近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡で寿し割烹と日本料理を楽しむお店「ひさご寿し」

料理長のかわにしたけしが料理のことや、近江八幡のこと、営業日誌などを徒然なるままに書いとります。

超絶簡単にまとめると

 

・コロナ禍で従来の行(ぎょう)は止められてたが、大雨水行だった

・1300年の間続けれてきた理由を感じるには「行かんとわからん」

・人にも勧めたい良い時間

・体にいい

 

 

松岡正剛氏が「本には読機(どっき)がある」と書いていたように、出会いと訪れもそれを必要とする機会、受け入れようとする機会、覗いてみたい欲求と機会が重なってこそ面白く、より本質へと迫ることが出来る。他からいくら勧められようともそこに意味はなく、自分から望んでこそ、それに相対する意味が最大限に与えられる。

 

という事で、大峯山修行に登ってきた。

 

 

大峯山は1300年の間、いや現在も修験道の霊場として修行が行われている。また日本で唯一女人禁制のしきたりを守り続けている珍しいところでもある。

 

以前から修験について、日本文化を深く体感するためには機会を得たいとは思っていたところだったので、ついにその時が来ただけというところでもある。

 

特に滋賀はアミニズム的な古神道が比叡山の天台修験や太郎坊宮の修験、伊吹修験などへと神仏習合したところが多く、明治新政府による国家神道の盛興を推進するために起こった廃仏毀釈において、修験道は法的に禁止されたにも関わらず、今もって修験的な感覚は滋賀のあちらこちらにひっそりと息づいている。

 

 

そんなこんなも机上の空論、ただの妄想とも言われるが、実際に食制限と禁欲を短期的に実施したうえで、禊祓から始まる現地での登山行はもっと感じるものが多い。

 

入山前・行の一週間前は精進食で体を中からリセットすることを案内される。肉・魚はもちろん、卵、乳製品など動物性由来食品も抜きにする。加えて匂いの強い野菜(葱・にら・玉葱・にんにく・らっきょうなど)、香辛料、コーヒー、炭酸、アルコールも抜きにすることが勧められる。

まあ、できる限りとの案内なのでやらない人ももちろんいるのだろうが、どうせやるならという事で、鰹の出汁も飲まないことにして、本当に精進生活を送ってみた。

 

では当日。

奈良県天川村龍泉寺駐車場に現地集合です。

 

龍泉寺は真言宗醍醐派のお寺で、修験道が禁止される前は当山派の大本山。山頂にある大峯山寺の護持寺でもある。

 

総本山は京都・醍醐寺三宝院であるが、修験道と呼ばれる古神道と密教を合わせた山岳修行を創始したのは役行者と言われ、役行者が入寂したのが大峯山であり、以来、大峯山は修験道の根本道場となったと言える。

 

その役行者が泉を発見し、「龍の口」と名付けて八大龍王を祀ったのが龍泉寺のはじまりである。

 

 

 

要するに大峯山に登るときは龍泉寺で清めてもらうところから始まるのだ。

本堂ご本尊は弥勒菩薩と八大龍王とされているが、この写真は本堂右にある弁天堂。龍泉寺はその名の通り、龍と泉の名前が付けば水に関わる信仰、弁財天はつきものですねえ。龍神信仰と弁天信仰がむずびついていくところはとても日本らしい。

 

琵琶湖においてもその名前の通り、弁天が語源に関わっている。弁天のルーツはバラモン・ヒンドゥーの川の女神・サラスヴァティであり、サラスヴァティは琵琶を常に携えている。川の神は龍神・蛇神とも言われ、琵琶湖の弁天・龍神は竹生島にいる宇賀弁財天の事である。後に神仏習合・本地垂迹の考え方により、弁天は宗像女神の一柱・市杵島姫命(イチキシマヒメ)と同じとされてきたが、宗像神と言えば近江八幡の隠れた産土神である。沖島・北津田の大島奥津島・日牟禮八幡に祀られる比売神とは宗像神の事であり、つまりは弁天と同じである。

 

ちなみに広島・安芸の宮島にある厳島神社も主祭神・市杵島姫命と弁天が同一とされていたが、廃仏毀釈により隣接する大願寺に弁天が遷されている。現在も竹生島と並んで日本三大弁天とされる内である。

 

 

まあ水辺に暮らしていたら水にまつわる神様や弁天が多くて当たり前かw

 

 

 

龍泉寺に戻って。

滔々と山から流れてくる水が龍王の瀧として境内に流れ落ち、すこぶるきれいな水が溜まって池となっている。絶えず麗々とした水が池に流れ込み清らかさを保っている。

龍王の瀧の前に建てられた石碑。

八大龍王は大日如来の化身である不動明王を守るとされる。

 

その龍王の瀧は大峯山修行のひとつである「滝行」の場所であり、行者以外は通常は立ち入り禁止である。

 

さあいよいよの行のはじまりには、白褌ひとつで池に入って禊祓い。

私をふくめオッサンたちの半裸はいまいちなんでぼかしときます。

この池の水がかなりの冷たさなんですが、真夏の気温でもとても冷たい。

「鳥船」の行事をしてから禊祓いに入るのだが、この行事がとても興味深い。鳥船はYouTubeにもわずかながらその一部が流れているが、龍泉寺での禊祓いで行われる鳥船は神社本庁が提示しているものとはやや違う。ひとつひとつに、数百年、いや数千年にかけて移民が大陸より渡ってきた流れを口伝で伝えられるように残されてきたと感じるところ多々あり。昔は書物に歴史を記すという習慣は無かったのだから、奈良時代以前からある行動様式や行事、習慣、名称、言葉、芸能、建物は文字ではない歴史資料である。

 

ちなみに鳥船に伝わる様式は海人族の儀式であり、安曇・宗像・海部など海洋に生きてきた日本の古代豪族たちのものだろう。そうした儀式を伊勢神宮神社本庁が認めている事実からして面白い。

 

 

鳥船の禊祓いを終えると女人結界門へ向かいますが、結界門の前には行の無事を祈願するための場所があり、般若心経とともに真言が唱えられます。

 

現在も続けられる女人禁制。

男女平等運動やトランスジェンダーに対する明るい現代において、脈々と伝統は続いている。肉体的危険を伴う山岳修行において、女性に対しては近くの別場所に修行霊場がちゃんとある。また別の先達さんから聞いたところ、夫婦の場合は修行を終えた夫とともにあることをすれば妻も同じ行を修めたことにできるやり方を聞いた。という事で、帰って早速に妻と一緒に行を完終した。

 

 

さて入山。

参道のほとんどが基本的には危険を回避する程度の整備になっていて、たいていがゴロゴロした石道が続く。

1/4ほどのところ。

お助け水と呼ばれる水場があり、山水をもらうことが出来るが、長く続いた晴でこの日は水が枯れていた。

 

この時点でまだこうして写真を撮っている余裕があるのだが、この後ジャアジャアの土砂降りに突入してゆく事になるのである。

 

 

途中にある茶屋。

コロナで閉まってるけど普段はなにやら俗世的なもんも売ってるようだ。

まあ私らは修行で入山してるが、一般にはただの登山をする人もいるという事なのだろう。実際にただの登山にきた高齢パーティ3人組にも出会った。

 

茶屋の中にも不動明王、神変大菩薩が祀られているところがあり、都度般若心経と真言を唱える。

 

 

針葉樹が少なくなり広葉樹が目立つあたりから岩登りがところどころにある。このあたりではまあまあな雨ふりで、すでにずぶ濡れとなっている。

 

 

険しい山道と雨降りにより、この後ほとんどの画像が無い。

やっと到達した名所・鐘掛け岩。

この時点で土砂降りとなり、鎖をつかんでも危険な登りとなると先達さんによる判断、危険回避で山頂を目指す。

チャレンジしたい欲を抑えることも行のうち。

 

 

山頂・大峯山寺に入る前の一息。再び般若心経と真言。

 

 

そして山頂。

神変大菩薩が入寂したとされる場所。

改めて般若心経と真言。

 

下山前に一応撮ってもらいましたが、まあ雷と土砂降りに風。

料理の仕事をしていればそれはそれは殺生しまくっているので、大いに清めていただいた感覚。

 

 

不思議な事にこの後下山し始めると雨はやんでゆき、女人結界門に戻るときにはもはや雨は無くなっていた。

 

 

 

下山するとお宿は役行者が従えた前鬼後鬼のうち後鬼の子孫が営む宿へ。

まあよくTVにも紹介されるところなので紹介はこれくらいに。

 

 

ちょいと風呂上りに一杯やりに。

精進明けのビールの美味い事。

名物オヤジが営む一杯飲み屋が短時間のうちに2回転するのを見て、高齢なはずのオヤジさんの肌艶の良さに納得した。楽しそうだ。山奥らしいきずしの盛合せがなんともビールをおいしくさせた。

 

奈良と言えば柿の葉寿司だが、軒先にあった「おばあちゃんの鯖寿し」が思っている以上においしかったのも良かった。

しかし大峯山の土産といえばやはりこれだ。

 

遊びが好きな人にはこのステッカー。

どこかよく見たたぬき野郎発見。

 

夜は宿で遅くまで飲みながらいろいろ話をした。参加した人が多かったのもあるが、同じ行を積んで酒食を共にするのは新しい生活様式とは程遠い古い様式ではあるが、満たされてゆくものは多い。

 

大峯山に登ること自体はただの登山と同じと考えることもできるが、精進生活から始まり、慣れない儀式や般若心経に真言などを繰り返しながら自問自答するような、まさしく行として登るのであれば、下山してからの日常の中にすべからく足りるものが多い。

 

行のやりかたあり方はもちろん人によっていろいろあるから、単純に肉体を鍛えることや、忍耐を続ける事や、表現の練習、まあもっとあるだろうが何だって良いだろう。ただ言えることは、水行となった初大峯山がすこぶる自分の性にあっていると感じたことだ。コロナ禍と大雨によって未完の行もあったので、また登ることになるだろうが、こうした新しく何かを感覚的に身につけることは是非とも誰にでも経験があってほしいものだ。特にコロナ禍によってライフスタイルの変更を余儀なくしている人は、伝統の中にも自身を変えるすべがあって、まあまあ面白いので試してみるのもいいだろう。

 

月並みなおすすめだが、こんなところだ。

 

あと決定的に良かったことを書いておこう。

ずばり体にいい。

精進生活によって得られたことは間違いなく体質の変化だろう。4日目くらいからは排泄物からして全然違う。体が軽い。精進生活中に体重が減ることはなかったが、むしろ帰ってきてから内臓脂肪や体脂肪率、体内年齢など改善が見られたのが面白い。精進生活だけでもまた取り入れても良いのかもしれない。普段が酒飲みの不摂生なだけに(笑)

 

最後に。

特に意識していたわけでは無いのに、思えばコロナ禍が深まるかどうかの頃、醍醐寺の花見に両親を連れて見に行ったところから始まったのかと今では思えてくる。特に縁のあったわけでもない醍醐寺に対して思い入れなど無いものだったが、初めて醍醐寺を訪れた割にはいろいろと感嘆していた。

 

もし次に洞川村に行くときにはやはり醍醐寺にも行ってから向かうことにしよう。

(琵琶湖産天然すくい網小鮎、沖島づくり @ひさご寿し)

 

ここ数日「ビワマス 寄生虫」キーワードのアクセスが多い。

たしかにビワマスは最盛期なんだから当たりまえかw

 

今回が最終回。

 

結論は「心配ない」なのだが、そのためにつらつらと綴ってきて寄生虫話の3回目。本当はもっと詳しくやった方が良い部分もあるかもしれないが、とりあえず天然ビワマスと琵琶湖産天然サツキマスについて怖がられてそうな寄生虫の話だけにしておく。

 

アニサキス、横川吸虫、日本海裂頭条虫、顎口虫について1回目2回目でやってきたので、のこりは琵琶湖線虫と肝吸虫。

 

 

 

琵琶湖線虫。

 

琵琶湖線虫は様々な琵琶湖の淡水魚に寄生しているが、エラや腸に寄生していて魚体にではない。また、淡水魚のエラや腸を生食しようなどという人はいないであろうから無害と言って過言ではない。

もし琵琶湖の淡水魚をさばいていてミミズ状の寄生虫、つまり線虫を見つけたとしたら、おそらく多くの人は食べようとは思わないだろう。ビワマスや琵琶湖産天然サツキマスをさばいていて、料理として臓物を使用するとすれば白子や卵であり、肝や胃袋を料理使用としても内容物は除去したうえで加熱するのだから、線虫の寄生虫感染とは無縁と言えるだろう。

 

 

 

さあサクッと琵琶湖線虫をやったところで、肝吸虫。

 

 

肝吸虫。

まるで吸血鬼のようなネーミングにビビってしまうが、これもビワマスや琵琶湖産天然サツキマスとは無縁である。これは肝吸虫の幼生がビワマスやサツキマスに寄生しないからである。

 

肝吸虫の幼生・セルカリアは第一中間宿主のマメタニシから水中へと浮遊し、コイ科の魚を探して寄生する。横川吸虫と同じように、鱗下から侵入し、メタセルカリアと変態して寄生する。モロコ、モツゴ、タナゴなどの小型への幼生寄生が多く、コイやフナへの寄生率は下がると言われている。サケ・マス科への寄生は認められないことから、ビワマスと琵琶湖産サツキマスの生食において肝吸虫の心配をする必要は無い。

 

これにて終了。

 

 

長々とやってきたが、各種の論文を見直すと過去の勘違いや誤認を発見できて面白い。

 

 

このブログが多くの料理人や一般の人にとって、有意義な情報となる事を願うばかりだ。

 

ビワマスは琵琶湖の至宝。

 

 

 

さて

肝吸虫についてはもう少しだけ書いておくことがある。

現在でも世界で感染率の高い寄生虫症の原因虫であるが、滋賀の琵琶湖の天然コイやフナにおける肝吸虫の現在について後日にまとめてみたいと思う。

(期間限定びわますヅケ重(一部サツキマス)@ひさご寿し)

今年は別の新メニュー構成中さ。

 

さて前回の続き。

 

 

琵琶湖産天然ビワマスやサツキマスで疑われてしまう寄生虫の話。

 

アニサキスと横川吸虫までやったので、次。

 

 

広節裂頭条虫(日本海裂頭条虫)。

日本近海にいるにはその近縁種である日本海裂頭条虫ではあるが、リスクマネジメントとしては同様種として考える。これも結論から言うと琵琶湖産においては心配する必要が無いのだが、その理由について挙げてゆこう。

 

日本でこの条虫における症例はサケマス類のお造り、にぎり寿し、ます寿しなどによる生食で、国内産に限らず北欧産の輸入サケマス類の生食からも発生している。国内産サケマス類は日本海裂頭条虫、北欧産が広節裂頭条虫が寄生している場合がある。寄生率はサクラマスで最大38%であり、まあまあ寄生している確率が高い。また近年の研究から、日本海裂頭条虫はほぼ国内河川において生活環がロストしており、極東ロシアへその生活環が移動したことがうかがい知れている。つまり、極東ロシア河川へ回帰するサケマス類を沖合で漁獲したものに日本海裂頭条虫の感染が見られる。この海域で漁獲されるもので生食するのは、マスノスケ(キングサーモン)、トキシラズ、シロザケ、カラフトマスなど結構多い。

 

ではなぜ琵琶湖産が大丈夫なのかというと、琵琶湖にはこの寄生虫の幼生が発生する環境にないからである。日本海裂頭条虫の中間宿主となるケンミジンコ類は琵琶湖にもいるが、虫卵が最終宿主たる人間やその他獣類から排泄され自然界へ放出されない限り琵琶湖水系の環境でこの寄生虫の生活環が定着しないのだ。下水道の普及率から考えても、虫卵は下水処理によってほぼ撲滅される。1960年の調査で高島で1症例があったが、それが琵琶湖産ビワマスであったのか日本海側で漁獲されたサクラマスであったのか、有症者の魚食習慣についての精細な調査が含まれていないので、何とも言えない。しかし以来琵琶湖周辺においてビワマス由来の日本海裂頭条虫の症例報告が長く無いことからすると、万が一1960年当時日本海裂頭条虫の生活環が残っていたとしても、現在においてはすでに琵琶湖周辺でその生活環が失われていると思われる。よって、現代において余程の悪意をもって虫卵を琵琶湖にでもばらまかない限り、琵琶湖水系に日本海裂頭条虫が入り込むことはない。

 

現代は世界的なサーモン人気で、特に寿司ネタにおける人気は現在ナンバーワンであり、特に若年層においてマグロを凌いでいる。逆にこのことが近年の日本海裂頭条虫の感染を広げてしまっている。冷凍サーモンであれば問題ないのだが、やはり冷凍しない生の方が美味しいことは美味しい。この辺が具合悪いというところ。2018年に滋賀済生会病院において9歳児の症例が報告されているが、常日頃のサーモン好きがたたってしまったことによる。彼がもし琵琶湖産天然ビワマスだけを生食していたら寄生虫感染はしなかっただろう。

 

余談だが、裂頭条虫はいわゆるサナダムシと同系統の条虫であり、アニサキスのようなミミズ状ではない。人間の腸内で成長し腸管にへばりつき、人間が食べる食物を横取りして寄生する。つまりダイエットには変な意味効果的なのだが、断じておすすめはしない。ちなみにオペラ歌手のマリア・カラスが120kgからダイエットするのにサナダムシを使ったという伝説があるが、真贋は知らない(笑)

 

 

 

はい次。

日本顎口虫と有棘顎口虫。

ひとつ最初にビビっておいてもらいたいのは、顎口虫は寄生すると人間の体の中をはいずり移動するという事実だ。いきなり死に至るなんてことでは無いが、気分的に最も寄生されたくない寄生虫であり、実際に症状もセンシティブで重症になった場合の症例がいただけない。とはいうものの、統計データが存在している症例数はアニサキス寄生虫によるもの(年間200件あたり)に比して数十分の一、1995年時点で年間10件に満たない。

 

しかしこれについても琵琶湖産ビワマスとサツキマスにおいては心配いらないのである。

 

まず、顎口虫においても裂頭条虫と同じく、生活環としては自然界で虫卵を食べたケンミジンコを第一または第二中間宿主とする。

 

しかし裂頭条虫と違って、人間にとって顎口虫に寄生されるかどうかはドジョウや両生類を媒介しているかである。様々な研究の結果、ドジョウ・カエルの体内において顎口虫の幼生は変態して哺乳類や鳥類に寄生できる能力を身につける。つまり、ケンミジンコそのものが問題なのではなく、ケンミジンコを食べたドジョウやカエル、それを食べた淡水魚が人間にとってリスクなのである。またはドジョウやカエルを直接人間が生食することがリスクなのだ。

 

実際、ドジョウの生食によって日本顎口虫または有棘顎口虫の感染が多く起こっており、また最も多い原因が雷魚の生食だった。

 

琵琶湖産ビワマスとサツキマスにおいてその食性はどうかというと、幼魚期には陸生昆虫や水生昆虫に水底幼虫、約8cm程度になるときには琵琶湖へ到達し、そこからはしばらくアナンデールヨコエビという琵琶湖固有種の極少エビだけを食べることがわかっている。大きくなったビワマスは小鮎を食べるようになる。つまり、ケンミジンコやドジョウ、カエルを食べることが無いのである。

 

ちなみに小鮎はケンミジンコを食べるが、顎口虫の中間宿主にならない事が統計上と研究でわかっている。また北日本のヒメマスについてはケンミジンコを食するので、過去に顎口虫症の原因となっている。

 

 

顎口虫の話はもっとたくさんあるが、ひとまず琵琶湖産ビワマスとサツキマスについては大丈夫という事でここまでにしておこう。

 

 

 

いやあ、安心への道のりはまだ続くが、これって私がしないといけないのか疑問に思えてきた(笑)

 

 

京都における寄生虫疾患―その歴史と現状
有薗 直樹,山田  稔,手越 達也,大西弘太郎,塩田 恒三
内川 隆一,松田 信治,松本 芳嗣,吉川 尚男

 

 

平成22 年度食品安全確保総合調査「食品により媒介される感染症等に関する文献調査報告書」
より抜粋 (株式会社 東レリサーチセンター作成)

 

北日本における人の日本顎口虫感染源としての淡水魚の調査
小山田隆 江坂幸敏 工藤上 吉川尭
北里大学獣医畜産学部

 

日本におけるを修生虫学の研究7(1999) IV線虫叙(安藤) 497
7 .顎口虫症(2)日本顎口虫
安藤勝彦

 

琵琶湖水系に生息するアマゴとビワマスについて
加藤文男

 

サケ科魚類のプロファイル-14 ビワマス
藤岡康弘
(滋賀県水産試験場・滋賀県立琵琶湖博物館)

 

琵琶湖環境研究推進機構

在来魚介類のにぎわい復活に向けた研究
-平成27年度研究成果報告-
資料2

 

十和田湖に生息する生物 - 日本水産資源保護協会

 

症例報告
入院にて条虫駆虫を行った9歳男児の一例
中 本 和 真1), 伊 藤 英 介2), 中 島   亮2)
龍 神 布紀子2), 大 島 理 利2), 松 川 幸 弘2)
1)済生会滋賀県病院 初期臨床研修センター,2)済生会滋賀県病院 小児科

 

養殖研ニュースNo.6 1983.9

 

食品の寄生虫汚染について
小山力

 

日本の寄生虫防圧とその特質

多田功


(琵琶湖産天然サツキマスの軽い火入れ、海鮮醤風味のシャインマスカット添え@空心)


(琵琶湖産天然ビワマス造り@ひさご寿し)

 

 

 

 

 

 

 

琵琶湖小鮎すくい網漁の季節は、すなわち琵琶湖産天然ビワマスとサツキマスのシーズンでもある。お造りや寿しはもちろん、簡単な塩焼きやムニエル、じゅんじゅんや煮付なんかの煮物、マリネやあめのうおご飯にアヒージョなど、ビワマスのおいしい料理については枚挙にいとまがない。

 

今日はビワマスやサツキマスの美味しさについてではなく、淡水魚における寄生虫のお話しだ。

 

このシーズンになるとよく「ビワマス 寄生虫」といった検索ワードで私の過去のブログにたどり着く人も多いようなので、私が集めている情報源とともにまとめてみよう。

 

結論から言って、琵琶湖産ビワマスと琵琶湖産サツキマスについては、お造り・寿し・マリネといった生食は大丈夫である。

 

また、琵琶湖産魚介類を生食する際に思慮しておきたいのは横川吸虫と肝吸虫の2種のみである。

 

 

1.一般的論調

2.寄生が疑われている寄生虫または有害寄生虫

3.なぜ琵琶湖産は安全か?

4.もし寄生虫症になったら

 

 

1.

まず

公衆食品衛生における責任のある公的機関による情報発信は100%の安全を目指しているので、「生食を避けろ」というのがおおよその立場となっている。また、そうした公的機関を情報源にして「淡水魚は寄生虫がいるから生食は危険」というネットの書き込みも多い。

 

これは現状致し方ないと言わざるをえない。なぜならば、公衆食品衛生を考えると、日本各地の淡水魚、そして琵琶湖産淡水魚においてもやはり寄生虫によるリスクを熟知したうえで情報を発信しないといけないからだ。

 

ゆえに、一般論として「淡水魚は寄生虫がいるから生食は危険」という前提を私は否定しない。無分別に、そして無思慮に淡水魚の生食することは私も警鐘を鳴らしたい。そのうえで琵琶湖産天然ビワマスと琵琶湖産天然サツキマスは例外だと言うのである。

 

 

2.

ではビワマスで疑われる寄生虫や寄生虫症とはどんなものがあるのだろうか挙げてみよう。

 

*アニサキス

*横川吸虫
*広節裂頭条虫
*日本顎口虫
*有棘顎口虫

*琵琶湖線虫

*肝吸虫

 

一個づつつぶしていきましょうか(笑)

 

おっとその前に、寄生虫についての基礎知識として次の事を紹介。

 

・卵から孵化した時の幼生から中間宿主を複数回経て姿かたちを変えながら、最終宿主で卵を産むことができる「成体」になる事ができる。

 

・中間宿主に寄生しているままでは増えない。

 

・すべての寄生虫が直接毒物を出すわけでは無いので、寄生=即有害とは限らない。

 

・寄生虫症における治療法は確立されている。

 

 

3.

まずアニサキス。

アニサキスはサケ・マス類だけでなく広く多種の海産物に寄生している。アジ・サバ・イカ・ブリ・ヒラメ・イワシ・クジラetc

それこそ枚挙にいとまがない。近年ではアニサキス食中毒から重度アレルギーに進行し、重度化した人の場合は海産物のほとんどを食べることができなくなる。

こうしたこともあってサケ・マス類は、食品表示法によって加工商品への表示が推奨されている。

アニサキスが寄生する魚介類の例を見てもわかるように、多くの人が「美味しい」「大好き」といったよく食べるものが多いことがわかる。つまり、多くの人が日常的にアニサキスの寄生した魚介類を食べているが、食中毒やアレルギーといった害を受けていないことがわかる。これはアニサキスは加熱や冷凍によって簡単に死んでしまう事や、線虫(ミミズのような糸状の虫)である以上は成体のどこかなりを噛み切れば簡単に死んでしまうからである。つまり、生食で且つよく噛まないで食べた時に食中毒がおこるのだ。

 

一方、琵琶湖産淡水魚におけるアニサキスはというと、淡水域にはアニサキスの中間宿主であるオキアミがいないのである。中間宿主の生活環境というのは、寄生虫リスクを考える際に重要な要素で、サケ・マス類がアニサキスに寄生されてしまうのはアニサキスの幼生が寄生する中間宿主(オキアミ)をエサをとして食べるからである。つまり琵琶湖で生涯を過ごすビワマスや琵琶湖産サツキマスにおいてはアニサキスが寄生した中間宿主を食べる機会が無いのである。ではオキアミの替わりに何を食べているかというとアナンデールヨコエビである。これが海遊型のサケマス類と琵琶湖産の味が違う要因の一つである。

 

あ、今回は寄生虫の話だった。

 

要約すると、ビワマスと琵琶湖産サツキマスにはアニサキスは寄生しないし、できないのである。

 

アニサキスだけでも説明が長いな(笑)

 

 

 

はい次。

横川吸虫。

横川吸虫はアユ、白魚、コイ、フナ、ウグイなどの淡水または吃水域の魚に寄生している。なので、この手の魚介を生食することで寄生虫感染する。

鮎はせごし、白魚はにぎりや造り、コイ・フナ・ウグイはせごしや洗いなんかでよく食べられてきた。

それでもこの横川吸虫による寄生虫感染症がほとんど報告されないのは、人体への影響が少ないからである。まったくの無害とは言えないが、まずほとんどの人が寄生されても無症状で且つ無害ということである。近年は関東地域の人間ドックによる検査の統計によって、横川吸虫の感染状況が報告されている。食生活の変化によるのか昭和期の終わりには極微細な感染傾向だったが、驚くことに1999年には増加の方向にあった。全ての関東在住者では無いのだが、ドッグ検診者において感染率なんと14.7%だった。現在の統計は見えないのであしからず。ちなみに京都府立医大の1990~2009年での症例統計では、その前(1971~1989)の症例統計から1/4に減少している。発症症例統計なので感染率ではないが、感染についても減少しているとみられる。昭和35年(1960年)における滋賀での感染調査では、横川吸虫の感染率平均0.33%である。近江八幡の現在の人口8万人で計算すれば2~3人といった程度の規模だった。現在よりも魚食量か多かった時代においてこの数字であるから、湖魚食が衰退した現代において、琵琶湖沿岸地域における横川吸虫の感染率はもっと低いのでは無いだろうか。

 

横川吸虫というのは淡水魚の鱗の下に、または白魚の筋肉中に入って幼生形態で寄生する吸虫で、淡水魚の中では成虫には成長しない。淡水魚に寄生している間は動くためのしっぽを切り離してしまい、最終寄生宿主に食べられるのをじっと待つ。成虫でも1~2mm、淡水魚に寄生している形態・メタセルカリアは肉眼では見えない。という事は、生食においては皮を剥いでしまうか加熱することによって横川吸虫の幼生(メタセルカリア)を除去することはできる。

 

よって、琵琶湖産天然ビワマスやサツキマスにおいては水洗いの時点で鱗を全部除去し、皮を剥いでからお造りにする、または皮を炙って作る「塩たたき」は安全なのである。

 

 

ふう・・・

お腹いっぱいになってきた。

 

ちなみに横川吸虫の成体形状は楕円形で、先にも書いたが淡水魚に寄生しているときはメタセルカリアという幼生でなおかつ極微小、そして鱗下に寄生している。なので視認して除去しようなどとしても無駄な努力である(笑)

 

 

とりあえず今日はここまでにしておいて、他の寄生虫については次回にしよう。

 

次回以降の寄生虫についても書いて行く。結論から言うと「心配ない」であるが、なぜ心配ないかも書いてゆこう。

 

 

参考

人間ドックで発見された横川吸虫症の臨床的研究
原島三郎1)三輪祐一1)白石一美2)
安住義克2)岡本美恵子2)田島博2)
正木基文3)

 

滋賀県地方における寄生虫の感染状況
鈴木了司・小財勲

 

京都における寄生虫疾患―その歴史と現状
有薗 直樹,山田  稔,手越 達也,大西弘太郎,塩田 恒三
内川 隆一,松田 信治,松本 芳嗣,吉川 尚男

 

湖と川の寄生虫たち
浦部 美佐子

 

 

琵琶湖すくい網小鮎漁が6月から始まった。

もちろん佃煮や天ぷら、そしてじゅんじゅんにもする。

すし屋としては「小鮎の新子仕立て」でにぎるのがシーズナブル。

京極寿司の眞杉君が始めた仕立てだが、水揚げから仕込みまでの時間が勝負なので、なかなかメニューになっているすし屋さんも少ないが、滋賀ならこの季節に食べたいにぎり寿しだ。

 

さて

日本の緊急事態宣言が解除され、世界も都市封鎖を緩和させようとしている今日この頃、これからの料理店や料理人、食に関わるサービス業はどうなってゆくのだろうか。

 

大前提で、「コロナ以前には戻らない」というのがどんな人の声にも上がる中、世界と日本、そして滋賀の食はどうなるのか。

 

そんな疑問には、とりあえず過去のケースではどうだったのか。

 

100年前のパンデミックは大正末期のスペイン・インフルエンザ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20200228-00165191/

古谷氏個人については賛否いろいろあるかもしれないが、この記事は面白い。

 

1920年パンデミックのあとさらに1923年関東大震災だから、現代人なら完全に絶望してしまいそうな状況だ。

 

そのころ世界ではドイツ帝国が滅亡し、ハプスブルク帝国が滅亡し、ロシア革命からかのソビエトが誕生し、ユーゴスラビアが誕生し、トルコも革命、パンデミックも大変だがドイツ以東の各国でほぼ同時期に大きく国の在り方が変わっていったところだった。

 

日本と世界のつながりとしてとても興味深いのは後の昭和天皇が1921年にヨーロッパを歴訪している事だ。昭和天皇語録をまだ読破していないので何とも言えないが、100年前のパンデミック直後のヨーロッパに皇太子だった昭和天皇自らが渡っている事が驚きだ。国内の政治的な興味深い点としてはロンドン海軍軍縮会議からの統帥権干犯問題、原敬暗殺、日英同盟の事実上破棄だろう。ここが一つ目の1945年敗戦へのターニングポイントであることは様々な外交録から分析されている。あの時・・・・。タラレバはやめておこう(笑)

 

さて、そんな大正日本の飲食業界はというと、大きな変革期であった。日本料理業界では割と知られていることかもしれないが、関東大震災による災害復興において、首都の多くの料理店が再起・開業するにあたって上方から多くの料理人が移ったことだ。

 

現在、伝統的な江戸方料理の見直しなども行われているものの、基本的な日本料理技術の多くがその機会に上方から東京にもつ伝わったと言われる。

 

かの北大路魯山人がプロデュースした星ケ岡茶寮・美食倶楽部もこの時期にオープンしている。まあ今はないけど、美味しんぼに登場する海原雄山と美食倶楽部のモデルであることは有名だ。狸汁とフルーツパンチが名物だったと言われている。

 

 

 

https://shinise.tv/tag/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%89%B5%E6%A5%AD/

いろいろあるだろうが、大正期にオープンし、今もある老舗を紹介するサイト。面白い。新コロ初期のクラスター騒ぎにもなった屋形船なんかもある。

 

昨今、サスティナビリティを各方面で取り沙汰されているが、この100年を生き延びた飲食店は日本にも多い。

 

滋賀で探すと、結構ある。

Shiga Sustainable Restaurantsは以下の通り。  

 

大津、かね吉

大津、魚忠

大津、かど萬

大津、松喜屋

大津、新月

大津、あみ定

大津、清元

大津、鶴喜蕎麦

大津、日吉そば

大津、かねよ

大津、山重

大津、石柳

大津、しづか楼

大津、花折

大津、坂本屋

草津、魚数

草津、双葉館魚寅楼

守山、魚末

日野、鮒吉

日野、寿志屋

甲賀、魚兵楼

甲賀、魚松

甲賀、魚仙

近江八幡、毛利志満

竜王、岡喜

東近江、島田屋

東近江、招福楼

東近江、納屋孫

愛荘、竹平楼

彦根、伊勢幾

彦根、やす井

長浜、鳥新

長浜、翼果楼

長浜、茂美志や

長浜、住茂登

長浜、成駒屋

長浜、すし慶

高島、魚治

高島、喜多品

高島、西友

高島、丁子屋

 

とまあ他にもあるだろうが簡単に調べただけでもこんなもんである。

ちなみに佃煮屋さんやら和菓子屋さんやら入れるともっとありそうなんで調べるのやめました。

 

圧巻の大津である。

 

100年のこの間に業態が変わらずのところもあるが、大抵のお店が時代にフィットするように変化しているのがうかがい知れる。

 

大正末期のパンデミックを乗り越え、昭和敗戦前後の激動も乗り越え、今に至る。敗戦後の経済成長期やバブル景気を挟んで、平成の失われた経済成長も耐えた。

 

そしてこのアフターコロナを乗り越える次のカタチと手法は何だろう。

 

 

やはりひさご寿しは「豊かな鄙び」と「始末してきばる」だろう。

贅沢で煌びやかな料理は最高に素晴らしいが、滋賀のテロワールとは言えないだろうというのは、滋賀に住んでいれば実感するところ。難しいな。禅宗を哲学のベースとするでもないし、儒の気配も少ない。むしろ天台や浄土、アミニズムの方がより滋賀らしい哲学のベースだ。

 

 

全国一律に「こうするのが新しい時代のレストラン」というのもちょいとピンとこない。

 

世界の料理人同士の交流がガストロノミー文化を世界に広げ、世界の多くの国と地域で今までになかった料理の世界が生まれたが、ここに来てローカリズムとマイクロツーリズムを志向せざるを得なくなったのは、日本の国風文化が再度発展する機会かもしれない。

 

大陸の動乱、世界が動乱にあった中、海外との往来が大きく減少し日本が国風文化を発展させたのは、平安時代と江戸時代。

 

 

いざローカリズム。

 

 

滋賀に、近江八幡にあるものを最大限に楽しむ。

 

Buy Local Shiga.

 

もちろん国内外の人もいずれ安心して往来できる時代が再来するにしても、その時にはもっと色濃い滋賀が料理になっていると面白いだろう。

 

 

コロナ禍だろうがちゃんと季節がめぐれば実る自宅のさくらんぼ。

人間が残した実はあっと言う間に鳥たちが全部を食べてくれました(笑)

 

さて、

この数か月でたくさんの事が変わってしまいましたが、これからの安らかで平穏な毎日をすごすために飲食店が務める新しいルールづくりについて、ひさご寿しでの考え方をまとめてみたいと思います。

 

簡単にまとめると

 

1.フェイクニュースやあおり情報に流されずに冷静に判断

 

2.最新の医学的、経済的考察をもとに常にルール変更

 

3.地域とお客様とお店の共存や声のかけあい

 

 

すでに5/14よりスタートさせた新しいルールは次のもの。

これはあくまで5/14時点の状況を考察してのことではありますが、今後もSARS-COV-2(新型コロナウィルス)を原因としたCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)が無くなるわけではないので、どうすれば平穏なくらしになるのかを考えてみようと思います。

 

 

まずは情報の収集について。

今回のコロナ禍は本当にあーでもないこーでもないさまざまな情報が錯綜し、冷静に判断する力をどんどん削られてしまったように見えます。そこで、情報の収集については公的機関の公式情報のみを最終的に信用し(まあまちがっていれば修正するだけ)、それまでは気に留めないのが精神衛生上もすこぶるいい。とくに既存のマスメディアは特定のバイアスがかかっている事や、あおりのようなものも多く、冷静な判断をするための材料としては情報のお掃除が大変です。「情報のお掃除」とは私が勝手に呼んでますが、フェイクニュースやバイアスなどを除去して事実情報のみにすることです。

 

まあ、そうした情報のお掃除は面倒なので、はじめからマスメディアは見ないのがとりあえずオススメかなあ(笑)

 

という事で、私の場合は行政の公式情報や公開論文をみたり、筆者の背景を確認したうえでの論説を見比べるというところでしょうか。

 

 

 

 

度々のルール変更について。

今回のような状況では度重なるルール変更は致し方ないと思います。むしろ正解は常に動くので、ルール変更し続ける必要があります。今回は一旦5/14時点のルールですけども、来週には多分またルール変更すると思います。現状から緩和の方向でありたいとは思っています。近江八幡では新規の陽性者が5/15~5/16で2人見つかりましたが、「Hisago COVID-19 policy 5/14」のルール変更はしません。この判断は、滋賀県がその陽性者を詳しく把握したうえで「過度の恐れ必要なし」として公開情報を出しているからです。しかしながら今後それに関連して新しい情報に変更された場合は即座にルールを改定します。

 

 

 

 

地域とお客様との共存について。

コロナ禍はコロナ自粛を生み、コロナ怒りを生み、コロナ疲れを生み、たった今コロナ鬱へと移行しようとしている人がたくさんいそうです。これはごく一般的な心理の動きとして精神医学ではよく知られている事のようですから、今後、鬱からの自殺者が増えない事を祈るばかりです。そうならないためにも、怒りや疲れの段階で心のケアが重要になってくるのではないかと思います。そのためには、身近人との励ましあいや単なる井戸端会議でもいいので、まずは安心して出会える人同士で出会ってゆくのが良いと思います。たくさんの人と出会うというよりはコミュニケーションの密が良いのかなと。

 

近江八幡や滋賀は特に自粛について多くの人が真面目に取り組んできたと思います。とくに京阪のベッドタウンとなってきている大津・草津エリアは人口密集もどんどん上がってきていますし、仕方なく通勤によって越境せざるを得ない人も多いはずです。その中でGWクラスターもなくどんどん感染者も減ってきているので、次はアフターコロナ・ウィズコロナについて積極的に意見交換がSNSでも見えると良いですね。

 

 

さあ、これからに向けて夏の料理を考えていこう。

 

 

最後に、いまも医療の最前線で務めている人やそのご家族、そして日々対応に追われている行政担当者や窓口のみなさんに感謝申し上げます。ありがとうございます。時々グチってごめんなさい。

 

(オイカワのめずし、14日発酵)

日本に入ってきたナレズシ的なものが大陸と袂を分ち、日本独自の、そして滋賀の食文化財になるまでを追う長編シリーズです。

 

渡来人との習合。

 

 

渡来人とは現代的な言い方では移民から帰化した外国人のようなものであるが、持ち込んだ渡来人の文化ごと日本文化として合流していった人たちの事である。ゆえに渡来人は数百年を経て現在は日本人である。

 

ポイントは従来の日本文化を継承しつつも習合していることである。前回にも出したが、コメ伝来によって縄文時代から受け継がれてきたアミニズムの古神道がコメ神道にバージョンアップしたのが「習合」である。

 

チャイナタウンやコリアンタウンのようにコロニー化しているのは、その地点に限定社会を形成しているので、そうした人々は渡来人とは言わない。

 

習合というのはとても日本の文化において重要で、これこそが日本文化の神髄と言って良いかもしれない。

 

 

話はそれたが、A.C.300年頃からの日本と渡来人とその習合ぶりを見てみよう。

 

ナレズシはこの時代において、まだやっとコメの増産の基礎環境ができつつあった程度だ。景行・成務の時世で滋賀に「志賀高穴穂宮」という御所があり、そこから全国の箇所に役人の配置する勅を出している。ここで土地調査が行われたわけではないが、全国の収穫物を中央に集めるための物流のシステムがうまれつつあったという事を示している。国造という役職名とともに「稲置」というのも置かれたという事から、すでに稲が徴収の対象であったことが見える。という事は生産者が生命を維持するための必要最小限のコメ以外に、徴収に耐える量のコメが全国で作られはじめていたことを示している。

 

A.C.300頃、大陸の中華は大混乱の末に魏の宰相・司馬懿の孫にあたる司馬炎によって晋に再統一されたが、司馬炎が死ぬと跡取りをめぐって再び大混乱となり、周辺民族の傭兵団を引き込んでの「八王の乱」となり、日本からの朝貢もする意味もなくなり交流の記録は途絶える。ちなみに有名な魏志倭人伝とは、晋の高祖たる司馬懿を麗讃する意図に晋代に陳寿が記したといわれる。

 

中華の動乱は大陸から戦禍を逃れる目的で大きな移民を生む。これは春秋戦国時代で呉越からのコメの渡来にもかかわったが、晋代の移民と目されるのがアメノヒボコとツヌガアラシト、そして宋代の弓月君である。

 

ヒボコについては竜王町にもその痕跡がある。彼は半島の新羅の王子で逃げた妻・アカルヒメを探しに日本に渡ったが、あれこれ探したのちに敦賀から宮津を経て最後は但馬に根付いて帰化する。竜王町では鏡山にある鏡神社の主祭神として祀られており、しばらく滞在した縁でヒボコの従者が何人かそこに定住して帰化したと思われる。また須恵器の陶人も連れていたことも関連して、鏡神社のある鏡山周辺では須恵器が遺跡から出土する。全国に須恵という地名はあるが、竜王の字(あざ)にも「須恵」があるのはそれが由来である。ヒボコの物語で重要なのは、朝鮮半島から対馬海峡を渡り瀬戸内に入る航路をとり、お宝をもって崇神天皇に献上し、日本に住まう許しを得ている話だ。新羅はすでに崇神朝に朝貢していた節がある。ヒボコの持ってきたお宝は7種とも8種ともはたまた10種ともいわれているが、言い伝えはバラバラながら、当時王族や権威、祭祀においてとても重要なアイテムであったという事は間違いない。

 

ちなみにヒボコが持ってきた宝の中に「辺津鏡」「奥津鏡」がある。竜王の鏡神社においては、このヒボコの神宝の鏡に由来しているが、鏡は現在、宮津の籠神社にある。また、籠神社にあるとある家系図は日本で最古の家系図として国宝でもあり、当時のその地をめぐる事象と渡来人の系譜は日本の歴史上最重要とされていることがうかがい知れるが、この話はここまでにしておこう。

 

そして続くツヌガアラシトは加羅と呼ばれる朝鮮半島南東部の国の王子で、日本に長年住んだのちに半島へ戻る際、崇神天皇の本名「ミマキ」の名前に由来する任那(ミマナ)を拝領している。ツヌガアラシトは現在の敦賀の地名の由来であり、滋賀の湖西・高島には角鹿(つぬが)氏という豪族がA.C.300~500年代にいたことが他の記録にも残っている。つまりツヌガアラシトは敦賀・高島と朝鮮半島南部の任那を往来することができる能力と守備範囲任をもっていたと思われる。

 

後に14代仲哀天皇と皇后の息長帯姫は、敦賀を経て九州征伐に向かうから、ツヌガアラシト縁者の渡来人はのちのちも皇室と縁の続いてきたことを示している。ツヌガアラシトは「角がある人」というような意味で、角が付いたものをかぶっていたと思われる。古代の人々は獣を神獣としてアイテム化する風習がよくあり、当時の日本列島にいた角のある獣としては鹿になるので、鹿を神獣として扱っていたのだろう。ちなみに角鹿氏は現代にも続いており、現在64代目である。

 

アラシトが住んだとされる敦賀は、元は気比(ケヒ)とよばれ、気比の神が祀られており、現在もその角鹿氏が宮司家である。ケヒとは古い大和言葉で「食の霊」を指していて、かつては御食つ国(みけつくに、食の国の意味)であったことを伝えている。つまり、A.C.300年~400年ごろの敦賀は海産物他、食べ物がとても豊富で、琵琶湖の湖上流通を使って朝廷へ献上されていたことを示している。現在御食つ国とは三重県を指しているが、これは敦賀・気比神社から丹後国、そして籠神社へと移った食の神が、21代雄略天皇で伊勢へ移されたことに由来する。現代では伊勢神宮外宮・豊受大神がそれにあたるが、ルーツはそこにあるのだ。

 

ヒボコとアラシトは記紀やその他の文献において別人物で渡来年もちがうとされているが、従来より同一人物ではないかと研究されており、多くの共通点が見出されている。

 

同一人物であろうがなかろうが、日本文化における古代最重要人物たちである。

 

そして任那の北東位置に秦韓という、始皇帝の秦滅亡後に半島へ逃げていた秦遺民たちの集団が集まっていたところがあり、秦韓は新羅としてまとまり、秦滅亡後600年を経てそこにいた弓月君が120県もの団体を連れてA.C.300年代後半に渡ってきたのだ。

 

彼らは朝鮮半島から渡来している。紀元前に揚子江あたりから渡ってきたのと違い、北九州と朝鮮半島南部の間、対馬海流を越えて渡ってきている。

 

この弓月君とともに渡ってきた集団は渡来人・秦氏(はたうじ)と呼ばれ、その後の日本においていたるところに影響を及ぼしてゆく。秦氏についてはまた後の回でも登場するので、これくらいで。

 

 

さて朝鮮半島からの王族系の渡来が多いという事は、この時代において半島と日本の地域力の差を表している。経済や政治的安定、武力差などいろいろあるが、A.C.200年代後半の崇神天皇以来、半島への勢力拡大が行われていたことは確実で、370年頃に百済王から倭王に対して送られた七支刀、そしてその刀に刻まれた逸文の研究から、それがうかがい知れる。また、朝鮮半島北方にあった高句麗王・好太王の碑文によって、新羅・百済の領域共に日本(倭)の支配または経済共同体領域になっていたことが明らかになった。

 

何が言いたいかというと、領域が広がり交易が生まれると国は潤うということだ。

 

実際に半島南部では砂鉄・鉄鉱石が得られるし、政治的優位にあるほうに利益移動が起こるものだ。そうした経済的潤沢さによって共同体はさらに強くなってゆく。ゆえに、この時代の半島南部の遺跡においては日本と同様の文化が見られるのもが多数出土する。

 

食料としてのコメはますます安定的であり、そして経済共同領域では文化の共有も生まれる。半島南部においてもナレズシ様の発酵食文化があった事は想像に難くない。現代にも淡水魚料理は韓国にいろいろある。しかしながら東南アジア同様に日本のナレズシと同様のものに届かなかったのはその後の朝鮮半島の政治経済の事情によるのだが、それはまたの機会があればにしよう。

 

また、牛や馬がこの時代にに日本に渡ってきたであろうことが遺跡から発掘される骨や、古墳に使われる埴輪に牛・馬の像が出てくるところで推察される。七支刀がそうであったように、朝貢による献上または交易として連れてこられたのだろう。それ以前、日本では猪と鹿が食肉の9割を占めていて、ほぼ1:1の割合で遺跡からでてくる。生息数も同数レベルであったのだろうと予想される。他に鴨・熊・狐・猿・狸など、そして東北ではオットセイやアザラシなども食されていたことがわかっている。獣肉の塩蔵、またそのナレズシ様のものもあったであろうことは想像に難くない。そうした獣肉のナレズシを華頂大の堀越先生が滋賀の食事文化研究会の冊子に紹介しているので、おもしろい。さすがにキビヤックのような強烈な発酵食品は生まれなかったようだ。

 

 

ちなみに新羅・百済についてはだいたいが現在の韓国にあたる領土域ではあるが、当時の半島に住んでいた人たちの状態は中華の戦乱から難を逃れてきた集団と日本からの移民によって混合された国ととらえた方が良い。朝鮮の正史を記したとされる「三国史記」には当時の日本から渡った人物が国王になっている事も実は記されていて、相当に密接にかかわっていたのだろう。またB.C.400年代の戦乱で逃れてきた人たち(呉越から渡り、日本と朝鮮半島の両方に根付きコメをもたらした)と同様に、後漢末期以降の度重なる戦乱が半島に漢人を移動させた事も重要な視点である。一点事情が違うのが、漢帝国が半島北西部からソウルあたりまでを版図に広げることができた事で、以降陸続きで中華から人の流入が起こった事だ。こうして当時の朝鮮半島に住んでいたのは断続的に流入した漢人と紀元前に日本と半島に同時に住み着いた呉越系渡来人、日本側から渡った逆渡来人、そして原始の半島人(濊)が混在していたと考えられる。現代のようなnation stateはまだ存在していない。秦韓から発生した新羅では秦語が話されていたという記録があるくらいだ。

 

 

 

さて当時の日本の状況。

このころ皇室のドタバタが起こっていて、今も学会や市井の論者も含めて問題になっている。15代応神天皇。本名イザサワケ、そして別名ホムダこと「八幡神」である。

 

近江八幡の名前の由来でもある。

 

天皇が主祭神となって全国に広がっている中で、八幡神は最も多いのだ。

 

特に源義家によって源氏の氏神とされて以来の広がりようは凄いものだ。

京都・石清水八幡宮や鎌倉・鶴岡八幡宮などはとくに有名だが、八幡神の全国総本宮は現在北九州の宇佐八幡宮である。

 

 

宇佐にある八幡宮は北九州地域一帯に他にも元宮と呼ばれる関連神社などがいくつかある。また、宗像大社と同じ神も八幡宮ではいっしょに祀る。これは元々が宗像の神を祀っていた習慣であったところに宇佐八幡があとから習合した形になっていることを示している。実際宇佐八幡宮の本殿中央に祀られているのは、比売神こと宗像三神なのだから。

 

 

つまり、応神天皇が祀っていたは宗像の神であり、後の世で29代欽明天皇になってようやく八幡神として宇佐八幡宮ご鎮座となったのだ。記紀には八幡神の名前は記されていない。

 

 

応神天皇は何をした人なのか?

そしてその時代に日本で何が起こったのか、中華の史書のいくつかにも手がかりが登場するので、そのあたりと記紀などを照らし合わせ、そして現存する遺跡や伝聞を合わせてみよう。

 

 

まずその前に、15代応神天皇の前に父親の14代仲哀天皇がいるのだが、事績があまり登場しない。というか仲哀天皇の皇后である神功皇后(息長帯姫)の事績の方がやたらと記紀に記されている。仲哀天皇はヤマトタケルの皇子で近江坂田の地方豪族・息長氏の姫、息長帯姫(オキナガタラシヒメ)を皇后に迎えるのだが、応神天皇が生まれるまでに北九州で崩御している。そののち息長帯姫が仲哀天皇に代わって朝鮮半島出征を行い平定し、後に北九州へ帰還した際に応神天皇を生んだとされる。万世一系を謳うには科学的につじつまが合わない話が堂々と記紀には登場するのだが、それは置いておこう。私としてはたいして意味はない。

 

もはや母親である息長帯姫の方がまるで支配者のごとき記され方に、戦前までは日本初めての女性天皇と公式に認められていたくらいである。朝鮮半島出征については「三韓征伐」として伝説ではあるが、戦いの勝敗は別にして、当時に日本(倭)側から朝鮮半島へ精力的な武力派遣があって、半島における権益の争奪戦が繰り広げられていたことは間違いない。その日本側の主権者がおもしろいことに女性なのである。そうした争奪戦の最終局面、権益の境界線について当時確定したしるしが、好太王が残した石碑と碑文だ。

 

息長帯姫はお腹に応神天皇を宿しながら遠征し、帰還後に出産した。

 

こうした経緯から、イザサワケが15代応神天皇として即位するまで息長帯姫が摂政であったとするのが現代の公式の見解とされている。イザサワケを立太子するとき、姫と宰相の武内宿祢は気比の神と名前を交換し、イザサワケはホムダと改名、ホムダワケとなった。姫の崩御ののち、ホムダワケが即位した。

 

こうした姫の武神さながらの活躍の次代、即位後の応神天皇は半島への遠征ではなく国内の事績が多く記される。これは半島が安定したことにより内政に注力した、もしくは逆に混乱極めたので撤退したかのどちらかである。混乱したのであれば行幸よりも北九州防衛に全力を注ぐ必要があるので、そうした事績もないところを見ると、前者の安定だったのだろう。実際、中華の混乱はまだ続いており、高句麗が中華に注意を払っている間は百済・新羅ともに日本との経済圏の中にいる。

 

応神天皇はそうした中、着々と国内をまとめてゆき、次代16代・仁徳天皇にうつることになる。

 

応神天皇は近江八幡にもゆかりが深い。

応神天皇即位6年、おそらくA.C.390年ごろと予想されるが、近江八幡に行幸している。現在は地理的にわかりにくいが、沖島または島町・大嶋奥津島神社、もしくは現在の日牟禮八幡宮のいずれかであることが記されている。後に行幸した神社で日輪が重なる現象が現れたことから「日が群れる社」つまり日牟禮神社となった。

 

なぜ近江八幡に行幸しているかは記紀に記述はないが、理由はおそらく応神天皇が信仰する宗像神に参拝するためだろう。宗像神は三姉妹の女神で、沖津宮の田心姫神(タゴリヒメ)・中津宮の端津姫神(タギツヒメ)・辺津宮の市杵島姫神(イチキシマヒメ)だ。近江八幡では沖ノ島の奥津島神社、島町の大嶋奥津島神社、そして日牟禮神社の前身たる大嶋社にそれぞれが勧請されたふしがある。現在はそれぞれの神社にルーツに関して関連したオープンソースは存在していないが、名称の一致だけでも十分に予想がつくだろう。近江八幡の大嶋神は地主神としてネット上には紹介されていることが散見されるが、どう考えても大分宗像の中津宮がある大島の投影である。つまり近江八幡の地主神・大嶋神とは宗像神である。日牟禮八幡宮の創建は応神天皇の祖父である13代成務天皇が大嶋神を祀ったとあるから、じつは応神天皇以前から宗像神の信仰は滋賀の地に厳然と存在していていたという事である。

 

13代成務天皇とヤマトタケルは兄弟であり、琵琶湖の西側には兄・成務天皇の居地・志賀高穴穂宮、ヤマトタケルは現東近江市・建部にルーツをもち、琵琶湖をはさんで東西に一族の勢力を確立し、その中心に宗像神を据えていたということだ。

 

おもしろい。

 

15代応神天皇・16代仁徳天皇の親子に連なる一時代は一説には河内王朝と区別されているが、さもありなん。

 

あきらかに前回ブログの時代中心にあった10代崇神天皇の三輪山中心・出雲に連なる要素が無くなっている。

 

つまり、応神天皇の頃に大陸側との交流の結果、新たな習合文化へ進み、次の大きな変革のタイミングの26代継体天皇まで一区切りである。

 

特にこの応神天皇前後から滋賀・琵琶湖周辺に関わる事象・事績・遺跡が特に多い。従来の古墳時代という括りにおいては、まして河内王朝といわれるこの時代区分において中心地が河内(現代の南大阪)と思われがちだが、国際的な交流の場は北九州・山陰・丹後・越前にかけての日本海側がフロントである。瀬戸内からの河内、そしてフロントである日本海側を結ぶ滋賀の流通的重要性は言うまでもなく当時の常識であろう。

 

必然的に生まれた滋賀の重要性は後の継体天皇を生出し、現在の皇室直系先祖となる。

 

また、この時代に生まれた流通的重要性は後の室町時代にまでも続き、都や公儀の中心地が変わろうとも揺ぎ無かった。そうしたことから、絶えず習合を生む渡来人は多く定住することになる。

 

 

そうした渡来人のなかで全国その一族のルーツである場所が近江八幡安土にある。

沙沙貴神社である。

この異質の神社は名前のとおり「佐々木」一族のルーツとして知られているが、沙沙貴神社の近くにある安土瓢箪山古墳は滋賀県下最大の古墳であり、佐々木一族のルーツたる佐々貴山の君の墳墓と思われる。古墳の時代もA.C.300年代と目されていて、この時代に渡来して勢力を最大化したのだろう。沙沙貴神社に祀られているのは少彦名・オオヒコ・仁徳天皇(大鷦鷯、おおささき)である。なぜ?の多い不思議な神社ではあるが、のちの重要な任を与えられて中世には一帯の最重要一族へと成長してゆく。

 

 

こうして見てきたように、古代日本応神天皇前後において滋賀は非常に重要な流通的中心にあり、経済的・政治的安定の地域にあったとみて良い。応神・仁徳天皇以降10代に及ぶ皇室の骨肉の内紛もありつつも、対外的・国際的には脅威の無い時代であり、渡来人を受け入れる余裕が見受けられる。倭の五王による朝貢も、中華王朝が新しく変わるたびに行う市場調査、いや政治的タカリとみて良いのではないかと思う。朝貢はみついでいるようにみえるが、中華皇帝は10倍返しでお返しをするのが文化であるから、知っている側から見れば「頭さえさげておけば儲かる」という強かな戦略が立てやすい。

 

 

話はそれたが「国際的脅威が無い時代には国風文化が成熟する」というのが定石だ。神功皇后から応神天皇にかけて国際的な脅威はなくなり、以降10代にかけて巨大古墳が建造できるくらい充実した日本となる。日本各地から朝廷に納められる税にあたるシステムも整い安定しはじめ、奈良に都が定するころには鮒寿しが納品されるのだから、この時代に雑多な熟れ寿しから「鮒寿し」という確立されたものが生まれたのだという事が考えられるのである。

4/8よりひさご寿しは店内飲食の営業の自粛を始める事にしました。

通常営業への復帰は社会的状況を見定めて、判断したいと思います。

自粛判断の理由につきましては下の方に長々と書いております。

 

~~~自粛期間にできる事~~~

自粛期間における売上減少にについては、順次公と民の両金融機関からの融資を受けながら、従業員全ての生活を保証してゆきます。

日本政策金融公庫:https://www.jfc.go.jp/

滋賀中央信用金庫:https://www.shigachushin.jp/business

 

さらに、厚労省から出る雇用調整助成金も活用しながら、わたしたちのひさご寿しが未来にもあり続けられるように最大限努力してゆきたいと思います。

厚生労働省: https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/kyufukin/pageL07.html

 

自粛期間中は従来の出前・お持ち帰りメニューに加えて、新メニューを考えて、近く皆様に提供できるようにします。

ひさご寿し: https://www.hisagozushi.com/catering/

 

そして、地域の食に関わる仲間たちとクラウドファンディングを行い、地域の食の未来への想像をかきたてて行きたいと思います。

BUY LOCAL BIWAKO areaE びわ湖の東つまみぐいプロジェクト:

https://camp-fire.jp/projects/view/249105

 

まだ非公開ですが、他にもいろいろチャレンジしてゆきたいと思います。

 

経済産業省もどんどんオプションを出してくるので、未来のためにできることは最大限やっていきます。

 

~~~~~~~~~~

 

自粛の最大の理由は

 

従業員とその家族の健康と安全、そして近江八幡と近郊に住まう人々全員が、新型コロナウィルスの厄災から最も早く抜け出すためです。

 

東京やその他日本における感染拡大は欧米中に比べて緩やかに進んでいますが、どこでだれが感染者しているか追えなくなっている状況で為政者がロックダウンをさせないからには、近江八幡にもそうした感染拡大中地域からの来訪者はあり、止めることができません。

 

こうした状況から、ひさご寿しにおける他府県からの来訪者との接触を最大限に減らすことで、市中感染拡大の芽を出させない、万が一の場合にもクラスター追跡の糸を切ってしまわないための判断です。

 

営業を自粛することは、すなわち即売上減少であり、日銭商売と言われる飲食業においては致命的な判断です。

 

しかしながら今、それを超えて感染を市中に拡大させない事、いかに早く感染者・重傷者減少局面へ移らせるかの方がより重要です。

 

経済活動を止めてしまう事によるGDPの損失は戦後例に無い規模であることは誰の目にも明らかです。しかしながら経世済民とは単純に金銭の多寡をもって本質を意味しているのではなく「遍く人々の平安をもたらすために行動する事」と私は考えています。近年はSDGsという標語になっていますが、そもそも経済というものそれがSDGsなのです。

 

持続可能な社会を考えるのであれば、今まさにやるべき経済活動と社会的責任とは、自粛なのだと判断したのです。

 

 

 

 

 

平安とは時代呼称でも使われますが、「たいらけくやすらけく」あるとは、昨日や去年と同じ安寧の日々が明日もこれからも続けてゆく事ができる心の状態です。

 

これは決して金銭的な富貴、現代的言い回しで言うなれば経済的な成長、のみで得られることでは無いのです。人・モノ・カネ・鉄・紙がすべて安定してそろっている状態の事で、その時人は最も心穏やかに平安でいられると思います。

 

人。人は説明しなくてもいいかもしれませんが、決して優秀な人という意味ではありません。適材適所に配置され、それぞれが最大限に能力を発揮できる状態。

 

モノ。単純に物量があれば良いという事ではありません。マイルドインフレを維持できる需給バランスであることと、悪貨と良貨の違いがはっきりしている状態です。

 

カネ。これ現代でいう経済にあたるもの。

 

鉄。軍事の事ですが、現実から目を背けずに、冷静に世界のパワーバランスにおける軍事の重要性を考慮し、具現化できる事。

 

紙。ここがもっとも重要で、憲法です。憲法典ではありません。日本の食文化は日本国憲法の一部ですが、そう思えれば、食に関わる職であることの尊厳を持ち続けることができます。まあ憲法の話は専門家に任せておきましょう。

 

 

 

まあこれだけ望むのはある意味贅沢の極みなのかもしれませんが、カネだけたくさんではく、重要なのはバランスよく在ることかと思います。自分ひとりでできることはせいぜい料理することくらいですが、家族やひさご寿しのみんなや地域の仲間、多くの方々がいて、いろいろ混ざり合いながら平安であれればと思います。

 

幸いにも地元民間の金融機関においては、「全ての中小企業を救うために動け!」とトップ指示で動いていると聞き及んでいます。もし明日をも知れぬ恐れを抱きながら飲食店をしている料理人さんがいるのであれば、迷わず近くの地域に根差した金融機関に相談することをおすすめします。

本日はこれまで。あしたも頑張っていこう!

湖魚のなれずしが滋賀の食文化になるまでのみちのりを追う話。

 

 

今回は原始のなれずしが日本にコメと一緒渡来したあたり、もともと日本に住んでいた人たちと交わり、どんな流れで日本が変わっていったのかを追う。

 

そしてなぜ日本でコメの多いなれずしへと分かれていったのか?

 

 

 

紀元何年ころに神道の源流が発生したのかは定かではないが、日本の鳥居と同様の結界を表すものがあるモン族(苗族)やその周辺民族(イ族・ハニ族・アカ族など)に同様のアミニズムがあることを考えると、コメ伝来の時期に並行して日本独自の神道が始まったと思われる。

 

アミニズムは岩・木・滝・海・山・川・水などなどあらゆるものに精霊が宿り、シャーマン・巫女の力によってそれら精霊もしくは霊魂が、神々の世界から現実の世界に引き寄せられ、依り代に乗り移るとされる。


 

アミニズムは全世界的に宗教の根底に見え隠れしているが、自然信仰の要素を今日まで色濃く残している地域は日本を含めて世界で限定される。

 

今も日本全国で磐座や大滝や山や木、そしてときには動物ににも神獣と呼んで信仰の対象になっているが、もとより持っていた原始的なアミニズムにコメを中心にした文化が交わることで、コメの豊作にかかわる自然現象に対する信仰が形成されてゆくのは自然な成り行きだろう。

 

言い方は罰が当たると誹られそうだが、アプリのバージョンアップみたいなもんだ。現状のランニングに、後の状況に合わせて上書きされながら、ちゃんとそれ以前の能力や要素も残しつつすすんでゆく。

 

さてコメの農耕が加わり、新しい神道がスタートしたわけだが、その時の名残りが日本語の中に受け継がれている。「カミナリ」。特に落雷によっておこる土壌中の微生物の活性化は、そこに生えるコメの育成を促進し良く実るという事もあって、雷は神の御手として信じられていた。カミナリという言葉そのものが「神なり」でもある。また「イカヅチ」の語源でみても「活か土」、また「イナヅマ」も「稲妻」であってそれぞれコメに関係しているのだ。

 

太陽神の要素が強い天照大神とはこの流れでコメ農耕を起点にして神格化したと思わる。学会では偽書とされているホツマやフトマニなどのヲシテ文献では、天照大神がコメをもたらし神格化した人(アマテル)として描かれている。ちなみにこの時点では天照大神は男神で、今日には女神とされているそれとはちょっと違う。

 

ちなみに日牟禮八幡宮に伝わる「八幡祭」は、松明をかがり火に、大太鼓を依り代にして農の神が降臨する儀式である。ドンドコドンと太鼓を鳴らしながら田畑を回り、神の降臨をつげる。

 

こうした儀式に必ずあるのがお神酒(おみき)である。

 

醸された日本酒を降臨した神々にそなえ、儀式が終わるとそれを神々と共に飲むというものだ。現在でも祭や神事と言えば酒を飲むことが多い。

 

B.C.1000年くらいの遺跡では果実酒を作っていたとされるものが出土しているが、コメから作られる日本酒の起源については諸説ある。一応日本での最初の記録としては奈良時代の「大隅国風土記」にでてくる「口噛みの酒」ではあるが、漢帝国の時代の「漢書食貨誌」にはすでにコメと麹とでどれだけの酒ができるかが記録されているところを見ると、麹による糖化発酵からの酒造り、つまり現在の日本酒と同様もしくはそれにつながる醸造酒の製造技術は中華で確立されている。という事は麹の利用はコメ食文化圏では一般化しているのであるから、呉・越滅亡からの継続的な移民により、コメそのものだけでなく麹利用の技術も伝わっていると考えられる。前回のブログ同様に、コメの伝来と同じくして、乳酸発酵と麹発酵の技術は伝播していたのだろうと予想される。

 

ただし「国菌」ともいわれるコウジカビ、学名:アスペルギルス・オリゼーについては中華では生まれなかった。大陸側に残るコメ文化の中で醸造酒に使う麹はケカビまたはクモノスカビという別の麹なのだ。いったいいつに古代の日本人がコウジカビ(アスペルギルス・オリゼー)を単独に培養できるようになったかはまだ定かになっていないが、コウジカビを使って玄米酒を作るとまるで紹興酒にも近いような酸味や風味をまとう。この事から、神事におけるお神酒は紀元前より麹を使い、現在の日本酒または紹興酒に近い風味であったと思われ、今も新嘗祭や大嘗祭に天皇陛下がそなえる「白酒」「黒酒」は神武創建の時にはあったのかもしれない。

 

自然を畏怖しながら信仰し、コメや作物の実りをもたらすことを願い、感謝し、酒を醸し出す発酵の自然現象すらも神々の御手の成す業として

信仰するのがA.D.200年くらいまでの古神道の在り方だったと考えられる。

 

 

 

この年代、人類全体にとっても重大事件が発生する。

西はローマ帝国から東は漢帝国にかけて疫病の大発生である。

 

 

165年頃、ローマではマルクス・アウレリウス・アントニヌスの時世「アントニヌスの疫病」として、天然痘による病状が事細かく記されている。疫病が終息するのに15年ほどかかっており、ローマでは人口の1/3が死んだとも言われている。

ちなみに、アントニヌスはハリウッド映画「グラディエーター」で描かれていた息子に殺されてしまう白髪の老皇帝のモデルである。作中で若き新皇帝コンモドゥスを元老が「疫病の市民に触れたことは?」とおちょくるシーンがあるが、まさにあの時代。ちなみにマルクス・アウレリウス・アントニヌス自身は病死である。たぶん天然痘。

 

そもそもその時期の天然痘は中央アジアのクシャーナ朝(アフガニスタンあたり)での10年流行から端を発して、西隣のパルティア、そしてパルティアとの交戦中だったローマに持ち込まれた。

 

このクシャーナ朝、東には漢帝国へ通じる交易路がある。シルクロードである。同時期の漢帝国は桓帝・霊帝の時世。「後漢書」にローマ皇帝・アントニヌスの名前が大秦国王安敦と記されており、使者との交易があった事も記されている(使者を騙ったただの商人かもしれない)。天然痘ウィルスは飛沫・接触感染によって簡単に人に伝播してゆく。クシャーナから、そしてローマからもダブルで持ち込まれることも予想される。

 

まさに世界史上はじめてのパンデミックと言ってもいいのかもしれない。

 

後に後漢は疫病や社会情勢の不安定から、人々は宗教に走りやすくなり、太平道信者となった農民による一斉蜂起の「黄巾の乱」が起こり、これをきっかけに大動乱の三国時代に突入、中華の全人口は1/5にまで減ってしまった。後漢最後の皇帝から三国のうちの一国・魏の曹丕に禅譲されたのが220年である。禅譲後も中華は騒乱絶えず人口減少の一途である。

 

そして240年あたり、日本(倭国としてだが)が初めて世界歴史書物へ登場する。魏から卑弥呼が金印を下賜されたエピソードが「魏志」に記録される。卑弥呼(本来は日巫女とも言われる)からの朝貢、交易は何度か行われており、倭人伝でともに記されている配下の名前に「伊支馬(イクメ)」「弥馬升(ミマキ)」があることから、崇神・垂仁の本名とも思われ、日本では皇室が10代目11代目というところである。当時の人たちは自らを「太伯の子孫」と語っていたことが中華の史書にいくつか記されており、文字を持たない中で春秋戦国の呉の末裔であることを自認し、口伝で伝えていたことを示している。

 

ちなみに太伯とはB.C.1000年頃に成立した周王朝の宗家長男であり、父の希望にそって3男に後継ぎを譲り、のちに揚子江周辺に呉の国を建てた人で、孔子の論語にも登場する。姓を「姫(き)」という(厳密には臣の真ん中がコの字ではなくロの字だ)。あくまで口伝であるから証拠とは言えないが、本当なら皇室の本姓である。あくまでトンデモ説としておこう。

 

 

さて卑弥呼が死んだ250年頃、ローマではまたしても疫病が大発生している。

 

キプリアヌスの疫病である。

これまた天然痘で終息には15~20年を要している。

 

同時期、崇神天皇の時に日本でも疫病が発生し、多くの民が無くなったと記紀に記されている。国民の半分とも記されている。

 

この二つの疫病には接点を見つけることはできないが、世界的な交易が古代にもあったのだから、伝染していても不思議ではない。しかし大事なところはその接点ではない。

 

 

崇神天皇の時に起こった疫病によって日本で何が変わったかである。

 

 

崇神天皇がこの疫病を鎮めるにあたって行ったことは、宮中に祀られていた天照大神と大物主を別々に分けたことである。大物主は奈良・三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)、天照大神は流浪の末に垂仁天皇の時代になってようやく伊勢神宮に落ち着くことになる。

 

これにより疫病はおさまり、崇神天皇は四道将軍を派遣して日本統一へ動き出す。さらに朝鮮半島最南部に任那として勢力をのばす。任那(ミマナ)はミマキという崇神天皇の本名から名付けられたと言われる。

 

こうした大事業を行った崇神天皇が「ハツクニシラス スメラミコト」、つまり「初めてこの国を統治した 天皇」という和風諡号を死後おくられたのはそうしたゆえんである。

 

崇神天皇は皇祖たる天照大神より大物主を大切にしている。古来からあった自然崇拝・アミニズムの考え方から、疫病を退けるという現世利益求めて、人の運命を支配する見えざるパワーをもつ神として崇め奉り、より宗教的な日本神道の形式へと変容させた。

 

自然への畏怖、感謝、そしてその恵みであるコメや農作物を奉る要素が薄れてゆく。それもそのはず、いままでの神では疫病が救えなかったからだ。疫病が発生するとき、今までになかった新しい宗教が生まれたり、勢力地図が変わるのが世界の常である。

 

ちなみにキプリアヌスの疫病(天然痘)によって、それまで迫害され続けてきたキリスト教はローマの国教へと歩み出す。その詳しい理由はまたいずれ機会があれば。

 

 

さて現世利益の大物主の話。

 

大物主は出雲大社・大国主の後継とも言われ、簡単に言うと国づくり・モノづくりの神である。酒蔵の杉玉は大物主の神力を発露するとされる杉から来ている。

 

大物主はのちに下賀茂の神の娘と結び、上賀茂の神を生んだとされる。賀茂神社との関係性の強い神なのだ。賀茂とは「賀茂の神」を奉ずる一族で、砂鉄から製鉄する一族だったと言われている。ゆえに砂鉄が採取できた河川流域などにに賀茂一族の展開が残されている。出雲についても日本最古級のたたら製鉄遺跡が多くあることから、そうした製鉄技術を持つ同系統で当時結びついていったことが考えられる。

 

疫病退散のために崇神天皇が天照大神を追い出してまで大切にしたのは大物主と賀茂の神なのである。

 

どうやら崇神天皇即位の初期あたりで朝廷内は大いにもめたのであろうことが見え隠れする。倭人伝においても卑弥呼の死後、日本(倭国)は国内でもめた話が出ている。

 

前回とリンクしているが、崇神天皇あたりで古墳が大型化しているのは出雲や賀茂の力を得て鉄器の改良が行われ始めたからだと推察される。ゆえに、以降の日本には出雲や賀茂に由緒をもつ神社や地名や氏族名が増え始める。任那は鉄鉱石の産地でもあった事、そして朝鮮半島のほかには見当たらない、大和地域や出雲地域と同様の古墳がある事も考慮しておきたいところだ。

 

崇神天皇で覇道がすすみ、次代の垂仁天皇で伊勢に天照大神が落ち着いたところからして、内紛はおさまり、景行天皇と息子のヤマトタケルによって東国にも勢力が伸びた。

 

食にまつわるアミニズムは崇神天皇以降の宗教化してゆく神道の中で、奥深くに潜んでゆく。

 

こうした疫病と宗教的な混乱、そして内紛から安定を経て、A.C.300年前後、日本は一旦国内が治まってゆく事になる。ゆえに先の鉄器進化の話と合わせて古墳を大型化する土木事業を安全に遂行することができ、そうした土木要員をかりだすための食料の増産・安定生産もあったであろうと考えられる。逆説的にいうと、そうでなければ大きな古墳を築することは不可能だからだ。

 

食料の増産とはつまり主食のコメが以前に増して安定的に使用可能になるという事だ。ここにコメを多用するナレズシが始まるベースが出来上がったと考えられる。

 

縄文原始神道

アミニズム

 

 

コメ伝来で、コメ神道にバージョンアップ

 

 

鉄パワーでコメ増産も、疫病でコメ神道権威を失い、モノづくり神道に第1党をゆずる

 

 

しかして奥にひそんだ皇祖たる天照大神と伊勢神宮がふたたび歴史に名を現すのは、天武・持統の天平時代を待つことになる。

 

 

 

超絶長編になってきたが、ナレズシを理解するためには日本文化の源流でもある神道の変遷は重要だ。

 

そして神道の変遷はそのまま日本の歴史、哲学、政治、経済、文化にリンクしている。加えてその変遷を起こさせる要因は全て世界とリンクしている。


次回はA.C.350~500年あたりを濃密にリンクしてゆこう。
中華と世界は絶賛混乱中、日本(倭)ははたしてどうだったのか。
そしてナレズシと食文化はどうだったのか。