【6】自己憎悪社会 ~「ルサンチマン」~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


 “グローバル化と変化の力に悩まされている不安な市民は、
強固なアイデンティティを獲得しようとすることで
後期近代の世界の眩暈から逃れようと試み、差異にすがりつく

たとえばトマス・フランクの魅力的な著書
『カンザスの何が問題なのか
――保守派はいかにしてアメリカの中心を勝ち取ったのか』は、
次のような厄介な問いから始まる。
なぜ、
アメリカで最も貧しい郡の多く最も強固な共和党員の基盤なのか。
コミュニティを破壊され、大企業に生活を操られている貧しい人びとが、
大富豪と企業国家アメリカを代表する党投票するということが
どうして起こりうるのか

アメリカの田舎では、
今や農民よりも囚人のほうが多く、
刑務所とギャンブルが主要な産業となっていること

思い起こしてほしい。
フランクはこう論じる。
共和党は
普通の人びと【コモン・マン】の代表だと巧妙にふるまうようになり

この億万長者と最高経営責任者【CEO】の政党は、
リベラル派エリートに真の敵役を振りあてた。
伝統的な保守的価値観、中絶合法化反対、
キリスト教的徳性という高潔なアジェンダを組み合わせ、
これを
新自由主義的経済政策と結びつけるのである。
かくして普通の人びとの保守主義が、
人びとを共和党への投票に赴かせる
のである。
その末路は、
年収三〇万ドル以上の人びとの大減収と、
製造業の工場閉鎖をもたらし
小規模農家がふりを被る経済政策
である。
これは実に恐るべき皮肉な状況である。

 しかしこれは純粋なポピュリズムではない。
あるいは言い方を変えると、
ポピュリズムがポピュラーたるには、
そうであることの説明が常に必要なのだ。
こう論じることもできる。
後期近代の眩暈によって、
階級構造の下層から中層に位置する人びとの大部分が、
ニーチェのいう「怨念【ルサンチマン】」や、
怒りや恨みや無力感といった感情を経験し、
その結果「犯人」が暴き出され、差異が動員される

このような態度は、
空想的社会改良家と穀つぶしとの間に同盟関係を見出し、
また、
リベラル派エリートやラテ・リベラル、
ポープ・ベネディクトが「相対主義の専制」と呼ぶものを忠実に支持する作法と、
怠け者や敗残者といった都市の貧困層との間に同盟関係を見いだして、
それを嘲笑するというものである。
これらは
性的貞節、軍事的な武勇、愛国心、キリスト教的価値や保守的アジェンダを
外套【ケープ】のように身にまとい、その徳によって境界を設ける

かかる道徳的報復主義は、戦争からの強烈な物語を得るが、
その物語をリベラル派は絶えず掘り崩そうとする。
この道徳的報復主義は ひび割れの政治学を構築する。
二-チェいわく、
「この価値対立のために、
ついには自由精神のアキレスでさえ
戦慄なしには跳び越えそうもない裂け目が
人間と人間との間に口を開く」。”
(ジョック・ヤング【著】/木下ちがや&中村好孝&丸山真央【訳】

『後期近代の眩暈』 青土社、2019年、27-29頁)

――――――――――――

ルサンチマンとは、
本来の反撥、すなわち行動による反撥が禁じられているので、
専ら想像上の復讐によってのみ
その埋め合わせをつけるような徒輩のルサンチマンであり、
すべての貴族道徳が勝ち誇った自己肯定から生じるのに対して、
奴隷道徳は〈外のもの〉〈他のもの〉〈自己でないもの〉を頭から否定する
そしてこの否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。
評価眼のこの逆倒…これこそはまさしく〈ルサンチマン〉の本性である。
(中略)「・・・・弱さを嘘でごまかして功績に変えようというのです。…」
(中略)「・・・・報復をしない無力さは〈よさ〉に変えられ、
臆病な卑劣さは〈謙虚〉に変えられ、
憎む相手に対する屈従は〈恭順〉…に変えられます。
弱者の事勿れ主義、
弱者が十分にもっている臆病さそのもの・・・・
それがここでは〈忍耐〉という立派な名前を獲得します

そしてこれが実に徳そのもの…とさえ呼ばれるのです。”
(ニーチェ『道徳の系譜学』第一論文)

――――――――――――――――――

以降のページでは、
社会学者で犯罪学者の(故)ジョック・ヤングによる
『後期近代の眩暈』において、
ルサンチマン(怨念)》という概念を用いた
(アメリカ)社会に対する解剖を拾い上げる。

“ルサンチマン”という言葉は、
ドイツ人哲学者のフリードリッヒ・ニーチェが
〈ressentiment〉というフランス語の原語のまま、
概念として用いた。

人間は“創造的”に生きよ ――西 研さんが読む、ニーチェ『ツァラトゥストラ』①【月曜日は名著ブックス】
ルサンチマンー無力からする意志の歯ぎしり――西 研さんが読む、ニーチェ『ツァラトゥストラ』⑥ 【月曜日は名著ブックス】
ルサンチマンがキリスト教を生んだ ――西 研さんが読む、ニーチェ『ツァラトゥストラ』⑦【月曜日は名著ブックス】

ニーチェは、道徳の形態として、
「君主道徳/貴族道徳」と「奴隷道徳」との

二つのタイプに分けた。

 「強者」のための「君主道徳」では、
強者にそなわっている強さが
彼らの価値基準
である一方、
弱者が編み出した奴隷道徳のほうは、
強者に力では太刀打ちできない弱者が
その無力さと、その復讐のために、

観念上や道徳上で、善悪の立場を転倒させて、
みずからを優位な立場に置く不自然な
道徳だ、
とニーチェには映ったのではないか。

ニーチェの眼からすれば
キリスト教道徳などの「奴隷道徳」は、
弱者の無力さからくる《ルサンチマン(怨念)》から
生まれたものだ、として抉【えぐ】て考えた。
そしてまた、ニーチェにおいては、
奴隷(弱さ)が君主(強さ)を打ち破り、
君主/貴族などの強者も、
平均化、水平化平等・・・などに置く民主主義も、
弱者の復讐心や嫉妬に基づき、
キリスト教道徳から生まれた奴隷道徳だ、として批判した。

キリスト教道徳も、近代市民道徳も、
《ルサンティマンから生まれたもの》
だという見方を
ニーチェがとった訳だが、
その後の、
ドイツ人哲学者のマックス・シェーラ―は、
〈ルサンチマン〉という
ニーチェの観点や洞察の仕方を引き継ぎながら、
《ルサンチマン》は、
人びとの平等が謳われながらも
実際的には、権力や富の点で格差が生じる
ので、
他人との比較における無力感から、
近代社会においてこそ、むしろ見受けられる

と指摘して考えた。

しかし、シェラーは、
キリスト教の愛の根源は、
《ルサンチマン》から「独立している」ので、
ニーチェは
キリスト教の愛の本質を、見誤っているとして、
ニーチェによるキリスト教道徳への批判は
否定している。


“〈何を食べ、何を飲もうか、と思いわずらうな〉と彼【イエス】が言うとき、
それは彼にとって、生や生の保存に関わることがどうでもよいものだからではない
むしろ彼がそう言うのは
明日へのあらゆる〈思いわずらい〉のうちに、
換言すれば、自己自身の身体的な幸福への執着のうちに、
生命衰退を見るからである。
(中略)
 外的な生活の手段(食物、衣類など)に対するこうした種類の無関心は、
生とその価値に対する無関心のゆえではなく
むしろ生そのものの独特なに対する隠された深い信頼と、
生を襲う偶然的な事故に対する内的平安の徴である。
生の外的な状況に対する、
生そのものの深みから生ずるあの喜びにみちた、
晴朗で勇気のある無関心
が、
あのようなイエスの言葉の豊かな源泉なのだ!
(中略)
最も生命力の旺盛な時期には、
人は生やその終末には無関心である。
こうした無関心性それ自体が、
生命価値の充実した心的状態なのである。

 したがって
弱い者、病める者、小さき者に対する、こうした種類の愛と犠牲は、
内的な平安と自己の生の充実から生じる。
(中略)

 けれども、
こうした種類の自発的な愛や犠牲の衝迫が、
小さき者、貧しい者、虐げられている者を見ることによって
彼らを助けようとする活動の機会や特定の目標を見出すとき、
その都度のこの衝迫の誘因は、
貧しい者、病める者、醜いものに、いまこそ身を与えることができる
という自己満足感をみたしてくれる好機にあるではない
また彼が
こうした悩める生のために自己を犠牲にし、それを助けるのは、
こうした消極的な価値のためでもなく
むしろこうした消極的な価値〈にも拘らず〉そうするのである。
換言すれば、
彼ら自身のなかに潜在的に依然として存在する〈健全なもの
なお未発のままに隠されている積極的な価値を発展させるためである。
したがって
愛や犠牲の意欲がそのような生に向かうのは、
その生が病み、貧困で小さく、かつ醜いからではなく
したがってまた、
こうした現象に彼が感情的な仕方で纏綿とするからでもない
むしろ積極的な生命価値そのものが、
……これら負の価値からはまったく〈独立〉しており・・・”
(マックス・シェラー(著)/津田淳(訳)『愛憎の現象学』
金沢文庫、1973年、76-78頁)

ーーーーーーーーーーー

ジョック・ヤングは、
「フォーディズム後の社会=後期近代の社会」に
見受けられる、
ステレオタイプ化”された「アンダークラス層」に対する「他者化」「悪魔(的イメージ)化」「無用化」イメージが、メディアによって“作られる”一方で、
同時に、
立場が不安定な正規雇用の中流階級層などに
ウケる”心理的背景を読み解き、説明するに当たり、
ニーチェからシェラーに継承され、
それをラヌルフが用いる《ルサンチマン》という概念を、
説明に用いたのであった。

『後期近代の眩暈』のなかに、
ヤングによる次のような叙述がある。



“ルサンチマンとは、
誰かが業績に不相応な報酬を得た際に生じる
単なる不公平感ではない
ルサンチマンは、
誰かが
市場一般の努力と報酬の関係を抜け道したときに
また まさにかれらが望むものを
——より正確にいえば あなたが望んでいて
多大な労力を費やしてはじめて手に入れられるものを——
まったく努力することなく手に入れたと認識されたときに生じる
。”
(ジョック・ヤング 邦訳、92頁)

――――――――――――――――

経済的な立場と社会的地位の不安定さが、
その双方の領域での剝奪感とあいまって

どのようにして階級構造を見上げる人にも見下げる人にも
ルサンチマンの感情を広範に生じさせる
のかを述べてきた。
このような不安定さは、眩暈の感覚として経験される。
満ち足りた少数の人びとの幸運な世界の外では、
怒り嫌悪に染まった不確実性が存在する

さらにこのプロセスは、社会全体と幅広い共振関係にあり、
現代の生活多くの不安強迫感の背後に座っている


 眩暈は後期近代がもたらす不安感不快感である。
それは、
空虚さ不確実性という不安定感カオスの気配転落恐れを意味する。”
(ジョック・ヤング、邦訳、31頁)

ニーチェの場合
ルサンチマンが生じたのは、
弱者による強者に対する復讐の為に、であったが、
グローバル化とテクノロジー化が進み、
新自由主義政策の実施によって
社会が荒んだ今日においては
立場が不安定正規雇用の中流階級による
アンダークラスに対する
《ルサンチマン》が見受けられる。
この種のルサンチマンは、
「弱者から強者へ」のルサンチマンだけではない

また、私たちの日本社会では、
正規雇用の中流階級層による貧困層への《ルサンチマン》だけでなく、
弱い立場の者による、別の弱い立場に対する《ルサンチマン》も
見受けられてきている。
例えば、
「生活保護バッシング」
神戸金史氏に送られてきたハガキ内容・・・・


ジョック・ヤングが踏まえた、
スベント・ラヌルフ『道徳的憤激と中産階級の心理学』の中で
ニーチェやシェラーの《ルサンチマン》概念を用いるのであるが、

近代市民社会の道徳形成は《ルサンティマン》に基づいている、
としたシェラーの模様を、以下に少し見ていく。

――――――――――――――



“ルサンチマンがその最も重要な成果を果たすのは、
ルサンチマンが、一つの全〈道徳〉を規定するようになって
その道徳を作り成している優先規則をいわば転倒させ
いまでは〈悪〉であったものを〈善〉として通用させるとき
である。
ヨーロッパの歴史をみるとき、
ルサンティマン道徳の形成において〉おどろくべき働きを果たしていることが分る。
そして、いまや、
それが〈キリスト教道徳〉の形成と、
したがってまた、〈近代社会の道徳〉の形成に、
どれほど影響を与えてきたかが問題にされなくてはならない


 この点に関して、われわれの判断は
ニーチェの判断とはかなり異なったものになっている。

 なるほどキリスト教の価値観は、
きわめて容易にルサンティマンに基づく価値転倒に陥り易いし、
またきわめてしばしばそのように見做されてきたことを認めなくてはならないが、
しかし
われわれは、13世紀以来ますますキリスト教道徳と交代し始め、
フランス革命においてその最高の成果を挙げた市民道徳の中核こそ
その根源をルサンティマンの中にもっている
と考える。
近代の社会運動の中でルサンティマンは強力な規定力になってきたのであり、
また ますます既成道徳を変革してきているのである。”
(64-65頁)

ルサンチマンを引き起こす源泉として
〈復讐〉〈嫉妬〉〈猜疑〉〈競争心〉があるが、
それらは無力感に基づいている、という。
シェラーが、
“近代社会における市民道徳の根源に、
ルサンチマンがある”というのは、
たとえば、
次のような事情が見られるからだという。



〈嫉妬〉が生じるのは、
獲得しようとした試みが失敗し、無力感が襲ってくるときである。
…嫉妬は所有欲や向上心を促すのではなく、
むしろそれらを殺ぐ働きをするのである。

 ところでこうした嫉妬において、
もともと手のとどかない価値や財が問題となるときや、
またそれらの財をめぐって
自分を他人と比較せざるをえないような状況に置かれるときには、
嫉妬いよいよルサンティマンに近づくのである。
最も無力な嫉妬が同時に最も恐るべき嫉妬なのである。
…こうした嫉妬はつねにこう囁く。
「あなたのすべてを許すことはできる。
ただあなたが存在するということ、
あなたという存在があることを許すことはできない。
すなわち、
私があなたがあるようにないということ、
実に〈私が〉〈あなた〉でないということだけは許せない」と。
この種の〈嫉妬〉は、
自分の存在を〈圧迫し〉〈嘖める〉他我の存在を、
また自分の無力が見せつけられる耐え難い尺度と思われる他我の存在そのものを
他我から剥奪し、根刮ぎにしようとするのである。”
(マックス・シェラー、金沢文庫、18-19頁)
 
“…美貌や人種的優位性や遺伝子的なすぐれた特性に対する嫉妬は、
富、地位、名声、名誉に対する嫉妬より強いと言わなければならない。
そしてこうした種類の嫉妬においてはじめて、
積極的な価値に対する、根源的に嫉妬をかり立てる
あの幻想的な価値貶黜
の現象が起こるのである。……

 ところで、これらすべての場合、
ルサンティマンの源泉には
他者と自己との〈価値比較〉…という独得な態度が結び付いている

・・・われわれは自分の価値や自分の本性を他人の価値と絶えず比較する
身分の高いものも低いものも、善人も悪人も、誰もがこの比較を行なっている
。”
(シェラー、金沢文庫、20頁)

――・――・―――

“〈高貴な人〉は、自己の価値と自己の存在充実について、
まったく素朴で非反省的な意識を、
換言すれば、
彼の存在のあらゆる意識的な瞬間を持続的にみたしている
それは不透明な自己価値の意識をもっている。
それはあたかも自立的に宇宙的に根を下ろしているというような自己充実の意識なのである。
この意識は〈自負心〉…などでは全くない。
(中略)

〈卑俗な人間〉…にあっては、
自己の価値と他人の価値の把握が、究極的には、
この自他の価値のの関係の把握に基づいてのみ実現されるのであり、
また彼がはっきりと意識するのは
自分の価値と他人の価値との間に〈存在しうると思われる〉差異価値としての価値性質だけである。
高貴な人は価値を比較に〈先立って〉体験する。
卑俗な人は比較において、また比較を通してはじめてそれを体験する。
したがって
〈卑俗なもの〉においては、〈自己の価値と他人の価値との関係〉
あらゆる価値把握の選択的制約条件になっているという構造をもっている。
彼は自分の価値より〈より高い〉〈より低い〉〈より多い〉〈より少ない〉ということを
意識せずに他人の価値を捉えることができない
のであり、
したがってまた
他人を自己に即して、また自己を他人に即して〈測定する〉ことなしには
いかなる価値評価もできない
のである。

ところで、
このような〔卑俗なものの〕態度を共通な基礎にもつものには
二つの異なったタイプが分けられる。
すなわち、
この比較の態度が
強さと結び付く場合と弱さと結び付く場合、
つまり
力と結び付く場合と無力さと結び付く場合である。
この〈卑俗〉なタイプ
精力的な者が〈出世主義者…であり、
無力な種類が〈ルサンチマンのタイプである。
 ここでわれわれが出世主義者〉といっているのは
それが権力であれ、富であれ、あるいは名誉であれその他の財であれ、
それらを精力的に大胆に追及するような人を指すのではない
彼がなお、ある〈事象〉の固有な価値内容を念頭に置き、
仕事な職業を通してそれを促進させ、まった擁護しようとしている限りでは、
彼は出世主義者なのではない
出世主義者〉というのは、
むしろ他人との比較において、
より高く、より価値があるということ
を自己の努力の目標〈内容〉とし、
それをなんらかの特定の事象価値より〈優先〉させる人
のことである。
出世主義者にとっては、どのような〈事象〉も、
他人との比較において生ずる〈より劣っている〉という耐え難い感情
解消させるための単なる無差別な機縁として利用されている
にすぎない。

 価値把握のこうしたタイプが〈社会〉の支配的な趨勢になると
競争体系》…がこの社会の心髄となる

そしてこの比較意識が特定の領域を超え出れば出るほど
たとえば階級とか、それと結び付いた〈身分相応〉の生活様式とか、
あるいはその社会の慣習などという特定の領域
超え出れば出るほど
いよいよ競争体系〈剥き出し〉になる

13世紀以前の中世の農民は
自分を領主と比較することはしなかったし、
また職人は自分を騎士と比較することはなかった。
当時の農民は
せいぜい自分より裕福な農民やより勢力のある農民と比較したのであり、
このようにしてすべての人は
ただ〈自分の〉階級の中で比較を行なっていたにすぎない

(中略)

 したがってこのような時代にはどこでも、
神と自然とによって与えられた天与の〈職分〉…という考えが
すべての生活様式を支配しており、
そこでは誰もが
自分の置かれている職業に〈召命感〉というものを感じ、
またその中で自己に課せられた特別な義務を果たさなければならなかった
のである。
彼らの自己に対する価値観や彼らの欲求は
こうした職分の枠を果たさなければならなかったのである。
王をはじめとして娼婦や絞首刑吏に至るまで、
誰もが自分の〈職分〉が代替出来るようなものではないという、
きりっとした態度の中にある種の〈気高さ〉をただよわせていたのである。

 これに反して、
競争体系〉の社会にあっては、
人生の課題としての事象内容やその価値は、
原理的にいって、すべての人の、すべての他人より より優れてありたい、
より価値がありたい
と願う態度に基づいて
のみ意識される
のである。
あらゆる〈職分〉は、いまや
こうした普遍化した競争過程の中の
単なる一つの通過点…にすぎなくなる
こうした本質的に限界を知らない追求努力
…は、
事象と追求との、
また特定の価値と追求との根源ていな結び付きの分離の結果として生じたものである。
そして価値体系のこうした構造は、
同時におのずから事象を事象価値としてではなく、
根源的には
〈品物〉として

いいかえれば、
貨幣価値に置き換えられることのできる交換可能な商品として
理解するような態度を生む
のである。

 現象的な価値体系の構造を形成している
なんらかの経済学的な動機の全系列の中で、
たとえなんらかの価値統一体の〈所有〉や〈共有〉が
つねにまえもって究極目標になっているとしても、
いまやこうした過程全体の中での〈究極目標〉は、
結局は金銭価値の〈量〉であり、
財の価値性質は単なる〈通貨目標〉…にすぎなくなっている
のである。
経済学的な行為の動機の構造は、
以前には品物-貨幣-品物であったのが、
いまや貨幣-品物-貨幣という構造に変化する(K・マルクス)。
もちろん価値性質の享受がなくなるというものではない。

 また一般的な生であれ、個人的な生であれ、
〈生のそれぞれの段階〉――児童期、青年期、壮年期、老年期——
価値評価の場合においても同じような傾向がみられる。
ここでも価値意識の中に現れてくるのは、
ある一つの段階が他の段階よりも、
より多く〉価値があるということだけ
であり、
したがってここではいずれの段階も
もはやそれ自身の独特な固有価値とそれ自身の固有な意味とをもちえない

したがってまた
進歩〉…とか〈退歩〉…の観念も、
たとえばまず第一にそれ自身に固有な内容の点から観察され確認される生の初段階そのものに即して経験的に見出しうるのでも確認されるでもない
。”
(シェラー、金沢文庫、22-27頁)

就業率が高く、雇用が保障され、
賃金体系が確固とされて、
業績に応じた報酬が漸増していくが故に、
安定的で終身雇用的な雇用の労働環境のもとでは、
人生設計が可能で、
キャリアに応じたアイデンティティを獲得する事もでき、
終身雇用的であったが故に婚姻関係も安定し、
コミュニティも安定していた、
「黄金期」
と言われるフォーディズム経済は、
1870年代には崩壊し
経済のグローバル化新自由主義政策などが
それに取って代わる

フォーディズム経済的労働環境のもとでは、
キャリアの獲得によって
可能だったアイデンティティの確保
困難となり
アイデンティティ確保が“不安定になった”事から、
そうした「存在論的不安定」に抗うべく、
不安定な中流階級がすがりつくものが、

・原理主義や極右思想などの《伝統主義》、
・移民やアンダークラスなどを、
“自分では無いところの、異質な性格の存在”として
「異質化」「悪魔的イメージ化」する、
否定的操作を通して、
間接的に自分を肯定化させようとする《本質主義
など

見えているものが違う!!! ~「理論負荷性」と「分断統治」~(下ごしらえ
HNK取材班『生活保護 3兆円の衝撃』は、「維新」推進のプロパガンダ本かも!?

であった。

皮肉なことに、
アンダークラスの低賃金労働者も、外国人労働者は移民も、
また、立場が不安定な正規雇用の中流階級層も、
じつは、
グローバル化アウトソーシングや。
技術革新による機械の人の無用化
新自由主義経済の、
或る種の「被害者」
であるように思われる。


ヤング『後期近代の眩暈』について、今すこし続く。

 

【7】に続く。