌を促すにはリラクゼーションと運動は必須なのだ。特に朝日を浴びて運動することは良いとされる。のんびりしたり自然の中で爽快感を感じる、そういう時間があることによって安心・安定といった心のHPがたまるのである。温泉やサウナでリフレッシュしたり、自然の中で運動を楽しむのも良いだろう。

 

そう思うと、日本の山や海近くの温泉旅館は最高なのではないだろうか。ソロキャンなんかも、ピッタリだろう。

 

つまり、まずは仕事以外のところに実は幸せがあるという事に気が付いてほしい。

 

もちろん仕事は誰かのために美味しい料理を作るという素晴らしい社会的意義があって、それによって生まれる幸せについては次の第二段階なのである。

 

だが第一段階をクリアせずに第二段階にある人間関係・つながりによる幸せに進むには、いろいろと無理をしないといけない。

 

 

第二段階

夫婦、恋人、家族、仲間、スタッフ、コミュニティの信頼関係を厚くする

 

それができれば苦労せーへんわ!!というやつである。

 

それでも料理人が幸せになろうと思うのであれば、信頼関係が絶対に必要だ。

 

 

簡単に言うと、「居心地の良いひとたち」の中に身を置く事である。

 

料理人のほとんどは複数人で現場を回している。現場でスタッフ個人の能力を最大限にするのは、連携するスタッフ同士の信頼関係に他ならない。これは個人の技術・能力にどんなに差があったとしても、相互にその技術・能力についてや力量差を理解している必要性がある。また、オーナーや現場責任を負っている者は適材適所を行う事で、相互の理解力を向上させることが出来る。

 

お互いの技術・能力そして力量を理解出来れば、おのずと仕事中の人間不信は和らぐのだ。

 

仕事は得意分野をやるほうが結果は最大化する。

良い結果がだせれば、その個人に対する仕事における信頼は増す。これが相互に起これば、人間関係における猜疑心は減少にむかう。

 

これもまずもって第一段階のセロトニン的幸福感が個人それぞれにあるからこそ、他者に相対できるのである。

 

料理人は接客も同時に行う事を考えると、お客様との良好な関係を築こうと考えるならば、第一段階の幸せが十分にある方が良い。お客様との良好な関係はすなわち何度もお店に通ってくれるリピーターとなってくれるという事でもある。

 

人間関係の中で感じる信頼と安定があるとき、脳ではオキシトシン分泌によって人間は楽しさや嬉しさ、そして幸せを感じることが出来る。

 

これは何も料理人の仕事現場だけではない。仕事が終わったあとの夫婦、恋人、家族との時間、仲間との時間、はたまたコミュニティーグループでの時間などでも、価値観を同じくする人間関係の中に身を置くことでも、同様に幸せを感じることが出来るのである。

 

逆に言うと、価値観を共有できない、または互いの相違を尊重できない人間関係であるならば、できるかぎりその環境から脱出したほうが良いのである。

 

職場、夫婦、恋人、家族、仲間など居心地が悪いのであれば、いったん距離を置いてみるか、関係をリセット、はたまたお店をやめる方が幸せに近づける。

 

ちなみにひさご寿しの現場でこんな感じである。

世界に飛び立つすんごい人はいないけど、だれもかれもが少しづつの得意を寄せ集めて、一つのお店として体を成している。名店で働く沢山の優秀な料理人さんから見れば、私を含めてうちのお店で働くスタッフと一緒に仕事をしたならば、きっと欠点だらけにしか思えないかもしれない。事実、私自身の修行時代の様々な厳しいルールから比べれば、ゆる~い職場環境である。ピリピリとした空気感とはかけ離れた柔らかい世界と言える。まあ20代のころはギャーギャーゆーてたのだが。

 

鬼気迫る緊張と、研ぎ澄まされた感性の一瞬の輝きに心血を注いでいる人たちに比べれば、申し訳ないくらいの落差だろう。

 

だが新型コロナの影響を受け続けたこの3年間、経営的には難しいかじ取りが多かったが、むしろスタッフ同士の理解や信頼関係は進んだように思う。

 

 

第三段階

 

もはや説明はいらないか。

料理人の幸せは大抵成功には無い。

 

大成功による幸せを望むのは自由だが、もしそれを是が非でも実現したいのであれば、数々の不幸に耐えることが出来るメンタルを先に身につける事をおすすめする(笑)

 

才能と出会い、チャンスに恵まれてスムースに大成功へと進む人もたくさんいるだろうが、第一段階も第二段階もイマイチな状態が続いているのであれば、すすむ先はいばらの道である。

 

もし料理人としての大成功を収めたいと望んでいるのであれば、順序良く進まれることをおすすめする。

 

 

 

  最後に

ここまで長文を書いておきながらいうのもなんだが、この話には料理人としての前提条件がある(笑)

 

1.真面目に仕事に取り組む

2.嘘つかない

3.犯罪を犯さない

4.会話ができる

 

以上