(臨済宗永源寺派大本山 永源寺の典座寮 いわゆる厨房にあたる)
日本料理文化のイレギュラー「精進料理」。
精進料理の生まれたころの世界へ
精進料理は、鎌倉時代の初期に日本に伝わった禅の思想と哲学が投影されたものであることは「精進料理は古臭い料理」でつづった。
鎌倉時代初期の日本で何故に禅の哲学が持ち込まれ、そして日本で広がってゆくのか。鎌倉時代は浄土宗・真宗・日蓮宗といった現代にも大きな宗徒をもつ日本仏教各宗がうまれた時代でもある。
禅と日本の食文化がどのように結びついてゆくところを掘り下げてゆく。
鎌倉時代の初期、源平争乱から源頼朝が武家政権として初めて日本全土を掌握し鎌倉幕府をひらいた事はよく知られるところではある。また、鎌倉新仏教のことも学校で教える歴史のあらましだろう。
この頃世界と日本はどのように繋がっていたのか。
日本料理のハード形成
平安時代、
鮮卑族系王朝食文化の影響を受けて成立した宴席・饗応のための料理、「大饗料理」。中央集権の権力者の料理。貨幣経済発達前の現物経済の時代である。自由な資本移動が起こりにくいため、限られたローカル物産の中から選りすぐられた食材による、権力者の贅沢料理が食文化として記録される。その時代を生きる当人たちにとってはある意味究極の美食形態ではあるが、実際の料理は炙り焼・羹(あつもの)・鱠(なます)・干物という酒肴に、蒸米が主食の位置にある。現代と比して未発達と言っていい。
一般民衆の場合はというと、美食や贅沢を考えるよりも、自然災害、疫病、飢餓、そうした厄災と生死についてのほうがより生活に密着している。天皇や藤原長者であったとしても、食への関心よりは、哲学思想や権力闘争と政治基盤整理に対するパワー注力が大きい。吉田神道、密教、修験道、陰陽道、西国三十三霊場、平等院、南都北嶺、蝦夷、奥州などなど日本文化に深く突き刺さっているキーワードは、この時代に生きた人々の影響がおおきい。「秀衡椀」と呼ばれる日本料理の代表的な漆器のデザインは、奥州藤原氏の栄華に始まっている。
(近江軍鶏と信長葱の治部煮秀衡椀 atひさご寿し)
大饗料理の台盤や箸、漆器のデザイン、食材の国内物流と物産のリストアップ、公家と武家のすみ分けや法整備といった統治機構の進展、独自の文字などなど、日本文化を織りなすパーツがどんどん増えてゆく。
これらは全て日本の食文化のハードとなってゆくものである。
食器、食材、調味料、国家支配権力構造、記録方法。
鎌倉時代に禅宗が広がる前夜、精進料理がフォーマットされる準備が整ったという感じだろう。
禅宗がもたらした日本経済発展
鎌倉から室町時代、
奇しくも欧州における「ルネサンス」と時期を同じくして、日本の経済発展と文化変革が起こる。
文化的な大きな変化としては、民衆へ仏教の浸透だろう。
鎌倉新仏教として一般民衆の間で爆発的に広がるブッダの言葉たち「浄土宗」「真宗」「日蓮宗」。
神仏習合、密教、古神道のような神秘的呪術的で貴族的・上昇志向的な一部の宗教思想から、一般民衆のだれもが思考できる救済の宗教思想が求められ伝播してゆく。
では精進料理の発生に関わる禅宗はというと、日宋貿易と交流によって栄西がまず伝えた。「臨済禅」と「抹茶」。そして曹洞宗を開く道元へと続く。時代が下って江戸時代にも「黄檗宗」が開かれるが、まあとりあえずはおいておこう。
(禅と茶の湯を世界に紹介した代表的な二作、鈴木大拙「禅と日本文化」、岡倉天心「茶の本」)
日宋貿易が伝えたのは南宋の豊かな文化と経済、科学である。
意外なことかもしれないが、南宋がモンゴル帝国に滅ぼされたのち大元帝国なったチャイナも、変わらず日本と貿易している。超大国「元」の経済にとって日本から産出される鉱物資源、金・銀・銅・水銀などは、帝国の金融政策としてマネタリーベースを支えるために必要不可欠だったからだ。また、南宋が滅んで元となったとはいえ、南宋だった地域の豊かな経済と文化は失われてはいないわけで、日元貿易においても南宋文化と銅銭はもたらされ続け、禅宗が担った役割は大きい。
鎌倉・建長寺や京都・天龍寺の貿易船は記録に有名。
経済はいつの時代も政治の行方を左右する。そして、新しい知識と科学は旧態依然としたものを徐々に変えてゆく。IT革命がわかりやすいだろう。
平安末期では荘園領主である公家と南都北嶺が経済を押さえている。これに対して後三条院や白河院は現物経済の泉源である荘園を整理して権力の掌握にかかったが、院政の終焉に向かって武家が荘園領地と経済力を取得してゆく。初期の鎌倉幕府の経済統治システムは、現物経済と荘園をもつ特権システムがまだまだ存在。
武家は「御恩と奉公」とよばれる武士の給与というか恩賞が荘園土地支配権というシステム。当然の話だが、配給したり分割相続が続くと土地が無くなり経済崩壊が見えている代物である。
だがしかし、日宋貿易の進展による宋の銅銭は徐々に日本の市場に流入し、いよいよ日本の貨幣経済の幕開けへとつながる。源頼朝の妻・北条政子にも重用された臨済宗の開祖・栄西はもともとは天台宗比叡山で得度したが、のちに南宋へ留学し、臨済禅による思想哲学の立て直しを志し、建仁寺を建立。京都五山、鎌倉五山などが公的に格付けされ、禅院は日本の新しい哲学思想として、そして公的権威として確たる地位を得る事となる。
これは、禅の哲学思想が武士にとって共鳴共感しやすいものだったこと、そして禅僧のもつ数学的知識や舶来の新しい科学知識が貨幣経済の浸透にとって優位であったこと、さらに禅寺の国内外ネットワークが情報と物流の両面で流れを作っていたことなどが重要な要素であると思われる。
つまり、禅僧・禅寺・禅の教えは政治経済の支配力をアップグレードさせるインテリジェンスであったのである。
また、白河天皇の有名な言葉にあるように「山法師」と呼ばれた輩、強訴を繰り返す既得権益勢力の南都北嶺らを政治に介入させたくない意志が見て取れる。
(山王総本宮日吉大社。中世、比叡山延暦寺の守神の威光として、神人・山法師たちが神輿をかついで強訴という政治介入を繰り返した。photo by斉藤文護)
鎌倉中後期、
一時鎌倉幕府は宋銭の使用に制限をかけ「緊縮財政政策」をとるのだが、貨幣の利便性と需要に押し流され、土地の売買にも貨幣が使用されるまでに広がる。様々な社会活動に対価として貨幣が支払われるようになることでいよいよ民衆にも経済力を持つ者が生まれ始める。現物経済から貨幣経済への移行。物々交換にまず貨幣が利用されるという事は物流業の発展、本格的な商人の勃興である。
こうなるといよいよ実力社会である。個人の才覚によって経済力を伸ばし、武装し、幕府権威に因らない勢力が生まれ始める。「悪党」の登場である。
中世の悪党というと楠木正成が有名であるが、要は中央政権の権威や支配に因らない実力を持ち、行動に武力行使も辞さないものである。現代であればヤクザですら反社的武力は抑え込まれている時代。鎌倉から室町にかけて、日本はめずらしく本当の実力社会が生まれた時代である。
貨幣経済の発展は、いよいよ支配者に総合力を求めることになる。血統、伝統、武力、宗教、そして経済。
実力社会において奢侈を尽くすのは権力者のステータスである。そんな時代になぜ「精進料理」は発生し地位を得ることが出来たのか。
次回はやっと「美食」と「精進」の本懐にふれるとしよう。
日本の文化変革である。