「ガザ・モノローグ」で触れられた『アンティゴネ』 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

  「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

突きつめれば「命どぅ宝」!
【新】ツイッター・アカウント☞https://twitter.com/IvanFoucault
徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


     「なくてはならないもの」
             長田 弘
(おさだ ひろし)

なくてはならないものの話をしよう。
なくてはならないものなんてない。
いつもずっと、そう思ってきた。
所有できるものは いつか失われる。
なくてはならないものは、けっして
所有することのできないものだけ
なのだと。
日々の悦びをつくるのは、所有ではない。
草。水。雨。日の光。猫。
石。蛙。ユリ。空の青さ。道の遠く。
何一つ、わたしのものはない。
空気の澄みきった日の、午後の静けさ。
川面の輝き。葉の繁り。樹影。
夕方の雲。鳥の影。夕星【ゆうずつ】の瞬き。
特別なものなんてない。大切にしたい
(ありふれた)ものがあるだけだ。
素晴らしいものは、誰のものでもないもの
だ。
真夜中を過ぎて、昨日の続きの本を読む。
「風と砂塵のほかは、何も残らない」
砂漠の歴史の書には、そう記されている。
「すべての人の子はただ死ぬためにのみ
この世に生まれる
人はこちらの扉から入って、
あちらの扉から出てゆく。
人の呼吸の数は運命によって数えられている」
この世に在ることは、切ないのだ。
そうであればこそ、戦争を求めるものは、
なによりも日々の穏やかさを恐れる。
平和とは(平凡きわまりない)一日のことだ。
本を閉じて、目を瞑【つむ】る。
おやすみなさい。すると、
暗闇が音のない音楽のようにやってくる。

※括弧内・フェルドウスィー『王書』(岡田恵美子 訳)より

――――――――――――――――――――

三人の魔女「きれいは汚い、汚いはきれい。」
(シェイクスピア『マクベス』)

これは、ある一人の8歳の少年が
イスラエルによって殺害されてしまう瞬間。

アダム・アル・ゴールは、8歳の少年だった。
彼にとっての世界の中心は、サッカーと家族と友達で、
そうした存在の周りをまわって生きていた。

彼は、占領されたウエストバンクのジェニンで、
イスラエル兵によって射ち殺される。
 

この母は、自宅を爆撃された。
その家の中には5人の子供がいた。
母親は子供たちの名前を叫んだ。
「Bara'a、Mutaz、Tayseer、Aya、Mahmoud…」
「今では私は、戦争がこわくない。
何も失うものがないから」
そう彼女は言った。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ガザ・ジェノサイド:
「そこに転がっている(娘の)手を渡してください」
(『ガザ・モノローグ』)


【以下の抜粋は、途中から】
‟友よ、昨日、イスラエル占領軍は
ガザのバプテスト病院を爆撃し、
今の時点〔10月18日当時〕では500人以上が殉教している。
殉教者らはバラバラに切り刻まれ、肉の山となった。

劇作家として、我々は
演劇「アンチゴーヌ」は最も残酷な悲劇の一つとして理解している。
クレオン王がアンチゴーヌの兄弟の埋葬を禁止し、
そこから死後であったとしても、
人間であるとは何を意味するのか、
尊厳とは、価値とは、権利とは何かについての
2人の間の会話が展開される。
アンチゴーヌは
自分の目の前にある兄の遺体を見て、
彼を埋葬しないままにしておくことに堪えられない。
バプテスト病院の
虐殺された、頭のない、手のない、あるいは足のない遺体は
我々の時代の新たな悲劇となった。

バプテスト病院の瓦礫の傍らで
年配の女性が看護師にこう尋ねた。

「若者よ、
そこに転がっている手を渡しなさい。
指輪でわかった。
それは今朝、
私がニュースを見るために椅子に座るのを
助けて支えてくれた娘の手だ。
テレビをつけてくれた手だ。
娘は家を出る前に私に挨拶し、手にキスをしてくれた。
いつも私を抱きしめて肩を優しく叩いてくれた手だ。
髪をとかしてくれて、いつも爪を切ってくれた手だ。
若者よ、
その手は、私の最後の日々の力の源だった。
娘〔の手〕に最後のキスをさせておくれ。
そうすれば、私はこれ以上、娘の身体を求めずに済む。”


【原文】 https://www.gazamonologues.com/_files/ugd/07c7f7_040c56316075402094320b5a43889080.pdf

 

 

――――――――――――――

ここ最近は、
毎度ヴィクトール・フランクルの話ばっかり
引き合いに出してきて恐縮ながら、
フランクルの生前の言葉で、
その時々の決心や決定によって
〈人間は天使にも悪魔になる〉
といった言葉があった。

ガス室を作ったのも人間ならば、
そのガス室に
祈りを唱えながら入っていったのも人間
だった、
という。
そしてフランクルは、
ナチス側かユダヤ人側か、によって
人を裁かなかった
ようだ。

このフランクルの言葉は、
皮肉にも、
いま私たちが目の当たりにしている模様が、
いっそうの説得力を増して
裏づけてしまっているように見える。

フランクル研究や翻訳をされている
諸富祥彦氏と広岡義之氏との対談も
収録されている、
『もうひとつの〈夜と霧〉』という本のなかに、
生前のフランクルの逸話が紹介されている。



‟諸富
 〔「お前はナチ寄りではないか」

という批判を同胞たちから受けるほど
それほどまでにフランクルは、
ユダヤ人かナチかに分けてはいない、
結局一人ひとり個人の問題なのだ

だから集団的責任という概念はない。
責任というのは
個人が決断することに対する責任なのだという考えを
よく貫き通した
と思いますね。
あれはフランクルの最も立派な点だと思うんです。
これも〔広岡〕先生の本で知ったことですが、
「よく君はああいうことが言えるなぁ」と、
あるナチの親衛隊だった人に言われたときに、
フランクルは
「あなたには言えない。あなたが言うと責任逃れになってしまう。
私は被収容者のユダヤ人だったからこそ言えるのだ。
殺される運命にあった人間の生き残りだからこそ言えるのだ」
と答えているのですね。
これは最後まで非難囂々【ごうごう】ですよ。
なんでこんなときにそんなことを言うのだと。
しかも戦後間もなく
ですよ。
その時点でそれを言うのはものすごい勇気が要ったことだと思うんですよね。

広岡
 フランクルは
もちろんユダヤ人の共同体の一員だったんですけれども、
今おっしゃったように、
強制収容所のユダヤ人の中にも、
立場上仕方なく収容所を管理するカポとか
ナチの立場に立つ人たちもいた
わけですし、
あるいはドイツ人の中にも
こっそり薬をポケットマネーからユダヤ人も渡す人たちもいた

ノルマンディ―上陸から連合軍が挽回して
1945年に解放されたのですが、
そのときフランクルは、
ドイツ人だけれどもこの人たちはすごく協力してくれたので
処罰しないでくれ
と体を張って連合軍の兵士にかけ合ったりもしています

それから戦後すぐにも、
ドイツ人がみんな悪いわけではなかったと言うのですけれども、
これは勇気の要ることですよね。
そんなことを言うと、
同僚のユダヤ人たちから総スカンを食うわけですよね。
お前はほんとにナチを擁護するのかと。
でも彼は最後までそれを貫き通す
のです。
そういう意味では強い信念の人であったというべきか。

諸富
 そうですね。
ナチスであったとかユダヤ人であったかによって
人生の価値が決まるのではない。
人生の価値というのは、
自分の人生の状況にどういう態度をとるか。
どんな絶望的な状況に置かれていたとしても、
それに対して個人がどういう態度をとるかによって決まる
のだ
という思想を徹頭徹尾貫いている。
これがフランクルの思想のいちばんの骨子ではないでしょうか。”
(諸富祥彦・広岡義之【訳】
『もうひとつの〈夜と霧〉』170-171頁)


イスラエルの閣僚たちは
パレスチナの人たちを
「動物」だとレッテルを貼った。

しかし、たとえば
「デモクラシーナウ」でのインタビューで
ハマム医師が答えた姿勢の内容は、
ハマム医師の気高さを物語るものだった。

ハマム医師たちの姿勢や言葉は、
うえに貼りつけた
新宿での緊急デモで読み上げられた
パレスチナ人劇作家のアリ・アブ・ヤシン氏が、
ガザへの無差別攻撃下で紡いだ文章の中で、
引き合いに出された『アンティゴネ』、
尊厳とは、価値とは、権利とは何か、
と同じように、
〈私(たち)の「魂/良心」に問いかけてくる〉。

ここでは、
‟人権”という言葉は使いたくない。

いま目の当たりにしているのは、
人権”のダブル・スタンダード
のような光景だからだ。

けれども、
この「良心」のうずきや「神の道理」と
人権とには、じつは繋がりあるようだ。

アンティゴネ』の悲劇の訓えは、
西洋の自然法や人権感覚の
思想源流として流れていることを、
憲法学者の笹沼弘志氏による
『臨床憲法学』を通して知ることができる。

「国王であっても
従わねばならない高次の法、神の法」(46頁)
がある、という思想の源流には、
『アンティゴネ』の悲劇が流れている、と。



“・・・新たに王となった兄弟たちの叔父クレオンは、
祖国を守った英雄エティクレスには壮大な葬儀を執り行う一方、
逆賊ポリュネイケスについては、
埋葬しても泣き悼んでもならないとの布令を出した。
亡き兄弟の妹であるアンティゴネーは妹イスメーネーに、
布令を知りつつ、
鳥や犬に喰われるままに放置されている兄ポリュネイケスの亡骸を
埋葬しないか、ともちかける。
しかし、イスメーネーは
王様の布令を破って王権を蔑ろにしてはならないと、
埋葬を思いとどまるように諫めた。
アンティゴネーは
妹の忠告を聞かずポリュネイケスを埋葬し、逮捕され、
王クレオンの前に引っ立てられた。

 兄を埋葬したのか、布令は知っていたのか
と問うクレオンに対して、
少女アンティゴネーは臆することなく答えた。
布令を知らないわけがない。
お布令を出したのは神様ではない
たとえ王でも、人間の身で、
死者の葬り方を定めた神の掟を破り捨てることなどできない。
自分は神の掟に従っただけだと敢然と言い切った
(中略)
  ・・・神の掟に背いたクレオン王は
一気に家族を失い、
国も滅亡の危機に瀕することとなってしまった

人間の弔い方、人間の尊厳を定めた神の法を犯す国は
滅亡の危機に瀕するのだ
という教えである。
主権者が定める法といえども、
人間の尊厳を定めた神の法を犯してはならないのである。

 しかし、
アンティゴネーの悲劇と教訓はそれだけにとどまらない。
ほとんど忘れられた存在となっている妹イスメーネーとの会話が
それを教えてくれている。
布令に背いてでも亡き兄を葬ると言うアンティゴネーに対して、
イスメーネーは、王の布令を破ってはならないと、次のように諭す。
(中略)

 弱い者は力ある者に、
女は男に服従しなければならない、
歯向かっても ろくな事にはならないとイスメーネーは言う。
しかし、
アンティゴネーはそれを振り切って敢えて弔った。
国法だけでなく、弱い者は力ある者に、
女は男に服従しなければならないという社会通念さえ覆すのが、
人間の尊厳を定める神の法なのだ。”
(笹沼弘志【著】『臨床憲法学』
2014年、日本評論社、47-48頁)

アンティゴネーと
妹イスメーネーとの《それぞれの立場》は、
シェイクスピア『ハムレット』の
主人公《ハムレットの葛藤》と重なるかもしれない。

〇【0-mい】K・ポランニー『ハムレット』受容~「自覚」における「自主と責任」と「自己愛的決断」~
〇【0-j】②“新ストア主義者”スピノザ理解のための「ストア主義」&「ロゴス」理解

私たちは、
その両者の立場の間で股裂きにあう》。

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
と葛藤させられる。



父の亡霊の命じるままに
クロ―ディアス王の殺害を実行すれば

愛するオフィーリアや友、自分の王位、母、
そして自らの命など、彼が大事にしてきたすべてを
喪失してしまうかもしれない
。”
(若森みどり【著】
『カール・ポランニー ~市場社会・民主主義・人間の自由~』
NTT出版、2011年、24頁)

‟ハムレットは、
できるなら決断を
永遠に遅らせたかったのではなかろうか。
ほとんどの人間は、
自らの意志や望んだ結果ではない人生の選択肢から
逃げ続け、
決断すべき決定的な瞬間意識的に取り逃して、
空虚な人生に甘んじる
。(Polanyi, 1954: 348)”
(若森みどり 同書 26頁)


しかし、現場に残り、
イスラエル軍の無差別攻撃によって
殺されてしまった、
例えば医師の人たちの死やメッセージが、
それでも、私(たち)に問いかける。

フランクルは
「神」とは、
自己に対して極限的に誠実である時
もっとも親密な自己対話の相手
だと言ったことがある。
(『苦悩する人間』166頁)

《その相手/汝》のほうから
私に問いかけてくる


私が、
《人ではない生き物》になる時は、
その「自己のうちの汝」との対話
やめて声を聞かなくなった》時なのかもしれない。

「魂」について、
臨床心理士でもある諸富祥彦氏が
魂が深く満たされた病者」と
魂の空虚な健常者」

という対比を設けた文章において、
8年うつ病に患った人との会話を紹介している。

精神科医のヴィクトール・フランクルは
「心理の次元」と「精神/魂の次元」とを
まったく次元が異なるものとして区別していた、
という。
「精神/魂の次元」を軸にして人を見ると、
この世の中には、
魂が満たされている者と魂が空虚な人がいる、
という。
健康ではあっても、
仮に成功していても、金持ちであっても、
魂が空虚な人がいる
また逆に、
メンタルヘルスの面では
病者であるのだけれども、
魂/精神の次元では満たされている、
という事がある、と。


“「先生、
いま考えると、
私、うつ病になってほんとうによかったと思います。
うつ病になる前は、毎日が空騒ぎの連続でした

ちょうどバブルだったこともあって、
一生懸命仕事をして稼いで遊びに明け暮れていました。
けれどもそのあと、いろいろなことに失敗してうつ病になりました。
うつ病になって私は初めて、魂の世界というものを知りました
精神の深い世界というものを知りました。
いまのほうがはるかに満たされた日々を生きています。
もしうつ病にならなかったら、
私は空っぽのまま生きていたと思います。
それは、ほんとうに怖ろしいことです
。」

 私【諸富祥彦氏】は思いました。

 魂が空虚な健康者や成功者になるくらいだったら、
「魂の満たされた病者」でありたい、と。
魂の満たされた不成功者でありたい。
魂の満たされた貧乏人でありたい、と。

 メンタルヘルスというときのメンタルは、
「精神」ではなくて「心理」という意味です。

 心理の次元で病を持っていても、
魂は満たされている人もいる。
同様に社会的には
不成功者であれ、貧困であれ、
魂が満たされている人もいる。

 逆にどんなにお金持ちで、
どんなに成功していて、どんなに健康でも、
魂の空虚な人もいます。

 この二つのベクトル
——社会的な成功や富、健康という「水平性のベクトル」と、
精神的な高みや深さ、魂の濃度といった「垂直性の次元」——
を明確に区別したのが
フランクルの大きな業績の一つだと思います。

 私は、魂の空虚な成功者になるくらいだったら、
魂の満たされた不成功者でありたい。
魂の満たされた病者でありたい。”
(諸富祥彦/広岡義之【著】
『もうひとつの〈夜と霧〉』2017年、ミネルヴァ書房、155-156頁)

魂の空虚》と《死への愛》とは
つながっているのかもしれない。

フロムは、
人が誰かを愛するとき、
その前提や土台として、
「信じること/信念」が不可欠だ、という。
友情でも愛情でも「信じること」が欠かせない、
と言った。

愛や友情の前提に
自己」が出来ている必要がある
といった。

「自分自身を『信じている』者だけが、
他人にたいして誠実になれる」からだという。


‟人間関係においても、信念は、
どんな友情や愛にも欠かせない特質
である。
他人を「信じる」ということは、
その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、
信頼に値し、変化しないものだと確信することである。
こう言ったからといって、
人は意見を変えてはならないという意味ではない。
ただ、根本的な動機は変わらないのである。
たとえば、
生命や人間の尊厳にたいする畏敬の念は
その人の一部分
であって、変化することはない。

 同じ意味で、私たちは自分自身を「信じる」。
私たちは、自分のなかに、
一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する

境遇がどんなに変わろうとも、
また意見や感情が多少変わろうとも、
その芯は生涯を通じて消えることなく、変わることもない。
この芯こそが、「私」という言葉の背後にある現実であり、
「私は私だ」という確信を支えているのは、この芯である。
(中略)
 自分自身を「信じている」者だけが、
他人にたいして誠実になれる
。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『愛するということ』
紀伊国屋書店、1991年、182-183頁)

いまイスラエル軍が
生成AIを使って合理的に計算して
「民族浄化」的なジェノサイド》を行なっている。

「民族浄化」的なジェノサイドだけでなく、
フロムは
ある人を殺さず、自由を奪うに留め、
ただ相手を辱め、その所有物を奪う
》だけでも、
それは《死への愛》であり、
死を愛する者は《必然的に力を愛する

と言っている。
(『悪について』ちくま学芸文庫、44頁)


イスラエルが
パレスチナに対して行なっていることが
これは《死への愛》的と言えるだけでなく、
また、
今日の身の回りにおいて恐ろしいは、
《生死への無関心》というかたちの
《死への愛》
も、広がっていることだ。



‟ ここで
ネクロフィリアの〈社会的条件〉に話を戻すと、
次のような疑問が浮かんでくる。
ネクロフィリア〔死への愛〕と
現代の産業社会の精神とは、
どう関わっているのか。
さらに核戦争への動因に関して、
ネクロフィリアと生への無関心は
どのような意味を持つのか。

 私〔フロム〕は ここで、
現代の戦争を引き起こす誘因となる〈すべて〉の面を
とりあげることはない。
それら〔戦争を引き起こす誘因〕の多くは
核戦争と同じく、以前の戦争においても存在していた。
ここでは
核戦争に関する、
〈一つ〉のきわめて重要な心理学的問題だけをとりあげる。
これまでの戦争を正当化する説明が どのようなものであろうと
――攻撃に対する防衛、経済的利益、解放、栄光、日常生活の維持――
それらは核戦争には当てはまらない。
〔核兵器が使用されれば、その後の光景は〕
防衛もない、
利益もない、
解放もない、
栄光もない、
“よくて”国の半分が数時間で灰になる。
文化の中心地が破壊され、
生存者が死者をうらやむような
野蛮で非人間的な生活だけが残される。

 これらすべてのことが
予想されているにもかかわらず、
核戦争への準備は着々と進み、
抗議行動がいま以上に広がらないのはなぜなのか。
子や孫をもつ人々が、
なぜもっと多くの抗議に立ち上がらないのか。
このことをどう理解すればいいのだろうか。
生きたい と思う理由がいくらでもある、
あるいは
そう見える人々が、
全面的破壊を考えて平気でいられるのはなぜだろうか。
それには数多くの答えがある。
だが、
そこに次の理由が盛り込まれていなければ、
満足のいく回答とはなりえない。
人が全面的な破壊を恐れないのは、
生を愛していないから
あるいは
生に無関心だから
さらには
多くの人は死に惹かれているからとさえ考えられる。

〔現代の人々が、
核兵器に対して否定の動きに出ない事から、
現代の人々が、じつは生を愛していないか
生に無関心か
むしろ死に惹かれ愛しているのではないか、という〕
 この仮説は、
人は生を愛し死を恐れる、
さらに現代の文化は
これまでのどの文化よりも刺激と楽しさを人々に与えている

という、私たちの推測と相反している。
しかし、
だからこそ私たちはこう問いかけなければならない。
いまの楽しさと刺激は、
もしかしたら生の喜びとはまったく違うもの
ではないだろうか。”

‟核戦争への抗議が少ないことや、
われらが”原子科学者”が全壊または半壊の損得勘定について
議論しているのを見ると、
私たちがすでに“死の影の谷”の奥深くに入り込んでいることがわかる。”

※引用文中での太字・フォント拡大・色彩・下線は引用者。
なお、〈〉囲みでの表記は、引用文中では傍点で強調表記。
(エーリッヒ・フロム【著】/渡会圭子【訳】
『悪について』2018年、ちくま学芸文庫、67-68、72頁)

―――――――――――

“「根源的な悪は
すべての人々をひとしく無用視するシステムと結びついて現れた
と言っていい。
そういうシステムを操っている者たちは、
他の人々を無用だと思っているだけでなく、
自分自身も無用だと思っている

全体主義における殺戮者たちがそれ以上に危険なのは
かれらが自分の生死を意に介することなく、
自分は生まれても生まれなくてもどうでもよかった
と思っているから
である。…」”
(ジュリア・クリスティヴァ【著】/青木隆嘉【訳】
『ハンナ・アーレント講義』2015年、論創社、6頁)


《ガザへの「民族浄化」》が無くても、
シリアやパレスチナなどで
「越冬」募金などの支援が
毎年必要とされるのにもかかわらず、
住宅もライフラインも破壊され、
水も食料も衣服も
圧倒的に不足しているという。

まだ数千人もの人たちが
攻撃で崩壊したガレキに
埋もれて身動きが取れないまま、
寒さや飢えや衰弱死・・・
もしかしたら孤独と悲痛を抱えて、
お亡くなりになっていっているかもしれない。

早く攻撃から解放されて
衣食住の支援が差し伸べられて、
まずは、冬を乗り越えてほしい。


【緊急生配信】D2021×CLP
「ガザで一体何が起きているか
-民族浄化とは何か-」