近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡で寿し割烹と日本料理を楽しむお店「ひさご寿し」

料理長のかわにしたけしが料理のことや、近江八幡のこと、営業日誌などを徒然なるままに書いとります。

 

  淡海流、シャリ

ひさご寿しのシャリについて、思い切って名前を付けてみた。

 

名付けて「淡海流」(おうみりゅう)。

 

ひさご寿しの味を決めているのはシャリであると断言できる。

 

 

別邸「淡海庵」(おうみあん)の準備も進めているところで、ひさご寿しが創業以来64年繋いできたシャリのメカニズムを、新しい形で残してゆくために、ここに記しておこう。

 

 

 

節分に寄せて以前に記しておいた。

かなりマニアックに紐解いているのだが、滋賀でシャリを云々言うには必要な話。江戸前の事はさておき。

 

 

  淡海流メソッド

簡単にまとめると次の通り。

 

1.寿し好適米、滋賀県産「日本晴」一等米を使用する。

 

 

2.米は15℃あたりの一定温度で保管し、最低1年を経過した古米、古古米を使用する。

 

 

3.シャリ酢は生酢と加熱酢を5.5:5でブレンドする。塩、砂糖等の調味料は加熱酢に溶かす。

 

 

 

 

  寿し好適米「日本晴」

多様な米品種の中から日本晴を選択する理由は以下の通りである。

 

日本晴は粘り・弾力性が他の品種くらべて低い。シャリ同士がくっつきにくく、そして米粒が握った時につぶれにくい。

 

これは品種の持つ特性で、日本の代表的な品種である「コシヒカリ」「ササニシキ」と比して寿しに適している。

 

特に上方寿しにおいてはその特性が最大限に生きてくる。

 

 

鯖寿しにおいては練り込むように、シャリとシャリの間にある空気を抜く。これは鯖寿しが翌日、翌々日まで美味しくそして衛生的であるために必要な調理工程である。シャリの隙間に残った空気量が多くなると、酵母や乳酸菌といった微生物が増殖しやすくなる。酵母が増殖した場合、シャリの中でアルコール発酵が始まる。稀に手作り鯖寿しのお土産でシャリからアルコールっぽい香りがしたとすれば、脱気が甘いからそうした事になる。

 

同じようにシャリを押し固める押し寿しに違いがあるとすると、棒寿しにはそうした食品衛生の知恵が含まれているのである。ちなみに、簡便な押し寿し・箱寿しではなく、大型の箱を使った伝統的郷土料理によく見かける「杮寿し(こけらすし)」もしっかりと脱気するために重石をしたり閂止めをして、圧力をシャリにかける。

 

こうしたことから、淡海流においては多様な寿しスタイルに対応するシャリ作りでありたい。

 

 

一方、現代的で刹那的な一瞬の美味しさを追求したスタイルの場合、シャリに使用される好適米は必ずしも日本晴ではないことは当然としておこう。そうした場合は、炊き方や加水加減も変わってくるだろうことは言うまでもないが、ここでは記さない。

 

 

ちなみにシャリが粘る粘らない、粒が立つか立たないかに関わるメカニズムは、米に含まれるデンプン質の含有割合による。いわゆるアミロースとアミロペクチンと呼ばれるものなのだが、実は日本晴・コシヒカリ・ササニシキにおいて劇的な差があるわけではない。

 

弾性・粘性を生み出すのはアミロペクチンで、アミロペクチン100%がもち米と言えばわかりやすいだろう。

 

日本晴はコシヒカリ・ササニシキに比して約2%程度のアミロペクチン比が違うだけ。

 

だがしかし、日本晴に含まれるアミロペクチンは弾性・粘性はあるものの、分子結合が他の二種に比して大きい。これが日本晴が上方寿しに適する理由を生み出している。

 

他、一等米を指定しているのは粒の大きさがそろっている事を念頭にしているからである。

 

 

  一定温度での1年を超える保管

 

玄米の保管温度は15℃あたりに設定されている。また最低でも1年、2年の熟成が望ましい。いわゆる古米・古古米と呼ばれてきたものであるが、寝かせるには理由がある。

 

また定温にて寝かせるのは米虫を抑制するためである。米虫、コクゾウムシは低温では虫卵から生まれることができない。また20℃を超えてくると活発になり、一気に増殖する。コクゾウムシが米を食べ散らかすと、当然品質は劣化するのでこれを押さえるのである。

 

 

こうして1年~2年間を一定温度の低温で熟成させる中で、米は「水分が抜けていく」と思われがちだが、実のところそんなに米の水分含有率は多く変動しない。

 

昔からよく言い伝えられている話で、「新米は水分が多いから炊飯の水加減を減らす」「古米は新米よりも炊飯の水加減を増やす」とかあるが、米に含まれる水分含有率は13.5%~14.5%あたりで、誤差は1%程度なのである。

 

また、貯蔵中の米は脱水だけでなく湿度によっては吸水し、条件によっては古米の方が新米よりも水分含有率が高い場合もある。

 

こうした理由から、新米だから古米だからという区別で炊飯の水加減を変えたところで、実は水加減が食味の違いに影響しているわけではないのが事実である。

 

新米と古米・古古米の食味の違いの根源とは。

 

 

  シャリの核心

 

米を寝かせる核心は香り成分である。

 

 

新米と古米・古古米において圧倒的な差があるのは香り。

 

なぜ1年後、2年後に香りが大きく変わってしまうのかというと、米の油脂に由来する。

 

米は主食ゆえに多くの人が炭水化物・糖質とみなしているが、米に含まれる成分にはタンパク質も脂質も含まれる、隠れたスーパーフードなのである。

 

特に日本人や東アジアの稲作温帯地域に住んできた民族の消化器は、この米に含まれる糖質・タンパク質・脂質を効率よく吸収して栄養にできるように進化してきた。米に無いのは必須アミノ酸の一部で、それは大豆に含まれている。ゆえに日本人においては、ご飯と味噌汁を日常的に食べることである意味事足りているとさえ言える。

 

話がそれた。

 

 

米の香りの根源は油脂に含まれており、米の油脂はいわゆる玄米外皮に多くある。牛や豚の脂のようにたっぷりと含まれている訳ではないが、このわずかに含まれる植物性油脂が時間経過とともに酸化してゆくと、新米では得られない香りへと変化するのである。

 

新米を白米で炊くと、フレッシュで瑞々しいえも言われぬおいしさを連想させる。これは我々日本人が新米を大切にしてきた証しでもあるのだが、こと淡海流シャリにおいては違うと言っておこう。

 

新米においても油脂はわずかに酸化しているものの、古米となるとその約7.5倍、古古米の場合では約10倍の脂質酸化がある。

 

通常、食材における油脂の酸化は人体の健康にとって好ましくない条件と隣り合わせにあることが多い。ゆえに酸化した油脂から感じる香りは「美味しい」にむずびつきにくい。

 

酸化した油脂の香りの代表例を挙げると、使い古した揚げ油、熟成した生ハムの外皮、鮮度の落ちた魚類の肝臓、時間の経過したレバーペースト、などなど。

 

ゆえに、白米で食味を比べた場合には古米は「美味しくない」となるのが当然なのである。

 

だがしかし。

 

寿しにする場合は条件が違う。

 

寿しの場合は様々な魚介・ネタと口内で咀嚼して風味が出来上がる。つまり、シャリ単体で美味しい不味いが決まるわけではない。複数の素材、複数の油脂と香りがシャリと合わさってゆくとき、古米・古古米の持つ米の香りがあってこそ生まれる寿しの風味が確かにあるのだ。

 

ましてシャリは米酢という調味で強い香りを付加しているのであるから、新米では力が足りない。

 

 

特に伝統的な塩熟成を経た鯖を使った鯖寿しにおいては、力強いシャリの香りと相性が良い。鱧箱、穴子箱、巻寿し、ケラ箱、マス箱、どれもこれもシャリの香りが弱いとバランスが良くない。

 

また、海鮮を握るにしてもネタの個性や香りが強ければ強いほど、シャリは受け止める香りが必要になってくる。

 

 

近年は「赤酢」を使う事でシャリの香りと旨味をより膨らませる手法をとることも多くみられる。これはこれで、米の香りが少ないところへ補完する意味でも理に適っているのだが、赤酢の原料である酒粕の油脂が酸化してふえる香り成分と、米そのものの油脂が酸化した成分とは違いがあることは確かである。いずれにしてもどういう手法・技術を選択するかは料理人の考え方次第なのである。

 

ゆえに、ひさご寿しのシャリの作り方・考え方として「淡海流」と名付けておく。

 

 

別に独占禁止法でもないので、誰でも淡海流を試してみて楽しめばよいと思う。

 

 

参考:

 

玄米の水分変化に関する情報・研究結果について

農水省

 

貯蔵期間の異なる米の掲精歩合と浸水時間の相違が炊飯に及ぼす影響について

井上タツ 鈴木裕

 

品種の異なる米澱粉の構造と糊化特性
大家千恵子 川端晶子

 

米の風味
安松克治

「人間・藤原山蔭」にいろいろな視点で迫り、彼は本当のところ何者だったのか、そしてなぜに現代において日本料理中興の祖として讃えられ、そして神格化されているのか、という謎にアクセスる。

 

今回は藤原山蔭が創建した神社、「吉田神社」にまつわるはなしである。

 

 

  幼帝・清和天皇の践祚・即位

吉田神社は藤原山蔭の創建であることは疑いようのないところである。

 

 

 

吉田神社創建年の貞観元年(859年)とは、山蔭にとって最も重要な人物・清和天皇が即位した年。9歳という元服前の天皇践祚・即位は、皇室の前例にない新儀である。この時、皇室にとって幼帝は前例となり、以後たびたび幼帝践祚がおこる。

 

 

ちなみに天皇になる事を「践祚(せんそ)」と言い、「即位(そくい)」とは即位礼という儀式を行い周知することを桓武朝以降は指していた。ゆえに歴史上では即位礼が行われなかった例もある。だが現代の皇室典範では践祚・即位を一連の儀式で行う事で同義としたため、二つの名称をあまり区別されないが、世界の国王たちの即位と天皇に違いがあるとすれば、天皇位は厳密には践祚そして即位がある。

 

 

さて

これは時の権力者であった太政大臣・藤原良房が清和天皇の外祖父として権力を絶対的なものにしたい、という野心であったことは明白ではある。

 

滋賀・奥永源寺政所君ヶ畑に縁深い惟喬親王にとっては不運ではあった。だがもし惟喬親王が天皇となっていたら、奥永源寺政所君ヶ畑は現在のような文化的豊かさを保っていなかったかもしれない。惟喬親王は清和天皇の異母兄である。

 

 

 

話はそれたが、前回のブログにも記したように清和天皇は様々な人の願いを背負い幼帝として践祚・即位した。父である文徳天皇・皇后・太政大臣そして皇太子・惟仁親王(清和天皇)とともにそろって、天台座主円仁から菩薩戒灌頂を受けた。幼き皇太子が菩薩の化身として世の平安の光にならん事を、純粋に願ってのことだったと、人の親であれば安易に想像できる。まして当時は「密教」こそが最新の政治とインテリジェンスだったのだから。

 

では吉田神社は何のための創建なのか。

 

 

  吉田神社創建

(吉田神社、斎場大元宮。吉田神道の最も特徴的な場所。)

 

吉田神社とはそもそも藤原一族にとっての氏神社である。奈良の春日大社の勧請なのだが、平安京があった山城国には大原野神社という春日大社の勧請社が先にあったにも関わらず、山蔭は新たに吉田神社を創建した。

 

(京都市西京区にある大原野神社。京都で最初の春日神の勧請神社。光る君へ効果で広報活動として「藤原氏の氏神」の幟が立つ)

 

 

 

「吉田」という場所は御所からみてほぼ真東にある。この吉田には神楽岡と呼ばれる岡(現代は吉田山とも呼ばれる)があり、カグラという名前の通り神道的な儀式が行われていた由縁を伝えている。

 

神道儀式のひとつ「神楽(カグラ)」は、日本の最も古い伝統芸能と言っても良い。神道における神楽は、言葉や文章ではない、時代をこえて何かを伝奏するひとつのコミュニケーションツールともいえる。いわゆる「神憑り」「神降し」といった、神や死者の霊魂といった目に見えない何かを演舞者に憑依させ、または一体化し、舞や楽を媒介にして今を生きる人とつながる。

 

 

山蔭が吉田神社を創建する前、神楽岡には何があったのか。

 

 

 

吉田神社が創建される前、神楽岡あたりには清和天皇の母方の祖母・源潔姫の陵墓があった。源氏性ではあるが、嵯峨天皇の皇女であり、日本で最初に臣下に嫁いだ皇女である。彼女は太政大臣・藤原良房の妻となり、清和天皇の母となる明子を生んだ。明子が文徳天皇の女御となったが、潔姫は孫の皇子・惟仁親王(清和天皇)が生まれるところまでは生きる事が出来ず、孫を見ずに46歳で亡くなった。

 

藤原良房は後に太政大臣にもなる政治的に権力者であったが、当時の権力者にはめずらしく妻は源潔姫のみで、後妻も迎えずに生涯を終える。ゆえに子は娘の明子のみで、のちに養子として甥の基経を跡取りに迎える。

 

つまり、藤原良房にとって孫の惟仁親王(清和天皇)は、最愛の妻・源潔姫の残したたった一つのつながりだったのである。

 

それはもう溺愛したであろうことは想像に難くない。

 

実際、幼少の惟仁親王(清和天皇)は良房の邸宅で育っており、藤原山蔭はそのころから近侍として働いていた。

 

まだ9歳の孫・清和天皇即位に際して、良房おじいさんは「出来る事はなんでもやる」「目に入れても痛くない」を実践したというところだろう。

 

 

清和天皇即位年に吉田神社を創建しているところから、清和朝に対する思いがあってのことは明らかである。そもそも神社を創建する主な理由は「鎮守」である。鎮守とは、神の荒ぶる祟りを鎮め、現世に生きるものを守ることである。

 

現代日本において死者に関わるのは仏教で、神道はどちらかというと祝いの風潮がある。

 

だが、神道における「神」の存在とは人智と人力の及ばない現象をもって、正邪どちらの結果をひきおこすものである。当時も今も「神の祟り」を畏れ、良い事だけが起こるように、鎮守を神に願うものなのだ。とくに古代から中世においては、死者が荒神となることを恐れ、死者を神として祀ったものが多い。

 

こうしたところから、神楽岡に眠る清和天皇の祖母、良房の最愛の妻、源潔姫の鎮魂を重ね合わせるように、藤原良房が山蔭に命じて吉田神社を春日大社から勧請・創建したのではないだろうか。

 

この説は中本和氏の借り物に私の説を重ねたものであるが、神楽岡にはその後数々の清和天皇にまつわる人々が埋葬される。母・明子、息子・陽成天皇、そして祖父・藤原良房までもが。

 

清和天皇にまつわる人々にとって、神楽岡は特別な場所であったことは間違いない。それは源潔姫が始まりなのかどうかは計り知れないが、藤原氏の氏神を呼び寄せて鎮守を祈願したという事は、その一帯を藤原氏にとって神聖化し、他者に踏み入らせまいとする思いの表れなのかもしれない。

 

 

 

  吉田神社と二十二社

(吉田神社本殿、春日神四柱を祀る。武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神)

 

だが吉田神社もさることながら、平安初期において各地の神社は現代のような神道的権威は薄い。平安時代各地の神社は仏教権威が高まるのと反比例して、衰退する。特に朝廷から物理的に遠い地方においては、国家事業としての奉幣が行われなくなってゆく。これは現代経済的にいうと、不採算店の閉店みたいなものである。

 

替わって南都や比叡山に人的・物理的・権威的パワーが集まり出すと、もはや神社は寺院が管轄するに至るのだが、都から近いところだけが朝廷からの奉幣が続くことになる。それが二十二社である。まあどう見ても朝廷・比叡山・南都の縁が深いところであることは間違いないし、そりゃそうだろうよ、である。

 

平安京・内裏から近く、藤原の祖神を祀り、皇祖と縁者の墓を守る吉田神社。

 

創建者・藤原山蔭の孫・時姫の夫である藤原兼家は、寛和の変によって花山天皇に譲位させ、孫の一条天皇が践祚・即位させることに成功した。これにより兼家は朝廷権力を掌握し、摂政そして関白となった。

 

このあたりはまさに大河ドラマ「光る君へ」にも描かれている。

 

同年、延喜式内社でもなかった私的な吉田神社も朝廷祭祀を与ることとなる。

 

これはどう見ても山蔭の縁者である関白・藤原兼家の影響があったとみるのが自然であろう。

 

そしてその4年後の西暦991年、それまでの朝廷奉幣16社に吉田神社他2社を加えて、19社となる。

 

この年に何があったのか。

 

一条天皇の皇母、藤原詮子に日本史上初めて女院号が宣下された年である。これにより東三条院詮子と呼ばれるようになる。また一条天皇の父である円融上皇が崩御された年でもある。

 

一条天皇と母である女院・詮子の意志であったことは間違いないだろう。

 

その後、朝廷から奉幣のある神社は日吉大社を最後に二十二社が確定することになり、吉田神社は一応の権威を保持する事になるが、だからと言って藤原山蔭が日本料理中興の祖とされるには、やはり無理がある。

 

 

だがそれを大きく変えることになるのが、室町から戦国時代に生きた吉田兼倶である。

 

 

 

 

長くなったので次回に。

 

 

参考:

官人としての藤原山蔭
中本 和

 

円覚寺・東名寺・東明寺にまつわる基礎的考察
笹川尚紀

 

伊勢日記私注ロ
大和に親ある人
松原輝美

 

中世吉田地域の景観復原
吉江 崇 

 

神佛習合より見たる上代佛教の宗派的性格
伊野部重一郎
(高知大学文理学部・歴史学研究室)

 

 

 

 

 

  GRCCでのプログラム

グランドラピッズにはコミュニティカレッジという専門学校と大学のあいだのような教育システムがある。これはグランドラピッズに限らず、ミシガン州ランシングにもある。

 

グランドラピッズ・コミュニティカレッジ、略してGRCC。

その中に料理学科がある。むろん他にも様々な学科があって、学科ごとに棟が別れている。

 

日本で言う調理専門学校のような感じと言えばわかりやすいだろう。

料理学科棟。

ここで日本の食文化と郷土料理について初日にレクチャー、2日目に実際に学生たちが料理して40人のゲストにサーブする。というプログラム。

 

1日目にレクチャー。

2日目にレストランを使ってランチコース提供。

 

まずは前日に現場確認。

(使用する寿し米の香りで熟成ぐあいを確認)
 

事前に食材や料理についての情報はやりとりしていたとは言うものの、実際にはあれこれと思い通りのものはないのが当たり前。

 

幸いにも主任教授のボブがとても気を回してくれて、選択肢をいくつか用意してくれていたので本当に助かった。感謝しかない。

 

寿し米なんかはちゃんと古米があったことに驚き。

 

 

あらゆるジャンルの料理を実習できるように機材が豊富。

でも和食と中華の道具は無い。

 

食文化レクチャーのために日本から持ち込んだホンマモンの木地と漆で作られた朱塗り膳漆器。

 

水についても日本の水に近い硬度50ぐらいのものを用意してもらったり、野菜も日本のものに近しい種類でそろえたもらった。

 

器も一通り確認したところで、GRCCの前日確認は終了。

 

  グランドラピッズの食と生活

渡米は初めてと言事もあって、グランドラピッズの人たちの普段はどんなものなのか知りたくて、市内の様々なマーケットを紹介してもらったのがとても印象的。

 

ミシガン州はクラフトビールのブリュワーがとても多いのが特徴との事。マーケット内のクラフトビールコーナーには幾あまたのクラフトビールがならぶ。ダウンタウンにはビアスタンドがいろいろあって、こりゃ楽しい。

 

 

マーケット内の鮮魚コーナーは40%が淡水魚。

 

ちょっとこだわりのコーナーには、さまざまなタイプのオリジナルミックススパイス調味料やフレーバーティー、オーガニックのオリーブオイル量り売りもかなりの種類が選べる。

 

惣菜のスモークサーモンが温燻・冷燻ともに美味。本当に美味。

 

鰊のクリームマリネが気になる。

 

 

  ミシガン州グランドラピッズの淡水魚

 

 

特に気になる淡水魚コーナー。

ニジマスは滋賀県民にも養鱒でなじみ深い。こういうフィレで普通に買えるのはいい。

 

ホワイトフィッシュは小骨も無い中型白身魚で、かなり汎用性が高い食材。横のイエローパーチは今回食べる機会が無かったが、ホワイトフィッシュやウァーライに比べて小型なので、おそらくふんわりした食感が上がるだろう。

 

チャンネルキャットフィッシュ。まあ日本では要注意外来魚のひとつになっているが、いわゆるフィッシュバーガーに適している。ナマズの類は皮目からピペリジン等の泥っぽい香りが出てくるので、皮を剥いでフィレにしているのは美味しい合理性と言えるw

 

 

発音的にはウァーライの方が近い。

カタカナ英語で書くとウォールアイ。

マユミさんの話でも最もおいしいとの事。確かに。

 

総じて淡水魚の単価が海水魚並みもしくはそれよりも高い。
最高値はイエローパーチだが、フィレで約12,000円/㎏。成体での単価で計算しても、日本のふぐや虎魚よりも高値である。アメリカの物価が約1.5倍と見積もっても、日本で淡水魚がこんなに評価はされることは無い。これは料理人がおいしい淡水魚料理が出来ていないという事ではないのか、というのが料理人目線である。

 

海ものはこんなん。

 

 

こうした鮮魚の流通や漁業のシステムがどうなっているのかまではマーケットの売り場で知ることは出来ない。だが大陸ならではともいえる淡水魚の大きさもあってか、料理しやすそうな状態で売られていれば、魚好きの人は簡単に家でムニエルやソテー、ローストで楽しむことができるだろう。

 

まあ琵琶湖の魚は絶滅危惧種だらけなんで、広く流通もなにもないのだが。

 

 

 

 

次回こそグランドラピッズで食べた料理たちを記録しよう。

 

3/23~3/31に米国ミシガン州に、日本料理の講義と実習をグランドラピッズコミュニティカレッジ(GRCC)で、日本と食文化の哲学についてミシガン州立大学で講義をしてきた話。

 

まずはこの事業に際して声掛けいただき、現地滞在にもいろいろとお世話になった滋賀県庁の松原氏に感謝申し上げます。並びに、グランドラピッズ近江八幡姉妹都市委員会の皆さんとアネッタさん、マユミさんにも。単身事業を様々にサポートしてくださり、事業と現地滞在をスムースで居心地の良いものにしていただいた。日本には「おもてなし」という接待の概念があるが、グランドラピッズの皆さんからもらったものは日本のおもてなし文化とは全く違う「親切」だったと思う次第。

 

 

(グランドラピッズ最終日)

(マイヤーガーデンにて)

 

結論から言う。

 

ミシガン州グランドラピッズは良いところである!

 

 

最初の連絡があったのは、昨年の6月の事。

滋賀県庁職員の松原さんから。

 

彼と最初に出会ったときは県知事秘書課、そしてその次は食のブランド推進課だった。

 

そして今回の連絡にはとても驚いた。今、滋賀県の姉妹都市となっている米国ミシガン州に駐在員として派遣されているとの事。

 

そんな彼からの連絡は、「ミシガン州のグランドラピッズで日本料理の講習をして欲しいというリクエストがあります」という内容で、「マジで?」という感じだったのを覚えている。

 

とは言え、せっかく日本と食文化を伝える機会をもらったのだから、やらない選択肢はない。という事で行ってきた。

 

 

これはその記録である。

 

 

  滋賀県の姉妹都市

世界にあるさまざまな姉妹都市プログラム。

 

滋賀県は県全体として米国、ブラジル、そして中国に姉妹都市がある。

 

中でも米国ミシガン州は1968年以来、60年以上の友好姉妹都市としての交流と歴史があり、滋賀県一番最初の姉妹都市提携である。

 

琵琶湖には「ミシガン」という名前の遊覧船が今も周航しており、滋賀県で生まれ育ったものにとってミシガンとは馴染みのある名である。

 

彦根の琵琶湖畔には「ミシガン州立大学連合日本センター(JCMU)」という、15校のミシガン州立大学が合同する施設があり、常時ミシガン州からの留学生を数十人ほど受け入れている。逆に滋賀県民側にも門戸はひらかれていて、かれら留学生や州立大学との接点、英語教育プログラムなどが複合的に提供されている。というのも、今回のご縁で初めて知ったところ。

 

こうしたことから、滋賀県は常駐の駐在員をミシガン州においていて、滋賀県職員が交代でそれにあたっている。県職員駐在員を常駐させているのは47都道府県では滋賀県だけとの事。松原さんから聞いて初めて知ったw

 

 

 

  近江八幡の姉妹都市

近江八幡にとっても一番最初に姉妹都市提携をしたのが、ミシガン州の都市である「グランドラピッズ」だった。グランドラピッズという地名は米国にいくつも存在するが、近江八幡の姉妹都市であるグランドラピッズはミシガン州第二の人口の市。

 

フォード大統領の出身地であり、アムウェイ本社、大手スーパーのマイヤーの根拠地でもある。

 

県全体の姉妹都市提携からおくれる事18年、1986年に近江八幡×グランドラピッズで姉妹都市提携が結ばれ、これは両市ともに一番最初の姉妹都市提携である。

 

この他にも近江八幡にはヴォーリズの生誕地や、安土町合併からの引継ぎ姉妹都市であるイタリア・マントヴァもある。

 

 

2019年、第一回近江八幡マントヴァ音楽祭、次いで市長とともにマントヴァ訪問団でイタリアに渡ったのはもう5年前。

 

 

 

  米国へ~

さて、グランドラピッズは姉妹都市提携も長い事から、色々な交流が行われてきたようだが、私には実のところまったくなじみが無かった。

 

いつかは米国に行くこともあると思っていながら、お仕事になるとは思ってはいなかったが。

 

 

渡米が迫る年明けそうそう、GRCCとミシガン州立大での講義資料や、料理実習内容の検討、レシピの作成、器の確認などさまざまな作り込みをすすめ、州立大での講義資料の翻訳者さんへの最終提供は結構ギリギリになってしまった。申し訳ない。

 

とはいえ、出発前にできることはすべて終えて、事前準備はOK。

 

あとはカラダ一つ飛行機に乗せてやるだけ。

 

 

グランドラピッズへは日本からのアクセスは良いほうだろう。

伊丹⇒羽田⇒デトロイト、そこから車でグランドラピッズまで2時間半。2時間半の距離感なら、関空と近江八幡の距離位と言える。

 

東京からだと、羽田⇒デトロイト⇒グランドラピッズという乗り継ぎ1回でグランラピッズのフォード国際空港へ行くことができる。

 

 

 

さて今回はここまでにして、次回からグランドラピッズの様子と料理たちを記していきたいと思う。

 

 

 

 

(京都・吉田神社内にある末社「山蔭神社」藤原山蔭を神として祀る)

 

庖丁式の始祖とされる藤原山蔭、本当のところ庖丁式を創始した記録はみつからない。

 

前回までのこのテーマで記してきた通り、藤原山蔭は藤原北家とはいえ、本流から離れた傍流下級貴族三男としての生まれである。はなばなしく同時期に朝廷政治の中心で活躍し、後の五摂家となる本流の良房や基経に比べると、日本政治史で特筆される事績を残したという事もない。

 

はっきりしている事は、清和天皇の立太子前、8歳の親王時代より近侍として支え続け、近衛という役職から離れても、清和天皇の信任厚く、崩御近くの行幸にもわざわざ従っているという事。働き盛りの時には昇進もなく、いざ朝廷の要職に任ぜられても、わざわざ辞退をしてまで清和天皇を近侍で支えようとした。しまいには朝廷内の要職を固辞することもできなくなり、譲位した清和上皇の別当として兼務するまでになる。清和法皇崩御後も陽成朝、光孝朝ではさらに位階を上げ、要職に任ぜられながらも、政争での登場はなく生涯を終えている。

 

この事から、朝廷内の権力闘争からは少し離れたところにいる藤原山蔭という人物の、誠実さが垣間見えるのではないだろうか。

 

 

  藤原山蔭と藤原道長

今年のNHK大河「光る君へ」は紫式部が主役、準主役は藤原道長という人間関係ドラマの様相である。

 

藤原道長といえば日本史でぜったいに習う、いわゆる平安時代を代表する藤原家絶頂期のメインキャラクターである。

 

道長にとって、藤原山蔭は母方のひいお爺さんである。

 

 

2人は100年近く生きた時代が違うため、道長は直接山蔭に出会ったことはないのだが、道長の母・時姫はむろん道長の曾祖父・山蔭について、幼少の道長に説いていることは自然な道理だろう。

 

ちなみにNHK大河の時姫役は、レジェンド声優・三石琴乃さんである。セーラームーンだのエヴァンゲリオンだの有名どころの作品で主役の声役の人。ある意味見ていて面白い。

 

道長の母方の出自は、山蔭亡き後どのように影響したのか。

 

 

 

  摂津・総持寺創建

摂津国は現代で言う大阪・神戸にまたがるエリアで、関西人ではなじみのある「阪神間」という沿線とその山側、大阪府北部あたりの事で、都からみて瀬戸内航路と山陽道へのアクセスラインである。

(山蔭が登場する「長谷寺観音験記」を想起させる亀が台座に)

(西国三十三観音霊場、22番札所、総持寺本堂。亀にのった秘仏の観音様が本尊)

 

藤原山蔭は、清和朝から陽成朝の仕事ぶりの結果なのか、光孝朝にかけるところで重要な知行国が多く与えられている。

 

備後・伊予・美濃・備前・肥後・播磨などなど。

 

これらは軒並み瀬戸内利権のエリアばかりである。遣唐使が廃止される894年までは、海外・国内交易収入が相応にあったとみるのが妥当だろう。また美濃は中世には近江国に次ぐコメの収量があった地域。これらを総合すると、藤原山蔭は政治的な権力と朝廷での位階としては藤原北家本流におよばずながら、経済的には中流貴族を超えたステータスへと到達していたことは安易に想像される。

 

そして元々摂津は山蔭の祖父代からの知行国としての縁があり、息子の藤原中正も摂津守である。

 

総持寺の創建において、山蔭ファミリーの根本居地で、交易ルートの要所・摂津であったことは、至極当然のことだっただろう。

 

 

一方、この総持寺創建にかかわり「長谷寺観音験記」と「今昔物語集」という中に藤原山蔭が主人公の物語が描かれている。他にも「和州長谷寺観音験記」「平家物語」にも類似の説話が記されている。現代まで、絵巻物と合わせて語り継がれているものである。

 

これらは「観音菩薩の化身と報恩」というところに共通点がある。総持寺の本尊・千手観音、京都・真如堂にある新長谷寺の十一面観音、どちらも山蔭が観音菩薩の恩に報いる、という事で開基・創建されたと伝わるものである。話の中身は、海の中に落ちたところを亀に助けられた、というおとぎ話的になっているのは、後世語り継ぎやすくするためのものだろう。

 

かくして、藤原山蔭が総持寺、そして新長谷寺を創建した理由は、「命を救われた観音様への恩返し」というのが伝承されてきたのである。

 

 

  平安時代の最新科学

 

時はまさに平安時代の密教全盛期。

 

現代人の知り得る科学から見れば、神や仏は目に見えないスピリチュアル的で観念的、ある意味非科学的なものの象徴といっても過言ではない。だが、目に見えない何かをどうにかしてとらえようと、当時のスーパー知能者たちが必死に取り組んで実践していたのが、「密教」なのである。

 

 

山蔭が生涯の中で最も長く、そして誠意をもって仕えた清和天皇。日本の歴史上初の幼帝即位に際して、父・文徳天皇、母・藤原明子、そして藤原明子の父にして時の最高権力者であった藤原良房とともに天台座主・円仁から菩薩戒灌頂を受けている。これは、当時最先端科学だった密教をもって、鎮護国家のために天皇を菩薩戒灌頂によって菩薩の化身たらしめんと、大真面目に取り組んでいるのである。天皇の菩薩戒灌頂は、亡き空海が平城・嵯峨・淳和の三帝に対して与えている先例がある。空海・最澄亡きあと、彼らに変わって天皇に灌頂を授ける事が出来るのは、当時円仁が密教界において最高位であったことを意味する。

 

 

父帝と母、そして最高権力者から一身に期待と希望を受けた清和幼帝。9才から32才で亡くなるまで近侍として仕え続けた山蔭にとって、総持寺と新長谷寺は、山蔭よりもずっと若くして亡くなってしまった清和天皇を思い、鎮魂や祈りのために開基・創建したとみるのが人間らしく自然なのではないだろうか。

 

ゆえに、総持寺の開基・創建年は清和天皇崩御の年、876年なのである。また新長谷寺についても同様に、清和天皇崩御後に京都での山蔭邸宅があった吉田神楽岡に882年頃に創建された。根拠地の摂津と都に二つ同時に、密教により菩薩の化身とされた清和天皇に重ね合わせるように、観音菩薩像を安置し、清和天皇を想ったのかもしれない。

 

 

  山蔭死後の総持寺と新長谷寺

 

後世になって山蔭流は絶える事となる。

(ゆえに、藤原山蔭は家門・家流として「四条家・四条流」とは本来は関係が無かった)

 

だが、先に記したように山蔭の女系子孫には、ひ孫にあの藤原道長がいる。道長は総持寺と新長谷寺において、特に主体的な何かをした形跡がない。ではなぜに今なおこの二ヶ寺はしかと残り、そして藤原山蔭を開基・創建として伝える事が出来たのか。

 

それは道長の4歳姉、東三条院(藤原)詮子の事績が一つである。

 

NHK大河「光る君へ」では吉田羊さんが演じる。個人的にも好きな女優さんなので目が離せない。

 

 

藤原詮子もまた山蔭のひ孫であり、彼女の生んだ皇子が一条天皇となる。皇母となった詮子は絶大権力者の弟と天皇に対して、姉、そして母として物申すことができる立場となり、実際の人柄はさておき、時代における影響力がもっとも大い女性であったことは想像に難くない。

 

そんな彼女は総持寺と新長谷寺再興をした、と伝えられる。再興と伝えられているところからすると、100年過ぎて寺は廃れていたことがうかがい知れる。

 

だが、一条天皇によって総持寺は天皇の御願寺となった。あきらかに皇母・詮子によるところが大きいだろう。

 

 

山蔭たちが生きた時代から100年を超えて、皇母・詮子の時には強大かつ巨大権門となっていた比叡山延暦寺。天台宗内は天台座主と受戒の特権をめぐって、権力者道長を含め朝廷も巻き込まれてドロドロの山門寺門の争い真っ最中だった。

100年以上前、世の平安を願い、文徳天皇・皇后・9歳の惟仁親王(清和天皇)・太政大臣藤原良房らみなみなにそろって円仁から菩薩戒灌頂を受けた。円仁が生きていたら、さぞ嘆くことだっただろう。

 

(詮子が延暦寺西塔内の阿弥陀仏を移したことに始まる「真正極楽寺」、通称・真如堂。まさに山門寺門の争いが始まった時代のことだった。)

(真如堂の本堂。遠景なので大きさが分かりにくいが、総持寺本堂の倍ほどのスケールであり、整然、端正、凛とした風格は、圧倒というよりもどこまでも「真正」という名にふさわしい。)

(江戸時代末期に建てられた三重塔も端正さが際立つ。真如堂は三井財閥となった三井家の菩提寺であることも、三重塔建立に関係するだろう。)

(ひっそりとたたずむ真如堂境内の中にある新長谷寺。もともとは吉田神楽岡の山蔭邸宅跡付近にあったが、神仏分離令により移された。)

(秘仏ではなく、だれでも新長谷寺の十一面観音像を拝むことができる。洛陽三十三所観音霊場第5番札所。)

 

 



皇母・詮子は、曾祖父山蔭らの時代ように皇・臣・僧そろった皆の誠実な祈りを再興したかったのかもしれない。

 

 

だが天台宗は絶大なパワーをもちながら、内外で混沌を極めた。まさに末法思想を体現するままに。

 

 

 

そして藤原絶頂期も永遠ではない。院政期・源平争乱・鎌倉・南北朝と時代を経ながら、やがて、総持寺と新長谷寺は藤原山蔭流が摂津を知行した時代を遠くに過ぎ、山蔭のかすかな記憶を乗せて次代に伝える事となったのである。

 

 

 

 

ここまで見てきたが

平安時代の藤原絶頂期にあった山蔭のひ孫たち、道長、詮子ら姉弟においても山蔭が神格化されるほどの特筆される理由は見当たらなかった。

 

では藤原山蔭を神格化したものは何だったのか。

次回吉田神社と山城吉田神楽岡という場所、そして吉田神道をひも解いてゆきたい。

 

 

 

参考:

官人としての藤原山蔭
中本 和

 

神佛習合より見たる上代佛教の宗派的性格
伊野部重一郎
 (高知大学文理学部・歴史学研究室)

 

天理大学附属天理図書館蔵『新長谷寺縁起』
The “Engi” Document of the Sinhase Temple belong
to the Tenri Central Library : A Transcription
日沖敦子

 

受け継がれる山蔭像
流布本系『鉢かづき』を中心に

日沖敦子

 

藤原山蔭関連寺社縁起二種
国立歴史民俗博物館蔵『久修園院縁起』
福岡県八女郡大光寺蔵『飛形山大光寺縁起』
日沖敦子

 

『総持寺縁起絵巻」の成立と意義11 常称寺所蔵絵巻を中心に

日沖敦子

 

山蔭中納言と天の羽衣
山岡敬和

 

鵜飼と明石の君

貴種をめぐる狩猟文芸史の視座から

野谷健

 

清和天皇の受菩薩戒について
河上麻由子

 

伊勢日記私注
松原輝美

 

今様起源譚の展開
中世聖徳太子伝から

植木朝子

 

山蔭中納言説話の成立
『長谷寺観音験記』の場合
星田公一

 

 

随分と長らく間をあけてしまったこの話題。

前回は2020年の夏に記したものだが、4年もほったらかしにして、重要な肝吸虫についてついぞまとめをせずに、さらっと終わらしてしまっていた。

 

「これって私がしないといけないものなか?」という疑問をもちながら、この数年の間に誰かが肝吸虫と食文化について記してくれるかな・・・と淡い期待をしていたが、やはりそんなことは起こらなかった。

 

 

という事で、淡水魚を料理として扱う料理人にとって最も認識を深くしておくべきところを、まとめてゆきたいと思う。

 

その前に、肝吸虫は全ての淡水魚に寄生しているわけではない事は、当然の前提として認識しなければならない。

 

ビワマスの解説で記したように、肝吸虫について無視してよい場合もある。

 

また、琵琶湖沿岸部においては上下水道が整備されてからというもの、肝吸虫の生活環が失われつつあることも、ひとつ思慮しておこう。

 

  肝吸虫(肝臓ジストマ)基礎

肝吸虫は、シナ肝吸虫とタイ肝吸虫(東南アジア肝吸虫)という大きく分けて2系統に、シベリアから欧州にかけて存在する猫肝吸虫の3種がある。日本の場合はシナ肝吸虫が広く日本列島に分布してきた。(以後、シナ肝吸虫は肝吸虫と略す)

 

肝吸虫は肝吸虫症という症状をひきおこす原因になる寄生虫で、タイ肝吸虫も同様である。

 

肝吸虫の成虫は自然には存在しない。その幼生である「メタセルカリア」という動かざる楕円ボール状で第二中間宿主の中でじっとしている。第二中間宿主というのがいわゆる人間が食べる淡水魚の多くであり、鮮魚を生食することで最終宿主たる哺乳類に入り込むのである。

 

メタセルカリアからどうやって肝吸虫症にいたるかは、長くなるのでここでは記さないが、ネットを引けばいくらでも情報はあるので、知りたい方はどうぞ。

 

ラオス南部・ラハナム地区におけるタイ肝吸虫症と生態環境

 

 

 

  淡水魚の生食文化

滋賀における淡水魚生食文化は多様だ。

 

鮒のじょき。洗い。

鯉の洗い。

鮎のせごし。洗い。沖島造り。

ウグイの造り。

カマツカのせごし。

ハスのせごし。

マヂカの造り。

ビワマス造り。

 

などなど。

 

(ギンブナ洗い at ひさご寿し)

(マヂカのコイ・パー at小松タマサート)

 

一方、東南アジアにおいても、ラオスのコイ・パー、タイのコイ・プラー、ベトナムのゴイ・カーなど、淡水魚の造りに野菜やハーブ、そして魚醤で和え物にした似たような料理がたべられていて、大陸らしい食文化伝播となっている。

 

これら日本と同じく淡水魚の生食文化があるところには、大抵魚の発酵文化も付随しており、乳酸発酵の媒介にコメを使うところも共通している。

 

日本では撲滅に近い状態とされる肝吸虫症ではあるが、東南アジアの淡水魚生食文化圏で肝吸虫症が多いという事は、日常食としてまだまだ天然淡水魚が重要な役割を果たしているということの証左ではある。

 

視点を変えて裏を返せば、淡水魚料理がおいしいからこういう事が問題となり、顕在化してくるのである。

 

 

 

  肝吸虫リスク

 

かつて日本でも淡水魚をよく刺身で食べてきた食習慣から、1970年代までは多くの症例が報告されてきた。しかし、公害による淡水自然環境の破壊、水質悪化、食習慣の変化、下水道の普及、そして「プラジカンテル」という駆虫薬の開発などにより、日本では劇的に肝吸虫の症例は少なくなり現在にいたっている。

 

よって、日本での肝吸虫による重篤な症例については、2020年代において70才を超える世代や南方系アジアからの帰化または移住者に僅か見られる事を考えると、やはり肝吸虫の生活環が減少または消えつつあると予想される。まあしかし、油断するわけではない。

 

さて一方、タイ、ラオス、ベトナム、中国南部、台湾などまだまだ淡水魚の生食文化が旺盛な地域においては、高い寄生率、罹患率となっており、WHOや国際的な医学会においても注意が呼びかけられている。

何度も言っているかもしれないが、「無分別・無思慮な淡水魚の生食は危険である」ということは基本的に変わらない。特にこの肝吸虫については、調理過程において食品衛生上の安全を成立させるために、詳しく知恵をもっている必要性がある。

 

滋賀における淡水魚生食文化は旺盛である。かく言ううちの店で湖魚の料理をいろいろと提供しているのであるから、肝吸虫のリスクについてそれを回避する科学的知識をちゃんと理解したうえで、料理としてゆきたいと考える。

 

 

肝吸虫症リスク回避、具体的な方法。

 

1.食べない

2.加熱調理

 

と、まあこの程度の事はあまりにも単純すぎるリスク回避の方法なので、ここに記す意味はない。「橋のすみっこは危ないから真ん中を渡りなさい」と言っているみたいなものかもしれない。

 

なので、もう少し突っ込んだリスク回避における詳細な情報を綴っていこうと思う。

 

そもそも肝吸虫と肝吸虫症におけるリスクとはなんなのか。その点からも知っておく必要がある。おなかが痛くなる、はある意味正しい情報ではあるが、淡水魚料理に関わる料理人はそれでは情報不足である。

 

 

肝吸虫症におけるもっとも重篤なリスク、それは胆管癌である。

 

 

いきなり胆管癌とはビビッてしまう話かもしれないが、肝吸虫がすぐに胆管癌をひきおこすわけでも無く、寄生=癌でもない。まして、食=寄生=癌なわけでもない。しかしながら、肝吸虫症から発生する可能性のあるリスクの最大顕現化としてある胆管癌が、どのようにして最終的にとこへ進んでしまうのかについて、淡水魚料理を生業とする料理人は認識しておくことが必要だろう。

 

 

  肝吸虫と胆管癌

 

肝吸虫が自然界から人体に寄生し、胆管癌へ至る順序。

 

1.淡水中に浮遊する虫卵を第一中間宿主(マメタニシ等の淡水巻貝)が捕食する。

 

2.第一中間宿主内で変態して、淡水中に放出され、セルカリア幼生へと変態する。

 

3.第二中間宿主(コイ科を中心に複数種の淡水魚)の外皮から侵入し、外皮・筋肉中でメタセルカリアと変態する。

 

4.メタセルカリアをもつ淡水魚を最終宿主として人間が生食することで、十二指腸から侵入、胆管へ移動して成虫化、虫卵を放出する。

 

5.長年の食習慣(20年~40年程度)として食べ続ける事で、多数の肝吸虫が胆管に寄生。排出される虫卵や肝吸虫の代謝物・分泌物や寄生そのものによる慢性炎症、そして肝臓解毒能力低下により、胆管が癌化する。

 

 

といったのが大まかな流れである。

 

 

 

そもそも肝吸虫の虫卵はどこから来るのかというと、淡水魚を捕食した最終宿主の糞便が原因である。糞便とともに肝吸虫卵が淡水自然界に放出され、淡水を浮遊する。つまり、1へもどる。循環、生活環の中にいるのである。

 

こうした事から、先に挙げた肝吸虫症の発症が多い地域というのは、現在も最終宿主の糞便がそのまま自然界へと流れる環境、下水道の整備が進んでいない地域である。特に罹患率が高いタイ北東部やラオスは、文化的に幼少期より淡水魚を生食する機会が多い。上下水道の整わない中での数十年に渡る生食習慣が、あきらかに肝吸虫の寄生、そして肝吸虫症の発症と胆管癌の発症という症例に対して、相関関係にあることが、統計上明らかになっている。

 

 

ちなみに日本における肝吸虫症の詳しい発生状況については、厚生労働省の公式データベースにて知ることが出来る。

 

ここ10数年調べただけでも、日本全国における肝吸虫症発症について、近年の琵琶湖における淡水魚生食からと推察できるあらたな肝吸虫症患者は見られない。

 

だが、結果や現状がこうだから滋賀そして琵琶湖の湖魚における肝吸虫リスクが、100%無い、大丈夫だとは言わない。

 

 

では料理人はどうするべきであるのか、ということについて考えてゆこう。

 

 

 

 

  湖魚は安心して食べる事ができるのか

少なくともひさご寿しにおいては、安心して食べてもらうことが出来るエビデンスは用意している。

 

この肝吸虫というリスクの潰し方をここに記してゆこう。

 

 

先の段に書いた「まず、食べない!」は論外として外す。

 

 

 

ポイントとしては、最終宿主に入り込むのを淡水魚の中でじっと待っているメタセルカリアを死滅させればよいのである。

 

 

いろいろあるので列挙してゆく。

 

 

1.加熱する

もっともわかりやすく、公的機関情報においても最も推奨されている「食べる方法」である。もはや詳しく説明しまい。

 

2.冷凍する

メタセルカリアは意外や氷温以下でもすぐには活性を失わない。だがアニサキス同様に、通常冷凍庫(-13℃程度)の2日冷凍を経ると、活性を失う、つまり死ぬ。だが、冷凍後6時間ではまだ活性を取り戻す個体もあることが、実験で分かっている。ということで、まあ2日冷凍した淡水魚においては、生食安牌なのである。

 

ここまではたいていの予想通りなところだろう。

 

 

3.塩蔵

これはMSDプロにおいて「塩漬け」は肝吸虫症のリスクと成り得る、と紹介されているが、100%そうではない。なぜならば、メタセルカリアはある条件の場合は塩分に対して、失活する。人間がおいしいと感じる塩分濃度1%~1.5%程度では一部失活はあっても、数十日は生存している。だが、3%を超えてくると徐々に耐性が弱まり、5%に達すると2日目には失活する。

 

醤油30%濃度の液中でも同様に失活する。塩分濃度で見ると概ね5%だからだ。

 

だが5%に達する塩分濃度というのは、料理としてはかなりの塩分濃度ではある。ゆえに「美味しい湖魚料理」とするには、塩蔵からのケダシ(気出し)で塩抜きが必要だろう。

 

 

一方、こうした塩分濃度を利用した安全性の確保は、かなり昔から使われてきた手法・技法で、鮒寿しの塩切、ナレズシにする前の塩切、そして魚醤もその一つと言えるだろう。

 

日本では大豆醤油が主流ではあるが、近海部の魚醤、ラオスのパデーク、タイのナンプラー、インドネシア・マレーのケチャプ、ベトナムのヌクマムなどは魚類の塩蔵と発酵から得られる液体調味料が、広範囲で食文化として存在する。中でも内陸のラオスやチャイナの南部の場合は、淡水魚を使った魚醤である。

 

 

 

もし塩分濃度に関係なくメタセルカリアが活性を保てるのであれば、上記の塩蔵淡水魚から肝吸虫Mメタセルカリアが発見され、肝吸虫症が広く発生していてもおかしくないのであるが、そうではないところからも、塩蔵の条件によっては有効なメタセルカリア対処とできる。だがMSDプロで公開される情報としては、もっと査読を経た学術論文が積み重ならないと、「塩蔵」は永遠に肝吸虫対策として認められることはないだろう。

 

だが、「塩蔵」を安易にとらえることには十分に注意しなければならい。魚体の内部まで、はたまた切身の全体に塩分がまんべんなく浸透するには、ある程度の時間経過が必要である。仮に刺身としてカットした切身に塩を表面に振りかけたとしても、ただちに切身全体がメタセルカリアが失活する濃度に達するわけでは無いからだ。

 

 

4.酢漬け

これもまたMSDプロや多くのサイトで「肝吸虫」のリスクとされている。何度も記すが、これもとある条件下では肝吸虫のリスクとはならない。

 

酢漬けなる技法・技術による滅菌・殺菌・除菌効果は広く認知されている事ではある。食酢に含まれる酢酸により、食品のPHが下がることで微生物が生存できなくするものである。これは乳酸菌発酵による乳酸で食品中のPHを下げて、食品の保存性を高めることと同じ効果を利用したものである。

 

メタセルカリアは菌では無いが、食酢10%の希釈液中で3日後に失活する。つまり、いわゆる酢漬けは有効策なのではあるが、塩蔵の項で記した通り、食酢10%の調味液に浸せばすぐにメタセルカリアが低数値PHに暴露するわけではない。仮に八方酢(出汁:食酢:みりん:薄口=7:1:1:1)で合わせたところに切身を漬け込んだとしても、切身の組織内全体が同一のPHになるまでに時間がかかるだろう。だから、ゆっくりと浸透する方法では「3日」でリスクを回避できるわけではない。まして、魚体の成分と体積を計算に入れると、PHはもうすこし上がることになるから、上記の八方酢は食酢10%と同条件とはならない。なので、調味液と魚体の体積比率と、全体における酢酸濃度とPH値の計算とコントロールが必要である。

 

こういう事から、酢漬けによるリスク回避は十分に考慮する必要がある。ゆえに公開情報中には不十分な酢漬け、または酢漬けそのものを肝吸虫症のリスクとして紹介されている事が多い。

 

 

 

という事でオリジナルに酢漬けによるリスク回避の方法を具体的にしるすとすれば、

 

切身100g

昆布出汁100㏄

食酢25㏄

みりん25㏄

薄口5㏄

塩2g

 

さらに魚体に一気に浸透させるために真空パッキング、のちに3日間冷蔵にする。こんな方法になるだろう。

 

もし大きな味付けを避けて、単純に食酢によるリスク回避だけを目指すのであれば、

 

切身100g

水100㏄

食酢25㏄

塩2.2g

でパッキング、3日間冷蔵。

 

こんなところだろう。

 

まあ、冷凍するならこんなことしなくても良いのだが。

 

 

5.醤油漬け

これは塩蔵とある意味共通する技法ではあるものの、ケダシが出来ない分漬け込み液に工夫が必要である。

 

メタセルカリアは塩分濃度5%に暴露すると3日目には失活・死滅する。つまり調味液と魚体の総量に対して30%の醤油が入っているところへ、3日間漬け込めばよいという事になる。

 

だが醤油30%の味とは、3杯酢を飲むような味濃いものである。果たしてこれは美味しい料理になるのかというと疑問ではあるが、とある料理にすると仮定すれば技法として知っていて良いものではある。

 

 

とまあ、肝吸虫というリスクに対して出来る事はあることは確かである。

 

 

 

  伝統から進化した食文化として

ここまで肝吸虫におけるリスクとリスク回避について列挙してきたが、そもそも食とは命をはぐくみ、心身をすこやかにするものであるべきもののはずである。

 

にもかかわらず、リスクを目の前にして、こうも何とか食べようとするべきものなのだろうか、という疑問がある事だろう。ましてリスクの最顕現化は胆管癌や死なのだから。

 

 

淡水魚料理はうまい。

 

 

要約するとこの一言に尽きるだろう。

 

じょき、ぬた、洗い、せごし、コイパー、ゴイ・カー、コイプラー、様々な淡水魚生食料理たち。これらは食べる価値が無いのだろうか?

 

いや、どれも食べたい料理ばかりである。

 

だからこそ、このうまい料理たちを食べ続けるために、ありとあらゆる情報を集めて、そしてリスクを回避し続ける事が出来るように、明らかにしたい。

 

むろん、肝吸虫リスク回避に有効な上下水道の完備と水環境の保全、外来種汚染の防御といった個人ではどうにもできない事もあるかもしれない。しかしながら日本人が「ふぐ」という猛毒の魚を、幾あまたの屍を乗り越え、先人たちの尊い犠牲の上に知識と知恵を積み重ね、現代人は安全に美味しくふぐを食している。すばらしい食文化と声を大にして先達の料理人たちを讃えたい。

 

 

淡水魚の生食は危険。

 

 

などと、十把一絡げでまとめてしまう事は私はしない。

 

 

一つ一つ丁寧に見つめながら、次世代にもその次にも、美味しい食を文化として繫げてゆくために努力したい。

 

 

参考

タイ肝吸虫感染による胆管癌の発癌分子メカニズム

岐阜大学 呉志良

 

肺吸虫症に関する研究 第一篇疫学的研究
長崎大学風土病研究所臨林部(指導兼任所員 横田素一郎教授)
長崎大学医学部内科学第一教室(主任 横田素一郎教授)
田中德郎

 

内陸国ラオスの塩と魚で作る伝統発酵食品
丸井淳一朗1*,羽佐田 勝美1,サイビセン・ブロム2

 

肝吸虫症に合併した多発総胆管癌の1例
齊藤修治 遠藤格 山岸茂 田中邦哉 市川靖史 渡会伸治
嶋田紘1)天野皓昭2)上田倫夫
河野尚美3)

 

胆道がんで世界横断的・最大の分子統合解析実施
ゲノム・分子異常解明が大きく前進、ゲノム医療促進を期待

国立研究開発法人 国立がん研究センター
国立研究開発法人 日本医療研究開発機構

 

十二指腸乳頭部癌を合併した肝吸虫症の1 例
―中国より帰化した女性で経験した―
小野寺滋斉藤孝治斎藤貴史
冨樫整河田純男1) 鵜飼克明
新沢陽英2)

 

肝吸虫症9例の臨床的検討
八木澤仁 小松眞史 向島偕 戸堀文雄
荒川弘道 井上修一 正宗研* 谷重和**

 

胆嚢内血腫に虫卵を認めた肝吸虫症の1治験例
神鋼病院外科,同 放射線科,奈良県立医科大学寄生虫学教室
井上直也 滝吉郎 川平敏博
坂野茂 頼文夫 冨永純男
花岡道治 久保田晋* 西山利正

 

胆汁のグラム染色標本より虫卵を見出し
肝吸虫症と診断した1例
西村恵子
赤磐郡医師会病院臨床検査科

 

ラオスの寄生虫症の現状と課題
JICAラオス国のマラリア及び重要寄生虫症の流行拡散制御に向けた遺伝疫学による革新的技術開発研究プロジェクト
研究推進統括/集団遺伝学的解析・評価研究 専門家
石上 盛敏

 

タイ東北地方における生魚料理「コイプラー」の食習慣をめぐる人類学的研究
首都大学東京大学院人文科学研究科社会行動学専攻・斎藤俊介

 

社会・経済損失をもたらす肝吸虫Clonorchis sinensis の感染と
その一次・二次予防の対策に関する基盤研究
牧純

 

肝吸虫症に合併した肝内胆管癌の1 例
松林  潤 1) 平良  薫 1) 余語 覚匡 1) 鬼頭 祥悟 1) 
浦  克明 1) 豊田 英治 1) 大江 秀明 1) 川島 和彦 1) 
石上 俊一 1) 土井隆一郎 1) 
1) 大津赤十字病院外科

 

肝吸虫症に合併した胆管癌の1例
長浜赤十字病院外科
前田健一 下松谷匠 谷口正展
中村誠昌 白石享 丸橋和弘

 

滋賀県琵琶湖周辺地域における肝吸虫症の疫学的研究
2.淡水魚類および人についての調査成績
長花操*吉田幸雄 松尾喜久男
近藤力王至 松野喜六 栗本浩
岡本憲司
京都府立医科大学医動物学教室

 

静岡県における寄生虫の疫学的研究
(5 ) アユにおける横川吸虫メタセルカリアの寄生状況
伊藤二郎

 

肝蛭感染予防の研究
II.各種外的條件及び薬剤のメタセルカリアに対する効果
小野豊*磯田政恵*松村重義*

 

肺吸虫Paragonimus westermani の生物学的研究
(2) 肺吸虫被嚢幼虫の抵抗について
津田道守
 

 

 

シャリ。

 

すし屋の味を決める個性のひとつ。

 

節分はひさご寿しでもっともシャリをたくさん作る日。

 

すしのシャリは、それぞれのお店と職人さんに一家言があり、作り方は十人十色。だからこそ、ひさご寿しにおけるシャリとはどういうものなのかを、節分という機会にまとめておこう。

 

 

(ひさご寿しのすし米の産地、滋賀県東近江市蒲生地区。蒲生氏の発生地)

  寿し好適米「日本晴」

 

ひさご寿しのシャリの米は寿し好適米「日本晴」。

 

日本晴は滋賀、福井を中心に作られている品種で、食味審査と呼ばれるいわゆる美味しいお米を決めている審査会における点数は70点であり、米の食味を判断する基準米となっている。

 

有名魚沼産コシヒカリや滋賀県産みずかがみなどは食味審査で98点~96点などであるから、日本晴は美味しくないお米なのかというと、こと寿しのシャリにする場合は全く違うこととなる。

 

ひさご寿しにおけるシャリは、上方寿し全般とにぎり寿しに使う。作り立てだけでなく、テイクアウトやケータリング、はては棒寿しなど、お客様が食するまでのタイムラグがかなり大きい。鯖やビワマスの棒寿しなどの時には翌日・翌々日に食することまでを考慮した設計が必要である。

 

特に上方すしの場合はシャリの元となる米のデンプン質の含有割合の違いによる食感の変化、含まれる米油の香りやタンパク質に含まれるアミノ酸構成比など、味の要素が多岐にわたる。また時間経過とともに、シャリとネタとの味の交配が起こるため、それもふくめて「美味しさ」とすることが出来るシャリのパワーが要る。

 

「日本晴」はコメの性質として、コシヒカリに比べて粘りが少ない。これはコメの粘りを生み出すデンプン質の含有比率が違うからで、粘りを生み出すのがアミロペクチンと呼ばれるものだ。アミロペクチン100%のコメがもち米だと言えばわかりやすいだろう。日本晴の場合、コシヒカリに比してアミロペクチン含有量がやや少なく、アミロースのほうが多い。

 

さらに、日本晴とコシヒカリとでは、粘りを生み出すアミロペクチンそのもののについても違いがあって、コシヒカリのアミロペクチンはより粘りやすく、モチモチ食感を生み出しやすい事がわかっている。

 

一般的にモチモチした炊き立てご飯が好まれる傾向がある。しかし鯖寿しや巻寿し、そして箱寿し・押し寿しにシャリをギュッとさせても、咀嚼しながら口の中でほどけてゆくのがひさご寿しでの寿しの目指しているところである。モチモチした性質のコメの場合は、団子状・餅状になってしまい、ほどよい口解けが難しい。

 

特に鯖寿しの2日目・3日目の美味しさを作り出そうとする場合、棒状にシャリを力を加えてシャリの粒同士の間から、程よく脱気させながも、適度に空間を持っている必要がある。これが、アミロペクチンの多いモチモチしたコメの場合には難しくなる。

 

そもそも鯖寿しなど棒寿しのシャリを、ガッツリ練るようにして棒状にまでして脱気させる理由は、時間経過とともに酵母がシャリを発酵させてしまわないためである。

 

2日、3日と時間を経ても鯖寿しや押し寿しをおいしくさせるための工夫というか、保存性の延長というか、知恵がそこにあるのだ。

 

これが伝統的な上方寿しのシャリを作る場合に、繋がれてきた知恵のひとつである。

 

まあ、モチモチしたシャリを、温かいうちに、フワッとにぎった寿しも美味しいのだが、ひさご寿しのシャリの味はどこにコミットしているかというと、割と時間がうしろの方にあるという感じである。

 

 

  シャリの香りと旨味

 

さらに、ひさご寿しの場合は滋賀県蒲生産契約農家による「日本晴」を、定温貯蔵庫で最低1年、できれば2年以上原体で保存したものを、仕入れ都度に脱穀精米して使う。

 

これはシャリの日本晴に限らず、リゾットに使われるコメも同様の理由。

 

コメの「香り」である。

 

炊き立ての新米の香りをかぐと、得も言われぬ”おいしい”を彷彿とさせる。

だが、シャリとなると米酢、醸造酢、みりん、砂糖、塩など調味料が入る。特に酢は酢酸の香りが強く、まして純米酢や赤酢ともなるとより香りが立つ。コメはそうした強い香りを含みながらも自己主張とバランスをたもつには、一年以上の熟成をかけた古米・古古米のほうが良いのである。

 

古米・古古米になるとコメはゆっくりと籾の中でわずかに乾きながら、コメの外皮や胚芽に含まれる脂質が酸化し、香りが変化するのである。

 

このわずかに外皮の酸化した香りが、酢やネタの香りに押されないコメの風味として、上方寿しを成立させている。

 

 

(たんぼのすぐ近くにあるJA蒲生の定温貯蔵庫)

(約16℃あたりで貯蔵される)

(ずらりとならぶ原体。某有名柿の葉寿司メーカーさんのものもある)


 

 

コメの香りについては、1990年代の冷夏で大不作の折、日本がタイから長粒種を輸入した際、多くの日本人がそのコメの香りに「不味い」と言ったことがある。助けてもらってその言い草はどうなのかという事はさておき、日本人の多くはコメの香りを求めてはいない。だがあえて言おう。上方寿しには香りのあるコメのほうがいい。香りをどう調味するかは、料理人次第である。

 

コメも生鮮食品である限り、新鮮なコメと新鮮な魚介による、弾けるような、まるでアイドルスターのまぶしくてキラキラした寿しもまた、最高に美味しいものであることは当然なのだが、デビュー40周年の歌い継がれる老練の歌い手と楽曲にもまた、味わい深いがごとく、上方寿しにも良さがあるのだ。

 

 

  そもそもシャリなのか、ネタなのか。

 

「sushi」はもはや世界料理であるものの、日本における「すし」はことさら日本人にとって思い入れが強い料理だと思う。

 

世界的に著名なすし職人ともなれば、その仕事における一挙手一投足、はてはライフスタイルまでが後発の料理人に影響を及ぼす。

 

つい先日も情熱大陸で東京の女性すし職人・幸後綿衣氏がクローズアップされたところを見ると、女性すし職人というのも今後増えてゆく事だろう。すばらしい。

 

現在進行形ですし屋というレストランスタイルのトレンドは、いわゆる「江戸前すし」という起点に、にぎりすしを中心にして回っている。すし職人も、経営も、メディアも。

 

そうした中で、時々出てくるこの課題、

すしは「シャリなのか、ネタなのか。」

 

 

一般的な及第点の答えとしては、「ネタとシャリはバランス」ではあるが、ひさご寿しの場合はここまでツラツラと書いてきた通り「シャリ」である。

 

 

これは、ひさご寿しは少し時代遅れのすし屋であることに由来する。

 

 

  時代遅れのすし

ひさご寿しのすしには本当に多くのバリエーションがあって、歴史的な日本のすし文化の変遷を味わうことが出来ると言ってもいい。

 

1.熟鮓

2.早熟鮓

3.郷土すし

4.上方すし

5.にぎりすし

6.裏巻すし

 

 

ちなみに「鮓」という表意文字としての漢字が持つ意味は、塩と魚だけで発酵、もしくは米を加えて発酵したもの、を後漢期には指していて、チャイナ最古の料理書「斉民要術」(北魏時代)にも記されている。

 

また近年でもよく見かける「鮨」という表意文字の漢字がもともと表している意味は、魚の塩辛であった。これは始皇帝で有名な「秦」の時代からの事である。

 

 

話はもどって、

1番目の熟鮓は滋賀県のソウルフードである鮒寿しを代表に、様々な湖魚の熟鮓をひさご寿しでは提供している。フナ、ビワマス、ハス、ウグイ、ホンモロコが現在も作っている種類である。

 

2番目の早熟。これは鮒寿しのように1年を超える発酵ではなく、2週間から3ヶ月程度までの発酵したなれずしの事で、鮒寿しから比較すると短期間の発酵なので、「早熟」なのである。ひさご寿しで言えば、めずし、山かぶら鮒糀、ウロリ糀塩辛。日本各地には北海道や東北のいずしや、北陸や湖北の蕪寿し・大根すしだろう。

(14日発酵オイカワめずし)

 

3番目の郷土すしについては、ナレズシという歴史から進化して、いわゆる酢飯で作る「早すし」である。雑多な家庭料理的すしの総称というか、祭や法事で用意するばら寿し、杮すし、押し寿しなんかがこの類で、日本全国には郷土ごとに本当にバリエーション豊かな郷土すしがあるが、近江八幡ではもっぱら「ばら寿し」。これは冠婚葬祭すべてで食されてきたもので、干瓢・高野豆腐・椎茸・牛蒡・人参などが五目としてシャリに混ぜられ、上には錦糸卵と梅酢漬けの生姜を刻んで添えられる。近江八幡の農産物直売所に行けば、たいてい売っている。家庭の食文化として今なお続いているのがとてもうれしい。

 

これがとても素晴らしい編集で、郷土のすしが勢ぞろい。日本のすしとはかくも豊かなものかと、ウキウキして眺めるものだ。母方の実家・香川県の赤車海老入りのばら寿しも懐かしく、大分の茶台寿しや鹿児島の酒すし、金沢の紺のりが入った押し寿しなども特徴的で面白い。

 

 

さて、4番目の上方すしというのが、ひさご寿しで言う「巻寿し」のカテゴリーである。

 

上方というのは京におわすお上の御所をセンターにして、地方から見た地域名である。まあマウントとるためのネーミングですなw

 

滋賀は上方には含まれないのではあるが、京都・奈良・大阪と食文化に共通項がおおく、押し寿し・箱寿し・棒寿し・巻寿しなど共通したすしが多い。

(ひさご寿しの押し寿しいろいろ)

 

中でも「鱧の箱寿し」については京都・滋賀にしか存在しないのは、ともに海が無いからかと思われる。一方、バッテラ、ケラ箱、穴子箱、海老箱、などは大阪とも共有しているすしである。

 

そして節分の代名詞になりつつある「巻寿し」は、江戸時代から現代アレンジまで他種多様に変化し続け、おとなり韓国においても似たようなキムパプとなって伝播している。

 

上方巻寿しの最も古い出典は、江戸時代1776年の新撰献立部類集。

 

 

ひさご寿しで作られ続けている巻寿しは、魚介類を使わない京都・滋賀ならではのオーソドックスと言ってよい。流通の発達した現代において、滋賀はどこでも海産物が安易に手に入るようになったが、ひさご寿しのすしの味をつくりだす主役が、やはり米でありシャリである理由は、滋賀が歴史的に日本のコメ食文化において重要な場所であったことを、次世代に忘れず伝え繋いでゆくためと考えている。

 

 

 

参考:

品種の異なる米澱粉の構 造と糊化特性

大家千恵子・川端晶子

    
再考ふなずしの歴史

橋本道範/編著

 

別冊うかたま伝え継ぐ日本の家庭料理
すし
ちらしずし・巻きずし・押しずし など
著者:日本調理科学会 企画・編集

(湯葉雲辺 at永源寺 2022)

 

美食には経済成長は必要不可欠である。逆に言うと、経済成長は美食と文化を醸成する。古代ローマやオスマン帝国、南宋、ブルボン朝のように。

 

精進料理は経済成長のはざまで発生してから700年、日本の食文化に深く突き刺さって、いまなお賢者の料理として生きながらえている。

 

現代の精進料理はさまざまな形式と立ち位置を持っている。

 

寺院での公式料理。

寺院と衆人の行事料理。

外食サービス、宿泊サービスの商品としての精進料理。

アートとしての精進料理。

 

これらの精進料理が全て見え始めるのはこの室町の時代である。

 

室町は日本の文化変革期、もっと言えば日本文化を決定づけた時代である。

 

経済システムの変化、日本独自の思想変化の流れを、「精進料理が生まれるまで」という視点から観察する。

 

  室町という高度経済成長期

 

華々しい戦国時代や幕末は数々の歴史小説やドラマ、映画がつくられるから、学校のお勉強をおぼえていなくても知る機会が多い日本の歴史の1ページ。一方、室町時代はいろいろな事情がからまった政治的な混乱や事件もいろいろ多く、日本のあちこちで複雑にストーリーが絡み合う、わかりにく時代。ゆえに多くの日本人が知ることをやめていると言っていい。面白くないから。

 

で、室町ってなんなのさ。

 

 

「室町」とは足利将軍家が屋敷を構えた京都の一角であり、権力者の代名詞である。当時は室町に住まう足利将軍を「室町殿」と呼び、その絶頂期は3代将軍足利義満、国際名・源道義である。

 

足利義満は絶大な権力を手中にし、室町の絶頂期を生きた人物で、国際政治家としてもはなしが多いし今回は取り上げない。

 

 

あくまで美食と経済、そして「精進料理」が発生するまでの背景を整理して、記しておきたい。

 

(激動の鎌倉から室町への変革期・南北朝期に足利を助け大活躍し、滋賀を中世400年にわたって支配した佐々木氏の本拠・観音寺城跡から見渡す安土城方向)

 

鎌倉時代から続いた日宋貿易・日元貿易は、日本の鉱物資源である金・銀・水銀・日本刀をチャイナに輸出し、チャイナからの輸入は鋳造された銅銭の他、書籍や薬、文化芸術品など、そして学僧が留学して大陸の禅教養と最新の知識を身につけて帰ってきた。

 

当時の日本のマネーサプライはチャイナからの銅銭に依存していたが、貨幣量を増大させ続けている。加えて国内にはない輸入品の数々が日本市場に続々と入ってくるとなると、継続したインフレと輸入増加・貿易赤字による日本歴史上の最初の高度経済成長期を迎える。

 

 

チャイナの元朝滅亡後の明朝においても、引き続き日明貿易として経済交流が行われる。日本側のハブ港になっていた博多では禅院の末寺がおかれ、物流に関わる博多商人は莫大な富を得る。その商品代の1割を朝廷・幕府に納めるシステムになっており、室町殿の政権運営と政治基盤強化にうまく機能した。

 

 

 

足利将軍家が財と利権が増大することで、家臣である管領家もそれぞれに物流の利権をつかんでゆく。鎌倉式の「御恩と奉公」という武士の経済は、室町殿によって貨幣経済に変換される。

 

武家の日明貿易利権を得てゆく過程には、禅院がインテリジェンスとして活躍していたことは想像に難くない。なぜならば、武家が実務としてチャイナと交渉するわけではない。日宋貿易以来、チャイナに対するカウンターインテリジェンスは禅院の「東班衆」という禅僧が担ってきたわけで、いわば現代の「官僚機構」として、東班衆の禅僧は外交・財務・経済産業、そして西班衆の禅僧は哲学・教義・教育・布教・修行を司る。

 

鎌倉初期から数えて200年、「禅」は本来ブッダの言葉を伝えるための教えだったものが、政治・権力・経済・文化に深くかかわるようになった。

 

良い悪いのはなしではなく、当時の日本にとって「禅」はまさに政経エリートであったという事だ。

 

 

こうして禅院の活躍によって日本は世界と交易ができる経済力とインテリジェンスを持ったわけである。

 

  禅院から生まれた「食」という修行

 

禅院、とくに曹洞宗における「日常の中にある修行」という概念によって、料理も仏道修行のひとつとして伝播し始めたことは日本の食文化の歴史において大きい意味がある。道元による「典座教訓」「赴粥飯法」が記されたのは、精進料理が和食となる第一歩と言える。

 

 

だが道元はあくまで仏道修行の在り方として、日常生活の食にも仏性を見出すことで菩薩行・六波羅蜜のひとつ「精進」を実践しようとしたものである。

 

道元より約200年後の室町で、いかにして「精進料理」フォーマットへむかったのか。

 

いきなり民衆も含めた食文化の中に精進料理が生まれたわけではない。そこにたどり着くまでには、さまざまな室町の社会情勢と流れがあってこそなのである。

 

  自主独立!たくましい室町の人々

 

 

さて経済の流れ。

平安時代の現物経済・物流システムでは皇室・公家・南都北嶺ら荘園領主に全国の物産が集まったが、鎌倉~室町では貨幣経済の発達によって一般に全国の物産が流通するようになる。特権階級だけの奢侈を尽くした珍品料理集から、さまざまなバリエーションの料理が生まれ始める。マーケットのニーズによって自由に物品が行き交うというのは、現代のわたしたちが持っている経済感覚とも随分と近いもの。

 

特に武家と公家のアクセスが多かった臨済禅は、チャイナにおいて儒教の朱子学・陽明学や道教も融合している部分もあり、ブッダの言葉に孔子と老子の言葉も加えて、日本のリーダーシップにおける道徳的な教えを決定づけたと言って良い。戦国武将たちも禅宗に帰依していた。武田信玄、上杉謙信、織田信長の3名を挙げるだけでも十分か。

 

また、貿易商人は東班衆らとともにビジネスを展開していたわけで、必然的に商人たちも禅宗に強く影響されることになる。

 

一方、「死後の極楽浄土」を伝える浄土宗・真宗は広く一般民衆にもブッダの言葉を広げることに寄与してきた。ブッダは「念仏をとなえよ」などとは言っていないのだが、ただひたすらに祈ることで、人々が不安無く人生をすごすことが出来るのであれば、それは確かにブッダの教えが目指したものと言える。わかりやすさが一般人の味方であることは、今も昔も同じ。

 

 

 

室町中期になると、貨幣経済の浸透による経済知識と仏教教化による思想哲学の醸成が相まって、支配階級である武家と公家以外にも、教団というか宗徒・宗門によって民衆が組織化されてゆく。また一般民衆による自治自衛組織化もはじまる。

 

惣村である。

 

滋賀は代表的な惣村として「菅浦」という場所がある。琵琶湖の最北の漁村で、白洲正子が「かくれ里」や「近江山河抄」に記した場所。室町時代に書かれた「菅浦文書」は国宝となっている。これは惣村の民衆組織がどのようなものであったのか、当時の実態を知る貴重な文書として近年国宝となったのだが、惣村を自治運営している一般民衆が文字を書き、帳簿を付け、記録を残すという事をできていること自体が歴史的価値がある。

 

(現在ものこる菅浦の「惣門」は自治の証し。と白洲正子オキニの場所「須賀神社」)

 

 

このような各地に点在した自治のめざめ、惣村はやがて近江商人の元となる四本商人の発生へとつながる。

 

禅院の外交貿易と並走した商人たちが博多や堺を自治した例や、真宗門徒による惣村自治など、背景には常に寺院が影響している。

 

一方、旧来勢力である比叡山はもともと「出挙(すいこ)」と呼ばれる種籾の貸借システムと、専売品(塩・酒など)ビジネス、関所による関税、馬借の物流、に加えて新たなビジネスとして土倉・酒屋と呼ばれる今でいう金融業を行っていることから、宗教というより実質経済として多くの民衆とつながっていた。また、密教色の強い山門・寺門と別に、一般民衆にもわかりやすい念仏メインの天台真盛宗の発生によって、旧態依然としたところからの変化も室町におこっている。

 

 

(秋の西教寺と伝統野菜坂本菊の菊御膳。天台真盛宗総本山西教寺は明智光秀が焼き討ち後に寄進再建し、後陽成天皇によって白河院の事績を伝える寺院としても格付けられて現代に続く。)

 

禅、浄土、密教。

中産階級、一般民衆、特権階級。

全ての社会的階級と生活、習俗に浸透する寺院。

 

これにより日本人全般に神仏習合が行き渡る。

 

思想、哲学、科学、儀礼、建築、美術、芸術、経済、政治、金融、物流、農政、自治、しまいには軍事まで。

 

それが室町の日本人である。

 

日本文化の全てにおいて日本仏教と寺院とは何なのかを抜きにして、理解することは不可能なのである。

 

食文化においても何をかいわんや。

 

 

だが、まだ「精進料理」ではない。

 

 

 

 

  日本最初の経済崩壊 in 室町

自由経済は格差を作る。

金持ちはより金持ちに、貧乏はより貧乏に。

 

格差を無くすために統制経済をすると、権力集中の腐敗と悲劇的な結末を迎える。

 

これらは歴史が証明している。

 

 

 

大きな経済成長には的確でフレキシブルな経済施策が必要。マクロ経済学が進んだ現代では、貨幣と金本位制、変動相場制、需給の関係性、デフレ・インフレによって実質経済はどのように変化してゆくかを過去の事例とデータから読み解いて知ることが出来る。だから室町の経済はどのように崩壊してゆくのかを、現代では見ることが出来る。

 

なのに自民党と財務省が日本経済をうまく運営できないのは謎であるw

 

 

貨幣量(マネタリーベース)が増大した室町で、土倉・酒蔵という金融業が発達した話を先に書いたが、個人が経済的自由を手にするという事は、高利貸し業が成長するわけで、多くの経済破綻者も作ってしまうのである。

 

これは「自由」と引き換えのリスク・負の側面ではある。今でこそ日本人には普遍的な価値として、自由とリスクが共存していると理解があるが、法整備が整わない中で経済発展と民衆の自由が広がった場合どうなるか。

 

経済弱者の資本は、金融業である土倉・酒蔵によって年率24%あたりで延暦寺に資本が吸い上げられる。延暦寺には皇室、公家、武家の次男坊以下が多く集まっており、GDPの成長分は結局支配層に集まってしまったのである。

 

また、延暦寺に帰属する土倉・酒蔵のような国家権力に近い金融業とは別に、日銭屋という民間高利貸しも多数生まれる。現代でも当然のことながら、公的な規制をかいくぐる悪辣な金融屋は自由経済である以上生まれるのである。

 

こうして経済的困窮におちいった一般民衆の最終手段といえば、

 

 

暴動である。

 


「土一揆」とよばれる民衆暴動が多発する。

 

イッキ、は各地で土倉や酒蔵や日銭屋から自身の資本を奪い返す行動であったが、暴動を抑え込むために幕府は「徳政令」と呼ばれる借金棒消しで対応した。

 

ただし、公的年率24%の土倉や酒蔵の借金は徳政令の対象外だったため、やはり経済格差が進んでゆく事を押さえる事が出来なくなってゆく。

 

室町幕府が選んだ経済施策は、貨幣量の制限、いわゆるデフレ政策である。日明貿易を停止してチャイナ銭の流入をストップさせた。

 

貨幣量を減らすと物価は下がるが、逆にものが売れないデフレになる。全体の経済は不況に向かい、貧困層を増やしてしまう事になるのは、現代のマクロ経済学があるからわかるわけだが、当時はやってみたわけである。

 

案の定、上手くゆかない経済施策を反転させ、日明貿易を再開させる。

 

この流れはまるで現代日本政治を見ているようである。

 

 

 

  剛腕・6代足利義教からの・・

経済施策を修正したのは6代足利義教である。

 

 

南北朝の動乱をおさめ、日明貿易によって日本経済を爆上げさせ、南都北嶺をも抱え込み、明国皇帝より日本国王に冊封され、皇室をのっとる手前まできた3代足利義満。だが一歩手前で寿命が尽きた。その息子にして4代目がデフレ政策で失敗したのをを、弟の6代足利義教が修正した。「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ、若干20歳にして大僧正天台座主にのぼるスーパーマンである。

 

出身の比叡山延暦寺を史上初めて焼き討ちした、強権剛腕政治家でもある。

 

(延暦寺根本中堂、現在は大改修中)

(延暦寺西塔釈迦堂。もともとは三井寺の本堂を信長焼討のあとに秀吉が移転させたもの。現・延暦寺最古の建築物)

(東塔地域にある浄土院。奥に伝教大師最澄さんの御廟がある)

(伝教大師御廟)

 

 

だが強権すぎて配下に裏切られ暗殺されてしまう。自由経済の浸透によって各地の守護・管領、加えて一向衆や法華衆は独自に経済力を拡大させており、彼らをまとめるべき武家の棟梁・征夷大将軍のリーダーシップは、足利義教亡き後回復することはなく、徐々に衰えてゆく。

 

やがて足利義教の息子8代足利義政の時に起こった「応仁の乱」によってカオスとなる。

 

中央がカオスとなると市場の貨幣は必然、安定した地域に流れてゆく。これによりハイパー実力主義の戦国時代へと向かってゆくのである。

 

精進料理フォーマットが近づいてきた。

 

  戦国時代は料理人も戦国

武家の政務における本質は裁判官である。

武力という最終手段の背景によって判決を両者に強制する。

 

武家の棟梁・征夷大将軍は最高軍司令であり、最高裁判事である。

かろうじて8代足利義政までは京都に構えることが出来ていたが、応仁の乱・明応の政変以降はもはや「室町殿」ではなくなっていた。

 

時代の主役は、地方の守護たちとなる。

 

 

室町後期戦国。

実力者は領地の沙汰に中央を介入させない。または介入しようとすると武力実力をもって抵抗する。

 

「自分たちの事は自分たちで決める!!」

 

リバタリアンが理想とする世界をすでに室町日本人はやっていたわけである(笑)

 

まるで北斗の拳。

 

 

実力守護には当然さまざまなものが集まる。領地と経済力の安定は、必然料理人も集まりだす。また実力守護には経済力をアピールする本膳料理という饗応料理が時代のニーズとして発達する。つまり、料理人による料理の競合が各地で起こることになる。

 

現在にも伝わる「四條流庖丁書」が記されたのもこの時期で、続いて有力守護それぞれの料理人によって料理人集団○○流が生まれたことがわかっている。

 

大草流、進士流は確かな記録が残る。

 

料理人集団は家元ならぬ「板元」によって組織化してゆき、当然のように実力を示さんがため料理人同士の競争意識が醸成される。ミシュランだのゴエミヨだのが無い時代とは言え、料理人の激しい競争と工夫は多くあった事だろう。そうした流れの中で、各流派が行っていた式庖丁は、儀式というよりもエンタメであったことがわかる。

 

つまり、室町の貨幣量の増加と発達、自由な資本移動と経済成長によって、各地で饗応の食・美食が求められ、それによって料理もまた美食術・エンタメとして成長したという事だ。

 

ん?

なんだか現代の話をしているみたいだ。

全然精進料理の気配がないw

 

 

だが室町後期から織豊時代に入る時、食を哲学とアートにする奇跡を日本人は起こした。

 

「侘数寄茶」のはじまり。

 

贅と格式を積み上げた饗応料理は、茶の湯と禅を通してどのように「精進料理」へと結実するのか。

 

 

次回にゆっくりまとめてゆこう。

 

 

 

参考:

室町時代の食文化考 ―飲食の嗜好と旬の成立
 伊藤 信博

 

鎌倉・室町期日本の貨幣経済
横山和輝

 

室町時代の貨幣経済

三上隆三

 

中世寺社勢力の実力 ─室町幕府と禅寺の関係を中心に

 細野 哲弘

 

日本食の確立におよぼした要因
米田泰子

 

天台真盛の民衆教化について
中山信之

 

近世料理書から見た仏教と食
「青物」の料理から「精進料理」へ
徳野崇行

 

禅林の食事について一加賀大乗寺の行事食を中心として一
谷口歌子

 

食物史上に於ける精進料理の意義
山口光子

 

「浄慈院日別雑記」にみる食とくらし

杉浦博子、仲村香織

 

『収勝寺鼠物語』等にみる室町期僧房の食生活- その1
小林美和 冨安郁子

 

高松短期大学紀要(一九八四)
室町のこころ  藤井公明   

 

日蓮の禅宗観―『金綱集』における禅宗批判の根拠とその史料
石川力山

 

「日本国王源道義」こと足利義満と五台山の仏教説話

湯谷祐三

 

凍豆腐と調理 

田村正紀

 

足利の時代

倉山満

 

経済で読み解く日本史

上念司

 

日本食文化史

石毛直道

 

日本料理の歴史

熊倉功

 

 

 

(臨済宗永源寺派大本山 永源寺の典座寮 いわゆる厨房にあたる)

 

日本料理文化のイレギュラー「精進料理」。

 

 

  精進料理の生まれたころの世界へ

精進料理は、鎌倉時代の初期に日本に伝わった禅の思想と哲学が投影されたものであることは「精進料理は古臭い料理」でつづった。

 

鎌倉時代初期の日本で何故に禅の哲学が持ち込まれ、そして日本で広がってゆくのか。鎌倉時代は浄土宗・真宗・日蓮宗といった現代にも大きな宗徒をもつ日本仏教各宗がうまれた時代でもある。

 

禅と日本の食文化がどのように結びついてゆくところを掘り下げてゆく。

 

 

鎌倉時代の初期、源平争乱から源頼朝が武家政権として初めて日本全土を掌握し鎌倉幕府をひらいた事はよく知られるところではある。また、鎌倉新仏教のことも学校で教える歴史のあらましだろう。

 

この頃世界と日本はどのように繋がっていたのか。

 

 

  日本料理のハード形成

 

平安時代、

鮮卑族系王朝食文化の影響を受けて成立した宴席・饗応のための料理、「大饗料理」。中央集権の権力者の料理。貨幣経済発達前の現物経済の時代である。自由な資本移動が起こりにくいため、限られたローカル物産の中から選りすぐられた食材による、権力者の贅沢料理が食文化として記録される。その時代を生きる当人たちにとってはある意味究極の美食形態ではあるが、実際の料理は炙り焼・羹(あつもの)・鱠(なます)・干物という酒肴に、蒸米が主食の位置にある。現代と比して未発達と言っていい。

 

 

一般民衆の場合はというと、美食や贅沢を考えるよりも、自然災害、疫病、飢餓、そうした厄災と生死についてのほうがより生活に密着している。天皇や藤原長者であったとしても、食への関心よりは、哲学思想や権力闘争と政治基盤整理に対するパワー注力が大きい。吉田神道、密教、修験道、陰陽道、西国三十三霊場、平等院、南都北嶺、蝦夷、奥州などなど日本文化に深く突き刺さっているキーワードは、この時代に生きた人々の影響がおおきい。「秀衡椀」と呼ばれる日本料理の代表的な漆器のデザインは、奥州藤原氏の栄華に始まっている。

(近江軍鶏と信長葱の治部煮秀衡椀 atひさご寿し)

 

 

大饗料理の台盤や箸、漆器のデザイン、食材の国内物流と物産のリストアップ、公家と武家のすみ分けや法整備といった統治機構の進展、独自の文字などなど、日本文化を織りなすパーツがどんどん増えてゆく。

 

これらは全て日本の食文化のハードとなってゆくものである。

 

食器、食材、調味料、国家支配権力構造、記録方法。

 

鎌倉時代に禅宗が広がる前夜、精進料理がフォーマットされる準備が整ったという感じだろう。

 

  禅宗がもたらした日本経済発展

 

鎌倉から室町時代、

奇しくも欧州における「ルネサンス」と時期を同じくして、日本の経済発展と文化変革が起こる。

 

 

文化的な大きな変化としては、民衆へ仏教の浸透だろう。

鎌倉新仏教として一般民衆の間で爆発的に広がるブッダの言葉たち「浄土宗」「真宗」「日蓮宗」。

 

神仏習合、密教、古神道のような神秘的呪術的で貴族的・上昇志向的な一部の宗教思想から、一般民衆のだれもが思考できる救済の宗教思想が求められ伝播してゆく。

 

 

では精進料理の発生に関わる禅宗はというと、日宋貿易と交流によって栄西がまず伝えた。「臨済禅」と「抹茶」。そして曹洞宗を開く道元へと続く。時代が下って江戸時代にも「黄檗宗」が開かれるが、まあとりあえずはおいておこう。

 

(禅と茶の湯を世界に紹介した代表的な二作、鈴木大拙「禅と日本文化」、岡倉天心「茶の本」)

 

日宋貿易が伝えたのは南宋の豊かな文化と経済、科学である。

意外なことかもしれないが、南宋がモンゴル帝国に滅ぼされたのち大元帝国なったチャイナも、変わらず日本と貿易している。超大国「元」の経済にとって日本から産出される鉱物資源、金・銀・銅・水銀などは、帝国の金融政策としてマネタリーベースを支えるために必要不可欠だったからだ。また、南宋が滅んで元となったとはいえ、南宋だった地域の豊かな経済と文化は失われてはいないわけで、日元貿易においても南宋文化と銅銭はもたらされ続け、禅宗が担った役割は大きい。

 

鎌倉・建長寺や京都・天龍寺の貿易船は記録に有名。

 

 

経済はいつの時代も政治の行方を左右する。そして、新しい知識と科学は旧態依然としたものを徐々に変えてゆく。IT革命がわかりやすいだろう。

 

 

平安末期では荘園領主である公家と南都北嶺が経済を押さえている。これに対して後三条院や白河院は現物経済の泉源である荘園を整理して権力の掌握にかかったが、院政の終焉に向かって武家が荘園領地と経済力を取得してゆく。初期の鎌倉幕府の経済統治システムは、現物経済と荘園をもつ特権システムがまだまだ存在。

 

武家は「御恩と奉公」とよばれる武士の給与というか恩賞が荘園土地支配権というシステム。当然の話だが、配給したり分割相続が続くと土地が無くなり経済崩壊が見えている代物である。

 

だがしかし、日宋貿易の進展による宋の銅銭は徐々に日本の市場に流入し、いよいよ日本の貨幣経済の幕開けへとつながる。源頼朝の妻・北条政子にも重用された臨済宗の開祖・栄西はもともとは天台宗比叡山で得度したが、のちに南宋へ留学し、臨済禅による思想哲学の立て直しを志し、建仁寺を建立。京都五山、鎌倉五山などが公的に格付けされ、禅院は日本の新しい哲学思想として、そして公的権威として確たる地位を得る事となる。

 

これは、禅の哲学思想が武士にとって共鳴共感しやすいものだったこと、そして禅僧のもつ数学的知識や舶来の新しい科学知識が貨幣経済の浸透にとって優位であったこと、さらに禅寺の国内外ネットワークが情報と物流の両面で流れを作っていたことなどが重要な要素であると思われる。

 

つまり、禅僧・禅寺・禅の教えは政治経済の支配力をアップグレードさせるインテリジェンスであったのである。

 

また、白河天皇の有名な言葉にあるように「山法師」と呼ばれた輩、強訴を繰り返す既得権益勢力の南都北嶺らを政治に介入させたくない意志が見て取れる。

(山王総本宮日吉大社。中世、比叡山延暦寺の守神の威光として、神人・山法師たちが神輿をかついで強訴という政治介入を繰り返した。photo by斉藤文護)

 

 

 

鎌倉中後期、

一時鎌倉幕府は宋銭の使用に制限をかけ「緊縮財政政策」をとるのだが、貨幣の利便性と需要に押し流され、土地の売買にも貨幣が使用されるまでに広がる。様々な社会活動に対価として貨幣が支払われるようになることでいよいよ民衆にも経済力を持つ者が生まれ始める。現物経済から貨幣経済への移行。物々交換にまず貨幣が利用されるという事は物流業の発展、本格的な商人の勃興である。

 

こうなるといよいよ実力社会である。個人の才覚によって経済力を伸ばし、武装し、幕府権威に因らない勢力が生まれ始める。「悪党」の登場である。

 

中世の悪党というと楠木正成が有名であるが、要は中央政権の権威や支配に因らない実力を持ち、行動に武力行使も辞さないものである。現代であればヤクザですら反社的武力は抑え込まれている時代。鎌倉から室町にかけて、日本はめずらしく本当の実力社会が生まれた時代である。

 

 

貨幣経済の発展は、いよいよ支配者に総合力を求めることになる。血統、伝統、武力、宗教、そして経済。

 

実力社会において奢侈を尽くすのは権力者のステータスである。そんな時代になぜ「精進料理」は発生し地位を得ることが出来たのか。

 

次回はやっと「美食」と「精進」の本懐にふれるとしよう。

日本の文化変革である。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(近江神宮饗宴祭 熟饌の神饌。平安の様式を残している盛付けたち。)

 

美味しいは素晴らしい。

だが欲望の資本主義は奢侈を極めようとする。
必要以上の贅沢と美食は、刺激的で脳裏に焼き付く。
快楽の美食、向かうところは貧しさと同様のドゥッカである。

禅において美食も素食も本質はおなじなのだが、残念ながらなかなかそう思えないのが人間の普通である。

ところが日本人はある時代に、食の中に禅を見出すことができた奇跡的な事がある。

 

  精進料理が生まれるまでの道のり


経済的自由は競争原理として資本集中と格差をつくる。有史来、ローマもチャイナもアラブも、そして日本でも。



格差が生まれ、経済偏差が大きくなればなるほど、食に対する奢侈もふえるものである。美食文化が生まれるには、自由経済と格差は必要なのである。美食にとって権威・権力・経済力は正義なのだ。

(山鳩のフォアグラ包みロースト atラ・クルリエール 美食文化のフランス料理)



ゆえに美食文化の発達には自由に資本取引が可能になる「貨幣経済」の発達が必要不可欠である。



しかし日本の一般民衆が経済的自由を手にするのは、世界的に見て遅い。平安時代では経済後進国、富と権利は皇室と公家に集約された封建の時代は、「平安」と言われるくらい外敵の侵入のリスクが無い時代。遣唐使廃止によって経済・国際文化交流は極端に少なくなった代わりに、国風文化が育まれることになる。



世界に前例ない「漢字かな文字まじり文」という文字文化が生まれ、和歌や文学の興隆は大いに日本人を日本人たらしめた理由になる。大いに誇っていい。次の大河ドラマ「ひかるきみ」はまさに紫式部らをとりまく平安文化のど真ん中。



そのころの日本の美食はというと、わずかな資料だけを頼りに想像の範疇をでない状態ではあるが、贅を凝らせた饗応料理を見ることが出来る。

平安時代の大饗料理の成立である。


日本においても遣隋使・遣唐使によって持ち込まれた料理文化に、あきらかに影響を受けていて、「箸」「台盤」「醤」「羹」「醤」「唐菓子」が宮中や貴族の料理に記されている。

(唐菓子の名残り「餢飳ぶと」 at奈良漢国神社)

余談ではあるが、北魏時代(386~534年)の最末期に「斉民要術」という書物が大陸では成立している。発酵調味料、つまり現在の味噌や醤のように調味料として料理の味にバリエーションを持たせるものが、レシピ・情報として記されている。また、米を粉にしてとろみをつける、今で言う片栗粉やくず粉を使った調理法がすでに用いられている。



昨今でも当時の料理は味付けの無いものであったと言われているが、料理人からしてみれば調味料が存在するにもかかわらず全く調味しないというのは不自然である。まして、斉民要術に記される料理は「羹」というとろみをつけた煮汁物の記載が半数近くほどである。とろみをつけた煮汁物にうえから塩だの醤だの酢だのを掛けて食べるというもまたまた不自然。一方、「炙」といういわゆる焼物も多く記載される。これは手元にある塩や豉、醤、酢を自分でつけて食べるという、いわゆる通説通りの食べ方だろう。


(虎魚と白芋茎の葛煮 at井政)
もろもろ料理人の合理的思考からすると、当時の料理について、羹・汁物には味付けがあったとみるのが私の考えである。

 

  大饗料理は続く

 

大饗料理。

 

お上と東宮に用意される二宮大饗、藤原大臣大饗。

 

これらは隋や唐の鮮卑族系による華北宮中料理の影響なのだが、五代十国の戦乱に入り、遣唐使廃止後は日本の料理文化もある意味停滞することになる。
 

 

平安時代の日本の食に関する記録。

先だっても書いた延喜式においてもレシピはほとんどないのだが、味噌というか醤の作り方は記載がある。

 

延喜式 大膳下

 

これが斉民要術にもある醤と全く同じではないにしても、塩と酢以外に調味料があり、そして羹・汁物が献立にある以上、味付けがあると考えるの料理人からみて自然である。

 

当時の食文化料理文化において、記録されているものを見てみる。

 

類聚雑要抄

 

これは大饗料理で台盤に乗せられる料理を細かく示しているが、藤原家家人がまじめに記録していた文書であるから、料理法については記されていない。料理法などについては内膳職・料理番だった高橋家が家文として残していたのであろう、江戸時代に高橋氏が記したものには、ほぼ同様の料理が記されている。

 

『京都御所略解』

 

平安時代と江戸時代はともに日本が太平を謳歌し、日本文化が深まる時代。600年の時代差があるにも関わらず、宮中における食の儀式は変ってないのがおもしろい。つまり、大饗料理の名残りがまだ江戸時代にはあったのだ。

 

儀式的に用意されたものとはいえ、捨てる事はなく下賜される。江戸時代では、台盤に乗ったいかにも食べないであろう盛付けの料理というか食材女房衆や蔵人たちに分けられていたようだ。

 

 

  権威≠権力と美食

 

権威≠権力

 

ここに日本料理が世界の食文化と哲学的に相違するわかれみちがある。

 

平安時代のある時から、皇室は権威だけを持ち実質権力は藤原氏ら公家に移行する。一時白河法皇あたりで院政というイレギュラーは起こるも、その後平家、源氏、北条氏、足利氏、徳川家、そして現在の立憲君主制と、実質権力は民臣が司っている。

 

皇室は権威はもてど、力は振るわず。

英国風に言うと「君臨すれども統治せず」

 

これは専門家に言わせれば「偶然」「たまたま」皇室がそういう風でいられただけである。平清盛も足利義満も織田信長も、民臣最大出世の豊臣秀吉でさえ、天皇にとってかわることはできたであろう権力をもちながら、ついにそうすることが無かった。徳川にいたっては公家諸法度などと皇室に法的拘束をかけながらも、その座を追い落としたり放逐はしなかった。だが経済力と軍事力によって得た権力者は、皇室を上回る贅を凝らし、まさに奢侈を尽くす。

 

貨幣経済の浸透と自由貿易の発達が室町の武士諸家を成長させ、まさに群雄割拠、戦国時代を生んだともいえる。武士の軍事力と経済力の成長は、陽の沈まぬ国と呼ばれた絶頂のスペインですら日本侵攻を踏みとどまらせた。

 

このままいけば、絶対王政よろしく宮廷華やかなりしブルボン王朝がごとき、はたまた満漢全席のような豪華絢爛料理様式が成り立ってもおかしくなかったのである。

 

だがしかし、鎌倉時代に発生した新しい哲学がその欲望の暴走にブレーキをかける。

 

日本の食文化における哲学革命「禅」と「精進料理」の成立である。

 

 

 

 

 

 

さて、次回は鎌倉新仏教成立から、禅が料理文化にどう作用したのかについて考えてみよう。これこそが日本料理文化の根幹たる哲学なのだから。