近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡で寿し割烹と日本料理を楽しむお店「ひさご寿し」

料理長のかわにしたけしが料理のことや、近江八幡のこと、営業日誌などを徒然なるままに書いとります。

すでに1年以上前になってしまったが、グランドラピッズの続きを書いておこう。

 

2025年の今年はミシガン州側から滋賀県に姉妹都市交流使節団がくる年。

 

色々な滋賀の市町がそれぞれに姉妹都市提携を結んでいる。

近江八幡の姉妹都市はグランドラピッズ。

 

今年の来日使節団に知り合いは都合が合わなかったとの事で、再会は先延ばしとなった。残念。

 

 

さてグランドラピッズに行ったのは2024年3月下旬の事。

(宿泊滞在したJWマリオットGRからのグランドラピッズ市街景色)

 

JWマリオットGRには姉妹都市である近江八幡の紹介プレートやちなんだ部屋などがちりばめられている。

ホテルニューオウミでもこうした取り組みが欲しい。

到着日は近くのシーフードレストラン。

姉妹都市委員会のアネッタさんとマユミさんに心温かく迎えていただいた。

GR(グランドラピッズ)には姉妹都市委員会という任意組織があって、行政では動けない所を補完する仕組みが存在している。

 

近江八幡市の場合、八幡ロータリークラブがGRロータリークラブと姉妹クラブ提携をしているところを考えると、そこに窓口があっても良いのではなかろうか。

 

さてメシの話。

イカフライなんだが、マヨネーズやフライに使われるオイル、スパイスの香りが日本とは結構違う。特にマヨネーズはそもそも酢が違う。日本の穀物酢より爽やかである。

タコの素揚げにパプリカのソースとハーブ。

これはミシガン湖のおいしい魚「walleye」のムニエル。

これが美味しい。

日本語読みしたらウォールアイ、だがワ~ライの方がより近い聞き音かな。

 

ホテルに紹介されている姉妹都市プレートたち。

幼子の歩く姿と桜がとてもアート。日牟礼さんはもはや説明はいらないだろう。

何気ない松と梅に道端の自転車も日本が現れているいい景色。

 

翌日3/24は日曜日ながら翌日の授業のために、朝から現場確認とマスターシェフ・ボブと顔合わせと打合せ。

 

キッチンや食材の調達具合、器、諸々やってたら14:00。

 

 

お昼はいろいろ世話焼きしてくれたマイクさんのご縁でラーメン屋さんNoodlepig。ジャパニーズスタイルラーメンと思うとそうでもない。アメリカに渡ってアメリカナイズされつつあるラーメンなのだ。チャイナ⇒日本⇒アメリカでラーメンも世界食。

 

続いてアジア系食材屋さんへ。Asian Delight Marketplace

海外アジア系あるある、スターアニス(ウイキョウ)の香りが漂う。

初めて知った「MOCHI」の真実。

 

日本でいう雪見大福がアメリカでは「MOCHI」モチである。

それもバリエーションが豊富で、いろんなアイスがくるまれている。これは良い進化だと思う。

 

むしろ日本でももっとバリエーションあっても良さげなものだ。

 

すぐ隣にあるHorrocks Market。

フリーでコーヒーが飲めるようになっていて、多くに人が入れたてコーヒーを片手に持ちながら買い物する。

 

むちゃんこ種類があるクラフトビール。

グランドラピッズはブリュワリーがたくさんある、クラフトビールの町でもある。

 

日本ではクラフトビールの楽しみ方がまだまだ浸透が浅いが、クラフトの楽しみは個性の楽しみなので、ヘンテコなやつもそれはそれとして面白いのである。旨いまずいだけで比べているうちは楽しみがほとんどわからないだろう。

グランドラピッズ市があるミシガン州はリンゴも盛んに作られている。収穫時期に家族でリンゴ狩りとアップルサイダーをやるというのがお決まりで、もはや日本文化でいう祭に近い。

 

リンゴはミシガン州というかアメリカの多くにとって重要な食文化となっている。日本でリンゴは食後かおやつ、またはデザートの扱いになるのが普通だが、アップルクリスプに見られるように家庭で簡単に作れる料理の材料として存在している。アメリカ独自のリンゴの価値が見て取れる。

売り場に並んだ大量でいろいろなサトイモたち。伝統的アメリカンにサトイモ(タロ)を食べる習慣はないと思うが、おそらく移民によって浸透しているのだろう。

キャンディー売り場、グミ売り場の景色が日本では考えつかない。何味か想像できないやつがいっぱいいる。

そして、とてもアメリカらしいと見えた売り場の一つがチーズコーナーだろう。その豊富さはアメリカを表している。

 

イタリアやオーストリアで見てきたことと比べて、チーズに対する考え方がかなり違うと見える。

 

日本だと出汁が料理のベースになっていて、様々な出汁を操るように、チーズもまた旨味の塊であることを考えると、彼らにとってチーズは料理になくてはならない。ハイカロリーだが。

 

やはりスーパーは民俗が現れる場所の一つとして、どの国であっても興味深い。

 

 

 

夕食はボスニアとインディアをベースにしたお店へマイクさんが案内してくれた。
クラフトビールをやりながら、揚げた芋やサラダたち、メインのCevapiチェバピ。牛ひき肉の皮無しソーセージみたいなもんとパニーニみたいな小麦粉練って焼いたもんが添えられる。クリームチーズソースとパプリカソースを挟んだりつけたりして食べる。

 

日本の出汁文化のように、すべに出汁が浸透しているようなものではなく、咀嚼しながら口内調味してゆくもので、料理スタイルとしてシンプルである。

 

案の定チーズソースバリバリの揚げた芋。ビールには合うんだわな~。

 

 

 

 

 

3/25、GRCCでの授業。

GRCC(グランドラピッズ・コミュニティー・カレッジ)はコミュニティー・カレッジという日本にはない教育システムの中にあって、イタリアの総合料理専門学校ALMAとも違う。専門学校がひとところに集まったような感じで、いろいろなジャンルの勉強を、世代も人種も違う生徒たちが自分たちのライフスタイルに合わせて学んでいるようである。

 

初日はすべて一通りデモンストレーションし、翌日ゲストを迎えてGRCC内のゲスト向けレストランで全く同じものを生徒さんたちが作るカリキュラムである。

 

茹でて野菜のアクを抜いたり、中軟水に出汁を煮出すこと、緑茶と水の関わり、などなど日本の水環境が料理に大きくかかわっている。そうしたところを比較して説明してゆく。

 

座学では料理というより「日本人はなぜそう考えるのか」という視点で日本の食を説明してゆく。

 

 

 

 

 

授業終了後はGR博物館とマーケットでミシガン湖の魚の事や、どのように売られているのかを見学。

GR Downtown Market

これは昨年のブログで書いたので割愛しておこう。

 

 

 

夕食はReserveというグリルレストランへ、地域のグルメ評論家さんと一緒に。(現在はイタリアンスタイルへリニューアルしている)

1年前でこの価格なので、現在はどれくらいインフレが進んでいるだろうか・・・

レストランの地下特別VIPルームとワイン庫をオーナーさんが見学させてくれた。銀行の金庫だったのだろうと思われるドアをアートとして使われている。他にも、GRは新鋭のアーティストたちを育てようとする気運があって、こうしたレストランは特に現代作家のアートと並走している。

 

日本では古典の影響がやっぱり強く、現代アートは日本料理の世界にはまだまだ理解が少ないかもしれない。

中身がなんか忘れたグリルサンドイッチ。

これが印象的だったセロリアークの千切りガレット焼、スプラウトサラダに鱒キャビアを添えて。

小蛸と豆のトマト煮の和え物。

マテ貝とムール貝の白ワイン蒸しのような料理。

そしてザ・アメリカンな味付けのTボーンステーキ。

煮豆、クリーム、バーター、チーズ、のソース。まあ旨いよね。

ホワイトフィッシュとムール貝にトマトを入れた白ワイン蒸しかな。

がっついてしまうわかりやすい美味しさのお店。

ガストロノミー美食にない素直さがアメリカっぽくてよい気がする。

 

 

3/26

昨日の座学と実演レクチャーをもとに、20人分の料理をみんなで仕上げる。

みんなこのプログラムを楽しんでくれた様子。特にグラシエラはノリノリ。

みなさんの前でひとこと。

テーブルコーディネートはアネッタさんのアレンジ。素晴らしい。

姉妹都市委員会の前プレジデントと現プレジデントのテーブルでご挨拶。

無事にGRCCでのミッション完了。

 

GRCCを後にして市役所に訪問。

シティ・マネージャーのマークさんと市議さんに偶然通りがかって記念撮影。奥に見えている赤いオブジェはGR市の形を立体造形した作品。この広場で現代アートフェスが開かれ、クラフトビールのブリュワリーたちも集まる。

 

GR市役所にある姉妹都市紹介プレート。

近江八幡市がもっとも早く姉妹都市提携をした。

おもしろいのはGR市のロゴマークで、赤は地域の形、青はミシガン湖に流れるグランドリバーを表していて、屋外のオブジェはその赤いGR市の形としてつながっている。

こうしたイメージ・刷り込み・認識付けにおいて、アートは人の深層心理へ影響することを行政が利用しているというのが面白い。日本の行政マンもぜひアート思考であってほしいものだ。

 

15:00~マスターシェフ・ボブの親友のお店Mexoへ。

メキシコがルーツのファインレストラン。

パイ生地のような中に煮込んだ肉、チリソースがスポイトで刺さっている。

タルト生地にフレッシュ野菜の和え物。

 

タコスは赤玉葱とビーツの甘酢漬け、チリソースで和えた肉。

 

オーナシェフは自家栽培プラントを半地下に作っていて、野菜類も色々使われている。そういえば前日のReserveさんも屋上だったかに自家製プラントがあると言ってたような。

タコスチップスに添えられるのはサルサ風に味付けされたサルサの再構築。

スイーツだったような・・・・

 

さすがマスター・ボブがおすすめするGRのファインレストラン。アイデアとアートがいろいろ炸裂した美味しいレストランだった。再訪したい。

 

 

 

 

夕方

GR市はクラフトビールの町という事で、ビアパブにKenさんとAleckさんが連れて行ってくれた。彼らは本当に親切誠実で、Aleckさんは日本で英語教師をしていたこともあって、ジャパニーズスラングが使えるほどだ。

HopCat GRというパブ。

なんか気に入ったパブの照明。

かなりの種類から選べるクラフトビール。

明らかに人気なさそうなヤツと人気ありそうなのを選ぶ。

フライドポテトはもはや世界共通のジャンクフードではあるが、この「コズミックほにゃらら」はいろいろなクラフトビールに相対できるスパイスがいろいろまぶされていて、いわゆるマクドナルドのシンプルなヤツではない。

 

 

 

3/27 

午前中からマイヤー・ガーデンズ植物園の見学。

 

「マイヤー」とはGR市が発祥の全国チェーンのスーパーマーケットで、いやハイパーマーケット。売上高は3.5兆円を超える、日本でいうイオンみたいなもんだ。

GR市は他にもAmwayの発祥でもあり、その本部がある。日本でAmwayというとどこなくネズミ講のようなシステムが取り沙汰されるが、GR市では社会貢献のある企業として位置づけされているようであるから、随分とイメージが違う。知らんけど。

 

さて、マイヤー・ガーデンズでは子どもたちがGR近辺の自然と生活の知恵を見て感じて体験することができるプログラムが用意されている。

子どもたちに人気で人だかりのバタフライ展示。

ドデカいやつから小ぶりなヤツまで。日本では蝶と蛾を分けますが、バタフライ。

近江八幡へ姉妹都市交流で前年ホームステイしてたエイドリアンさんも合流。

 

マイヤー・ガーデンズ内にあるレストランで。

サラダチキンサンドと日替わりスープ。

よく発酵した生地で焼かれたバンズに薄くスライスした具材が層をなして挟まれている。味付けはシンプルな塩にチーズ、甘酢に浸したセロリーアーク。上手い組み合わせ。

 

アネッタさんによると日替わりスープがおすすめだそうだ。

その日はパンプキン。

 

一言にサンドイッチと言っても色々あるが、使われていた野菜は伝統野菜であり、バーガーの国・アメリカにおける良い食べ物だと言える。

 

 

 

夕方

アネッタさんや姉妹都市委員会の女性委員さんに連れられて行ったのは、Speak EZ Lounge。

カウンターで飲んではったのが偶然の再会でシティマネージャーのワシントン氏と、ラウンジのオーナー。ありがたくも一杯おごってくれたので、近江八幡で再会できたらSeanのビールをごちそうしたい。

お店では何組かが続けてライブをしている。カントリーミュージックを聞きながらツマミとビールをやるのである。

個人的にアメリカのカントリーミュージックは好きなジャンルだ。ブルースやロック、R&Bも好きな曲はいろいろあるが、カントリーミュージックはなんか生活感がある。

テイラースウィフトのように世界に羽ばたく音楽の裾野は広い。

 

 

3/28 GR市最終日。

最終日はミシガン湖とミシガンの自然を体験させてもらうプログラム。その前に腹ごなし。

Maggie's Kitchenというメキシカンのお店。

何十年も続いているお店で、メキシコ母の味といったお店との事。

 

タコスの生地にもしっとり系、パリパリ系が同時あって、どういう名前かは知らないが、ふわっとしたバンズも添えられる。

ザ・ブリトーである。

これがまたたまらない。

MEXOではガストロノミックに料理されていたものの原型がこれかというところ。

 

肉を柔らかく煮こんでほぐし潰したもの、金時豆であろうか大粒の豆を煮込んで半分ペースト状になったもの、クスクスだったか米だったかはちょっと覚えていないが軽く味付けしたものがプレートで出てくる。

 

総じて言えるのは、そのどれもが素材味であって、まるで手巻寿しセットを自分で楽しむような感じである。

ウェットブリトー。ドストライクに美味しい。

 

アメリカは移民国家で今もメキシコからの移民が社会問題になってはいるが、何代も前から北米と中米は陸続きで移動してきた人たちが定住している。これは大陸であれば自然な成り行きであって、こうして食の文化も交じってゆくのである。GR市はメキシコからはかなり遠いが、母の味として残せる場所はどんなところでも非常に価値が高いと考える。

 

 

腹ごなしをしてから入ったのは、Blandford Nature Center。

人工的に街が形成されてゆく前のGR周辺の自然を保全している、というか教育体験場として存在している。

周辺はサトウカエデ(メープル)の森であって、メープルシロップの文化、自然資源の持続的な開発を教えてくれる。私たちと同じタイミングで小学校の課外学習授業っぽいグループもいてた。

メープルシロップ小屋。伝統的なシロップの精製技術を見せてくれる。

 

政所茶もそうであるが、自然環境から資源を得ようとする時、植物への思いがとても大切である。全く違う食文化であってもグランドラピッズのメープルの森に関わる人々は、政所茶の人たちと全く同じ価値観を共有している。

 

こうしたことはミシガン州との交換留学生、そして滋賀からアメリカに留学する滋賀県民全員に共有してもらいたい。国も民族も文化もちがえども、価値観を共有するという姉妹都市交流の本質に近づける重要なコンテンツではないだろうか。

 

そして

絶対に見たかったミシガン湖。

 

琵琶湖の約85倍に相当する巨大な淡水湖であり、北米五大湖のひとつ。北大西洋に流れ出す水源のひとつでもある。

 

アメリカ中部やミシガン州の河川から集まるその混沌たる水は、総じて丸みを帯びて雑多であり、琵琶湖よりもまろやかな味がする。

 

なかなかの強風で記念撮影。

 

GRにある「The Cheese Ladyチーズレディー」というチーズショップへ。彼女は2代目のチーズレディーだそう。スーパーマーケットの商品たちと比べて、世界のナチュラルチーズが量り売りされる。

まあ日本人が出汁を好んで茅乃舎のようなお店があるように、チーズレディーはアメリカに住む人たちの食の裾野を支えている。

日本では見かけないようなチョイスがいろいろ。

 

GR最終日の夜は姉妹都市委員会の多くの人たちとの懇談食会。

近江八幡にホームステイした人たちや、今GR市に留学している日本人、今回お世話になったいろんな人たちと。

 

3/29

マイクさんがめっちゃおすすめしてくれたパン職人のお店へ。
Buka Bakedhouse

マスターのBujarさんはコソボ出身で、天然酵母で醸すパンは彼のお爺さんが作ってきたやり方を継承しているそうだ。オーガニックで小麦粉のチョイスもこだわりがあるようで、よく発酵したそのパンはとても香りが良いし、旨味や酸味、甘味、食味など豊かで素晴らしい。

実はマイクさんが差し入れしてくれた彼のパンが美味しすぎて、ホテルの朝食は1回しか利用しなかった。

 

 

 

さて、GRを離れて州都ランシング。

最終ミッションのミシガン州立大学へ。

アメリカらしくアメフトに熱い。大学のスタジアムがでかい。

そして校内のブランドショップもすごい。アメフトを軸に民俗としてありとあらゆるところに深く突き刺さっている。生活リズム、ファッション、レジャー、ヒエラルキー、精神と肉体、食。じつに日本と違っていて面白い。

 

で、そんなところの大学で「なぜ日本人はそうするのか」を講義。

ジブリが好きな学生さんから質問~。

 

ミシガン州立大学はバスケのマジック・ジョンソンの出身校。記念像が立ってる。

 Grand Traverse Pie Companyグランドトラバース・パイカンパニーのお弁当が昼食。チキンサラダとミシガン州産のアップルパイというかクリスプ、チェリードレッシングを添えて。普段はほとんど甘いものを食べない私にとって、珍しい昼食。だがミシガンの郷土料理としては食べるべきだろう。近江八幡でカネ吉のコロッケがそうであるように。

 

食文化においてパンはあらゆる国に伝播して、日本でももはやご飯と双璧となっている。だがしかし、小麦粉を手軽に焼いて日常的に食べる習慣は日本では極端に薄い。アップルクリスプのように簡単にオーブンレンジで作れるやり方は家庭の食であって、その裾野の広さがあってこそ、こうした市販品の商品が広く消費される。日本でパンが広く浸透したのはまさしく学校給食が大いに影響しているだろう。

 

州立大学をあとにして、プチ観光でミシガン州議事堂ちょっと見学。

ランシングにもGR市と同じようにコミュニティーカレッジがある。学科を見ているとアート系が多いように見受けられた。

ミシガン州と滋賀県の姉妹都市提携に尽力された琵琶湖汽船・重松氏にちなんだ日本庭園がカレッジ内にあって、ガーデニングを学ぶプログラムに組み込まれているのかな。

 

 

 

ランシング内を流れるグランドリバー。

GR市から見て上流に当たり、流量は少なく透明度もさして良くない。自然の多いペタッとした大地を緩やかに流れていて、日本の短い流域と速い流れの川と多く違う。う~ん、この水はちょっと飲む気がしない。下流のミシガン湖は飲めたのに。

 

晩ご飯。

ミシガン最後の夕食は松原さんがおすすめするランシング人気のレストランへ。

Soup Spoon Cafe.

帆立のソテーにフレッシュブルーベリーとバターガーリック塩ソース。帆立とフルーツが相性良いのは世界で共通。

ウォーライ、パイで包んだローストにピスタチオと蜂蜜、深く煮詰めた玉葱とベリーのペーストだったかな。甘酸っぱく塩味も効いた美味しい。日本では使わない調味の代表だが、旨い。出汁を全く使わないが上手い組み合わせだ。

シグネチャースープのひとつ、スイカのガスパチョ。

そしてミシガン湖の鱒のムニエル的な料理にアスパラソテー、サワークリーム白ワインソースにチーズとフライドオニオン、そしてブラックライス。激うま。

そして締めはバーボンとベイクドチョコケーキ。

ウィスキーとスイーツは無罪である。

オーナーのキースさんが蝶ネクタイでビシッと決めて挨拶に。

普段はもうちょっとラフらしいのだが、松原さんが「料理人が来る」って言ったもんだからこれw

ケンタッキーバーボン、100周年のメーカーさん。

いかにジャパニーズウィスキーが世界で人気を博そうとも、バーボンが持つ新鮮なホワイトオークの香りは、アメリカとバーボンそのものである。彼らの民俗であり、彼らの生み出したアルスに乾杯する。

 

 

3/30、出発

デトロイト空港で出発待ち。

思い返せば一食もバーガーを食べずにいたことを思い出す。

これは食べておかねばならぬと、空港でガッツリバーガー。

 

これでアメリカ食も終わりかと思うと寂しいくらいに、アメリカという雑多な国の中に、やはりアメリカらしさが十分に表れていて、長い歴史や伝統だけが食の価値でないことを見せている。

 

 

人が生きて繋いできた証が食の中にしっかりと現れていて、それは自然の美しい景色と同等のアルスであった。

 

 

最後に

アネッタさん、マユミさん、ベンジャミンさん、アレックさん、ケンさん、マイクさん、キャサリンさん、エイドリアンさんたちGR姉妹都市委員会みなさんの親切に心から感謝いたします。

 

マスターシェフ・ボブのおかげでGRCCでの経験がとても意味あるものになりました。

 

そしてすべてのプログラムにサポートしてくださった滋賀県庁国際課の松原さんに最大限の感謝を申しあげます。

 

ありがとうございました。

 

また次の機会に出会えることを。

アルスエレクトロニカフェス2024、むずかしい話は終わりにして、料理人らしく食い物の話にしよう。

 

今回はただただ食べたもの日記である。

オーストリアまでの往復のフライトはフィンエアー。ロシア・ウクライナ紛争の影響で遠回りで北極点を通ることに。

軽く。

ゆーてまだ日本っぽい料理。

和牛のローストビーフとか白身魚のアメリケーヌソース。

食後はチーズとハードリカーで寝ます。

 

そんなこんなしてたら、北極点を超えたら北極点通過記念カードをCAさんがくれます。

 

そうこうしていいたら13時間でフィンランド到着。

 

ヘルシンキ・ヴァンター国際空港で乗り継ぎ待ち。

 

いろいろなゲート前で売られているテイクアウト飯たち。

世界寿しと日本寿しはもう分けた方がええかもしれない。

こういうオープンサンドな感じは日本ではあんまり食べる習慣が無いですな~。ミラノやデトロイトでもテイクアウト的にオープンサンドがよく見られましが、機内食を食べてきた人にはヘビーです。

 

 

シェンゲンエリアに入ってラウンジを物色します。

朝飯的に軽くつまむライ麦の焼いたやつとピクルスとハムチーズ。

こうやって挟んで食べるとうまい。

ほむほむ、小麦粉やライ麦焼いたヤツがいろいろ。シリアル的なのも。

 

ヘルシンキ~ウィーンの乗り換え便内

さらりと説明するCAさん。フィンランド開催のオリンピック記念モデルの国民的アルコール飲料。

とてもおいしいし、そのCAさんの自然感がすごく心地いい。

まあまあのボリュームの機内食。

 

 

乗り換え航路で3時間。

やっとウィーン到着。

空港内スーパーの生もの冷蔵品お土産コーナーに、いろんなキャビが。食べないとわからんレベル。

 

オーストリアに着いて一番驚いたことがパンの安さ!!

 

空港でこの価格。

バリエーションの豊かさ、庶民主食生活の豊かさ。

そんな中にオ・ニ・ギ・リw

 

 

 

ウィーンから第三都市のリンツまで特急で2時間半。

 

到着してすぐ目に入った懐かしい店舗マークと名前。

 

「スパー」

 

 

近江八幡市で一番最初に登場したコンビニエンスストアのブランドがこの「スパー」。今から36年前。

 

しかし店舗内はコンビニというよりほんまのスーパー。

 

ゲルマン文化圏らしく加熱系ハムが日常に根付いているの見える。

様々な豆。

 

 

 

 

 

さて到着したときはすでに午後3時過ぎ。

 

ホテルへのチェックインなどもろもろしていたら夕方になるので、そのまま夕食へ。

 

 

ブッラータのサラダ。

ゲルマン的チーズのサラダ。

ショートパスタに泡。

軽いオイルソース。

ラビオリ。

 

移動時間29時間の体調もあって、お酒もほどほどにおいしく楽しんで就寝。

 

 

 

さて朝食。

毎日同じホテルの朝食なのだが、これがなかなか口に合う。

パンいろいろ。

チーズいろいろ。

ハムいろいろ、があんまりない。

むしろ駅構内やスーパーのテイクアウトのほうが加工ハムの種類と食べさせ方のバリエーションが多い。

シリアルやナッツいろいろ。

 

ガス入り、ガスなしのミネラルウォーターは大体硬度250mg程度が多い。

ソーセージいろいろ。

このミニパプリカにクリームチーズ入れたやつがうまい。

朝からスイーツはヨシオ。

 

 

さてお仕事にポストシティへ。

久納さんのナビゲーションで展示ツアーをして、滋賀大学のみなさんと昼食へ。

リンツ大聖堂の見えるレストランで。

ビシソワーズ的な根セロリのスープ。

チキンサラダ。

そしてシュニッツェル。

そうそう、やっぱりゲルマンの味を食べたい。

そしてマスの料理。

豆とセップ茸とトマトのソースで。

 

 

昼食後は今一度リンツ旧市街へ移動。

 

リンツァートルテ発祥のお店。

 

 

もろもろ打合せ終了後は夕食をプロジェクトのみんなで。

Der Stiegl-Klosterhof

修道院の中庭で食べるオーストリア料理たち。

パプリカ、セロリの効いたスープ、グラーシュ。

そしてやはりシュニツェル。

なんだったかな・・・・ジャガイモのマッシュとなんかを合わせたやつに、皮付き豚のローストかな・・・

ソーセージを再度ローストして小さなパスタと合わせた料理に、濃いめのトマトワインソース。

 

 

翌日、ワークショップの前日仕込み後、ドナウ川を渡って内陸で珍しい焼き鯖屋さんへ。

1週間に数日しかオープンしない。

Kilimanjaro Plug Fish Barbecue

愛想が悪い第一印象から、ヨシオマジックで艶熟女スマイル。

焼いた鯖にライ麦パンとジャガイモのピクルス、唐辛子のピクルス添えて。

焼き鯖をほぐしながらピクルスと食べる、さっぱりして、ジャガイモのピクルスとの相性が絶妙。

 

 

明日の準備は万端というところで旧市街に戻って会食。

 

夜はインド料理のお店へ、滋賀大学関係のひとたち、TOYOTAのひとたち、そして私たちで。

もはや何だったかわからない。インド料理、今ならもっと味わえるのに。

 

 

翌日ワークショップ当日。

ホテルの朝食後から23:00まで何も食べずに夜。

MUTO Restaurantのオーナー、ミヒャエルがまかない用意してくれた。

クネーデル。オーストリアの伝統料理で、ジャガイモを団子の皮にして、中にレバーペーストなどが入る。

 

すべてミッションが終わってからの食事とお酒は最高。

 

 

最終日は午前中に小川氏のアルス・エレクトロニカ・フェス2024全体のツアーと、今回のプロジェクトにかかわった全体でのブリーフィング。

 

昼食時間がだいぶずれ込んで、空いてるお店でクラフトビールとバーガー。

 

最終日はDASミユージアムやアルス・エレクトロニカ・センターの展示へ。

 

 

最終日の夕食はドナウ川沿いのイタリアンレストランでプレートオードブルからのいろいろ。

 

話は尽きず。

みんなで開けたリモチェッロ。

 

 

 

翌日移動日。

ウィーンの空港ラウンジでクスクスとオーストリアワインで。

3時間のフライトにもシュニッツェルでてきたw

 

 

 

ヘルシンキ乗り換え待ちではフィンエアラウンジが使える。

充実の煮物料理たち。

しかし機内食もしっかり出ると予想して、スイーツとカクテルで時間つぶし。

おしゃれなヘルシンキ空港のインテリア。

 

 

 

機内食はさすがのしっかりとしたメインディッシュ感。

パイ包み焼の肉とサラダたち。

 

寝てたらもう日本手前。

もう関空に着こうかというぐらいに朝食。

 

ごちそうさまでした。

 

  Ars Electronica Festival 2024

2024年の話。

9/4~9/8
アルス・エレクトロニカ・フェスティバル2024に、お仕事で行ってきた。



世界最先端のデータ、アート、サイエンス、そして音楽のフェスである。



これはTOYOTAさんという世界企業が「未来のため」に考え、そして取り組む事業のひとつで、私はそのほんの一部である。



(芳賀健氏作、琵琶湖水系河川流域の降雨・水量を時系列で視覚情報としてみることができるLEDパネル)

アルス・エレクトロニカ
About Ars Electronica

 



フェスを主催している「アルスエレクトロニカ」自体は、世界的な文化教育機関、というのがとても日本語的表現かもしれない。だが実際はもっと横断縦断し、ありとあらゆるヒト・モノ・コトとネットワーキングしていてる。







「発想の泉源」

「思考の動物園」

「あしたの道しるべ」



というところだろうか。





 
Compass ,Navigating the Future


(アルスエレクトロニカ・センターの広報パネル)



ふふふ。



むずかしい・・。



未来への羅針盤。



11年前、日本政府はデフレから抜け出す直前で増税、つづいて10%に増税したら、案の定デフレ停滞してしまった。間違っていた。

80年前、日本は英米と戦うことが国益として選択したが間違っていた。

100年前、世界の資本主義は暴走し、マルクス哲学を試してみたが間違っていた。

500年前、欧州は宗派の違いで殺しあったが間違っていた。

1400年前、大和朝廷は大唐帝国と戦ったが、間違っていた。


2300年前、儒が大きな政治思想となったが、易姓革命という暴力革命が正当化されてしまった。



宗教、経済、イデオロギーの摩擦は、いつの時代も最終的解決手段に選択されるのはパワーになる。残念ながら。







日本の食や文化、それをつむぐ自然、環境、民俗、歴史、習慣、身体的能力・・・データでそれらを読み解き、最新のテクノロジーとして具現化したとき、もしかしたら明るい未来への道しるべとなるかもしれない。

Ars(アルス)とはアートの語源になるラテン語である。

 

 

 

 

  日本人のArsアルス

アートを日本語訳すると「芸術」と翻訳されるが、語源のアルスに立ち戻ると、芸術とはちょっと違うという事が見えてくる。



一般的に日本ではアートを芸術と翻訳してきたことで、アートの本質がちょっと見えない。私もいまいちわかってなかった。


(あらや滔々庵 現代作家さんの絵画と花入れ)


絵画や書、音楽、立体造形や建築物、服飾、和歌やポエム、舞踊、浄瑠璃、オペラにバレエ、ミュージカル、映画、写真。そんなものたちが芸術でありアートであると。

 

 


だがアルスやアートの意味するところには技術も含まれているのである。これはアルスのさらに語源であるギリシャ語が「テクネ」であることを知ればもっともなことであると理解できるだろう。テクネはそうテクニックの語源である。



見た目の華やかさや美しさ、色鮮やかな盛り付けを指して、まるで絵画や景色の美しさを称えるがごとく「芸術的」と料理を評価することに何ら間違いはない。だがしかし、技術こそがアートの本質であるとするならば、その賞賛の本質は見た目ではなくその美しさを作り出した技術をこそ称えているのである。





アートの泉源は技術であるとするならば、
技術の根源は民俗である。

民俗はだれしもに益をもたらす文明の利器ではなく、
特異点に発生する知恵の発露。


とどのつまり、アートの泉源は民俗を作り出すローカルな人であり地域なのだ。





日本はいまのところ実に多様でユニークな地域文化をまだ残している。飲食業界のトレンドは経済偏差を背景にグローバル化というか平準化が進んでいるようにも感じるが、一方でローカリズムも強く息づいている。

(応量器は林業・木地師・漆工・禅・精進そして料理が一体となって表れた日本のアルス)

日本人ほど食い物にあーだこーだ言う国民性地域性もないだろう。ファストフードからガストロノミーまで、誰もが食べ物に一家言を有している。まるでゲルマン人が交響曲に誰もが一家言を有するがごとく。


日本にとって料理と食にまつわる技術は、誰もが論するアートであり、そしてアルスなのだ。

 

 

ちなみにアルスエレクトロニカフェスは根源的に音楽フェスを出発点にしているため、ブルックナーの交響曲がフィーチャーされる。

 

  体感するワークショップ



アルスエレクトロニカフェスでは様々なイベント、コンサート展示、カンファレンス、そしてワークショップが行われる。
 

 

 

メイン会場であるポストシティ前広場。

 

ポストシティにある象徴的な造形物。

これは手紙全盛であった時代に使われてきた手紙の分配シューターである。手紙が人々の意思疎通の中心の時代には、ここをありとあらゆる人々の思いが駆け巡ってきた場所である。現代はメールとSNSでほとんどのやり取りがなされるようになり、ここも遺物となったわけであるが、「思いの通路」と言っても良い。

 

小手先で作られたものではない、人々の記憶があふれている。

 

ポストシティ全体案内図。

 

1F、音楽メインステージ準備中。ここは郵便が鉄道中心であったときのプラットフォームである。

手紙に記された人々の思いが出発する場所だった。

 

そして地下はかつて核シェルターでもあった。分厚いコンクリートの壁に囲まれた部屋にも、さまざまなアルスが表現される。

 

 

ポストシティー・メイン会場以外にも、リンツ市内の色々な場所がその会場となる

リンツ大聖堂。ブルックナーが落成式公演を行なった場所であり、アルスエレクトロニカフェスの初日はここでブルックナー交響曲が演奏され、屋外では新しい音楽とBon Danceで盛り上がる。





私たちのチームのワークショップは「Muto」というfineDiningを貸切って行う。



ワークショップの内容は大きく分けて3つ。

・鮒ずしキットによる鮒ずし作り体験

・淡水魚の寿しと出汁による水と滋賀の食

・日本酒による水の体験



奥村佃煮と龍谷大学の共同開発による「クラフト鮒ずしキット」

1匹単位で家庭でも鮒ずしを作ることができる、まさしく鮒ずしを家庭に取り戻すひとつの方法である。







材料はすべて現地調達。

 

意外にも淡水魚の種類としてはほぼ琵琶湖と変わらないような種類が手に入る。鯉、鮒、ます、イワナ、そしてニゴイ。もちろん厳密には違うが形状はほぼ同じであった。

オーストリア・リンツ周辺でとれる淡水魚。塩漬け(塩切)の工程はMutoのシェフが事前に仕込んでくれていたものだ。コメはEUで購入可能なジャポニカ種で「SUSHI RICE」なるものを使う。なぜ日本から持ち込まないのかについては別で記そう。





奥村吉男が熱心に語る!





そしてトミーの七本鎗たち。

木之本のテロワールである。



七本鎗の水源となる木之本の水は何を運んだのか。そして発酵はその水と米をどう変化させたのか。

語るトミー。

 

 

 


そして私のパート。

オーストリアのニゴイをオーストリアの水で煮込む。

上方寿しの要領で箱寿しに仕上げる。

 

京滋地方特有の鱧の箱寿しと同様、こうした郷土色のある箱寿しは日本全国でみられる。



そしてオーストリアの淡水魚を塩とタレの源平寿しに仕上げる。

ワークショップで伝える日本の郷土と環境。

山、森、岩、土壌、河川、田畑、集落、農業、琵琶湖、そして私たちの暮らし。そうして累々とつながれてきた日本の、いや滋賀のアルス。

 

オーストリアで再現してみせた。
ワークショップのメインテーマは「水」である。
 

  水の料理

今回のオーストリア源平寿しは、リンツ周辺で手に入る鯉・ニゴイを使用し、オーストリアの水を使って調理した、純正オーストリア淡水寿し。

一方、比較テイスティングに使用した水は、あえて滋賀県で採取された3地域の軟水・中軟水を持ち込んだ。

オーストリアのポピュラーなミネラルウォーターは硬度300mg程度であり、ニゴイのスープはそこに抽出した。

 

欧州に多い硬水のミネラルウォーターは、魚介の臭みや野菜のアクなどが抽出・溶解する割合が低い。

 

つまり、生臭さやえぐみがスープに出にくい。代わって旨味も抽出されにくい。




日本の軟水・中軟水をそのスープにブレンドしてどれほどの違いが感じられるかを試してもらったわけだが、この非常にささやかで判別しにくいテイスティングは、日本の料理思想がいかに水に起因しているかを印象付けるためのものである。

 

実際には、硬水で抽出された魚骨のクリアなスープに日本の軟水を添加すると生臭みが出てくるのであるが。



出汁はもちろんの事、煮物、お浸し、炊飯、お茶、日本酒、鮒ずし、そして日本のすべての調味料においても、水環境が変わると違った調理法が発想される。

 

 

今回わざわざオーストリアで調達した淡水魚と米を使った理由は、今回のワークショップがきっかけで、もしかしたら鮒ずしの新しい未来が欧州で開くきっかけかもしれないと思ったからである。

 

トマトケチャップがもともとインドネシアのケチャプという魚醤から伝えられ、アメリカに行った時にはトマトケチャップという全く違うものに変わってしまったが、「ケチャプ」というルーツの記憶は言葉に残している。こんな面白いことがもしかしたら欧州で起こったら、ヨシオの第一歩は歴史に残る偉業になるかもしれない。ならない確率が高いが、やらなければ永遠に確率は0%でもある(笑)

 




本題に戻って
日本の食文化の原点は水環境と言ってもいい。

 

 

滋賀の水、琵琶湖の水は私たちの食をどうさせたのか。

(琵琶湖水系愛知川最上流政所の清流)

 

つまり、水こそが日本のアルスの根源であると、私は認識するのである。

 

水=日本であり、日本を最も表現する方法、つまり松岡正剛氏が提唱していた「日本という方法」というのは水であり、その表現方法のひとつが食であり料理なのではないだろうか。

 

残念ながら松岡氏は昨年夏に帰幽されたこともあり、答え合わせは永遠にできないのであるが。


日本料理は水の料理。

 

 

「水の料理」は故ベルナール・ロワゾー氏をして「キュイジーヌ・ア・ロー」と称されて数十年が過ぎたが、氏の料理は伝統的なフレンチから飛び立った新しさであったが、日本のアルスにおいてはもっと根源的なものを指すのではないだろうか。

 

出汁に限らず、和え物、煮物、飯、漬物、茶、果ては焼物料理ですら素材の水環境は料理を構成している重要な要素である。

 

 

 

さて、随分と過ぎ去った話を書いているが、これは現在進行形を整理している日記である。

 

 

過去にない長さかもしれない記事になってしまったかな。

 

続きはお気楽なリンツ食日記にしておこう。

 

 

 

 

藤原山蔭。

最終位階・官職は従三位中納言。西暦880年頃のお話だ。

 

今年の大河ドラマ「光る君へ」の時代からさかのぼること約100年前が、山蔭の生きた時代である。

 

だが、史実の彼の事績にはまったく料理も庖丁式も出てこない。

(山王総本宮日吉大社国宝西本宮摂社竈殿社庖丁塚)

 

にもかかわらず現代においてなぜ彼は日本料理中興の祖、庖丁式の創始者と言われるようになったのか。

 

山蔭の死後、「光る君へ」の時代を経て、そして「鎌倉殿の13人」も超え、「太平記」の南北朝から「花の乱」の応仁の乱も過ぎゆき、そして戦国期にはついに「四條流庖丁書」によって庖丁式が初めて具体的に記されるに至る。

 

いったい山蔭の出番はどこにあったというのだろうか?

 

 

では考察していこう。

 

 

 

  吉田神道

吉田神道は藤原山蔭が創建した吉田神社を中心とした、「神道」流派のひとつである。

そもそも神道というものについては様々な変遷をへているため、おおよそ人によって、そして時代によって大きく神道というものの認識が違う。

 

特に明治維新を契機にした日本版宗教改革ともいえる神道と仏教の混乱は、今もってなお日本人の思想に影響を残しているが、それはまあとりあえず今回は棚上げしておこう。

 

 

ひとつ前提にしておかなければならないのは、藤原山蔭自身は吉田神道にも料理にもなんら関わっていないという事である。

 

吉田神道を創始したのは、藤原山蔭の時代から500年後に活躍した吉田神社宮司家の吉田兼俱である。

 

 

 

 

藤原山蔭の死後100年、藤原家絶頂期の道長・詮子の姉弟をもってしてもせいぜい二十二社の一角に入れたまでの吉田神社だった。だが吉田兼俱は日本全国神道界において最高位の権威を得るまでにのし上げたのである。

 

吉田神社宮司家として吉田氏はやがて皇室・公家にも古事記や神道について講義するようになる。

 

吉田兼俱の創始した吉田神道は、徳川4代将軍家継の時代に神道界の権力も法的に与えられ、形式的には明治維新まで多くの神社を傘下にする。(伊勢神宮と男山八幡大菩薩(石清水八幡宮)は皇室の二所祖廟としてこの限りではないが)

 

ここに一つ山蔭が神格化される遠因が埋め込まれる。

 

 

  室町の四条(四條)家

 

 

平安時代末期、藤原北家魚名から分かれた分家の山蔭の子孫は途絶えていた。だが魚名を始祖とする魚名流の本家は平安末期(1200年頃)から屋敷があった所在地を苗字にして「四条家」を名乗り始める。

 

四条家の家職は雅楽の笙(しょう)である。神事・庖丁式の最中で演奏される「ファァ~~~~」という独特の和音をかなでる楽器である。

 

朝廷官位は権大納言が四条家の最高位なので、中納言が最高位だった山蔭よりも出世したことになる。

 

だがしかし武士の時代に入ると、台頭する地方の守護たちに比して、栄華を誇った藤原氏を含めて、公家は南北朝の動乱以来すっかりと権力を失ってしまった。

 

朝廷における官位も、臣民としての位階も、室町の実力武力の前には空威張りともいえる。もてるものはもはや古今伝承、長年蓄積されてきた膨大な情報である。逆にそれこそが武家には無いものであり、公家が近世まで公家であり続けた所以でもある。

 

古今伝承に必要な技術・技能は家職としてそれぞれの家が伝えてきた。先に上げた吉田兼倶の家職も、卜部家という亀卜占いの家だったところから派生して神道家となっている。現代も浄瑠璃や狂言、能、歌舞伎などの特殊芸能などが事実上家職であるように、中世においては特に家職として伝承することが、技能の伝承に最も効率的なシステムであったわけである。

 

 

こうして行われる技能伝承において、四条家の家職は「笙(しょう)」であり、本当に庖丁式の技能を有していたのであろうか?

 

 

 

  料理人と庖丁人と庖丁

「四條流秘伝抄(清和四條流伝)」という庖丁式流派の伝承には庖丁人と板前(料理人)とは区別があると記されている。また板前を統括するのが庖丁人で、そこには厳格な区別があるとある。

 

要は一番偉い料理人は庖丁人であり、そこに権威があるという事である。

 

庖丁人とは庖丁式(式庖丁)を執り行う人のことである。藤原家成が白河天皇の御前で庖丁さばきを披露したことを原典に、「庖丁式」なるものを料理人の権威の象徴として、宮中に関わる公家たちが創造したと考えられる。

 

 

そもそも「庖丁」という名詞は荘子の一節に原典があり、従来料理道具の名称としては「菜刀」が共通語である。荘子の一節にある庖丁の物語を、奈良時代や平安時代の一般人が知っている訳も無い。当然の事ながらそうしたチャイナ舶来の古典はまず輸入元である寺院を経て、朝廷へと献上される。そしてそれに目を通すことができるのは、漢文を解する識者であり、つまりは公家の一部から「庖丁」という文言が抜き出され、そして発信されたことは間違いない。

 

一般料理人を示す「板前」と比較して、「庖丁人」という名称そのものが、荘子に登場する庖丁技の名人と重ね合わせて意図的に神聖化された造語なのである。

 

板前(料理人)の技を極め、荘子の一節のように帝王に技を披露する伝説の人。

 

庖丁人が使う道具として「菜刀」は「庖丁」へとアップグレードされ、そして日本人はそれを名詞として固定化させているのである。

 

 

 

  職業料理人の一門形成

 

平安時代において、皇室のの料理や公式行事の料理を整えるのは公務員として「膳臣(かしわでのおみ)」という役職があり、そこに料理人たちの権威が存在していた。だが武家へ権力が移り、幕府また地方守護らも独自の経済基盤を整え始めると、武家は自身のステータスを証明するために、将軍を自宅に招く饗宴「御成り」を催すようになる。この御成りにおいては腕利き料理人へのニーズが高まる。おいしい料理による饗宴は、主君のおぼえめでたく、接待に成功した料理人は当然俸禄が増えたことだろう。いつの時代も同じである。また貨幣経済の発達は、料理人の移動を助長する。こうして集められた料理人が職能集団・一門を形成するに至るのは自然な成り行きだろう。

 

武家に出仕する職能集団化した料理人たち。一門においてはレシピが共有される。おいしい料理を調えることができる料理人は、雇い主である武家主君に評価されて一門が大きくなる。当然ながら組織としてさまざまな情報整理と管理そして人事権が生まれる。だが職能集団の料理人は宮中の膳臣のように位階・官位を持たない一般臣民であり、一般臣民から権威は生まれない。大きくなる組織集団を統括しようとする時、統括者には客観的根拠というか権威が必要になる。

 

庖丁人とはそうした権威を必要とする料理人側からの要請と、それに知恵として公家が応える形で創出されたのだった、という可能性が私の見解である。

 

 

 

 

  四條流(四条流)の誕生ブラックボックス

四條流の初見は「四條流庖丁書」(1489年)である。これを記したとされる多治見備後守貞賢は実在が確認されてはいない。

 

そこに書かれているのは、現代にも見られる庖丁式に関する道具の事、食材や献立における注意事項というか料理のコツなどである。

 

つまり作者の実在はさておき、料理人たちによる当時の料理界における技術や知識を明文化した貴重な資料であることは間違いない。

 

だが1489年の四条家において、武家の慣習である「御成り」やそうしたニーズに応対する料理人を取りまとめるような権力も権威も持ちえない。まして四条家には庖丁式の技術も伝承されているような記録もない。にもかかわらず「四條流」がすでに存在していたのは、1489年以前からすでに庖丁式とそれに伴う料理人の権威が四條流という名称に確立されていたことを示している。

 

 

ここで今一度時代を遡ってみよう。

 

庖丁式の初見は平安時代・白河天皇御前にて藤原家成が鯉を庖丁して見せたこと(1140年)であり、家成の次代から四条(四條)を名乗り始める。その後数代は、四条家が庖丁式に関わる記録は無い。だが1200年代中頃、御前にて庖丁式を披露するエピソードに絡んだ人間模様が、かの有名な「徒然草」(吉田兼好1349年)に記される。

 

徒然草の中で庖丁式をしたことが記される人物に園基氏がいる。四條流から学び、園基氏は後に庖丁式の派生流派「園流(四條園流)」の創始とされいる。

 

つまり、藤原家成の故事から100年後にはすでに四條流庖丁式が事実化していたという事になる。

 

 

四条家において家職には成り得ていなかったにもかかわらず、庖丁式の源流が四條流として認識され事実化していたことについて、ここが核心的ブラックボックスである。

 

いったい誰が「四條流」と言い出したのか・・・

 

 

その後、四條流にならって室町将軍5代目・足利義量を前に大草公範が鶴と鯉の庖丁式をして見せたことに「大草流」が始まるとされる。公家の創造した権威づくりの方程式に、武家もならったというところである。さらにその後同じく室町幕府管領・細川家の料理番であった進士家が「進士流」を創造し、織豊時代に料理人だった生間家が後世「生間流」となる。

 

 

 

鎌倉・室町を経て料理人における庖丁式はあちこちで行われ、ゆえにその初見である「四條流」のブランドは後世により確かにされてゆくことになる。

 

  四条家の努力

中世の四条家においてまったく「四條流」という料理人流派に関わらなかったかというと、実はひとり室町戦国時代にいる。

 

四條隆重(1507~1539)

 

四条隆重の家職である「笙」は雅楽として宮中の祭祀や饗宴において必要とされる。だが、応仁の乱・明応の政変以降に荒廃を続ける京の都においてそれが何の役にたとうか。実力主義の戦国時代に突入し、飾りだけの官位や位階では四条家の収入源にはならない。まして権力者の武家には雅楽は必要ない。1536年、隆重は駿河へ下向し、守護の今川氏へ身を寄せている。「四條流庖丁書」が記されたとされる時から47年後の事である。

 

当時の今川氏は駿河・遠江に勢力を盤石にし、居所である今川館では都さながらに文化的であったと言われる。これは足利将軍家が絶えてしまったときにその征夷大将軍を継ぐ足利一門の家格が存在していたことによる。今川氏は序列2番目の家格であり、筆頭だった吉良氏の実力はすでに衰退しており、室町幕府においては事実上今川氏が足利将軍家につぐ地位にあった。

 

各地で起こる実力主義、室町幕府の実権は管領・細川氏にあり足利将軍家の権威は衰退していた。そうした実情と荒廃する京の都に比べて、実力と家格がそろった今川氏に人が集まり始めていたのは自然なことだったのであろう。

 

そこに下向した四条隆重が1537年、「武家調味故実」を伝える事となる。

 

この「武家調味故実」は四條流庖丁書に比べてもボリュームの少ないもので、庖丁式に関する記述は見られない。庖丁式云々ではなく「御成り」のように武家で料理をする料理人にむけた文書である。

 

これらをたずさえ、四條隆重は家職である笙に加えて、料理人の権威者である庖丁人の「家元」であろうとブランディングを考えたふしが見受けられる。

 

 

だがしかし、隆重は1539年に急逝しておりその思惑は成就したとは言い難い。不運の人ともいえる。

 

 

 

  藤原山蔭再発見への萌芽

「四條流」は庖丁式の源流として広く認知されるようになったのは、どうやら鎌倉から室町時代の料理人たちによる、というところまで見てきた。

 

「四條流」「大草流」「進士流」「生間流」という現代にも伝わる名称が出そろい、そうした料理人流派に学んだ料理人たちが大いに活躍したのが、江戸時代という長い安定である。

 

政治・経済に乱れはあるものの、社会機構が一定になり、外敵による対外紛争と内戦が無い時代は文化が発展する。

 

それまで料理書は上記の権威のある流派のものが数点記されただけだったが、江戸時代に入ると多くの料理書が登場する。枚挙にいとまがない位に。これは一般民衆の民度の高さの表れと言えるだろう。

 

 

江戸時代の民衆民俗ムーブメント。


武家文化が日本全国に浸透してゆく中で、日本の一般民衆も大きな発展を遂げる。朝廷・公家の権威に対し、幕府・武家の権力という政治二重構造、それらを横断してきた南都北嶺の仏教権門、そこに鎌倉以来民衆にも広がった禅と浄土と法華の宗門によって、ひろく民衆の中にも理知に富むそして経済的権力を有するものが現れる。

これは精進料理について書いたブログにもあるが、南北朝あたりから悪党・惣門・馬借・土倉・酒屋といった民衆の自治・経済活動が顕在化する。これらを胎動させた禅・浄土・法華の宗門は織豊時代には戦国大名の実力に匹敵、時には凌駕する。一般民衆が日々の暮らしだけでなく様々な知識や哲学に触れ、それが職業料理人にも及んだであろうことは想像に難くない。

 

 

やがて庖丁式を行っていた室町~江戸時代の料理人にとって、自身流派の正統性や権威の根拠を示し、料理人の社会的ステータスを何とか明示したいと考えるの自然な流れである。



江戸時代、日本の食文化において様々な発展と創造がうまれたことはよく知られている。今般日本の食文化「和食」と呼ばれる多くのものが生み出され、茶懐石と会席料理が市井の茶人や料理屋でも提供されるようになり、寿しに刺身に丼といった料理が世界に広がっている。

 

そんな江戸時代後期、突如四条家によって四條流の許状が出された記録が出てくる。笙が家職のはずだったところに、再度料理人関係者の中で四条家に権威が再発生したということである。また、生間流と四條流の門人に関係したトラブルの記録が残されている。四条家はその際に関係者として答申しており、四条家自身も料理人流派四條流の権威者として自認していることがうかがい知れる。


ついに一般民衆たる料理人たちの要請によって、公家が権威付けされるという逆転現象となるのである。

山蔭が近づいてきた。

 

  藤原山蔭とお伊勢参り

お参りブーム。
江戸時代中後期に流行した一般民衆のお参りブームから考えてみよう。

江戸時代、「おかげ参り」という一般民衆を動かした一大ムーブメントが巻き起こったのは有名である。また同時発生的に西国観音霊場三十三か所めぐりも民衆に広く認知されたといえる。西国観音霊場だけでなく、関東方面にもある坂東観音霊場三十三か所めぐり、また四国の八十八か所霊場巡り「お遍路さん」も有名である。もともと西国霊場は大河ドラマ「光る君へ」にも登場したあの花山院が始めたといわれるが、観音信仰が市井で盛んになるのは江戸時代である。

西国霊場三十三か所のひとつには山蔭が創建した「摂津・総持寺」がある。総持寺と山蔭については清和天皇との関係とともに以前のブログで書いた。当初は亡き清和天皇を偲んだ山蔭の思いで創建されたと考えられる密教寺院であるが、時代を経て大衆化したというところであろう。貨幣経済の発達した江戸時代において密教にどれほどの信心が寄せられていたのかは怪しいが、ゴリヤクを求める一般民衆にとってはスタンプラリーのように「良縁にめぐまれますように」とか「病気が治りますように」とかがわかりやすく、現代にもその価値観は続いている。

 

藤原山蔭が創建した事実を伝える建造物と場所が、歴史的遺産として保存されたのである。

 

また長谷寺霊験記、総持寺縁起などに記された山蔭は、現世利益をもとめる観音信仰の根拠として、室町期にはすでに認識されており、江戸時代にも写本として天皇の筆であることが総持寺では伝えられている。

 

つまり、江戸時代にはすでに「藤原山蔭」は観音信仰ブームの最重要人物であったことがうかがい知れる。

 

  「四條中納言藤原朝臣山蔭」神聖化

 

一般民衆の中から生まれる料理人にとって、社会的成功の最終的欲求は権威である。

 

中世に始まった庖丁式と庖丁人、そして荘子の故事にならった御前披露という場、そしてそれを行う正統性を示すための流派名。権威にもっと肉付けがあるとすれば、創設者・創業者・創造者の神聖化というところだろうか。

 

四条家家祖であり実際に庖丁式をした藤原家成について、一般民衆にとって「誰だよそれ?」であり、崇め奉るにしてはあまりに実績がない。

 

そこに藤原山蔭の名前を大いに持ち出した初見は大正12年の『日本料理法大全』である。


だがそこにはなぜ藤原山蔭が四條流のルーツになっているのかについては説明がされてはいないが、状況証拠的に山蔭の記録周辺に記載される料理人(高橋氏宗国朝臣庖丁譜)と、そこから連なる系図を紹介している。そうであることが前提となっている。つまりここで神聖化がされているのである。

 

そこには決して「四條山蔭」などとは記載されてはいない。だが山蔭がなんとなく四条家にちょこっと関係している程度の事実が記載されている。

 

このあいまいな記載がのちの人たちが誤認、またはあえて都合よく山蔭を四條流の元祖として持ち出したのかもしれない。

 

すでに既成事実化している「四條流」という名称と四条家を、どこかで料理人との接点を発見し、明文化し、流派一門の正統性と源流を示そうとしたと思われる。

 

 

山蔭自身は四条家では無い。ただ先祖をさかのぼると四条家と一緒だっただけなのであるが、先に挙げた観音信仰とともに「藤原山蔭」は皇室にもおぼえめでたき人物名となっていたのが江戸時代。

 

清和天皇と山蔭。観音信仰と山蔭。吉田神道と山蔭。

 

四条家と四條流において、「藤原山蔭」は様々な要素で神格化に適していたといえるだろう。

 

 

 

  明治維新、そして国家神道

 

日本料理法大全の著者である石井泰次郎氏と校閲者の石井治兵衛氏。

治兵衛氏は宮内庁大膳職庖丁師範兼、四條流料理師範家8代目と記されている。

 

大正12年、料理人の系譜が日本において明文化されたのはこれが最初であり、ここまで詳しく、かつ多方面の情報が集積されたものは当時見当たらない。つまり日本の料理人史古典となったのである。

 

以後、料理人たるやこの書物を原典にして情報が拡散される。

 

大正12年というのはもう昭和が目の前であり、大正デモクラシーのど真ん中である。

 

明治維新によってさまざまな価値観が一新され、廃仏毀釈、国家神道によってさまざまな人物が神格化されていった。

 

江戸時代までの神道における「神」とは日本神話に登場する神、animism的な自然神、もしくは現世の不幸によって怨霊化した祟り神であった。例外として豊臣秀吉が豊国大明神(徳川家の進言によって皇室より神号はく奪)、徳川家康だけが東照大権現として神格化していた。ころが国家神道以降は現世の遺徳をもって人を「神」として祀ることが常態化した。代表的な例を挙げると、明治神宮、平安神宮、近江神宮、橿原神宮といった天皇を祀ったもの、湊川神社のように政治的な意図を含んだものが大きい。また江戸時代後期ぐらいから、市井の中にも善政や産業発展など遺徳を讃えて神格化されることが見受けられるようになった。

 

こうした流れから、日本料理法大全は藤原山蔭神格化への道筋として大きな役割を果たしたと言えるのである。

 

そして昭和32年ついに藤原山蔭自身が「神」として祀られた山蔭神社が創建されたのである。吉田神社創建1100年を記念した事業として、京都の料理関係者たちがその中心となって。

 

 

  現代とこれからの藤原山蔭


現代の自由な価値観と情報化社会において、いにしえの神格化された人物や付随する儀式などにいったい如何ほどの意味があるのだろうか。

 

このような権威と勿体付けた行為は、世界的に料理業界にはさほど見受けられないし、大した価値を認められていない(一応世界には各国宮廷料理人だけのClub des Chefs des Chefsという組織があるが)。なぜならば自由資本主義経済における価値観は「人気度」だからである。ゆえに、現代の料理人で社会的な権威を持つのは、メディア露出の多い人気シェフである。

それ自体はごく自然な成り行きであって、過去も現在も未来もそうなのである。

 

グローバル化した現代において、地球儀的に料理界を俯瞰すれば、日本の食文化の古い情報など如何ほどの経済的価値も創造しないかもしれない。私はそうは思わないが。

 

庖丁式や四條流に携わる者、日本料理に関わるの多くの人はこの藤原山蔭なる人物の神格化について、疑問を持っているだろう。中には葛藤を抱いてきた人もいたであろう。

 

だがしかし藤原山蔭という人物を紐解くことは、日本というものを形づくっているパーツをいくつも発見することができる。

先般亡くなられた松岡正剛氏がよく使っていた言葉「日本という方法」である。和食料理人であればまさに藤原山蔭から多く読み解くことができる。

 

もし料理人という職業の中で、そして和食、日本料理、食文化といった関係者において「日本の料理と食の文化的根幹」について疑問が生じたのであれば、藤原山蔭にから日本を読み解くと良いだろう。

 

そこには、まぎれもなく日本人がたどってきた料理人の足跡が見えるのだから。


参考:

『総持寺縁起絵巻」の成立と意義11 常称寺所蔵絵巻を中心に

日沖敦子

 

藤原山蔭関連寺社縁起二種
-国立歴史民俗博物館蔵『久修園院縁起』・
福岡県八女郡大光寺蔵『飛形山大光寺縁起』1
日沖敦子

 

受け継がれる山蔭像
流布本系『鉢かづき』を中心に

日沖敦子

 

山蔭申納言説語の成立『長谷寺観音験記』の場合

星田公一

 

美味求眞-四條流

河田容英

 

日本料理法大全

石井泰次郎・石井治兵衛

 

吉田兼倶と天台本覚思想
辻本臣哉

 

江戸時代の吉田家のいわゆる「神道啓状」と「神道之状」について
松本勇介

 

十七世紀中葉における吉田家の活動確立期としての寛文期

幡鎌一弘

 

江戸時代における獣鳥肉類および卵類の食文化

江間三恵子

 

古い料理書の話
川上行蔵

 

吉田家の諸社研究における家記利用について
―『諸神根源抄』と『吉田家日次記』の関わりを中心に―
新井大祐

 

 

 

 

 

  淡海流、シャリ

ひさご寿しのシャリについて、思い切って名前を付けてみた。

 

名付けて「淡海流」(おうみりゅう)。

 

ひさご寿しの味を決めているのはシャリであると断言できる。

 

 

別邸「淡海庵」(おうみあん)の準備も進めているところで、ひさご寿しが創業以来64年繋いできたシャリのメカニズムを、新しい形で残してゆくために、ここに記しておこう。

 

 

 

節分に寄せて以前に記しておいた。

かなりマニアックに紐解いているのだが、滋賀でシャリを云々言うには必要な話。江戸前の事はさておき。

 

 

  淡海流メソッド

簡単にまとめると次の通り。

 

1.寿し好適米、滋賀県産「日本晴」一等米を使用する。

 

 

2.米は15℃あたりの一定温度で保管し、最低1年を経過した古米、古古米を使用する。

 

 

3.シャリ酢は生酢と加熱酢を5.5:5でブレンドする。塩、砂糖等の調味料は加熱酢に溶かす。

 

 

 

 

  寿し好適米「日本晴」

多様な米品種の中から日本晴を選択する理由は以下の通りである。

 

日本晴は粘り・弾力性が他の品種くらべて低い。シャリ同士がくっつきにくく、そして米粒が握った時につぶれにくい。

 

これは品種の持つ特性で、日本の代表的な品種である「コシヒカリ」「ササニシキ」と比して寿しに適している。

 

特に上方寿しにおいてはその特性が最大限に生きてくる。

 

 

鯖寿しにおいては練り込むように、シャリとシャリの間にある空気を抜く。これは鯖寿しが翌日、翌々日まで美味しくそして衛生的であるために必要な調理工程である。シャリの隙間に残った空気量が多くなると、酵母や乳酸菌といった微生物が増殖しやすくなる。酵母が増殖した場合、シャリの中でアルコール発酵が始まる。稀に手作り鯖寿しのお土産でシャリからアルコールっぽい香りがしたとすれば、脱気が甘いからそうした事になる。

 

同じようにシャリを押し固める押し寿しに違いがあるとすると、棒寿しにはそうした食品衛生の知恵が含まれているのである。ちなみに、簡便な押し寿し・箱寿しではなく、大型の箱を使った伝統的郷土料理によく見かける「杮寿し(こけらすし)」もしっかりと脱気するために重石をしたり閂止めをして、圧力をシャリにかける。

 

こうしたことから、淡海流においては多様な寿しスタイルに対応するシャリ作りでありたい。

 

 

一方、現代的で刹那的な一瞬の美味しさを追求したスタイルの場合、シャリに使用される好適米は必ずしも日本晴ではないことは当然としておこう。そうした場合は、炊き方や加水加減も変わってくるだろうことは言うまでもないが、ここでは記さない。

 

 

ちなみにシャリが粘る粘らない、粒が立つか立たないかに関わるメカニズムは、米に含まれるデンプン質の含有割合による。いわゆるアミロースとアミロペクチンと呼ばれるものなのだが、実は日本晴・コシヒカリ・ササニシキにおいて劇的な差があるわけではない。

 

弾性・粘性を生み出すのはアミロペクチンで、アミロペクチン100%がもち米と言えばわかりやすいだろう。

 

日本晴はコシヒカリ・ササニシキに比して約2%程度のアミロペクチン比が違うだけ。

 

だがしかし、日本晴に含まれるアミロペクチンは弾性・粘性はあるものの、分子結合が他の二種に比して大きい。これが日本晴が上方寿しに適する理由を生み出している。

 

他、一等米を指定しているのは粒の大きさがそろっている事を念頭にしているからである。

 

 

  一定温度での1年を超える保管

 

玄米の保管温度は15℃あたりに設定されている。また最低でも1年、2年の熟成が望ましい。いわゆる古米・古古米と呼ばれてきたものであるが、寝かせるには理由がある。

 

また定温にて寝かせるのは米虫を抑制するためである。米虫、コクゾウムシは低温では虫卵から生まれることができない。また20℃を超えてくると活発になり、一気に増殖する。コクゾウムシが米を食べ散らかすと、当然品質は劣化するのでこれを押さえるのである。

 

 

こうして1年~2年間を一定温度の低温で熟成させる中で、米は「水分が抜けていく」と思われがちだが、実のところそんなに米の水分含有率は多く変動しない。

 

昔からよく言い伝えられている話で、「新米は水分が多いから炊飯の水加減を減らす」「古米は新米よりも炊飯の水加減を増やす」とかあるが、米に含まれる水分含有率は13.5%~14.5%あたりで、誤差は1%程度なのである。

 

また、貯蔵中の米は脱水だけでなく湿度によっては吸水し、条件によっては古米の方が新米よりも水分含有率が高い場合もある。

 

こうした理由から、新米だから古米だからという区別で炊飯の水加減を変えたところで、実は水加減が食味の違いに影響しているわけではないのが事実である。

 

新米と古米・古古米の食味の違いの根源とは。

 

 

  シャリの核心

 

米を寝かせる核心は香り成分である。

 

 

新米と古米・古古米において圧倒的な差があるのは香り。

 

なぜ1年後、2年後に香りが大きく変わってしまうのかというと、米の油脂に由来する。

 

米は主食ゆえに多くの人が炭水化物・糖質とみなしているが、米に含まれる成分にはタンパク質も脂質も含まれる、隠れたスーパーフードなのである。

 

特に日本人や東アジアの稲作温帯地域に住んできた民族の消化器は、この米に含まれる糖質・タンパク質・脂質を効率よく吸収して栄養にできるように進化してきた。米に無いのは必須アミノ酸の一部で、それは大豆に含まれている。ゆえに日本人においては、ご飯と味噌汁を日常的に食べることである意味事足りているとさえ言える。

 

話がそれた。

 

 

米の香りの根源は油脂に含まれており、米の油脂はいわゆる玄米外皮に多くある。牛や豚の脂のようにたっぷりと含まれている訳ではないが、このわずかに含まれる植物性油脂が時間経過とともに酸化してゆくと、新米では得られない香りへと変化するのである。

 

新米を白米で炊くと、フレッシュで瑞々しいえも言われぬおいしさを連想させる。これは我々日本人が新米を大切にしてきた証しでもあるのだが、こと淡海流シャリにおいては違うと言っておこう。

 

新米においても油脂はわずかに酸化しているものの、古米となるとその約7.5倍、古古米の場合では約10倍の脂質酸化がある。

 

通常、食材における油脂の酸化は人体の健康にとって好ましくない条件と隣り合わせにあることが多い。ゆえに酸化した油脂から感じる香りは「美味しい」にむずびつきにくい。

 

酸化した油脂の香りの代表例を挙げると、使い古した揚げ油、熟成した生ハムの外皮、鮮度の落ちた魚類の肝臓、時間の経過したレバーペースト、などなど。

 

ゆえに、白米で食味を比べた場合には古米は「美味しくない」となるのが当然なのである。

 

だがしかし。

 

寿しにする場合は条件が違う。

 

寿しの場合は様々な魚介・ネタと口内で咀嚼して風味が出来上がる。つまり、シャリ単体で美味しい不味いが決まるわけではない。複数の素材、複数の油脂と香りがシャリと合わさってゆくとき、古米・古古米の持つ米の香りがあってこそ生まれる寿しの風味が確かにあるのだ。

 

ましてシャリは米酢という調味で強い香りを付加しているのであるから、新米では力が足りない。

 

 

特に伝統的な塩熟成を経た鯖を使った鯖寿しにおいては、力強いシャリの香りと相性が良い。鱧箱、穴子箱、巻寿し、ケラ箱、マス箱、どれもこれもシャリの香りが弱いとバランスが良くない。

 

また、海鮮を握るにしてもネタの個性や香りが強ければ強いほど、シャリは受け止める香りが必要になってくる。

 

 

近年は「赤酢」を使う事でシャリの香りと旨味をより膨らませる手法をとることも多くみられる。これはこれで、米の香りが少ないところへ補完する意味でも理に適っているのだが、赤酢の原料である酒粕の油脂が酸化してふえる香り成分と、米そのものの油脂が酸化した成分とは違いがあることは確かである。いずれにしてもどういう手法・技術を選択するかは料理人の考え方次第なのである。

 

ゆえに、ひさご寿しのシャリの作り方・考え方として「淡海流」と名付けておく。

 

 

別に独占禁止法でもないので、誰でも淡海流を試してみて楽しめばよいと思う。

 

 

参考:

 

玄米の水分変化に関する情報・研究結果について

農水省

 

貯蔵期間の異なる米の掲精歩合と浸水時間の相違が炊飯に及ぼす影響について

井上タツ 鈴木裕

 

品種の異なる米澱粉の構造と糊化特性
大家千恵子 川端晶子

 

米の風味
安松克治

「人間・藤原山蔭」にいろいろな視点で迫り、彼は本当のところ何者だったのか、そしてなぜに現代において日本料理中興の祖として讃えられ、そして神格化されているのか、という謎にアクセスる。

 

今回は藤原山蔭が創建した神社、「吉田神社」にまつわるはなしである。

 

 

  幼帝・清和天皇の践祚・即位

吉田神社は藤原山蔭の創建であることは疑いようのないところである。

 

 

 

吉田神社創建年の貞観元年(859年)とは、山蔭にとって最も重要な人物・清和天皇が即位した年。9歳という元服前の天皇践祚・即位は、皇室の前例にない新儀である。この時、皇室にとって幼帝は前例となり、以後たびたび幼帝践祚がおこる。

 

 

ちなみに天皇になる事を「践祚(せんそ)」と言い、「即位(そくい)」とは即位礼という儀式を行い周知することを桓武朝以降は指していた。ゆえに歴史上では即位礼が行われなかった例もある。だが現代の皇室典範では践祚・即位を一連の儀式で行う事で同義としたため、二つの名称をあまり区別されないが、世界の国王たちの即位と天皇に違いがあるとすれば、天皇位は厳密には践祚そして即位がある。

 

 

さて

これは時の権力者であった太政大臣・藤原良房が清和天皇の外祖父として権力を絶対的なものにしたい、という野心であったことは明白ではある。

 

滋賀・奥永源寺政所君ヶ畑に縁深い惟喬親王にとっては不運ではあった。だがもし惟喬親王が天皇となっていたら、奥永源寺政所君ヶ畑は現在のような文化的豊かさを保っていなかったかもしれない。惟喬親王は清和天皇の異母兄である。

 

 

 

話はそれたが、前回のブログにも記したように清和天皇は様々な人の願いを背負い幼帝として践祚・即位した。父である文徳天皇・皇后・太政大臣そして皇太子・惟仁親王(清和天皇)とともにそろって、天台座主円仁から菩薩戒灌頂を受けた。幼き皇太子が菩薩の化身として世の平安の光にならん事を、純粋に願ってのことだったと、人の親であれば安易に想像できる。まして当時は「密教」こそが最新の政治とインテリジェンスだったのだから。

 

では吉田神社は何のための創建なのか。

 

 

  吉田神社創建

(吉田神社、斎場大元宮。吉田神道の最も特徴的な場所。)

 

吉田神社とはそもそも藤原一族にとっての氏神社である。奈良の春日大社の勧請なのだが、平安京があった山城国には大原野神社という春日大社の勧請社が先にあったにも関わらず、山蔭は新たに吉田神社を創建した。

 

(京都市西京区にある大原野神社。京都で最初の春日神の勧請神社。光る君へ効果で広報活動として「藤原氏の氏神」の幟が立つ)

 

 

 

「吉田」という場所は御所からみてほぼ真東にある。この吉田には神楽岡と呼ばれる岡(現代は吉田山とも呼ばれる)があり、カグラという名前の通り神道的な儀式が行われていた由縁を伝えている。

 

神道儀式のひとつ「神楽(カグラ)」は、日本の最も古い伝統芸能と言っても良い。神道における神楽は、言葉や文章ではない、時代をこえて何かを伝奏するひとつのコミュニケーションツールともいえる。いわゆる「神憑り」「神降し」といった、神や死者の霊魂といった目に見えない何かを演舞者に憑依させ、または一体化し、舞や楽を媒介にして今を生きる人とつながる。

 

 

山蔭が吉田神社を創建する前、神楽岡には何があったのか。

 

 

 

吉田神社が創建される前、神楽岡あたりには清和天皇の母方の祖母・源潔姫の陵墓があった。源氏性ではあるが、嵯峨天皇の皇女であり、日本で最初に臣下に嫁いだ皇女である。彼女は太政大臣・藤原良房の妻となり、清和天皇の母となる明子を生んだ。明子が文徳天皇の女御となったが、潔姫は孫の皇子・惟仁親王(清和天皇)が生まれるところまでは生きる事が出来ず、孫を見ずに46歳で亡くなった。

 

藤原良房は後に太政大臣にもなる政治的に権力者であったが、当時の権力者にはめずらしく妻は源潔姫のみで、後妻も迎えずに生涯を終える。ゆえに子は娘の明子のみで、のちに養子として甥の基経を跡取りに迎える。

 

つまり、藤原良房にとって孫の惟仁親王(清和天皇)は、最愛の妻・源潔姫の残したたった一つのつながりだったのである。

 

それはもう溺愛したであろうことは想像に難くない。

 

実際、幼少の惟仁親王(清和天皇)は良房の邸宅で育っており、藤原山蔭はそのころから近侍として働いていた。

 

まだ9歳の孫・清和天皇即位に際して、良房おじいさんは「出来る事はなんでもやる」「目に入れても痛くない」を実践したというところだろう。

 

 

清和天皇即位年に吉田神社を創建しているところから、清和朝に対する思いがあってのことは明らかである。そもそも神社を創建する主な理由は「鎮守」である。鎮守とは、神の荒ぶる祟りを鎮め、現世に生きるものを守ることである。

 

現代日本において死者に関わるのは仏教で、神道はどちらかというと祝いの風潮がある。

 

だが、神道における「神」の存在とは人智と人力の及ばない現象をもって、正邪どちらの結果をひきおこすものである。当時も今も「神の祟り」を畏れ、良い事だけが起こるように、鎮守を神に願うものなのだ。とくに古代から中世においては、死者が荒神となることを恐れ、死者を神として祀ったものが多い。

 

こうしたところから、神楽岡に眠る清和天皇の祖母、良房の最愛の妻、源潔姫の鎮魂を重ね合わせるように、藤原良房が山蔭に命じて吉田神社を春日大社から勧請・創建したのではないだろうか。

 

この説は中本和氏の借り物に私の説を重ねたものであるが、神楽岡にはその後数々の清和天皇にまつわる人々が埋葬される。母・明子、息子・陽成天皇、そして祖父・藤原良房までもが。

 

清和天皇にまつわる人々にとって、神楽岡は特別な場所であったことは間違いない。それは源潔姫が始まりなのかどうかは計り知れないが、藤原氏の氏神を呼び寄せて鎮守を祈願したという事は、その一帯を藤原氏にとって神聖化し、他者に踏み入らせまいとする思いの表れなのかもしれない。

 

 

 

  吉田神社と二十二社

(吉田神社本殿、春日神四柱を祀る。武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神)

 

だが吉田神社もさることながら、平安初期において各地の神社は現代のような神道的権威は薄い。平安時代各地の神社は仏教権威が高まるのと反比例して、衰退する。特に朝廷から物理的に遠い地方においては、国家事業としての奉幣が行われなくなってゆく。これは現代経済的にいうと、不採算店の閉店みたいなものである。

 

替わって南都や比叡山に人的・物理的・権威的パワーが集まり出すと、もはや神社は寺院が管轄するに至るのだが、都から近いところだけが朝廷からの奉幣が続くことになる。それが二十二社である。まあどう見ても朝廷・比叡山・南都の縁が深いところであることは間違いないし、そりゃそうだろうよ、である。

 

平安京・内裏から近く、藤原の祖神を祀り、皇祖と縁者の墓を守る吉田神社。

 

創建者・藤原山蔭の孫・時姫の夫である藤原兼家は、寛和の変によって花山天皇に譲位させ、孫の一条天皇が践祚・即位させることに成功した。これにより兼家は朝廷権力を掌握し、摂政そして関白となった。

 

このあたりはまさに大河ドラマ「光る君へ」にも描かれている。

 

同年、延喜式内社でもなかった私的な吉田神社も朝廷祭祀を与ることとなる。

 

これはどう見ても山蔭の縁者である関白・藤原兼家の影響があったとみるのが自然であろう。

 

そしてその4年後の西暦991年、それまでの朝廷奉幣16社に吉田神社他2社を加えて、19社となる。

 

この年に何があったのか。

 

一条天皇の皇母、藤原詮子に日本史上初めて女院号が宣下された年である。これにより東三条院詮子と呼ばれるようになる。また一条天皇の父である円融上皇が崩御された年でもある。

 

一条天皇と母である女院・詮子の意志であったことは間違いないだろう。

 

その後、朝廷から奉幣のある神社は日吉大社を最後に二十二社が確定することになり、吉田神社は一応の権威を保持する事になるが、だからと言って藤原山蔭が日本料理中興の祖とされるには、やはり無理がある。

 

 

だがそれを大きく変えることになるのが、室町から戦国時代に生きた吉田兼倶である。

 

 

 

 

長くなったので次回に。

 

 

参考:

官人としての藤原山蔭
中本 和

 

円覚寺・東名寺・東明寺にまつわる基礎的考察
笹川尚紀

 

伊勢日記私注ロ
大和に親ある人
松原輝美

 

中世吉田地域の景観復原
吉江 崇 

 

神佛習合より見たる上代佛教の宗派的性格
伊野部重一郎
(高知大学文理学部・歴史学研究室)

 

 

 

 

 

  GRCCでのプログラム

グランドラピッズにはコミュニティカレッジという専門学校と大学のあいだのような教育システムがある。これはグランドラピッズに限らず、ミシガン州ランシングにもある。

 

グランドラピッズ・コミュニティカレッジ、略してGRCC。

その中に料理学科がある。むろん他にも様々な学科があって、学科ごとに棟が別れている。

 

日本で言う調理専門学校のような感じと言えばわかりやすいだろう。

料理学科棟。

ここで日本の食文化と郷土料理について初日にレクチャー、2日目に実際に学生たちが料理して40人のゲストにサーブする。というプログラム。

 

1日目にレクチャー。

2日目にレストランを使ってランチコース提供。

 

まずは前日に現場確認。

(使用する寿し米の香りで熟成ぐあいを確認)
 

事前に食材や料理についての情報はやりとりしていたとは言うものの、実際にはあれこれと思い通りのものはないのが当たり前。

 

幸いにも主任教授のボブがとても気を回してくれて、選択肢をいくつか用意してくれていたので本当に助かった。感謝しかない。

 

寿し米なんかはちゃんと古米があったことに驚き。

 

 

あらゆるジャンルの料理を実習できるように機材が豊富。

でも和食と中華の道具は無い。

 

食文化レクチャーのために日本から持ち込んだホンマモンの木地と漆で作られた朱塗り膳漆器。

 

水についても日本の水に近い硬度50ぐらいのものを用意してもらったり、野菜も日本のものに近しい種類でそろえたもらった。

 

器も一通り確認したところで、GRCCの前日確認は終了。

 

  グランドラピッズの食と生活

渡米は初めてと言事もあって、グランドラピッズの人たちの普段はどんなものなのか知りたくて、市内の様々なマーケットを紹介してもらったのがとても印象的。

 

ミシガン州はクラフトビールのブリュワーがとても多いのが特徴との事。マーケット内のクラフトビールコーナーには幾あまたのクラフトビールがならぶ。ダウンタウンにはビアスタンドがいろいろあって、こりゃ楽しい。

 

 

マーケット内の鮮魚コーナーは40%が淡水魚。

 

ちょっとこだわりのコーナーには、さまざまなタイプのオリジナルミックススパイス調味料やフレーバーティー、オーガニックのオリーブオイル量り売りもかなりの種類が選べる。

 

惣菜のスモークサーモンが温燻・冷燻ともに美味。本当に美味。

 

鰊のクリームマリネが気になる。

 

 

  ミシガン州グランドラピッズの淡水魚

 

 

特に気になる淡水魚コーナー。

ニジマスは滋賀県民にも養鱒でなじみ深い。こういうフィレで普通に買えるのはいい。

 

ホワイトフィッシュは小骨も無い中型白身魚で、かなり汎用性が高い食材。横のイエローパーチは今回食べる機会が無かったが、ホワイトフィッシュやウァーライに比べて小型なので、おそらくふんわりした食感が上がるだろう。

 

チャンネルキャットフィッシュ。まあ日本では要注意外来魚のひとつになっているが、いわゆるフィッシュバーガーに適している。ナマズの類は皮目からピペリジン等の泥っぽい香りが出てくるので、皮を剥いでフィレにしているのは美味しい合理性と言えるw

 

 

発音的にはウァーライの方が近い。

カタカナ英語で書くとウォールアイ。

マユミさんの話でも最もおいしいとの事。確かに。

 

総じて淡水魚の単価が海水魚並みもしくはそれよりも高い。
最高値はイエローパーチだが、フィレで約12,000円/㎏。成体での単価で計算しても、日本のふぐや虎魚よりも高値である。アメリカの物価が約1.5倍と見積もっても、日本で淡水魚がこんなに評価はされることは無い。これは料理人がおいしい淡水魚料理が出来ていないという事ではないのか、というのが料理人目線である。

 

海ものはこんなん。

 

 

こうした鮮魚の流通や漁業のシステムがどうなっているのかまではマーケットの売り場で知ることは出来ない。だが大陸ならではともいえる淡水魚の大きさもあってか、料理しやすそうな状態で売られていれば、魚好きの人は簡単に家でムニエルやソテー、ローストで楽しむことができるだろう。

 

まあ琵琶湖の魚は絶滅危惧種だらけなんで、広く流通もなにもないのだが。

 

 

 

 

次回こそグランドラピッズで食べた料理たちを記録しよう。

 

3/23~3/31に米国ミシガン州に、日本料理の講義と実習をグランドラピッズコミュニティカレッジ(GRCC)で、日本と食文化の哲学についてミシガン州立大学で講義をしてきた話。

 

まずはこの事業に際して声掛けいただき、現地滞在にもいろいろとお世話になった滋賀県庁の松原氏に感謝申し上げます。並びに、グランドラピッズ近江八幡姉妹都市委員会の皆さんとアネッタさん、マユミさんにも。単身事業を様々にサポートしてくださり、事業と現地滞在をスムースで居心地の良いものにしていただいた。日本には「おもてなし」という接待の概念があるが、グランドラピッズの皆さんからもらったものは日本のおもてなし文化とは全く違う「親切」だったと思う次第。

 

 

(グランドラピッズ最終日)

(マイヤーガーデンにて)

 

結論から言う。

 

ミシガン州グランドラピッズは良いところである!

 

 

最初の連絡があったのは、昨年の6月の事。

滋賀県庁職員の松原さんから。

 

彼と最初に出会ったときは県知事秘書課、そしてその次は食のブランド推進課だった。

 

そして今回の連絡にはとても驚いた。今、滋賀県の姉妹都市となっている米国ミシガン州に駐在員として派遣されているとの事。

 

そんな彼からの連絡は、「ミシガン州のグランドラピッズで日本料理の講習をして欲しいというリクエストがあります」という内容で、「マジで?」という感じだったのを覚えている。

 

とは言え、せっかく日本と食文化を伝える機会をもらったのだから、やらない選択肢はない。という事で行ってきた。

 

 

これはその記録である。

 

 

  滋賀県の姉妹都市

世界にあるさまざまな姉妹都市プログラム。

 

滋賀県は県全体として米国、ブラジル、そして中国に姉妹都市がある。

 

中でも米国ミシガン州は1968年以来、60年以上の友好姉妹都市としての交流と歴史があり、滋賀県一番最初の姉妹都市提携である。

 

琵琶湖には「ミシガン」という名前の遊覧船が今も周航しており、滋賀県で生まれ育ったものにとってミシガンとは馴染みのある名である。

 

彦根の琵琶湖畔には「ミシガン州立大学連合日本センター(JCMU)」という、15校のミシガン州立大学が合同する施設があり、常時ミシガン州からの留学生を数十人ほど受け入れている。逆に滋賀県民側にも門戸はひらかれていて、かれら留学生や州立大学との接点、英語教育プログラムなどが複合的に提供されている。というのも、今回のご縁で初めて知ったところ。

 

こうしたことから、滋賀県は常駐の駐在員をミシガン州においていて、滋賀県職員が交代でそれにあたっている。県職員駐在員を常駐させているのは47都道府県では滋賀県だけとの事。松原さんから聞いて初めて知ったw

 

 

 

  近江八幡の姉妹都市

近江八幡にとっても一番最初に姉妹都市提携をしたのが、ミシガン州の都市である「グランドラピッズ」だった。グランドラピッズという地名は米国にいくつも存在するが、近江八幡の姉妹都市であるグランドラピッズはミシガン州第二の人口の市。

 

フォード大統領の出身地であり、アムウェイ本社、大手スーパーのマイヤーの根拠地でもある。

 

県全体の姉妹都市提携からおくれる事18年、1986年に近江八幡×グランドラピッズで姉妹都市提携が結ばれ、これは両市ともに一番最初の姉妹都市提携である。

 

この他にも近江八幡にはヴォーリズの生誕地や、安土町合併からの引継ぎ姉妹都市であるイタリア・マントヴァもある。

 

 

2019年、第一回近江八幡マントヴァ音楽祭、次いで市長とともにマントヴァ訪問団でイタリアに渡ったのはもう5年前。

 

 

 

  米国へ~

さて、グランドラピッズは姉妹都市提携も長い事から、色々な交流が行われてきたようだが、私には実のところまったくなじみが無かった。

 

いつかは米国に行くこともあると思っていながら、お仕事になるとは思ってはいなかったが。

 

 

渡米が迫る年明けそうそう、GRCCとミシガン州立大での講義資料や、料理実習内容の検討、レシピの作成、器の確認などさまざまな作り込みをすすめ、州立大での講義資料の翻訳者さんへの最終提供は結構ギリギリになってしまった。申し訳ない。

 

とはいえ、出発前にできることはすべて終えて、事前準備はOK。

 

あとはカラダ一つ飛行機に乗せてやるだけ。

 

 

グランドラピッズへは日本からのアクセスは良いほうだろう。

伊丹⇒羽田⇒デトロイト、そこから車でグランドラピッズまで2時間半。2時間半の距離感なら、関空と近江八幡の距離位と言える。

 

東京からだと、羽田⇒デトロイト⇒グランドラピッズという乗り継ぎ1回でグランラピッズのフォード国際空港へ行くことができる。

 

 

 

さて今回はここまでにして、次回からグランドラピッズの様子と料理たちを記していきたいと思う。

 

 

 

 

(京都・吉田神社内にある末社「山蔭神社」藤原山蔭を神として祀る)

 

庖丁式の始祖とされる藤原山蔭、本当のところ庖丁式を創始した記録はみつからない。

 

前回までのこのテーマで記してきた通り、藤原山蔭は藤原北家とはいえ、本流から離れた傍流下級貴族三男としての生まれである。はなばなしく同時期に朝廷政治の中心で活躍し、後の五摂家となる本流の良房や基経に比べると、日本政治史で特筆される事績を残したという事もない。

 

はっきりしている事は、清和天皇の立太子前、8歳の親王時代より近侍として支え続け、近衛という役職から離れても、清和天皇の信任厚く、崩御近くの行幸にもわざわざ従っているという事。働き盛りの時には昇進もなく、いざ朝廷の要職に任ぜられても、わざわざ辞退をしてまで清和天皇を近侍で支えようとした。しまいには朝廷内の要職を固辞することもできなくなり、譲位した清和上皇の別当として兼務するまでになる。清和法皇崩御後も陽成朝、光孝朝ではさらに位階を上げ、要職に任ぜられながらも、政争での登場はなく生涯を終えている。

 

この事から、朝廷内の権力闘争からは少し離れたところにいる藤原山蔭という人物の、誠実さが垣間見えるのではないだろうか。

 

 

  藤原山蔭と藤原道長

今年のNHK大河「光る君へ」は紫式部が主役、準主役は藤原道長という人間関係ドラマの様相である。

 

藤原道長といえば日本史でぜったいに習う、いわゆる平安時代を代表する藤原家絶頂期のメインキャラクターである。

 

道長にとって、藤原山蔭は母方のひいお爺さんである。

 

 

2人は100年近く生きた時代が違うため、道長は直接山蔭に出会ったことはないのだが、道長の母・時姫はむろん道長の曾祖父・山蔭について、幼少の道長に説いていることは自然な道理だろう。

 

ちなみにNHK大河の時姫役は、レジェンド声優・三石琴乃さんである。セーラームーンだのエヴァンゲリオンだの有名どころの作品で主役の声役の人。ある意味見ていて面白い。

 

道長の母方の出自は、山蔭亡き後どのように影響したのか。

 

 

 

  摂津・総持寺創建

摂津国は現代で言う大阪・神戸にまたがるエリアで、関西人ではなじみのある「阪神間」という沿線とその山側、大阪府北部あたりの事で、都からみて瀬戸内航路と山陽道へのアクセスラインである。

(山蔭が登場する「長谷寺観音験記」を想起させる亀が台座に)

(西国三十三観音霊場、22番札所、総持寺本堂。亀にのった秘仏の観音様が本尊)

 

藤原山蔭は、清和朝から陽成朝の仕事ぶりの結果なのか、光孝朝にかけるところで重要な知行国が多く与えられている。

 

備後・伊予・美濃・備前・肥後・播磨などなど。

 

これらは軒並み瀬戸内利権のエリアばかりである。遣唐使が廃止される894年までは、海外・国内交易収入が相応にあったとみるのが妥当だろう。また美濃は中世には近江国に次ぐコメの収量があった地域。これらを総合すると、藤原山蔭は政治的な権力と朝廷での位階としては藤原北家本流におよばずながら、経済的には中流貴族を超えたステータスへと到達していたことは安易に想像される。

 

そして元々摂津は山蔭の祖父代からの知行国としての縁があり、息子の藤原中正も摂津守である。

 

総持寺の創建において、山蔭ファミリーの根本居地で、交易ルートの要所・摂津であったことは、至極当然のことだっただろう。

 

 

一方、この総持寺創建にかかわり「長谷寺観音験記」と「今昔物語集」という中に藤原山蔭が主人公の物語が描かれている。他にも「和州長谷寺観音験記」「平家物語」にも類似の説話が記されている。現代まで、絵巻物と合わせて語り継がれているものである。

 

これらは「観音菩薩の化身と報恩」というところに共通点がある。総持寺の本尊・千手観音、京都・真如堂にある新長谷寺の十一面観音、どちらも山蔭が観音菩薩の恩に報いる、という事で開基・創建されたと伝わるものである。話の中身は、海の中に落ちたところを亀に助けられた、というおとぎ話的になっているのは、後世語り継ぎやすくするためのものだろう。

 

かくして、藤原山蔭が総持寺、そして新長谷寺を創建した理由は、「命を救われた観音様への恩返し」というのが伝承されてきたのである。

 

 

  平安時代の最新科学

 

時はまさに平安時代の密教全盛期。

 

現代人の知り得る科学から見れば、神や仏は目に見えないスピリチュアル的で観念的、ある意味非科学的なものの象徴といっても過言ではない。だが、目に見えない何かをどうにかしてとらえようと、当時のスーパー知能者たちが必死に取り組んで実践していたのが、「密教」なのである。

 

 

山蔭が生涯の中で最も長く、そして誠意をもって仕えた清和天皇。日本の歴史上初の幼帝即位に際して、父・文徳天皇、母・藤原明子、そして藤原明子の父にして時の最高権力者であった藤原良房とともに天台座主・円仁から菩薩戒灌頂を受けている。これは、当時最先端科学だった密教をもって、鎮護国家のために天皇を菩薩戒灌頂によって菩薩の化身たらしめんと、大真面目に取り組んでいるのである。天皇の菩薩戒灌頂は、亡き空海が平城・嵯峨・淳和の三帝に対して与えている先例がある。空海・最澄亡きあと、彼らに変わって天皇に灌頂を授ける事が出来るのは、当時円仁が密教界において最高位であったことを意味する。

 

 

父帝と母、そして最高権力者から一身に期待と希望を受けた清和幼帝。9才から32才で亡くなるまで近侍として仕え続けた山蔭にとって、総持寺と新長谷寺は、山蔭よりもずっと若くして亡くなってしまった清和天皇を思い、鎮魂や祈りのために開基・創建したとみるのが人間らしく自然なのではないだろうか。

 

ゆえに、総持寺の開基・創建年は清和天皇崩御の年、876年なのである。また新長谷寺についても同様に、清和天皇崩御後に京都での山蔭邸宅があった吉田神楽岡に882年頃に創建された。根拠地の摂津と都に二つ同時に、密教により菩薩の化身とされた清和天皇に重ね合わせるように、観音菩薩像を安置し、清和天皇を想ったのかもしれない。

 

 

  山蔭死後の総持寺と新長谷寺

 

後世になって山蔭流は絶える事となる。

(ゆえに、藤原山蔭は家門・家流として「四条家・四条流」とは本来は関係が無かった)

 

だが、先に記したように山蔭の女系子孫には、ひ孫にあの藤原道長がいる。道長は総持寺と新長谷寺において、特に主体的な何かをした形跡がない。ではなぜに今なおこの二ヶ寺はしかと残り、そして藤原山蔭を開基・創建として伝える事が出来たのか。

 

それは道長の4歳姉、東三条院(藤原)詮子の事績が一つである。

 

NHK大河「光る君へ」では吉田羊さんが演じる。個人的にも好きな女優さんなので目が離せない。

 

 

藤原詮子もまた山蔭のひ孫であり、彼女の生んだ皇子が一条天皇となる。皇母となった詮子は絶大権力者の弟と天皇に対して、姉、そして母として物申すことができる立場となり、実際の人柄はさておき、時代における影響力がもっとも大い女性であったことは想像に難くない。

 

そんな彼女は総持寺と新長谷寺再興をした、と伝えられる。再興と伝えられているところからすると、100年過ぎて寺は廃れていたことがうかがい知れる。

 

だが、一条天皇によって総持寺は天皇の御願寺となった。あきらかに皇母・詮子によるところが大きいだろう。

 

 

山蔭たちが生きた時代から100年を超えて、皇母・詮子の時には強大かつ巨大権門となっていた比叡山延暦寺。天台宗内は天台座主と受戒の特権をめぐって、権力者道長を含め朝廷も巻き込まれてドロドロの山門寺門の争い真っ最中だった。

100年以上前、世の平安を願い、文徳天皇・皇后・9歳の惟仁親王(清和天皇)・太政大臣藤原良房らみなみなにそろって円仁から菩薩戒灌頂を受けた。円仁が生きていたら、さぞ嘆くことだっただろう。

 

(詮子が延暦寺西塔内の阿弥陀仏を移したことに始まる「真正極楽寺」、通称・真如堂。まさに山門寺門の争いが始まった時代のことだった。)

(真如堂の本堂。遠景なので大きさが分かりにくいが、総持寺本堂の倍ほどのスケールであり、整然、端正、凛とした風格は、圧倒というよりもどこまでも「真正」という名にふさわしい。)

(江戸時代末期に建てられた三重塔も端正さが際立つ。真如堂は三井財閥となった三井家の菩提寺であることも、三重塔建立に関係するだろう。)

(ひっそりとたたずむ真如堂境内の中にある新長谷寺。もともとは吉田神楽岡の山蔭邸宅跡付近にあったが、神仏分離令により移された。)

(秘仏ではなく、だれでも新長谷寺の十一面観音像を拝むことができる。洛陽三十三所観音霊場第5番札所。)

 

 



皇母・詮子は、曾祖父山蔭らの時代ように皇・臣・僧そろった皆の誠実な祈りを再興したかったのかもしれない。

 

 

だが天台宗は絶大なパワーをもちながら、内外で混沌を極めた。まさに末法思想を体現するままに。

 

 

 

そして藤原絶頂期も永遠ではない。院政期・源平争乱・鎌倉・南北朝と時代を経ながら、やがて、総持寺と新長谷寺は藤原山蔭流が摂津を知行した時代を遠くに過ぎ、山蔭のかすかな記憶を乗せて次代に伝える事となったのである。

 

 

 

 

ここまで見てきたが

平安時代の藤原絶頂期にあった山蔭のひ孫たち、道長、詮子ら姉弟においても山蔭が神格化されるほどの特筆される理由は見当たらなかった。

 

では藤原山蔭を神格化したものは何だったのか。

次回吉田神社と山城吉田神楽岡という場所、そして吉田神道をひも解いてゆきたい。

 

 

 

参考:

官人としての藤原山蔭
中本 和

 

神佛習合より見たる上代佛教の宗派的性格
伊野部重一郎
 (高知大学文理学部・歴史学研究室)

 

天理大学附属天理図書館蔵『新長谷寺縁起』
The “Engi” Document of the Sinhase Temple belong
to the Tenri Central Library : A Transcription
日沖敦子

 

受け継がれる山蔭像
流布本系『鉢かづき』を中心に

日沖敦子

 

藤原山蔭関連寺社縁起二種
国立歴史民俗博物館蔵『久修園院縁起』
福岡県八女郡大光寺蔵『飛形山大光寺縁起』
日沖敦子

 

『総持寺縁起絵巻」の成立と意義11 常称寺所蔵絵巻を中心に

日沖敦子

 

山蔭中納言と天の羽衣
山岡敬和

 

鵜飼と明石の君

貴種をめぐる狩猟文芸史の視座から

野谷健

 

清和天皇の受菩薩戒について
河上麻由子

 

伊勢日記私注
松原輝美

 

今様起源譚の展開
中世聖徳太子伝から

植木朝子

 

山蔭中納言説話の成立
『長谷寺観音験記』の場合
星田公一

 

 

随分と長らく間をあけてしまったこの話題。

前回は2020年の夏に記したものだが、4年もほったらかしにして、重要な肝吸虫についてついぞまとめをせずに、さらっと終わらしてしまっていた。

 

「これって私がしないといけないものなか?」という疑問をもちながら、この数年の間に誰かが肝吸虫と食文化について記してくれるかな・・・と淡い期待をしていたが、やはりそんなことは起こらなかった。

 

 

という事で、淡水魚を料理として扱う料理人にとって最も認識を深くしておくべきところを、まとめてゆきたいと思う。

 

その前に、肝吸虫は全ての淡水魚に寄生しているわけではない事は、当然の前提として認識しなければならない。

 

ビワマスの解説で記したように、肝吸虫について無視してよい場合もある。

 

また、琵琶湖沿岸部においては上下水道が整備されてからというもの、肝吸虫の生活環が失われつつあることも、ひとつ思慮しておこう。

 

  肝吸虫(肝臓ジストマ)基礎

肝吸虫は、シナ肝吸虫とタイ肝吸虫(東南アジア肝吸虫)という大きく分けて2系統に、シベリアから欧州にかけて存在する猫肝吸虫の3種がある。日本の場合はシナ肝吸虫が広く日本列島に分布してきた。(以後、シナ肝吸虫は肝吸虫と略す)

 

肝吸虫は肝吸虫症という症状をひきおこす原因になる寄生虫で、タイ肝吸虫も同様である。

 

肝吸虫の成虫は自然には存在しない。その幼生である「メタセルカリア」という動かざる楕円ボール状で第二中間宿主の中でじっとしている。第二中間宿主というのがいわゆる人間が食べる淡水魚の多くであり、鮮魚を生食することで最終宿主たる哺乳類に入り込むのである。

 

メタセルカリアからどうやって肝吸虫症にいたるかは、長くなるのでここでは記さないが、ネットを引けばいくらでも情報はあるので、知りたい方はどうぞ。

 

ラオス南部・ラハナム地区におけるタイ肝吸虫症と生態環境

 

 

 

  淡水魚の生食文化

滋賀における淡水魚生食文化は多様だ。

 

鮒のじょき。洗い。

鯉の洗い。

鮎のせごし。洗い。沖島造り。

ウグイの造り。

カマツカのせごし。

ハスのせごし。

マヂカの造り。

ビワマス造り。

 

などなど。

 

(ギンブナ洗い at ひさご寿し)

(マヂカのコイ・パー at小松タマサート)

 

一方、東南アジアにおいても、ラオスのコイ・パー、タイのコイ・プラー、ベトナムのゴイ・カーなど、淡水魚の造りに野菜やハーブ、そして魚醤で和え物にした似たような料理がたべられていて、大陸らしい食文化伝播となっている。

 

これら日本と同じく淡水魚の生食文化があるところには、大抵魚の発酵文化も付随しており、乳酸発酵の媒介にコメを使うところも共通している。

 

日本では撲滅に近い状態とされる肝吸虫症ではあるが、東南アジアの淡水魚生食文化圏で肝吸虫症が多いという事は、日常食としてまだまだ天然淡水魚が重要な役割を果たしているということの証左ではある。

 

視点を変えて裏を返せば、淡水魚料理がおいしいからこういう事が問題となり、顕在化してくるのである。

 

 

 

  肝吸虫リスク

 

かつて日本でも淡水魚をよく刺身で食べてきた食習慣から、1970年代までは多くの症例が報告されてきた。しかし、公害による淡水自然環境の破壊、水質悪化、食習慣の変化、下水道の普及、そして「プラジカンテル」という駆虫薬の開発などにより、日本では劇的に肝吸虫の症例は少なくなり現在にいたっている。

 

よって、日本での肝吸虫による重篤な症例については、2020年代において70才を超える世代や南方系アジアからの帰化または移住者に僅か見られる事を考えると、やはり肝吸虫の生活環が減少または消えつつあると予想される。まあしかし、油断するわけではない。

 

さて一方、タイ、ラオス、ベトナム、中国南部、台湾などまだまだ淡水魚の生食文化が旺盛な地域においては、高い寄生率、罹患率となっており、WHOや国際的な医学会においても注意が呼びかけられている。

何度も言っているかもしれないが、「無分別・無思慮な淡水魚の生食は危険である」ということは基本的に変わらない。特にこの肝吸虫については、調理過程において食品衛生上の安全を成立させるために、詳しく知恵をもっている必要性がある。

 

滋賀における淡水魚生食文化は旺盛である。かく言ううちの店で湖魚の料理をいろいろと提供しているのであるから、肝吸虫のリスクについてそれを回避する科学的知識をちゃんと理解したうえで、料理としてゆきたいと考える。

 

 

肝吸虫症リスク回避、具体的な方法。

 

1.食べない

2.加熱調理

 

と、まあこの程度の事はあまりにも単純すぎるリスク回避の方法なので、ここに記す意味はない。「橋のすみっこは危ないから真ん中を渡りなさい」と言っているみたいなものかもしれない。

 

なので、もう少し突っ込んだリスク回避における詳細な情報を綴っていこうと思う。

 

そもそも肝吸虫と肝吸虫症におけるリスクとはなんなのか。その点からも知っておく必要がある。おなかが痛くなる、はある意味正しい情報ではあるが、淡水魚料理に関わる料理人はそれでは情報不足である。

 

 

肝吸虫症におけるもっとも重篤なリスク、それは胆管癌である。

 

 

いきなり胆管癌とはビビッてしまう話かもしれないが、肝吸虫がすぐに胆管癌をひきおこすわけでも無く、寄生=癌でもない。まして、食=寄生=癌なわけでもない。しかしながら、肝吸虫症から発生する可能性のあるリスクの最大顕現化としてある胆管癌が、どのようにして最終的にとこへ進んでしまうのかについて、淡水魚料理を生業とする料理人は認識しておくことが必要だろう。

 

 

  肝吸虫と胆管癌

 

肝吸虫が自然界から人体に寄生し、胆管癌へ至る順序。

 

1.淡水中に浮遊する虫卵を第一中間宿主(マメタニシ等の淡水巻貝)が捕食する。

 

2.第一中間宿主内で変態して、淡水中に放出され、セルカリア幼生へと変態する。

 

3.第二中間宿主(コイ科を中心に複数種の淡水魚)の外皮から侵入し、外皮・筋肉中でメタセルカリアと変態する。

 

4.メタセルカリアをもつ淡水魚を最終宿主として人間が生食することで、十二指腸から侵入、胆管へ移動して成虫化、虫卵を放出する。

 

5.長年の食習慣(20年~40年程度)として食べ続ける事で、多数の肝吸虫が胆管に寄生。排出される虫卵や肝吸虫の代謝物・分泌物や寄生そのものによる慢性炎症、そして肝臓解毒能力低下により、胆管が癌化する。

 

 

といったのが大まかな流れである。

 

 

 

そもそも肝吸虫の虫卵はどこから来るのかというと、淡水魚を捕食した最終宿主の糞便が原因である。糞便とともに肝吸虫卵が淡水自然界に放出され、淡水を浮遊する。つまり、1へもどる。循環、生活環の中にいるのである。

 

こうした事から、先に挙げた肝吸虫症の発症が多い地域というのは、現在も最終宿主の糞便がそのまま自然界へと流れる環境、下水道の整備が進んでいない地域である。特に罹患率が高いタイ北東部やラオスは、文化的に幼少期より淡水魚を生食する機会が多い。上下水道の整わない中での数十年に渡る生食習慣が、あきらかに肝吸虫の寄生、そして肝吸虫症の発症と胆管癌の発症という症例に対して、相関関係にあることが、統計上明らかになっている。

 

 

ちなみに日本における肝吸虫症の詳しい発生状況については、厚生労働省の公式データベースにて知ることが出来る。

 

ここ10数年調べただけでも、日本全国における肝吸虫症発症について、近年の琵琶湖における淡水魚生食からと推察できるあらたな肝吸虫症患者は見られない。

 

だが、結果や現状がこうだから滋賀そして琵琶湖の湖魚における肝吸虫リスクが、100%無い、大丈夫だとは言わない。

 

 

では料理人はどうするべきであるのか、ということについて考えてゆこう。

 

 

 

 

  湖魚は安心して食べる事ができるのか

少なくともひさご寿しにおいては、安心して食べてもらうことが出来るエビデンスは用意している。

 

この肝吸虫というリスクの潰し方をここに記してゆこう。

 

 

先の段に書いた「まず、食べない!」は論外として外す。

 

 

 

ポイントとしては、最終宿主に入り込むのを淡水魚の中でじっと待っているメタセルカリアを死滅させればよいのである。

 

 

いろいろあるので列挙してゆく。

 

 

1.加熱する

もっともわかりやすく、公的機関情報においても最も推奨されている「食べる方法」である。もはや詳しく説明しまい。

 

2.冷凍する

メタセルカリアは意外や氷温以下でもすぐには活性を失わない。だがアニサキス同様に、通常冷凍庫(-13℃程度)の2日冷凍を経ると、活性を失う、つまり死ぬ。だが、冷凍後6時間ではまだ活性を取り戻す個体もあることが、実験で分かっている。ということで、まあ2日冷凍した淡水魚においては、生食安牌なのである。

 

ここまではたいていの予想通りなところだろう。

 

 

3.塩蔵

これはMSDプロにおいて「塩漬け」は肝吸虫症のリスクと成り得る、と紹介されているが、100%そうではない。なぜならば、メタセルカリアはある条件の場合は塩分に対して、失活する。人間がおいしいと感じる塩分濃度1%~1.5%程度では一部失活はあっても、数十日は生存している。だが、3%を超えてくると徐々に耐性が弱まり、5%に達すると2日目には失活する。

 

醤油30%濃度の液中でも同様に失活する。塩分濃度で見ると概ね5%だからだ。

 

だが5%に達する塩分濃度というのは、料理としてはかなりの塩分濃度ではある。ゆえに「美味しい湖魚料理」とするには、塩蔵からのケダシ(気出し)で塩抜きが必要だろう。

 

 

一方、こうした塩分濃度を利用した安全性の確保は、かなり昔から使われてきた手法・技法で、鮒寿しの塩切、ナレズシにする前の塩切、そして魚醤もその一つと言えるだろう。

 

日本では大豆醤油が主流ではあるが、近海部の魚醤、ラオスのパデーク、タイのナンプラー、インドネシア・マレーのケチャプ、ベトナムのヌクマムなどは魚類の塩蔵と発酵から得られる液体調味料が、広範囲で食文化として存在する。中でも内陸のラオスやチャイナの南部の場合は、淡水魚を使った魚醤である。

 

 

 

もし塩分濃度に関係なくメタセルカリアが活性を保てるのであれば、上記の塩蔵淡水魚から肝吸虫Mメタセルカリアが発見され、肝吸虫症が広く発生していてもおかしくないのであるが、そうではないところからも、塩蔵の条件によっては有効なメタセルカリア対処とできる。だがMSDプロで公開される情報としては、もっと査読を経た学術論文が積み重ならないと、「塩蔵」は永遠に肝吸虫対策として認められることはないだろう。

 

だが、「塩蔵」を安易にとらえることには十分に注意しなければならい。魚体の内部まで、はたまた切身の全体に塩分がまんべんなく浸透するには、ある程度の時間経過が必要である。仮に刺身としてカットした切身に塩を表面に振りかけたとしても、ただちに切身全体がメタセルカリアが失活する濃度に達するわけでは無いからだ。

 

 

4.酢漬け

これもまたMSDプロや多くのサイトで「肝吸虫」のリスクとされている。何度も記すが、これもとある条件下では肝吸虫のリスクとはならない。

 

酢漬けなる技法・技術による滅菌・殺菌・除菌効果は広く認知されている事ではある。食酢に含まれる酢酸により、食品のPHが下がることで微生物が生存できなくするものである。これは乳酸菌発酵による乳酸で食品中のPHを下げて、食品の保存性を高めることと同じ効果を利用したものである。

 

メタセルカリアは菌では無いが、食酢10%の希釈液中で3日後に失活する。つまり、いわゆる酢漬けは有効策なのではあるが、塩蔵の項で記した通り、食酢10%の調味液に浸せばすぐにメタセルカリアが低数値PHに暴露するわけではない。仮に八方酢(出汁:食酢:みりん:薄口=7:1:1:1)で合わせたところに切身を漬け込んだとしても、切身の組織内全体が同一のPHになるまでに時間がかかるだろう。だから、ゆっくりと浸透する方法では「3日」でリスクを回避できるわけではない。まして、魚体の成分と体積を計算に入れると、PHはもうすこし上がることになるから、上記の八方酢は食酢10%と同条件とはならない。なので、調味液と魚体の体積比率と、全体における酢酸濃度とPH値の計算とコントロールが必要である。

 

こういう事から、酢漬けによるリスク回避は十分に考慮する必要がある。ゆえに公開情報中には不十分な酢漬け、または酢漬けそのものを肝吸虫症のリスクとして紹介されている事が多い。

 

 

 

という事でオリジナルに酢漬けによるリスク回避の方法を具体的にしるすとすれば、

 

切身100g

昆布出汁100㏄

食酢25㏄

みりん25㏄

薄口5㏄

塩2g

 

さらに魚体に一気に浸透させるために真空パッキング、のちに3日間冷蔵にする。こんな方法になるだろう。

 

もし大きな味付けを避けて、単純に食酢によるリスク回避だけを目指すのであれば、

 

切身100g

水100㏄

食酢25㏄

塩2.2g

でパッキング、3日間冷蔵。

 

こんなところだろう。

 

まあ、冷凍するならこんなことしなくても良いのだが。

 

 

5.醤油漬け

これは塩蔵とある意味共通する技法ではあるものの、ケダシが出来ない分漬け込み液に工夫が必要である。

 

メタセルカリアは塩分濃度5%に暴露すると3日目には失活・死滅する。つまり調味液と魚体の総量に対して30%の醤油が入っているところへ、3日間漬け込めばよいという事になる。

 

だが醤油30%の味とは、3杯酢を飲むような味濃いものである。果たしてこれは美味しい料理になるのかというと疑問ではあるが、とある料理にすると仮定すれば技法として知っていて良いものではある。

 

 

とまあ、肝吸虫というリスクに対して出来る事はあることは確かである。

 

 

 

  伝統から進化した食文化として

ここまで肝吸虫におけるリスクとリスク回避について列挙してきたが、そもそも食とは命をはぐくみ、心身をすこやかにするものであるべきもののはずである。

 

にもかかわらず、リスクを目の前にして、こうも何とか食べようとするべきものなのだろうか、という疑問がある事だろう。ましてリスクの最顕現化は胆管癌や死なのだから。

 

 

淡水魚料理はうまい。

 

 

要約するとこの一言に尽きるだろう。

 

じょき、ぬた、洗い、せごし、コイパー、ゴイ・カー、コイプラー、様々な淡水魚生食料理たち。これらは食べる価値が無いのだろうか?

 

いや、どれも食べたい料理ばかりである。

 

だからこそ、このうまい料理たちを食べ続けるために、ありとあらゆる情報を集めて、そしてリスクを回避し続ける事が出来るように、明らかにしたい。

 

むろん、肝吸虫リスク回避に有効な上下水道の完備と水環境の保全、外来種汚染の防御といった個人ではどうにもできない事もあるかもしれない。しかしながら日本人が「ふぐ」という猛毒の魚を、幾あまたの屍を乗り越え、先人たちの尊い犠牲の上に知識と知恵を積み重ね、現代人は安全に美味しくふぐを食している。すばらしい食文化と声を大にして先達の料理人たちを讃えたい。

 

 

淡水魚の生食は危険。

 

 

などと、十把一絡げでまとめてしまう事は私はしない。

 

 

一つ一つ丁寧に見つめながら、次世代にもその次にも、美味しい食を文化として繫げてゆくために努力したい。

 

 

参考

タイ肝吸虫感染による胆管癌の発癌分子メカニズム

岐阜大学 呉志良

 

肺吸虫症に関する研究 第一篇疫学的研究
長崎大学風土病研究所臨林部(指導兼任所員 横田素一郎教授)
長崎大学医学部内科学第一教室(主任 横田素一郎教授)
田中德郎

 

内陸国ラオスの塩と魚で作る伝統発酵食品
丸井淳一朗1*,羽佐田 勝美1,サイビセン・ブロム2

 

肝吸虫症に合併した多発総胆管癌の1例
齊藤修治 遠藤格 山岸茂 田中邦哉 市川靖史 渡会伸治
嶋田紘1)天野皓昭2)上田倫夫
河野尚美3)

 

胆道がんで世界横断的・最大の分子統合解析実施
ゲノム・分子異常解明が大きく前進、ゲノム医療促進を期待

国立研究開発法人 国立がん研究センター
国立研究開発法人 日本医療研究開発機構

 

十二指腸乳頭部癌を合併した肝吸虫症の1 例
―中国より帰化した女性で経験した―
小野寺滋斉藤孝治斎藤貴史
冨樫整河田純男1) 鵜飼克明
新沢陽英2)

 

肝吸虫症9例の臨床的検討
八木澤仁 小松眞史 向島偕 戸堀文雄
荒川弘道 井上修一 正宗研* 谷重和**

 

胆嚢内血腫に虫卵を認めた肝吸虫症の1治験例
神鋼病院外科,同 放射線科,奈良県立医科大学寄生虫学教室
井上直也 滝吉郎 川平敏博
坂野茂 頼文夫 冨永純男
花岡道治 久保田晋* 西山利正

 

胆汁のグラム染色標本より虫卵を見出し
肝吸虫症と診断した1例
西村恵子
赤磐郡医師会病院臨床検査科

 

ラオスの寄生虫症の現状と課題
JICAラオス国のマラリア及び重要寄生虫症の流行拡散制御に向けた遺伝疫学による革新的技術開発研究プロジェクト
研究推進統括/集団遺伝学的解析・評価研究 専門家
石上 盛敏

 

タイ東北地方における生魚料理「コイプラー」の食習慣をめぐる人類学的研究
首都大学東京大学院人文科学研究科社会行動学専攻・斎藤俊介

 

社会・経済損失をもたらす肝吸虫Clonorchis sinensis の感染と
その一次・二次予防の対策に関する基盤研究
牧純

 

肝吸虫症に合併した肝内胆管癌の1 例
松林  潤 1) 平良  薫 1) 余語 覚匡 1) 鬼頭 祥悟 1) 
浦  克明 1) 豊田 英治 1) 大江 秀明 1) 川島 和彦 1) 
石上 俊一 1) 土井隆一郎 1) 
1) 大津赤十字病院外科

 

肝吸虫症に合併した胆管癌の1例
長浜赤十字病院外科
前田健一 下松谷匠 谷口正展
中村誠昌 白石享 丸橋和弘

 

滋賀県琵琶湖周辺地域における肝吸虫症の疫学的研究
2.淡水魚類および人についての調査成績
長花操*吉田幸雄 松尾喜久男
近藤力王至 松野喜六 栗本浩
岡本憲司
京都府立医科大学医動物学教室

 

静岡県における寄生虫の疫学的研究
(5 ) アユにおける横川吸虫メタセルカリアの寄生状況
伊藤二郎

 

肝蛭感染予防の研究
II.各種外的條件及び薬剤のメタセルカリアに対する効果
小野豊*磯田政恵*松村重義*

 

肺吸虫Paragonimus westermani の生物学的研究
(2) 肺吸虫被嚢幼虫の抵抗について
津田道守