hiroyou倶楽部

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平凡な日々の出来事を綴っています。
一度限りの今のひと時を刻みます。何気ない日常の他に映画、読書、スポーツ、昆虫がメイン

遅くなりましたが新年、あけましておめでとうございます。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。



この通り、生きてます(苦笑)





本県は先月上旬に、大きい規模の地震に見舞われました。





私が住む地域は、目立った被害は少なかったようですが。



その後は余震が相次ぎ、巨大地震発生の可能性があるとの報道があり、

まったく気を緩めることができない日々が続きました。




度々の余震............。

今できることは何なのか、明日はどんな1日になるのかと、落ち着かない日々でした。




改めて、平穏ないつも通りの日常のありがたさが身に染みました。





2025年。



笑えてハッピーなことも、



しんどくて辛かったことも、



いろいろありましたが、25年に経験したことを無駄にせず「今」を精一杯生きていきたいと

思います。




そして昨年、ご訪問くださいまして誠にありがとうございました。

皆様方のご多幸とご健康を心からお祈り申し上げます。






2024年スペイン


監督 トニ・アンドゥハー

出演 カトゥーサ・レイラ

   コディ・コーウェル





ややネタバレです。

観てない方はご注意を。



DVD鑑賞。

気づいたら最後まで熱中して観てしまった、という映画。



先日書いた「ウォリアーズ」もちょっとこれに近い映画だったかも。



全然難しい映画ではない、どころか単純明快。



観る前は、女性版ランボーみたい?と思ったけどけっこう違っていた。




たとえると、スピルバーグ監督の「激突!」のランニング版に、「13日の金曜日」風の怪人キラーを登場させたような?




耳が不自由な女性、ダイアナが主人公。



ランナーである彼女は、そんな境遇にも負けずに、父の教えを守り今日も山中でトレイルランニングに励む。



そこでは他にもランナーがいた。



何気なく追い越したのだが、2度目に出会ったときに後ろから体当たりされてしまう。




3度目、そのランナーに対して挑発する態度を取って追い越す。




このランナーがサイコ殺人鬼だと知らずに........。




こうして地雷を踏んだ形になってしまったダイアナ。

彼女は山中でサイコランナーに延々と、つけ狙われることになる。





人が少ない山中でこんな人物に出くわしたら、まずはゾッとする。

で、時間が経つとだんだんと腹が立ってくるでしょう。

なぜに自分は、こんな目にあわされるのだろうと。



普通なら、トレーニング場所を変えるか、やめるかなのだろうけど。




ランニングしている異常者というのも、なんだか場違いな感じがしないでもないけど。



その人物は、頭部をフードで覆って一切顔を見せない。

体つきから男性であるとわかるぐらいで、謎だらけのランナー。



彼の攻撃は、初めは比較的ゆるやかなのだが次第に狂気じみていく。

このランナーの目的は何だったのか?




道を塞ぐような嫌がらせ(?)から始まって、体当たり、転倒させる、川への突き落とし、と次第にエスカレートしていく。



序盤は殺人というのより、凝らしめるのが目的のようだったのだが。



かと思ってたら、今度は犯しかけたり。



やっぱり目的はそれか、と思わせて、今度は絶壁から振り落とそうとする。



ダイアナより、彼女を助ける周囲の人たちをあっさり殺す場面が多い。



そして後半。



冒頭に登場していた、公園の清掃員らしきおじさんが再登場する。



このおじさんの正体は、妻と共にキャンプ場からさらってきた子供たちを殺すという、殺人鬼だった!



ここから第2の、別の殺人鬼が現れる。



この夫婦はおじさんよりも、その奥さんのほうが怖い。



こうしてダイアナは、またも第2殺人者たちとも闘うはめになる。



気迫で向かっていくダイアナだが、殺人鬼奥さんは強い。



絶体絶命となるダイアナ。




そこへ現れたのが、殺人ランナー。



彼はいとも簡単に、婦人をねじ伏せる。

でもダイアナを助けたのではなかった。



隙をついて逃げ出したダイアナは、おじさんのクルマで逃走。



それを殺人ランナーがクルマで追ってくる。




クライマックスの対決は、「激突!」のようなカーチェイスとなる。





ところで、ダイアナが耳が不自由なのはとくに意味がなかった?




殺人鬼ランナーが、いつもタイミング良く、悪く、ダイアナの前に現れるのもちょっと都合良すぎ、な気もするけど。



と、突っ込みどころもあるけど、キャンプ場での子供たちの相次ぐ失踪がこのランナーの仕業でなく、別の人物が犯人だった、とか、シンプルなストーリーなのにけっこう練られている。



「激突!」を彷彿させるような場面も。



それらがラストにつながる。



この手の映画は、最後にヒネリや脅かしがあるのが定番っぽいが..........。



いや、そのような後味については伏せておきましょう。



けっこう楽しめた1本。











 


この夏だったか、諸事情によりスマートフォンの機種変をした。


使い方が同じ操作もあれば、多少変わった操作もある。



新しい機種に早く慣れたかった。



なので、なんやかんやでこの数ヶ月はスマホを触る時間ばかり長くなってた。





そんなときによく思うことは。




私もずいぶん変わってきた、ということ。






振り返ると、昔から流行りのモノや利便性のあるツール等にはどこまでも目が向かなかった。



あまり関心を持てなかった。



それ系は自分には必要ないもの、と思ってしまうほう。




それに、家電製品もそうだがそもそも操作手順を覚えるのも苦手。






たとえば遠い昔、ファミコンが流行ったとき。





みんながファミコンの話でわいわい盛り上がっていたのに、私は持っていなかった。


ファミコンカセットのことも何も知らない。




完全に同級生たちの話題についていけなかったけど、鈍感なのか疎外感を感じたことはあまりなかったように思う。




ゲームはやりたい年代だったけど、自分の家でまでやりたいと思わなかった。




(当時はゲームセンターでゲームをするのが普通だった)




インターネットが普及してきて、家庭でパソコンを所有するようになった頃。




結果的に持つようになったけど、持たないと今の社会についていけなくなるからだった。





デジタルカメラが普及してきた頃も、フィルムを入れるカメラや写るんですを使っていたっけ。




ケータイを持ったのもそんな流れだった。




私が持つようになったときは、もう中学生が普通に持つようになっていたときだった。

誰もが当たり前のように持っていた。




スマートフォンを持ったのもつい7年前のこと。

それまではガラケーを使っていた。




そして今。

気づいたらスマホどころか、iPod、タブレット、ノートパソコンを所持している。




そのちょっと前は、通話料が無料になるからとPHSも持っていた時期もあった。




SNSはいろいろとやってみてはいるものの..........



イマイチ使い方がわからない。

なにか反応らしきことがあるみたいだけど。

ほとんど放置したままになっている。






なので、たいして使いこなしてもいないし活用している実感もない。





それなら最初からなにも持たない、やらないのがいちばん良いのではないか?



私はなんのためにアレコレと所持しているのだろう?




みんなと同じなのが良いから、なのか。





現実はどうかというと、かえって時間を取られたり頭を痛めたりしているではないか。



スマホやパソコンの使い方のことで、販売店に電話することも増えた。



実際、睡眠時間も減った気がする。






自分がこのように変わったことに違和感を覚えるようになったのは、そんなに最近のことでもない。



前々からあれもこれも必要ない、とは思っていた。



正直に言うと、どんなものなのかやってみたい気は少しあったけど。




何も持たず、古くさい自分だけの世界にどっぷり浸かるのもどうか、とも考えるときもあった。






現代人なのだから、これぐらいできて所有して当たり前。



いや、そんなことはない。アレコレ持ち過ぎ、やり過ぎだ............。




って、いつも自問自答してた。




それに何を所持しようと、SNS を活用しようと、それはまったくの自由な話。

誰も私にやってくれと言ったのでもない。




自分で自分のことが見えなくなっていたのだと思う。




たいして使いこなしてもいないし活用している実感もない。

やってみて満足感や充実感などはあまり感じない。




元々の私は前述した通りであり、アナログ派人間だったし。




今さらでもないけど、スマホなどを使った犯罪も増えているようにも思う。

スマホやケータイが無い時代は、そんな犯罪は少なかったかもしれない。





ツールが、役立つことや正義のみに使われるはずはない。





何かを所持することに抵抗感があって、そんなの自分には必要ない、と思ってた頃。




私はそんなだった原点にもう一度、還るべき。




昔の自分に戻りたいけど、戻れるかな............................。




変に流されてしまった自分が悪いのだ。





スマホ一台持っていれば、たぶん生活には困らないと思う。





何年かかるかわからないけど、ひとつひとつ物を捨てていこう。














1948年イタリア


出演 ランベルト・マジョラーニ

   エンツォ・スタイヨーラ


監督 ヴィリオット・デ・シーカ



毎度のネタバレなので、ご注意下さい。




DVD 鑑賞。


大戦後の混迷するローマで、大事な自転車を盗まれたある一家の物語。



多くの人が知る名作だと思います。

本当に考えさせられる映画。





鑑賞は2度目。




1度目はかなり昔に、テレビの名画劇場かなにかで観た。




タイトルが示す通り、自転車泥棒の映画、というべきか。



時代は第二次大戦終結間もない頃のローマ。



 

失業者があふれ、物資も不足していた。

モノはどんなものでも貴重品も同然だったし、それゆえに盗難なども横行していたことは容易に想像がつく。



物語は、アントニオ・リッチが職安から呼び出されるところから始まる。




彼もまた大勢いる失業者のひとりで、妻と幼い子供2人を養う立場でありながら、仕事が2年間も見つからない状態だった。




やっと見つかった仕事は、役所から依頼を受けてポスターを貼り歩く仕事。




採用条件は自転車を持っていることだ。



帰宅してさっそく妻に相談。



彼女はシーツを質に入れて、自転車の購入資金を出してくれた。





こうして晴れて失業者組から抜け出せた。

はりきって仕事に精をだす彼。



しかし、そんな晴れやかな希望に満ちた心は、勤務初日に無惨に打ち砕かれる。



作業中に、命綱とも言うべき自転車を盗まれてしまうのだった。




必死で追いかけるものの見失う。

警察に届け出るものの、頼りにならない。




こうして、自分で盗まれた自転車を探し歩くことになるのだが..............。




「悪」ははっきりしていて、誰がどう見たって自転車を盗んだ人が悪い。




それはわかるのだけど。



街では、盗難や窃盗などが日常的に横行していたのは一目瞭然。



盗まれた側にまるっきり非がないとも決めつけられない。

ちょっと甘過ぎたかも。


仕事熱心なのはいいけど、もう少し自転車に気を配るべきだった、と誰もが思う。




盗まれてしまったのはしょうがない、とも割り切れない。




現代なら、また買い直せばいい、レンタルを利用すればいい、だけど、そのように何とかなる時代ではなかった。




自転車一台がどれだけ貴重だったか。




自転車を持ってるか持っていないかで、仕事に就けるかどうかと考えたら、自動車以上の価値があったはず。



さらに一般市民が自分たちで探し回るなんて、どれだけの苦労なの?



無事に見つけられる確率なんて、どれだけ低いの?




絶望的なことばかりではない。




一緒に探してくれた友人もいた。



2回目に登場した警察官は、わりと献身的に接してくれた。



なにより、6歳(ぐらい?)の長男ブルーノが何かとお父さんの力になってくれた。



それでも見つけることは困難極まりない。





紆余曲折を経て終盤近く、偶然にも犯人と思われる若者を発見した。



人違いではないと思われる。



シラを切る犯人だったが、アントニオはあきらめられるはずがない。



自転車一台に、一家のすべてが懸かっているのだ。



若者の家族や、付近の住民も交えて騒ぎになる。





結果的に自転車は出てこなかった。

証拠もなにもない。

こうして取り返せる唯一の機会を失ってしまう。



またイチから自転車を探し回るなんて、あまりにも酷である。





失意のアントニオは、自然とサッカースタジアムの自転車置き場や、ビルの横にとめてある自転車に目が向く。




そして、魔が差してしまう。



ここでも不運(?)に見舞われる。



あっけなく周りの人々に取り押さえられてしまうのだった。



警察に突きだせ、との声が上がるが、自転車の持ち主は彼の幼い息子に同情したのか、アントニオを見逃す。



雑踏の中を淋しく歩く親子。

失意のまま、映画が終わる。




......................。


......................。



あなたは、何を感じましたか?



と、問題提議を出されたようなラスト。





アントニオは途方に暮れて悩んだ挙げ句に、他人の自転車を盗み返す。



被害者が、同じことをしてしまう。



悪いことをしたのは間違いないが、そんなに極悪非道なことをしたのだろうか。



でも、こんなことを肯定すれば盗難だらけの世の中になるでしょう。




1円でも盗めばたしかに罪は罪。




昔でも現代でも、もっと悪い人もいる。




アントニオの自転車を盗んだらしい若者は、早々に自転車を売りさばいて証拠を消したのかもしれない。

さらにはアントニオに突っ込まれると、発作が起きたような演技(おそらく)までして。



家族や周りもグルみたいで、常習犯のようだった。



見方を変えて見ると、この人たちもこんなことをしなければ生活していけなかったのかもしれない。




理不尽なもので、こんな悪い人ほど捕まらない。

おそらく問い詰められたときを想定して、シナリオを描いていたのだと思う。





生真面目で、善良な「いい人」のお父さんはバレてひどい目にあう。

こんな人は悪いことをするべきではなかった、とも思わなくもないが、

もはやそれしか選択肢はなかった。




世の中、何が良くて何が悪いのか。




ただひとつ言えることは、




お父さんを、責める言葉が出てこない。




やったことは悪いことなのだけど、ひどいことをしたと決めつけることはできない。




だから悲しい。




最後に、自転車の持ち主が、彼に対してとった行動.................。




それがすべてを物語っている、と思う。








筆者は永らくの間、英語のテキストらしき本をずっと読んできた。

「独学」ってほどではなくて、ほとんど読書レベル。

読みたくなくなったらやめていた。



読み始めてはやめる、の繰り返しだった。

単語カードを作ってみたり、なんてことはあったかも。



べつに語学に関心があるのでもない。

読む理由って「ただ、なんとなく」だった。




そんなわけで、適当に読んできた私は英語って本当にわかってないというか、理解できていない。





当たり前のように学校での授業も受けてきたし(英語の成績はごく平均点だった)、洋画好きで英語は昔から耳にしてきた。



テレビをつければ、ニュース番組では普通に英語が聞こえてくる。




それでもさっぱり、という感じで、話す、聞く、書く、読む、どれも苦手。





いつの時代もそうだったと思うけど、私が若い頃もすでにこれからの社会は国際化の時代になるだろうから、英会話はできたほうがいい、みたいな風潮は少なからずあった。




現代はもう、当時より格段に進んでいるでしょう。



なんか今の大学生とかは、普通に英語がわかっていそうだし。





田舎に住んでいると、わからなくて困ることはまずないし、わかるから助かった、なんてことも..........、ほとんど記憶にない。




ここは都市部とは違って、外国語はまるで必要ない田舎。




そんな生活環境にいると、自然と語学などに関心が向かない。

私の周りの人たちも同様だと思う。





もうほとんど、英語ができるからって何なんだ?って感じ。



英語なんてどうでもいいから、自分の仕事をちゃんとしろよ!なんて言われそうだし。



勉強するとか言うと、「アンタ、そんなにヒマなの?」とも思われそう。(って決まってる)



私は普段は、日本語よりさらに難しいと思われている津軽弁で話している。(苦笑)




英語が得意科目だったという人はいたと思うけど、ペラペラなんて人もまず、いない。



私のようにときどきでも本を読んだり勉強する、なんて人もいない。(と思う)




でも、英語検定○級に合格したことがある人はいる。





私には外国人の友人、知人もいない。



職業柄、外国語の習得が必要だという人もいない。



アメリカ人が多い三沢市民はどうなのだろう。



不特定多数の人と接する、サービス業の人はどうだろうか。



近年は、昔よりも外国人も見かけるようにはなってきてると思うけど。






話せて会話ができる人って、何より賢くて知的に見える。



通訳や、翻訳みたいなことを頼まれたりするのでしょうか。



海外赴任の話などもきそうだし。



もちろん、海外旅行に行って言葉で困ることも減ると思う。



言うまでもなく、就職にも有利。



英語が堪能ならいいことずくめで、少なくとも損をするなんてことはないでしょう。




できる人って尊敬できるし、憧れます。




仕事で必須だとか、できないとなんらかのデメリットを被るとか、そうでないとなかなか身につかないものでしょう。





独学では無理だろうからキチンと習いに通いたい、と思ってたときもあった。



でもやっぱりちゃんとした目的がないと、途中でやめてしまうのは目に見えている。

それはもう、お金を捨てるようなものだし。



漠然と、話せたらカッコいい、とか、なんとなく、という理由ではそうそう身につかない。





ということで、私にはしっかりした目標がないから何十年間もこうだった。




テキストを開けば、文法的な説明などが主でそれが難しく思えて理解に苦しむ。



そこでまず、つまずく。



こんなだからいつまで経ってもわからないままだ。



解りやすいテキストがないか、探し回ったときもあった。




私はもう勉強をするという年齢ではないのだが、やっぱり何歳になっても勉強は必要なはず。



だから目標があって、気持ちがぶれずに突き進める人ってそれだけで立派に見える。



なので、本格的に勉強する前にまずは目標を決めなくては。



大げさな目標でなくてもいいかと思う。



趣味の映画鑑賞で、字幕なしでセリフを理解できたら、と「趣味レベル」の目標から始めよう。



って、こんな気持ちをいつまで維持できるのか...............?


 






昨年の夏の午後のこと。


たまたま偶然に、路上で小さ目のカブトムシのメスがひっくり返っているのを見かけた。




最初は死骸かと思った。

よく見たらまだ生きていた。




放っといておけば死ぬ。

かわいそうだけど自然界はそのようなものだろうと、そのまま立ち去った。




1時間ぐらいして再び通りかかったので、さっきのカブトムシはどうしたかと気になったので探した。




先程と同じ状態だった。

弱々しく生きていた。





こうなるとほっとくわけにはいかない。




家に持ち帰り、さっそく飼育ケースを用意した。

マット(土)など、家にひと揃い置いてあったもので間に合わせて飼育体制を整えた。




カブトムシのそばにエサも置いたが、どうにも食べると思えなかったが。

やれることはやった、思う。





翌日の朝、ケース内を見たら死んでいた。



家の裏庭に穴を掘って埋めた。





カブトムシがひっくり返っていた場所の近くは、草むらが広がっている。

どうみてもカブトムシが居そうな場所ではない。



木々が立っている所からはかなり離れている。




エサを探しているうちに、場違いなところに来てしまったのだろうか?



それとも外敵に追われているうちに、こんなところまで来てしまったのか?




小さいカブトムシはエサにもありつけず、弱って死んでいくのだ。




この時期は真夏だったから、暑さでもやられたと思う。




若くて体力があって身体も大きいカブトムシは、エサがある場所も探せるし、それなりに食べることもできるでしょう。

涼しい場所にもスムーズに移動もできる。





身体が小さくて体力も衰えてきたようなカブトムシは、こうして弱っていき、そうこうしているうちに外敵に襲われたりして命を落とす。




これが厳しい自然界というか、昆虫の世界の定め。





では、人に飼われているカブトムシはどうなのか。

野生のカブトムシと比べて恵まれているのだろうか?






昆虫飼育を再開して、早いもので4年が過ぎた。

(再開のきっかけはコロナだったこともあった)




この4年間で、カブトムシ(成虫と幼虫)、クワガタ(成虫)、鈴虫を飼育してきた。




総合して考えると飼育下の昆虫は、





「少し長く生きていける」





ただそれだけ、って気がする。




生きれるだけ、恵まれているのだろうか。




これまでの経験では私の飼育方法が悪かったのか、元々の個体の生命力が弱かったのか、短命に終わった昆虫もいた。




正反対のこともあった。





たいして気をつけたのでもないのに、丈夫だったのか長生きした昆虫もいた。




昆虫飼育って、それなりに飼い主の飼い方も影響すると思うけど。




私は昆虫飼育に関しては素人だから、せめて自然界の昆虫と同等の環境に近づけようと、なるべく大きいケースで飼った。




他にも暑さ、寒さ、湿度、害虫駆除........。

自分なりに気を配ったつもり。





とはいえ、どんなに大事に飼育しても昆虫は何ヶ月か(カブトムシは幼虫などの期間を含めると、種類によっては1年から数年)で一生を終える。




明日生きているかわからないのは何も昆虫に限ったことではなく、命ある生き物すべてにあてはまる。






昆虫は本能のままに生きていると思う。




食べ物があれば食べるし、暑い寒いを避ける習性を供えている。


外敵から身を守る習性もある。




それなのに、長くは生きられない。

  



飼育下の昆虫も同様で、ほんの少し長く生きられるぐらいだ。





中には、生命力が強くて弱ってもなかなか死なない昆虫もいた。



弱って苦しんでいるのは、もうあきらか。




でも飼育下では外敵もいない。

温度もほぼ適正。





だから死ねない。





かといって、私の手で殺すことはどうしてもできなかった。



外の草むらに逃がすのはどうかと考えたが、それは飼い主の責任を放棄するようで、それもできなかった。



結局、弱って苦しむ期間が延々と何日も何週間も続いて死んでいった。





それって逆にものすごく残酷なことだと思った。





自然界では、弱ってきた頃にちょうどいいときに外敵に喰い殺されたり、アリなどに運んでいかれる。



あるいは暑さや寒さにやられる。



それは私たち人間の感覚では残酷なことに思える。




けど、自然界では残酷なことでもなんでもない。





外敵の存在も普通なこと。



もし外敵が居なかったら、そこらが昆虫だらけでとんでもないことになる。




外敵が昆虫を襲うことで、数のバランスがとれるのでしょう。




その外敵自身も昆虫を食べることで生きているし、自分よりも強い外敵から身を守っている。






そして最終的には、また土に還る。



土は言うまでもなく、昆虫や生き物にとってなくてはならないもの。



それにまた還っていく。

新しい命の源になる。




これを繰り返す。

命はつながり、循環していくのだ。






それを人間だけが思うように変えようとする。





私が弱ったカブトムシを見つけて持ち帰り、元気になるようにと飼育下に置いたなど、カブトムシや自然界からみればいい迷惑、ということになる。




私は死んだ後も、形にして残したいと標本にしたこともあった。





それがどういうことなのかは、凡人の私にはうまく答えられない。

気の利いた答えなど、私には述べられない。




昆虫飼育をしていると、この矛盾にいつも突き当たる。




飼育をしながら実は日々悩んでいる、ということは薄々感じてる。





昆虫が好きだから、という気持ちが逆に昆虫を苦しめているのかも..................?




飼っている昆虫が元気なうちはいい。


けど弱っていく昆虫を毎日見ると、気持ちも落ち込む。





こんな気持ちになりながらも、昆虫飼育は続いてきた。



本当に耐えられなかったら、もっと早くにきっぱりやめていたはず。



なのに、続けてきた。



やっぱり昆虫が好きだから、でしょう.......。



生と死は見えない何かでつながっている。






画像は、弱ったカブトムシのメスを見つけた場所。





























1979年アメリカ


出演 マイケル・ベック

   ジェームス・レマー

監督 ウォルター・ヒル



毎度おなじみのネタバレ全開です。

未鑑賞の方はご注意を。



DVD 鑑賞。


今作はたぶん子供時代にテレビで観て以来。


昭和生まれ世代の人には懐かしい映画でしょう。

そのとき観たときは、ストレートにおもしろかったという感想だった。



でも何十年かぶりに観たら、ビミョーもビミョー。


突っ込みどころとご都合主義が多くて、ちょっとシラけてしまった。





大都市、ニューヨークの夏の夜。


公園内で、ニューヨーク中のストリートギャングが結集しての決起集会が開かれる。




コニーアイランドを縄張りとする「ウォリアーズ」も9人が参加。



集会の中心となるのは、強大なグループ「リフス」のカリスマリーダー、サイラス。



そのサイラスが演説の最中、何者かに射殺される。



撃ったのは、「ローグス」のルーサー。



彼はたまたま近くに居たウォリアーズのメンバーが撃ったと騒ぎたて、ウォリアーズに罪を着せしまう。



逃げ惑う群集に紛れて、リーダーが袋叩きにあう。



こうして狙撃犯としての濡れ衣を着せられたウォリアーズは、刺客となる数々のグループから狙われ、警官隊からも追われることになる。




リーダーを失ったウォリアーズ8人。



彼らは、スワンを新リーダーとして地下鉄を利用して彼らの本拠地コニーアイランドを目指す。





狙撃事件が発生して、一夜から翌早朝までの物語。




治安が悪そうな深夜のニューヨークの街や地下鉄。



こんな所を歩くのは怖いだろうな、イヤだなぁ、というのがまず先走る。



とはいえ、映画自体はスリルに満ちてなかなかの傑作.........のはず。





今こうして観ると、序盤まではサスペンスフルでスリリング。



逃げるウォリアーズと、各地区で待ち受けて襲いかかる刺客グループ、という図式。



快調なテンボで進む。



この辺りは、さすが名手ウォルター・ヒル監督!と言いたくなる。



この後に「48時間」や「ストリート・オブ・ファイヤー」を生みだし、さらに「エイリアン」の製作者。



おもしろくない映画、なはずはない。




ところが、中盤から終盤にかけてなんだか盛り上がり度が徐々に下がっていくのはなぜか。




普通なら終盤にかけて見せ場も増えて、ドキドキハラハラの連続になるのだろうけど。




なにより悪役となる狙撃犯がビリッとしない。

クレイジーっぽさは出ているものの、それだけに見えた。




手に汗握る逃走劇、のはずなのに刺客グループたちは奇抜らしさが目につくばかりで、いざ対決となると弱すぎた。



こうして次々と待ち受ける難関をピンチになったのか、ならなかったのか?

よくわからないまま?突破していくウォリアーズ。




この主人公グループも問題ありで、命を狙われる緊迫した逃亡なのに女性警官や刺客の女性グループに惑わされ、お粗末もお粗末。



しかもその相手に、わりと至近距離から発砲されても銃弾が当たらないという................。

さすがに、そりゃ都合良すぎでしょうが、と言いたくなる。




なので、このグループにも感情移入できないのだ。


たしかに途中でメンバーを失うときもあるのだけど。




ただひとり、暫定リーダーとなるスワンには感情移入できた。



クールでりりしいイケメンというのもあるが、さすがリーダー。



自分を見失わなかった。



逃走中に、彼は他グループの女性と成り行きで共に逃走することになる。



この女性から迫られる場面もあるのだが、いい関係になりかけながらも振り切るのはエラかった。



そして駅で仲間と合流。



なんとかホームタウンに戻れたものの、そこには先回りしていた狙撃犯グループが待ち受けていた。



浜辺でクライマックスの対決となる........と思いきや、あっさりとスワンがねじ伏せてしまう。



え、こんなにすぐ決着がつくの?




結局は、なんだかスワンのカッコよさが目立った。



ニューヨークで最大の集団リフスも、それなりに凄味は見え隠れするのだけど、事件の真相を知ってからはウォリアーズ擁護派になる。



深夜ラジオ番組で、ウォリアーズの状況を伝える女性ディスクジョッキーは、ほどよいアクセントになっている気がしたけど。



全体的には、設定は興味深くて良かったのに、中盤以降はトーンダウンしてもったいない。





今回観たことで、昔に観たときと感想が変わってしまった。




ということは、自分も歳を取って変わったんだなぁ、と時間の流れを実感...........。







最近はすっかり映画系投稿はご無沙汰。

「マレーナ」以来だったかな。



映画は映画館なりテレビなりDVDでなり、本数はわりと変わらずに観ているのだけど。

映画鑑賞はサボっているのではなくて。




この前も映画館で「ジュラシックパーク 復活の大地」を観てきた。




だけど書いて投稿してなかった、ってだけです。




書くのだけど途中まで書いてやめてしまっていた。

って、いつものパターンでして(苦笑)



自分で書いていて、



「おもしろくない、つまらない、こんなの書いたって誰が読むんだ........」



そんなふうに思ってしまうと、もう全然手が動かなくなる。




それなら日常のことやスポーツなど、そんなことを書こうって気になる。




一時期は他の分野について書けなくなって、映画についてばかり書いていた、なんてこともあったかもしれない。




そのときは当ブログを映画専門にしようかと考えていたこともあった。






それにしても、映画評って考えれば考えるほど書くのが難しく思えて書けなくなる。



だからサッサと書いてしまうと、けっこう自分で納得いく形になっていたりする。



感じたままにストレートに、といつも心掛けてはいるつもりなんだけど。



おそらくアレもコレも、と考え過ぎるのだと思う。




映画っていい面もあればそうでない面もある。

まったくいい面ばかり、悪い面ばかりという映画はあるかもしれないけど、なるべくなら客観的な公平な目で書きたい。

ってならないか.........。どうしても好き嫌いの感情が混ざってしまうし。






ここまで書いたのだから、この場を借りて「映画評を書くにあたって」について書いてみますか。




映画鑑賞は昔から好きだったのは、以前も書いた通りでして。




書く映画は、なぜアート系やミニシアター系の映画が多いかと言うと。



とくにそれ系を好んで多く観ているのではなくて。



メジャーな映画も全然観ている。




たとえば、私は「スター・ウォーズ」シリーズが大好き。



誰もが観ていて知ってる映画については、私が書いて投稿しなくても、と思ってしまう。




それなら観る人があまりいないとか、少ないような映画について書きたい、という気になる。



そんなわけでアート系映画の投稿が多くなる。






書くのが難しく感じる、というジャンルもあります。




それはズバリ、「不朽の名作」と呼ばれて語り継がれてきた映画。




誰もがこれは名作だ、傑作だ、というけど、実際に観たらそうでもなかったとか、あまり良さがわからなかった、というのはよくあった。




この映画の何がそんなに優れているのだろうと。



私は普通の人と比べると感じ方がズレているのかな、と思うことは何度もあったな。





たしかに評判通りに良かったと思える名画もあった。



「ベン・ハー」


「サウンド・オブ・ミュージック」


「禁じられた遊び」


「太陽がいっぱい」


「小さな恋のメロディ」


etc...........。



などは評判の通り良かったと思える名画。



初めて観たときは、さすが名画だと感じた。

っていう映画もあるのだけど。




名作と語り継がれてきたのに、私は面白くなかったと酷評っぽく書くのもどうかなと。

名画には熱心なファンも多いだろうし。




でも正直に観た感想を書かないのも変なので、結局は書くのを途中でやめた、ってことは数知れずあった。



私はそこそこ映画好きなのに、観てない名作映画はけっこう多い。




それ系は書くのが苦手だし、観るのも苦手なのかもしれない。





それよりも、多少出来が良くなくても大勢の人を楽しませて支持される........。



そういうのも映画の良さのひとつだと思う。




たまにこんな面倒なことをよく続けてるなぁ、って我ながら思うこともある。




べつにウケよう、上手く書こう、って気は無いのだけども。



アレコレと言ってきたけど、自分はやっぱり映画について書くのが好きなんだと思う。









今回はちょっとマニアックな(?)読書投稿です。

ほぼネタバレしてます

当漫画を未読の方は読み終えてから読まれることをオススメします。



《敬称略》



「鉄腕アトム」というと、誰もが知る手塚治虫の代表作のひとつ。




私も昔、コミックとテレビアニメに親しんだ。



そんな超有名な作品なのに全話は読んでいないし、当作品については..........それほど詳しくは知らない。

手塚漫画は読んできた世代だけどアトムファンでは無かった。




当時は漫画よりテレビアニメが有名だったように思う。





漫画は前身のような作品もあったし、タイトルに「アトム」がつく漫画は多くあった。



番外編や姉妹編なのだろうか。


昔、どこかで読むのをやめてそれっきりになっていた。







連載終了後も読み切りやアトムが登場する作品があったと思う。



どこからがスタートで、どこで終わったのか。

番外編的な「アトム」作品は本編と、どのようなつながりなのか。






今作「アトムの最後」は、別冊少年マガジンに1970年7月号に掲載。




この読み切り作品は何に該当するのかその辺りもよくわからないけど、とにかくアトムが登場する作品。





率直に読んだ感想を書くと、




意外性の連続でおもしろかった!!




の一言!




最初に言っておくと、それは私が若い世代ではないからそのように感じたのでしょう。



若い世代や10代以下の世代が読んだら、違う感想になったと思う。

おそらく私とは真逆?






タイトルの通り、アトムの最後が描かれている。




本当に「アトムの最後」だったのかは明確には描かれていないけど、

タイトルが示す通り最後だったのでしょう。







ストーリーは、アトムが活躍した時代から約50年後の2055年に始まる。





愛し合う一組のカップルが、アトムが眠る博物館に侵入しアトムを起動させて助けを求める。




この男女は、なぜアトムを甦らせたのか。


なぜアトムに助けてほしいのか。



時計の針が遡っていく。




この男女は近所に住む幼なじみのカップル、鉄皮タケオとジュリー。



子どもの頃からの仲良しなのだけれど、ある遊びをしていた最中にジュリーは重傷を負ってしまう。



タケオは驚いたのだが、その夜にジュリーが家出したとの知らせが。



それからは彼の周りで奇妙なことが起こる。


ジュリーの母親が撃たれたにもかかわらず生きていたとか。





タケオは両親にそんな事実を打ち明けるが、驚くべき真相を知ることになる。



現代はロボットが支配する社会となっていて、人間は何の人権も持たない下等な生き物となっていたのだ。



完全に人間とロボットの立場は逆転していた。




人間は、ロボット人間の観衆が集まる闘技場で殺し合いをさせられるために育てられ、生かされていた。




タケオもそんな1人で、両親とも彼に対しての愛情はなく偽りの愛情だった。

「両親」と思い込んでいたふたりはロボットだった。


タケオはロボットたちに反抗し、闘技に出場の際に隙をついて脱走する。




そして愛するジュリーを連れて逃亡の最中、アトムが眠る博物館に忍び込んだ。



目覚めたアトムは、タケオの必死の訴えを受け入れて彼らを孤島にかくまうのだが........。






ここから3度のショッキングなことが起こる。

ひとつはアトムの最後。




2つ目は今回の出来事の、ことの真相。




3つ目は結末。



これがヒネリが利いたどんでん返し!





アトムは最初と終盤に登場するだけで、脇役なのだけど。



それも意外といえば意外で、もっと派手に活躍するのだと思ってた。



ストーリーも意外性が強かったけれど、いちばん意外だったことはアトム作品に今作のような青年誌風の作品が存在していた、



ということだろうか。




所々が劇画調で、描写も残虐的でもある。

どうみても少年誌向けではない。



それに物語はミステリー仕立て。




にもかかわらず、ヒーローのアトムが登場。

さらには彼の最後まで...............。





もうひとつの衝撃は、人間がロボットに支配されているという世界。





人間はそんなに偉いとは思わないけど、長い年月を経て自分たちが造ったロボットに支配され、虐げられ...........。



そして競技という殺し合いをさせられる。



血も涙もない。



科学が発展していくのはいいことだけど限度を超えてしまうと、いずれはこのような世界になってしまう。




鉄腕アトムでさえ、このように変わってしまった社会には太刀打ちできなかった。




行き過ぎた科学の発展の危険性。



これこそが作者である手塚治虫のメッセージだったのだろうか。





P.S


当作品は、講談社の手塚治虫漫画全集「鉄腕アトム」や、光文社「鉄腕アトム」に収録されています。








先日、延長コードを買いに行った。



迷った末に、よくパソコン系で使うような、コードにコンセントがひとつひとつ付いていて、スイッチを入切する機能が付いてるコードを購入した。




2メートルで2280円だったかな。



少々高めだと思ったけど。



帰宅してさっそく使ってみた。

コンセントに差し込むと、コードの本体部分に付いている青いランプが常時点灯している。

これは「雷ガード作動中」のランプらしい。




それはそれでいいのだけど.............。




この青ランプ、解除して消す方法ないのかな。

私は夜寝るときは、室内は真っ暗でないと気になるタイプ。



寝るときに、常に青い光がわずかとはいえ点灯しているのはどうも苦手だ。



自分は神経質すぎなのかな。

スマホなどがピカピカ点滅するのも気になってしまうし。



だからって毎夜、いちいち寝る前にコードをコンセントから抜くっていうのも面倒きわまりない。





結局、その新品のコードを使用するのはあきらめて、クローゼットの中から古いコードを探し出してきてそれを使うことにした。




それはしょうがないとしても、今回は2000円以上の出費.........。



私の感覚では、痛いわけでもないが安くない出費となった。




それだけあれば、田舎では通常料金で映画1本観れて飲み物も買えるかな。




もうちょっと考えてから買えばよかった、と思っても後の祭り。



せめてどこかでこのコード、買い取ってくれないかな、っていつものセコイ考え。




もう開封したし、入ってたケースなども捨ててしまった。

返金はまず無理。





こんなことは今回ばかりではない。



他にも、買ったのに使わなかったとか余計なモノを買ったとか、なんだか最近そんなパターン多いなぁ。




たとえば雑誌を買ったのにまったく読まなかったとか、サラッと目を通しただけで放っておいた、なんてことはたまにある。



今は雑誌も全然安くないのに。




財布の紐が固いことって良いことだと思う。



必要なものと不必要なものの見極めがキチンとできるって、やっぱり大事です。




お金は大事にしたい。

って、いつも思ってることなのに。




やっぱり誰かに言われないと治らないだろうな.......。

いや、言われても治らないか。(苦笑)