【0-j】②“新ストア主義者”スピノザ理解のための「ストア主義」&「ロゴス」理解 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

〈【前のページ(0-i)】からの続き〉

※太字・下線・色彩・フォント拡大などでの強調は引用者。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

‟   〈自分との仲違い〉

 しかし良心が自動的に機能しない人々は、
もっとも別な基準にしたがっていたようです。
こうした人々は、
特定の行為を実行したあとでも、
自分と仲違いせずに生きてゆける限度は
どこにあるのかと問うのです。
そしてこれらの人々は、
公的な生活にはまったく関与しないことを決めたのですが、
それは
このことで世界が より善くなるから というのではなく、
そうしなければ、
自分と仲違いせずに生きていくことが
できないこと
見極めたからです。
ですから
公的な生活に参加することを強制された場合には、
これらの人々は死を選びました

残酷な言い方ですが、
こうした人々が殺人に手を染めることを拒んだのは、
「汝殺すなかれ」という古い掟を
しっかりと守ったからではなく、
殺人者である自分ともに生きていることができない
考えたから
なのです。

 道徳的な判断の際に、あらかじめ
このような基準を定めておく というのは、
思考の緻密さを示すものでも、
高度の知性を示すものでも

ありません
むしろこれは、
自己とともに生きていきたい
という望みであり、
自己と交わりたい
すなわち
わたしと自己の間で
無言の対話をつづけたい
という好みを示すもの
です。
これは
ソクラテスとプラトン以来、
わたしたちが思考と呼んでいる行為です。
こうした思考は、
すべての哲学的な思考の〈根〉のところにあるもの
です。
この思考は
技術的なものではなく
理論的な問題にかかわるものでもありません


(ハンナ・アーレント【著】/ジェローム・コーン【編】/中山元【訳】
「独裁体制のもとでの個人の責任」、『責任と判断』所収
ちくま学芸文庫、2016年、72-73頁)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


〈勇気〉という概念のなかには、
神学的、社会学的、哲学的内容が
一つに結び合わされている。
これほどまでに

人間的状況を理解するための鍵として
適切な概念は、あまりない。
勇気というのは、
まず第一に、倫理的概念であるけれども、
それは

人間実存の全領域にかかわるものであり、
また、その根は、
存在自体の深層にまで到達している。
それを倫理的に理解するためにも、
それは

存在論的にも考察されねばならない


(引用者中略)

 本書の題生きる勇気」
〔=「存在への勇気(The Courage to Be)〕
とは、
そのなかに勇気という概念のもつ二重の意味、
つまり
倫理的意味と存在論的意味を、
一つに結合している
勇気は、
人間の行為として、

また価値づけの表現として、
一つの倫理的概念
である。
勇気は、
普遍的本質的な自己肯定として、
一つの存在論的概念である。
生きる勇気とは、
それによって人間が、
彼の実存のなかにあるその本質的な自己肯定
反逆するような諸要素抗して
彼自身の固有な存在を肯定するところの
倫理的行為
である。

(引用者中略)

〈Ⅱ――勇気と智恵――ストア主義者〉

 倫理的要素と存在論的要素をともに包括する
より広い勇気の概念は、
古代末期においてはストア主義において、
近代初頭においては新ストア主義において、
特にきわだった意味をおびてくる

ストア主義も新ストア主義も哲学の学派ではあるが、
同時に それ以上のものでもある。
すなわち それは、
古代末期の高潔な人間や
近代のその継承者たちが、
実存の問題に解決を与え、
運命と死の不安を克服してきた生き方
である。
この意味において
ストア主義は、
たといそれが有神論的、無神論的、
あるいは神問題を越えた形をとったにせよ、
一個の宗教的態度である。

 こういう理由からして、
ストア主義は、
西欧世界における
キリスト教の唯一の現実的な競争相手
なのである。
こういうことは、
次の事実を思い起こすならば、意外な主張であろう。
つまり、
宗教哲学的領域において
キリスト教が
対抗しなければならなかったのは、
グノーシスや新プラトン主義ではなかったか。
また、
宗教的政治的領域において
キリスト教がたたかわねばならなかったのは、
ローマ帝国ではなかったか。
高い教養をもった
個人主義的なストア主義者たち
は、
ただ単にキリスト者にとって
危険な存在でなかっただけでなく、
それどころか逆に
ストア主義は
キリスト教的有神論の諸要素を
摂取しようとしていた
のではなかったか。
しかしこうした見方は
浅薄な分析に基づくものである。
そもそも
キリスト教と
古代シシクレティック(混成的)な宗教との
あいだには、
ある共通な基盤がある
のであって、
それは
神的存在が救済のため天からこの世に降臨した
という見方である。
このような見方をもつ宗教運動においては、
運命に対する不安や
死に対する不安は、
運命や死を
自分自身にひき受けた神的存在に
人間が参与することによって
克服される
のである。
キリスト教も
それと類似した信仰をもってはいたが、
ともかく救済者イエス・キリストが
一個の個的存在であり旧約聖書に
具体的歴史的根拠をもちえた
ということにおいて、
キリスト教は
シシクレティズムをのり越えるもの
であった。
そういうわけで、
キリスト教は、
それ自身の歴史的基盤を失うことなしに、
古代シシクレティズムの宗教的哲学的諸要素を
多くとり入れることができた。
ところが、
キリスト教は、
ストア主義独特の生き方を同化することは
できなかった
のである。
このことは 特に注意しておかねばならない。
というのは、
ストアのロゴス〔理性〕説道徳的自然法
キリスト教の教義学や倫理学には
巨大な影響をおよぼした
という事実も
他方考え合わせねばならない
からである。
このように
多くのストア的理念を受けいれはしたが、
それにもかかわらず、けっして
ストアにおけるコスモス的諦念の生き方と
キリスト教におけるコスモスの救済への信仰との
あいだにある深淵を
橋渡しすることはできなかったのである。
キリスト教会が勝利することによって、
ストア主義は背後に押しやられ、
そしてそこから
それが再び前面に出てくるのは、
ようやく近代初頭において
であった。
ローマ帝国も
キリスト教の競争相手ではなかった
のだが、
ここでまた注目すべきことがある。
ローマ皇帝のなかで
キリスト教にとって真に危険であった
のは、

ネロのような気まぐれな暴君でもなく
またユリアヌスのような狂信的反動主義者でもなくて
マルクス・アウレリウスのような
有徳なストア主義者
であった

ということである。
その理由は、
ストア主義者が、
キリスト教的勇気に
とって代わられるような
個人的・社会的勇気をもった
真の競争相手
でもあるからである。


 ストア的勇気は、
けっしてストア哲学者の発見ではない
彼らがしたことは、
この勇気に理性的概念をもって古典的表現を与える
ということ
であった。
しかし その根は 古くさかのぼって
神話や英雄的伝説や古代的箴や詩や悲劇にあるのであり、
ストア的勇気
永続的力を与えた特別な出来事は、
ソクラテスの死であった。

この死は、

古代世界全体にとってただ単に一つの出来事であっただけでなく、
それは
運命と死とに直面する人間の状況を
あらわに示すようなシンボル
でもあった。
そのなか
勇気が示されている

それは
受け入れることができたがゆえに、
生をも受けいれることができるところの勇気
である。
ソクラテスの死は、
勇気についての伝統的な意味に
深甚な変化をひきおこした

ソクラテスにおいて
それまでの英雄的勇気は、
理性的かつ普遍的な勇気変わった



(引用者中略)


 ストアの自殺のすすめとは、
生の主となることができないでいる人びとに向けられたもの
ではなく、
むしろ

生きることも死ぬことも知っており
かつ
自由にその両者
〔生きるか死を選ぶか〕
えらびとることができるほどに
自己の生の主となっている人びと

向けられたもの
なのである。
恐れのゆえの逃避としての自殺は、
ストア的な〈存在の勇気〉〔=生きる勇気〕とは
合致しないものである。

 ストア的勇気は、
倫理的意味においてだけでなく、
存在論的意味においても、
〈存在への勇気〉である。
その勇気は、人間において、
理性が支配することに基づいている

しかし、
その理性とは
古代ストア主義においても
近代ストア主義においても、
今日その語が用いられるような意味のものとは違うもの
である。
ストア的意味における理性とは、
経験に基づいて
または一般的論理や数学的論理によって
推論されたり判断したりする能力を意味するもの

ではない
ストア主義者にとって理性とは
ロゴス
であり、、
つまり
現実全体の意味構造とか
個々の人間精神の意味構造
さしている

〔古代ローマ帝国のストア主義哲学者の〕セネカは
次のようにいっている。
「人間独自な属性は
理性〔ロゴス〕以外のものではないならば、
理性〔ロゴス〕は
その他のすべての善に匹敵するほどの唯一の善
である。」
これが意味していることは、
理性〔ロゴス〕こそ
人間の真正にして本質的な本性
であって、
それにくらべて
その他のすべては偶然的なもの

ということである。
存在への勇気〔生きる勇気〕〉とは、
すべて単に偶然的なもの抗して、
自己の固有な
理性的本性を肯定すること
である。
明らかに
このような意味における理性〔ロゴス〕は
人格の中心にかかわり
また
すべての精神的機能を包括するもの
である。
推論したり判断したりすることは、
一つの純粋に認識的な機能
であって、
それ人格の中心
外にあるものであり、
けっして
われわれのなかに
勇気をつくり出しうるもの
ではない
であろう。
人間は、
不安
論証によって克服することできない
のである。
このことは
最近になってはじめて
精神分析が発見したことではない。
ストア主義者たちは、
そのことをよく知って、
理性〔ロゴス〕を賛美した
のである。
彼ら〔ストア主義者たち〕は、
不安克服されるのは
普遍的理性〔ロゴス〕によってのみ可能
であり、
それによって
欲望や恐怖打ちかつことができる
ということを自覚していた。

ストア的勇気とは、
人格の中心をして
存在のロゴス
服せしめることを、
前提としている

それは、
情動や不安などの領域超越するところの
神的な力をもつ理性参与することである。
存在への勇気とは、
存在それ自体のもつ客観的理性
矛盾するところの
われわれの内なるすべてのもの

抗して
われわれ自身における

理性的本性
貫徹する勇気
なのである。

 知恵の勇気に対して、
それと対立しているものは、
われわれのなかにある欲望や恐れ
である。

(引用者中略)

ストア的勇気とは、
字義どおりの無神論でも有神論でもない
ストア主義者たちは、
勇気が 神観念と いかなる関係をもつか
という問いを出しているし、また答えてもいる。

しかし その答えは、
その答えが解決するよりも
もっと多くの問いをひき起こすような仕方においてである。
これは、
ストアの勇気に関する教えのもつ実存的な真剣さを
示すところの事実である。
セネカは、
知恵の勇気が宗教に対してもつ関係について、
次の三つの主張を提起している。
第一は こういう主張である。
「不安によって悩まされず快楽によってそこなわれないならば、
われわれは死をも神々を恐れないであろう」。
この命題における 神々とは運命 をあらわしている。
すなわち
神々とは、
人間の運命を決定し、そして運命の脅しをあらわすところの諸力である。
勇気とは、
つまり
運命の不安克服するところの勇気とは、
神々への不安をも克服する

賢者は、自ら
普遍的な理性〔ロゴス〕にあずかり
それを肯定することによって、
神々の世界超克する
存在への勇気は、
多神教的な運命の諸力超克する
のである。
第二の主張は、
賢者の魂とは神に似ている というものである。
ここで意味されている神は、
神的〈ロゴス〔理性〕〉のことである。
このロゴスとの合一によって、
知恵の勇気は、
運命に打ち勝ち、神々を超克するのである。
それは、「神々越える神
である。
第三の主張においては、
コスモス的諦念の思想が、
有神論的なコスモス(世界)の救済の思想と違う
その区別が出てくる。
セネカは
次のようにいっている。
真のストア主義者は
苦悩を克服して立つ

しかし
苦悩から隔絶して立っている、と、
この意味は、
苦しむこと神の本性反するということである。
神は苦しむことができないのである。
苦しみ彼岸に立っている
しかし
ストア主義者
人間であるゆえ

苦しむ可能性がある
それにもかかわらず
理性的本性の中核は、
苦悩によって冒されることない

苦悩
彼の本質的本性に属するものではなく
彼における偶然的なもののもたらす帰結であるゆえ、
彼は自らを苦悩を超えて高く保つことができるのである。
この「隔絶して」と「克服して」との区別は、
一つの価値判断を含んでいる。
欲望や苦悩や不安打ち勝つところの賢者は、
神自身をも凌駕する」のである。
神は それ自身の本性的な完全と至福とにおいて、
欲望や苦悩や不安彼方に、あるいはそれらの外方に
存在している。
そのような神よりも賢者のほうが優越するのである。
このような価値判断に基づく限り
知恵と諦念の勇気は、
救済を信じる信仰の勇気

つまり
神が逆説的な仕方で人間の苦悩をひき受けることを
信じる信仰の勇気
によって、
置換されうるの可能性がある。
しかし
ストア主義自体は、
けっしてこの一歩をふみ出しえない
のである。

 ストア主義がその限界につき当たるのは、
いかにして知恵の勇気可能となるのか
という問題の前に立たされるとき
である。
ストア主義者たちは、
すべての人間
普遍的ロゴス参与している限りにおいて
平等である
ということを
強調していたにもかかわらず
知恵を与えられるのは、
きわめて少数のエリートだけ
である
ということを否定できなかった
彼ら〔ストア主義者たち〕は、
大衆と欲望と不安とにとらわれた「愚者たち」である、
と認めていた。
たとえ彼らがその本来的理性的本質においては
神的ロゴスに参与しているにせよ、
現実において
彼ら自身の理性矛盾しており
したがって
自らの本質的存在を肯定すること
できないでいる
のである。

 このように状況を、
ストア主義は
認めざるをえないにもかかわらず、
それに説明を与えることはできない。
しかも彼らが説明できなかったのは、
ただ単に、
大衆のなかには「愚者たち」が圧倒的に多い
というだけでなくて、
賢者たち自身その困難もっている
という問題
である。

セネカはこういった。
まったき絶望から生まれてくる勇気以上に
偉大なものはない
、と。
しかしはたして、
ストア主義者がストア主義者である限り
まったき絶望の状態に達することあるだろうか

そう われわれは問いかえさざるをえない。
ストア的哲学の基盤の上で
彼らがそこ〔まったき絶望〕に達するということが、
はたしてありうるだろうか

ありえないとすれば、
ストア的絶望には、
いや その勇気〔まったき絶望から生まれてくる勇気〕にも、
何かが欠けているのではないだろうか。
ストア主義者ストア主義者である限り
自己の罪責絶望すること不可能
なのである。
エピクテートスは、
クセノフォンの『追想録』のなかにあるソクラテスの言葉を
例としてあげているが、こう記されている。
私は自制の態度を守りぬいてきた」。
「私は、
私的生活においても公的生活においても、
おおそ不正なることは何一つしてこなかった」。
こうしてエピクテ―トス自身は、
倫理的諸目的の世界をはずれたことには
何一つかかわりをもたないこと
を、
そこ〔『追想録』〕から学んだ
と主張しているのである。
しかし、
これらの主張以上にそれをよく写しているのは、
道徳的訓戒や公的糾弾などのストア的弁論【ディアトリベ】に
一般的にみられる顕著な優越感や自己満足の態度である。
ストア主義者
ハムレットのように、
良心われわれを臆病にする

などというはずがないのである。
ストア主義者たち
人間
その理性的本質・・・から愚かなる実存、、、へ
の普遍的頽落

責任の問題とか罪責の問題とは
みない
のである。
〔ストア主義者〕にとって
存在への勇気とは、
運命や死とに抗して
自己を肯定する勇気ではあるが、
それ
罪や罪責抗して自己を肯定する勇気
ではない

そうであることできなかった
のである。
なぜなら、
自己の罪責に直面するところの勇気は、
諦念にいたるのではなく、
救済の問題にいたらしめるからである。”

(パウル・ティリッヒ【著】/大木英夫【訳】
『生きる勇気』
1995年、平凡社ライブラリー、11-34頁)

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〈【次のページ(0-k)】に続く〉