見えているものが違う!!! ~「理論負荷性」と「分断統治」~(下ごしらえ) |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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騙しの基本原則は、
見せたいものに敵の注意を向けさせ
見せたくないものからは、
注意を逸(そ)らせることである」
(イギリス陸軍元帥アーチボルト・ウェーヴェル)
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今回は
「《秘密保護法》と「分断統治」~相互猜疑/相互監視化による要領統治~」という記事からの
続きです。



さっそくですが、下の画像を御覧ください。


これらの図は、
うさぎ」か「アヒル」か、どちらが正解か、
という問題ではなく

解釈/見方によってどういうふうに見えるのか
その錯覚如実に示すための騙し絵です。
うえの3つの図では、
「その図画の背景/周辺に
何匹もウサギのイラストが施されれば
私たちは「ウサギ」として解釈/認識してしまい〉、
何羽もアヒルのイラストが周囲に施されれば
「アヒル」として認識してしまいがちになります


錯覚」というと、誰しも間違えたくはないので、
私たちは避けがちですが、
しかし、つねに私たちは、
何かとして解釈して知覚している」ということを、
この錯覚図形は教えてくれています。


ゲシュタルト心理学が提供する他の錯覚図形を、

分析哲学者のルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインや
その影響を受けたノーウッド・ラッセル・ハンソン
という科学史・科学哲学の草分け的存在が、
使用していますが、このハンソンという学者は、
こうした私たちの人間の錯覚の癖を取り上げて、

理論負荷性」という概念を提示しました。

理論負荷性」という概念をハンソンが唱えたのは、
人は、何かしらの物の見方/世界観を抱いて
世界や事柄や光景を知覚・認識ていることを
主張したかったからでした。


N・R・ハンソンによる『科学的発見のパターン』
という書物は、いま手元に
無いのですが、
その中で、つぎのような興味ぶかい実験が、
事例として紹介されていたように記憶しております。

相変わらずウロ憶えで恐縮なのですが、
その事例というのは、
天体の星惑星の写真を収めたパネルが、
何点も飾られている展示場で、
一点だけ
細菌を電子顕微鏡写真で撮った額縁を飾っても、
周囲の天体写真のパネルとの文脈」により、
来場者は、
細菌を電子顕微鏡で撮った写真画像の額縁」
天体写真だと解釈して違和感なく鑑賞した
というのです。


つまり〈来場者〉は、ほんとうは細菌の画像なのに、
天体写真のパネルとして解釈して鑑賞した
のです。

ほかの額縁の天体写真との関係そう解釈した
のでした。

来場者が
この部屋に飾られている額縁は
どうやらどれも天体の写真画像のようだ」という
物の見方を背負って見ている》ことが、
この実験事例で分かります。
ひとは、
何かしらの文脈や物の見方を以って
ものを認識している」ことを、
ハンソンは、《理論負荷性》と概念化したのでした。

ハンソンは『知覚と発見』という著書のなかの
「仮説ハ 事実ヲ ツクル」という章で、
つぎのように書いています。

“「事実をして自らを語らしめよ」と、古いが大して賢くはない諺は言う。
(引用者中略)
 前章で私は、
事実とは、われわれの仮説が注意をひきつけるところのものである。
われわれの問いは答えとみなされることになるものを大部分決定する」”
(ハンソン/渡辺・野家(訳)『知覚と発見』下巻  紀伊国屋書店   P.35)


N・R・ハンソンは、その著書のなかで又、
人が、生まれた時から徐々に成長してゆくにつれ、
すこしずつ「自分なりの世界の見方/世界観」を
構築してゆくのに、
どのように物事を教えられ”、
どのようにして学習していって”、
やがては「自分なりの世界観/世界の見方」を
構築しているのか、
そのプロセスの一環を提示しています。

しかしハンソンは、科学哲学者なので、
学説の理論展開作業」が、
どのような操作をもって行われているのか、について
説明している叙述箇所になります。

“「でないnot)」という語は、厳密な論理学的考察において
重要な役割を果す
われわれは ある主張が偶然的か必然的かについて、
それを否定することによって
すなわちそれの否定を主張することによって決定できる
(引用者中略)
 ある語が使用に供されるからには、
どこかに論理的な境界線が引かれなければならない
「生起する事はすべて摂理によって起る」の中の「摂理」という語は、
このような境界線を持っていない
このことは、諸君が その命題に対する反証が何か挙げられるだろうか 
と問うてみれば――その答えは「何もない」である――十分明らかである。
そうなれば、それはいったい命題だったのか、という疑問が起る。
また「現実に」「実際に」「ぴゅっという音を立てて」「涼しい」といった語は 
境界がきわめて不明瞭なので、それらが使われているときに
何が主張されているか はっきりしたためしがない
結局、運転手の技術にかかわりなくすべての自動車に
「運転教習中」のマークをつけたとすれば
、それは
ラジエーターの蓋が現在しているくらいのことしか伝達しないであろう。
「運転教習中」が
まさに何を意味しているかを学ぼうとするのであれば
それ何と対比されるのかを知るに至らねばならない
子供に「赤」のような色彩語の用法を教える場合でさえ、
彼[=子供]に赤い物だけを見せるでは 不十分である。
われわれはまた、「赤でない言いながら
警官の制服など指さねばならない

 自然科学で使われている語は、
境界のはっきり定まった適用範囲をもつ傾向がある。
これは、特定の主題が
それらの語の用法に課すことになっている境界線
または
多くのキイワードに対する論理的な垣根を作り上げている明示的定義に
基づくものなのである。
もちろん、諸々の科学的原語は完成した形で発生するわけではない。
それらがどのように生起したかは、
きわめて興味深い複雑な歴史的問題なのである。
しかし、ひとたび適切な形で確立されてしまえば、
科学言語は論理的な境界線のネットワークはっきりと表示すべく
期待されることになろう。
 科学において、われわれが
ある一つの語、表現、記号あるいは式を明示的に使用する場合、
われわれは暗黙のうちに非常に多くの他の言語、表現、記号、式など
排除している
この事実こそが、諸々の語に独自の適用領域
それらがもっているいっさいの記述的意味を与えている
何にでも適用できる表現は、何物にも適用されない表現と同じく
空虚だといえる。
(引用者中略)
 それゆえ「でないという語物事をはっきりさせる語である。
その[否定という語の]標準的な用法は、
何らかの提言を反駁し訂正し取り消すことにある。
ある命題が何を否定しようとしているかを尋ねることは、常に、
それが何を主張するつもりかを知るために重要な第一段階である。
何も否定していない命題は、何も主張していないのである。”
(N・R・ハンソン/渡辺・野家(訳)『知覚と発見』 上巻 P.37-39)
※強調・下線は引用者。

“有用な述語は、あらゆる事物に適用することはできない。
何らかの論理的あるいは概念的境界が、どこかに現れるはずである。
すでに見たように、
でない」という語はこれらの境界を定めるのに役立つ
何が否定されているか知ること
何が主張されているか半分は理解したことなのである。”
(同書 P.43) ※強調・下線は引用者。

長々と引用させていただいたのですが、
何かを説明する」とき、「何かを教える場合」には、
否定」や「排除」を用いることで「境界線を引き」、
そして「否定」や「排除」を用いて
境界線を描く」ことで
伝えたい内容の「輪郭を描くこと成功していることを引用箇所で確かめることができ、
そして「否定/排除」操作による「境界線設定」で
構築されてきた「世界観」で、
ひとは「何かとして解釈して知覚する」ことを
ハンソンの叙述で確かめることができます。

とくに最後の引用部分である
何を否定しているか、を知ることは、
何を主張/肯定しようとしているかを、
半分は理解したことになる
”という指摘は、
個人的に、きわめて興味深いです。



というのも、つぎの事例で、
あることが思いつくからです。



以前にも使用させてもらいましたが、
これもゲシュタルト心理学で使われる図形で、
ひと何かとして錯覚するもの”であることを示す事例として、使われます。


このルビンの壺の画像は、

白の部分を背景として、黒の部分を図とすれば、
黒い壺」に見え、
黒の部分を背景にして、白い部分を図とすれば、
二人が見つめ合っている様子」に見えます。



たとえば「白い紙
この「ルビンの壺の絵」を「描いてみせる」ために

黒の色彩でもって
黒い部分だけを塗りつぶした

としましょう。


そこで、なのですが、
黒い色彩塗りつぶしただけ
「ルビンの壺」における
《“白い部分”の
見つめ合う二人の顔”を
描き出してみせた」》
とすれば、
そこでは、どういうことが起こっている事になるのでしょうか。


そこででは、私は、
白い部分の向かいあう二人の顔
そのものを描かずして》、
向かい合う二人の顔”を
描き出してみせた

ということを成し遂げてしまっている!のです。


言い換えれば、
黒い色彩の部分という
「〈地〉の部分の塗りつぶし」だけでもって
白い色彩部分という、
〈地〉の境界としての「〈〉の表現化」を、
成し遂げてしまっている事になります。

そうなると、この場合、
否定/黒塗り作業が、
もう一方の〈肯定部分〉を“半分構成する”どころか、
否定/黒塗り」でもって
輪郭をまるごと描いてみせている
事になります。



このことの指摘をもって、高樹は
何を伝えたいのか、何が要諦なのか、
と言いますと、
世の中の言説には
否定操作だけでもって
叙述展開

という
怪しい叙述行為があり、
実際にそこかしこに見受けられるという事です
――肯定や賛成するところの対象の正当性が、
証明されないまま
「聞き手/読み手の期待的錯覚」を前提として、
叙述展開が終わってしまっている
――。

そして、この「否定だけの叙述行為」の極端な事例
個人的に目につくのは、
反日の枠組みサヨクの枠組み
さらには在日特権の枠組みといった、
理論的根拠がない「ネトウヨ界の言説図式」であり、
それら世界像」は、
じつは否定反動反射
排除だけもって
辛うじて成り立っている
”と思われます。


以上に見てきた点を踏まえて、
この発言を見ていただきます。


 「
どの地域のどの国家も
今、決断を下さなければならない
われわれの味方になるか
あるいはテロリストの側につくかのどちらかである
(ジョージ・W・ブッシュ大統領、2001年9月20日)


先日の石破ブログ発言でも同様ですが、
アメリカ政府に刃向かうところのもの>や
日本政府に刃向かうところのもの>が
テロリスト」という事になります。

この「
テロリスト」とは、
アメリカ政府に刃向かう態度をする者”、
あるいは“
日本政府に刃向かう態度をする者”で、
テロ行為」とは、
どういうような具体的行為を指すのでしょうか?

むずかしいですね、
裁量次第で
如何ようにも
テロの範囲対象にできる、
きわめて曖昧なもの
”と言えます。

この「曖昧さ」あるいは「解釈のズレ」が、
現在における《誘導操作および
国民どうしの間分断統治》にとって、
よく押さえられる
要衝(ようしょう)のひとつ
なっているのではないか、と注目しています。

この点を見つめることは、
分断統治》や《分断工作》に対抗するため
しなやか”な「連携的対抗」の必要上、
意識しておいて損はない、と思います。

時間と文字数制限の都合上、
今回は、ここら辺で記事を終えますが、
最後に、今回記事の趣旨・要諦(ようてい)をまとめ、
宿題を残して終えたいと思います。


物事そのものを捉えているのではなく
何かの解釈フィルター通して捉えている」

或る一つの同じ事柄でも、
人によって、あるいは解釈/先入見によって、
まったく違って認識される

○だとすれば、或る一つの同じ事柄でも、
国民どうしの間の「認識のズレ」は、
扇動工作》により、
分断》&《対立することができる


◇◇◇◇◇◇

《宿題》

A)《Why not 9? (Karin AMAMIYA)》
最初1分30秒くらいまで

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B)特定秘密保護法案 沖縄への影響を考える2
(琉球朝日放送 報道部)
50秒1分30秒あたりまで)――――――――――――――――――

C)《「PEOPLE 編集長!お時間です」 
ゲストが堤未果さんの放送回を、
クリックしてダウンロードして下さい》
3分30秒6分20秒
http://www2.jfn.co.jp/people/editor/podcast.html

※ これら3つの動画の指定個所で共通すること
でしょうか?


(次回へつづく)

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戦争という制度あるからこそ
社会を安定した状態で
統治することが可能になる
のだ。
ある社会の構成員
政治的支配をすんなり受け入れるには、
何かしら外側からの刺激必要だが、
戦争は、そうした刺激を提供する
戦争という刺激によって、人々の間
国民としての意識生まれ
政府に、その構成員支配する権威を与える
何か制度でもよい、
一連の計画といったものでもよいが戦争の他に、
そういう機能を果たすものがあるだろうか。
(中略)
戦争の政治的代替物効果的であるためには
何か「身代わりの敵」が、どうしても必要になる
[ 「身代わりの敵」が
庶民を政府の意のままに統治するための
戦争の代替物になりうるかどうか]問題は、
その「脅威」が、どこまで真迫味をもてるかにある。
(中略)
たとえば大気汚染・・・・
それは人類の生存に対する明白な脅威という意味で
核兵器による大量破壊にも例えられる。”
レオナルド・レウィン(編)
『アイアンマウンテンからの報告』(1966年)