●親父のハゲ頭

 

 

 

今日、母をインフルエンザの注射をさせに病院に連れて行った。

 

 

平日の午後は空いているだろうと、行ったのだが、大外れだった。

 

 

3連休明けで、おお込みである。

 

 

 

 

1時間以上待ちそうなので、とりあえず母には、

 

 

食べるマスク」のアメを1つなめさせて、私は病院の付近を散歩する事にした。

 

 

このアメをなめる事によって、体の内側から抗菌作用を発揮するような

 

 

乳酸菌を摂取するので、マスクをしている以上に風邪予防になるという。

 

 

母はマスクは息がしにくいと嫌がるので、この商品は助かっている。

 

 

私も病院に行く時は、このアメを1つなめた上でマスクもしている。

 

 

 

 

 

 

病院の付近を散歩していると、目の前に理容店(床屋)の円柱の看板が目に入った。

 

 

あの赤と青と白の線がクルクル回っているあれである。

 


そう言えば、この前、クイズ番組でこの看板の名称は何?

 

 

という出題があった。

 

 

 


何だっけ?

 

 

 

 

そうだ、サインポールだ。

 

 

は人間の動脈を現し、静脈、そして白色包帯の色を表しているという。

 

世界共通のマークらしい。

 

 

 


別に行きたい訳ではないが、理髪店はシャッターが降りていて休業だった。

 

 

そういえば、今日は月曜日だったな。

 

 

 


日本の理髪店の多くは、月曜日が休業日な店が多い。

 

 

実はこの休業日に月曜日が多いというのには、少しだけ深い理由がある。

 

 

 

 

事は、日本がまだ第二次世界大戦中にさかのぼる。

 

 

当時、日本は石炭不足などにより、深刻な電力不足に陥っていた。

 

 

そこで、政府は1週間の内、1日だけ休電日を設けた。

 

 

つまり、週1日だけ、電力の供給をストップさせる日を決めたのである。

 

 

それが月曜日だったのだ。

 

 

そこで理容業界でも、電気が来ないのなら仕方が無い。

 

 

私達理容業界も月曜日を休業日にしようという事になったのである。

 

 

勿論今では休電日など無いが、理髪店が月曜日が休みなのは、その時の名残りだという。

 

 

 

 

 

 

そんなシャッターの降りた理髪店を見ていた時、

 

 

なぜか私は、の事を思い出していた。

 

 

 


父は、約7年前に他界している。  

 

 

その父が、毎月足しげく通っていたのが、この理髪店だったのだ。

 

 

大きな理髪店では無い。

 

 

夫婦二人でやっている、ごく小さな理髪店だ。

 

 

それなのに料金も3500円と強気だ。

 

 

 


別に、親父がどこの床屋に行こうが、かまわないのだが、

 

 

正直言って、親父はハゲだ。

 

 

それも白髪のハゲだ。

 

 

 


だから、遠くから見たら、坊主とそう変わりは無い。

 

 

 

私が思うに、どんなにこの床屋の腕が上手いのかは知らないが、

 

 

多分、そこらの安い1000円カットに行っても結果同じになるに違いなかった。

 

 

 


それなのに、親父は毎回決まった様に、あの理髪店に通った。

 

 

何かの会合で集まりがあったり、町内会があったりすると、

 

 

それにかこつけて、親父は決まって理髪店に立ち寄って髪をカットしていた。

 

 

だから、多分ならすと、20日間に1回位のペースで行っていたんじゃないだろうか。

 

 

 

無駄だ。

 

 

3回で一万円を超えてるじゃないか。

 

 

 


母も、内心3500円も出して床屋に行くのは無駄だと思っていたが、

 

 

母も私も、その事をはっきりと父に言う事は出来なかった。

 

 

父は一度決めた事は、家族が反対しても余り聞く耳を持たない人だった。

 

 


一度だけ、私が「もっと安い床屋が近くにあるよ。」と教えた事があった。

 

 

しかし父は、その場所や値段を聞きもせずに、ただ、

 

 

 

 

「まぁ、いいじゃないか。」と言うだけだった。

 

 


それが父の口癖だった。

 

 

 

 

それに父は、サービスに対して、ややバカ正直な所があった。

 

 

家族でバス旅行に行った事があったのだが、

 

 

途中でバスがトイレ休憩に寄った道の駅での事である。

 

 

道の駅では、よく試食コーナーがあったりして、

 

 

特産品を一口味見出来たりする。

 

 

 


その時、ちょうど自家製の海苔の佃煮の味見を一人の老婆がやっていた。

 

 

私も一口味見したのだが、イマイチだ。

 

 

当然、買わずにスルーだ。それが試食コーナーというものだ。

 

 


それからトイレに行ってから、バスに駆け込んだ。

 

 

少し経ってから、父がバスに戻って来た。

 

 

何か買ってきた様なので、母が袋の中を調べて見ると、

 

 

あのイマイチだった海苔の佃煮だった。それも3つも

 

 

母が、「貴方、海苔の佃煮なんて余り食べないじゃないの。」と言うと、

 

 

父が、「味見したから・・・」という。

 

 

ボクが「味見してからって、別に買わなくてもいいんだよ。」と言うと、

 

 

「まぁ、いいじゃないか。」と父。

 

 

 


父にはそういう所がある。

 

 

海苔の佃煮は、3つ1500円だから、まだ大した損害では無いが、

 

 


今でも忘れない出来事がある。

 

 

それは東京から千葉に引っ越して来た時の事だ。

 

 

 

2社に見積もりに来てもらい、最終的にある引っ越し業者に頼んだ。

 

 

うる覚えだが、多分18万円くらいかかったと思う。

 

 

トラックが朝来て、千葉の新居に荷物が収まる頃には日が暮れていた。

 

 

業者の人が3人ぐらい来て、汗だくになりながら、丁寧に父の家具を運んでいた。

 

 

父はその様子を、ずっと見ていて、多分感動したのだろう。

 

 

全ての荷物が、家に運び終わると、

 

 

父は3人の内、リーダーらしき男性の側に近寄って行き、

 

 

「ご苦労様。」と労いの言葉を言うと、

 

 

「3人で何か食べて。」と言って、なんと2万円を手渡したのである。

 

 

 


これには呆れた。

 

 

何というお人よしかと思った。

 

 

渡さなくてもいいお金である。

 

 

サービスも含めての18万なのだから。

 


しかも、食事代なら、3人で3000円でも十分だ。

 

 

相手は明日からは、もう会う事も無い他人になる人達に・・無駄だ。

 

 

 

 


私が父に、「なんで2万円もあげたの?」と聞くと、

 

 


父は、「まぁ、いいじゃないか。」と言うだけだった。

 

 

 

 

 

父は、アメリカ、マレーシアと海外勤務の多い人だったので、

 

 

チップを渡すという文化が身についてしまっていたのかもしれない。

 

 

 

 

父は支社長をしていた関係から、

 

 

毎年、お歳暮には沢山の品物が家に届いたが、

 

 

父が、引退すると、お歳暮は来なくなった。

 

 

お歳暮は、父に来たというより、会社の父という肩書に来ていたのである。

 

 


しかし、父が引退したというのに、

 

 

それでも2人だけ、いつまでもお歳暮を贈って来る人達がいた。

 

 

なんでも、父には本当にお世話になったと言う。

 

 

 


そういえば、マレーシアでも、

 

 

家での父は、無口で家族サービスも余りしない人だったが、

 

 

会社では、「かやさん、かやさん」と社員にとても慕われていたらしい。

 

 

父が帰国して、マレーシアとは関係がまったく無くなったのに、

 

 

マレーシアから何十人もの元社員から、クリスマスカードが来るのも不思議だった。

 

 

 

 

 

 


そんな父は、よく5千札を集めていた。

 

 

普通はお財布に万札が沢山詰まっているとカッコが良いものだが、

 

 

父の財布には、なぜか5千円札ばかりが詰まっていた。

 

 

今から考えると、それは、

 

 

もしかしたら、床屋でも5000円札を出して、

 

 

お釣りはいいからと言っていたのかもしれないし、

 

 

髭剃りなどの他のサービスを追加していたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

父は人に会う用事が無い月であっても、欠かさず床屋だけには行った。

 

 

ある時なんか、台風が近づいて来ていて、雨が降っているのに、

 

 

床屋に行くと言う。

 

 

母が、「何もこんな時に行かなくてもいいじゃないの。」と言うと、

 

 

「こういう日は、客も少ないだろうから、丁度いいんだ。」

 

 

と言って傘をさして出かけて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなある日、父は町の健康診断で引っかかり、

 

 

手遅れの肝臓がんがある事が判明した。

 

 

 

肝臓に約8cmの癌細胞。

 

 

当時、千葉に重粒子線治療をしてくれる所があったので、

 

 

最後の頼みの綱と思い、すぐにそこに駆け付けた。

 

 

しかし、父の癌は場所が悪く他の臓器にすごく近いので、重粒子線治療が出来ないという。

 

 

それを聞いて、父がボソッと、

 

 

「年貢の納め時かな。」と言ったのを今でも忘れない。

 

 


余命、半年。

 

 

 

 

それまでは、町内に住んでいる飲み友達と、毎週の様に飲みに行っていたのだが、

 

 

ガンが分かってからは、行かなくなった。

 

 

ところが、なぜか床屋だけに通ったのである。

 

 

父はガンになってから、人と会う機会がめっきり無くなって、

 

 

今更、髪型を決めても何の役にも立たないのに、いつも髪型を気にしていた。

 

 

そして、ちょっと散歩に行ってくると言っては、帰ってくると多分あの床屋に寄ったのだろう。

 

 

 

髪型だけを決まて帰って来た。

 

 

 


母も私も、床屋に行くのは無駄だと思っていたが、

 

 

余命少ない父に、進言する事はなかった。

 

 

 

 


そんな父の床屋通いは、父が歩けなくなるまで続いた。

 

 

父は歩けなくなって自分が床屋に行けなくなったからか、

 

 

一度私にこんな事を言った事がある。

 

 

「ひろし、あの床屋はとても上手だから、一度行ってみるといいぞ。」

 

 


だが、私は心の中でこう思っていた。

 

 

「誰が、あんな高い床屋行くかよ。

 

 

 オレは1000円カットで十分だぜ。親父。」

 

 

 


6月。父は静かに息を引き取った。

 

 

 

 

 

父は密葬でいいと言っていたが、生前見栄っ張りだった親父の為に、

 

 

私はお坊さんを呼んであげ、近くの斎場を借りて葬式をしてあげた。

 

 

 


親戚や元同僚という方に混じって、

 

 

生前飲み友達だったという近所の人達も、最後のお別れに来て下さった。

 

 

その中に、一人だけ

 

 

会った事も見た事も無い男の人が参列に来られていた。

 

 

 


近所の人に、聞いてみると、どうやら床屋のご主人だという。

 

 

父が足しげく通った、あの床屋のご主人だ。      泣いていた。

 

 

 

 


そして、この夜、

 

 

ハゲ頭だった父親が、なぜあの床屋を利用し続けたのか、

 

 

 

その本当の理由を、初めて知ったのである。

 

 

 

 

 

 

近所の方の話に寄ると、

 

 

夫婦でやっている、その床屋さんには、

 

 

一人娘が居るそうだが、

 

 

 

 

 


その子が、難病で生活が大変だという。

 

 

 

 

 

 

 


父は家では仕事の話などしない人で、気難しい人だった。

 

 

しかし、もしかしたら、親父は私達の知らない所で、

 

 

会社ではみんなに慕われる人だったのかもしれない。

 

 

そう思った。

 

 

 

 

 

今では、時々、

 

 

 

 

 

 


私も父と同じ、

 

あの床屋に行く事がある。

 

END

●奇跡だった大学合格

 

 


私はマレーシアの国際学校を卒業すると、

 

 

アメリカのワシントン大学に入学した。

 

 

この大学は周辺の大学よりも入るのが難関な大学だという。

 

 

日本人の集まりなどで、私がワシントン大学に行っていると言うと、

 

 

「よく入れたね。」などと言われたものである。

 

 

何人かの日本人は、ワシントン大学を受験したが、受からなかったらしい。

 

 

 

 


こんな事を言うと、

 

 

いかにも私が勉強が出来たと自慢している様に聞こえるかもしれないが、

 

 

そうではない。

 

 

 

むしろ、勉強はよく出来ない方だった。

 

 

なにしろ、マレーシアの高校では数学以外は英語だったので、

 

 

やっとこさ卒業するだけで精一杯だったのだ。

 

 

国語(英語)の授業などほぼ落第だった。

 

 

しかし、国語の男性の先生が、男気のある人で、

 

 

当時ちょうど、私達の高校とライバル校が、バスケットの対抗試合で戦った。

 

 

その時、私は学校代表の一人としてガードで戦っていた。

 

 

負けている状況だったが、終盤の私のキラーパスが何本か綺麗にチームメイトに渡り、

 

 

見事逆転したのだった。

 

 

学校の体育館で行われたそのゲームをたまたま、あの国語の教師が見ていたのだ。

 

 

そして後日、彼は私にこう言ってくれた。

 

 

「君は学校を救ってくれた。   そんな君を落第には出来ない。」

 

 

こうして私は首の皮一枚で、なんとか卒業出来たにすぎなかった。

 

 

 


ワシントン大学を受けるにあたって、TOEFLの試験も受けた。

 

 

難しかった。多分半分も出来ていないだろう。

 

 

噂で、ワシントン大学なら、TOEFL何点以上という話を聞いて絶望した。

 

 

大学受験にあたり、高校の成績とTOEFLの結果もワシントン大学に郵送された。

 

 

どちらも最悪だ。

 

 

 

私は生れた場所であるシアトルにあるワシントン大学以外は受験しなかった。

 

 

後から考えたら、シアトル大学でも滑り止めに受けときゃ良かったかと悔やんだ。

 

 

日本に帰って日本の大学をどこか受験する方向で考え始めた。

 

 

しかし、マレーシアの高校の学力で日本の大学に入れるほど日本の大学は甘くない。

 

 

 

 

 

オレは何年浪人すんだろうか。

 

 

そんな気持ちが頭をよぎった。

 

 

 

そんな時、ワシントン大学から合格通知が届いたのだ。

 

 

両親が喜ぶ中、当の本人である私だけが半信半疑だった。

 

 

 

 

 

なぜ・・

 

 

なぜ、成績最悪と言ってもいい私が合格したのだろうか。

 

 

 

 

 

この疑問は、大学に通い始めても、解ける事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、のちのちになって、

 

 

友人と雑談していた話から、おぼろげだが、

 

 

私が合格した本当の理由かもしれない事が、何となく判明した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


それは私がマレーシアの高校を卒業した時にさかのぼる。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後の挨拶にと、職員室を訪れた時だった。

 

 

校長先生と、2・3人の先生しかいなかったのだが、

 

 

その中に、あの国語の先生がいた。

 

 

 

すると、国語の先生が、つかつかと近寄って来て私に、

 

 

「お前は、どこ受験するんだ?」と聞いてきた。

 

 

私はバカにされるんだろうなぁ。と思いながら、

 

 

ワシントン大学を受験します。と答えた。

 

 

 

 

 

しかし先生は、バカにするどころか、

 

 

「君なら行けるだろう。頑張れよ。」と言ってくれただけではなく、

 

 

 

小さな声で、

 

 

私にこうアドバイスしてくれたのだ。

 

 

 

 

「君は、何かボランティア活動した事があるのか?

 

 

 

 もしあれば、

 

 

 それを詳しく、残さず全部手紙に書いて添えるんだ。

 

 

 いいね。

 

 

 絶対やるんだよ。いいね。

 

 

 じゃあ、頑張って。 Good Luck!」

 

 

(ちなみに、日本の方は「Good luck!」と言われると、

 

 「幸運を」って言ってくれたんだと思う人が多いでしょうが、

 

 実際は、ただ「頑張ってね!」とか「上手くいく事を願ってるよ!」

 

 「上手くいくといいね。」の様な軽い励ましの言葉だったりします。)

 


 

 

 

 

 

 

 

そうは言われても、私はそんな手紙を書くつもりはありませんでした。

 

 

 

なにしろボランティア活動なんてした事ないし、

 

 

あったとしてもそれを英語で書くなんて面倒な事は出来ない。

 

 

そして、なによりもそんな手紙1つで合格する訳が無い。

 

 

 

 

 

 

しかし、時間が経つにつれ、

 

 

あの国語の先生が言った事が心に響いてきた。

 

 

それと同時に、そう言えば日本に居る時にボーススカウトに入っていた事。

 

 

また、そのボーイスカウトは教会が運営していたので、

 

 

教会の活動にも時々参加していた事を思い出した。

 

 

不思議なもので、一旦思い出すと、書きたくなるものである。

 

 

 

 


とりあえず、日本語で書いておこう。

 

 

ボーイスカウトで老人ホームに慰問に行った事。

 

ボーイスカウトで地域の清掃活動をした事。

 

教会の人達と、焚き出しを手伝った事。

 

ついでにボランティアではないが、溺れていた犬を助けた事まで書いていた。

 

 

 


すると、普段は何もしてくれない父が、

 

 

何を思ったのか、翻訳してくれるという。

 

 

こうして、願書と一緒にその手紙は同封されて送られたのである。

 

 

 

 

 


そして、あとから振り返って考えた時、

 

 

この他愛も無いたった1通の手紙が、

 

 

勉強も出来なかった私を合格させたのではないかと感じたのである。

 

 

 

 

 

実は、アメリカに来ると分かるのですが、

 

 

アメリカにはキリスト教の方が多く、

 

 

「隣人を助けよ。」という精神が根付いている。

 

 

だから、中学生であってもボランティアをさせるし、あちこちでボランティア活動を耳にした。

 

 

犯罪者であっても、軽い罪ならボランティアをすれば許されるなんて事もある。

 

 


そして、ボランティアとは関係が無いと思われる大学受験だが、

 

 

多くの大学受験の願書には、ボランティアの活動歴を書く欄があるというのです。

 

 

日本ではとても考えられない事ですが、

 

 

それほどアメリカではボランティア活動が重視されていたのです。

 

 

 


もしかしたら、

 

 

ワシントン大学の願書受付スタッフもこう思ったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こいつはバカだけど、   落とせない。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 


とても厳しかったけど、心の優しい人だった、

 

国語の先生、ありがとう。


END

 

 

大恋愛した人の元へ

 

 

 


このお話は、一昨々日のブログ(●電気が点いたり消えたりするアパート)の続きです。

 

 

 

従って、一昨々日のブログ(https://ameblo.jp/hirosu/entry-12324238687.html

 


を先にお読みください。


そしてから下をお読み下さい。
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[前回までのあらすじ

 

 

田中さんのご実家は、昔から小平に多くの土地を持っていた地主さんだったという。

 

8年前、その実家に隣接した土地に建っていた建物を取り壊し、

 

駐車場とアパートを一棟建てた。ところが、いざそのアパートを運営し始めると、

 

一階の西側の2部屋だけに、異常な現象が起きるというのだ。

 

夜になると、その部屋の電気が点いたり消えたりするというのである。

 

そこで電気屋を呼んで調べてもらったのだが、異常は無かったという。

 

ところが、その夜の11時過ぎの事だった。田中さんの所に、今度は、

 

「今、点いたり消えたりしているので、見に来て欲しい。」と電話が来た。

 

行って見ると、確かに電気が点いたり消えたりしている。

 

変えたばかりの電球が点いたり消えたりし始めたのである。

 

その翌日、電気屋に来てもらったが、異常は見当たらなかったという。

 

結局、そこの住民は、「こんな気持ち悪い所には住めない。」と出ていたという。

 

それから1ヶ月後、その隣の部屋にも大学生の方が引っ越して来たのだが、

 

同じ様に、明かりが点いたり消えたりするという苦情が来たのである。

 

つまり、田中さんの新築のアパートは、1階の西側2部屋だけ、

 

借主を募集する事も出来ず、開店休業となってしまったのである。

 

新築なだけに、前の住人が原因の事故物件でも無く幽霊を見たという様な事も無かった。

 

困った田中さんは、家族と協議し、霊能者の方を呼ぶ事にしたのである。

 

なかなか現場に来てくれるという霊能者が見つからなかったのだが、

 

雑誌の広告でやっとアパートを診てあげましょうという霊能者に辿り着いた。

 

女性の霊能者で、落ち着いた感じの方だった。

 

さっそく田中さんは、彼女を車に乗せ問題のアパートへと案内した。

 

現場のアパートに着くと、しばらくアパート全体を外から眺めていたという。

 

「アパートの西側の空気が淀んでいる感じがします。」

 

いきなり当たっているので、驚いたという。

 

実際、アパートの一階の西側の2部屋だけに、異常な現象が起きているからだ。

 

実は田中さん、霊能者の方には、アパートで電気が消えたり点いたりする

 

現象が起きるという事は言っていたが、まだどの部屋で起きているのかは、

 

現地に案内してからと思っていたから、伝えていなかったのだという。

 

部屋に入ると、霊能者の方は、静かに全ての部屋を見て回り、

 

両方の部屋を見てから、霊能者の方は、こう言ったという。

 

「そんなに強くないけど、どちらの部屋も霊気を感じます。

 

 それも下の方から。 多分、土地に原因がある気がします。」

 

田中さん霊能者の方に、「ここには以前、先代の家が建っていまして、

 

 それを取り壊して、このアパートを建てました。 確か先代の家があったのが、

 

この2部屋辺りです。」その後、霊能者の方が、部屋のあちこちに九字を切ったり、

 

念仏の様な事を唱えながら、お祓いをしてくれたという。

 

また、先祖の霊の怒りを感じるので、

 

供養が足りないのも原因ではないかと指摘されたという。

 

確かに田中さんは、先祖の供養などは長男任せだったので、

 

ほとんどしていなかったという。そこで、その日から田中さんも、

 

さっそく墓参りや仏壇の掃除、供養を始め、毎日ご先祖供養をしたという。

 

そして、霊能者が来てくださってから、一週間が経った頃、

 

試しに1階の西側の2部屋に夜中に来て、

 

2時間ほど明かりを点けっぱなしにしてみたが、明かりはちゃんと点き、

 

点いたり消えたりという点滅現象はしなくなったという。さすがは、霊能者である。

 

たった2時間足らずの時間で霊現象を解決してしまったのである。

 

こうして問題が解決した2部屋の内、一部屋だけを試しに貸し出してみる事にした。

 

募集すると、少し安くしたのも幸いしたのか、すぐに借り手が見つかったという。

 

その部屋を借りた大学生の女性からは、特に苦情らしき電話はかかってこなかった。

 

何事も無く、1ヵ月が過ぎ、2ヵ月が過ぎ・・・そろそろもう一部屋も

 

普通に貸し出そうかと、家族で話し合った。すると、その次の日だったという。

 

あの一階の西側の問題の部屋を借りていた女性から、電話があったのである。

 

「夜になると、部屋の明かりが点いたり消えたりして、

 

 電球を変えても直らないんですが、みてもらえますか?」

 

また、あの霊現象が始まったのである。

 

それは悪霊がまた、あの部屋に復活した合図だった。

 

霊能者の方がお祓いをしてくれた、約3ヶ月後の事だったという。

 

それから8年間の現在まで、あの二部屋だけ荷物置き場になっているという。

 

ある時、占いで私に電話してきた時、なにげにアパートの事もついで聞いて来たのである。

 

「じゃあ、一度そのアパートを診てみましょう」こうして、私は霊能者の方でも

 

解決出来なかった問題に挑む事になった。いざ、問題のアパートへ。

 

アパート自体は、築8年相応のごく普通の2階だてのアパートである。

 

周りに(特に西側に)気になる様な川や池、墓地や神社仏閣などは無かった。

 

霊能者の方が感じられたという、アパートの西側の空気が淀んでいるという感じは、

 

私にはよく捉えられなかったが、アパートの西側の方が寂しい感じはあった。

 

2部屋とも丹念に調べたが、特に異様に感じる場所は無かった。

 

ただ、建物の問題では無く、土地の問題だろうという予想はついていたのである。

 

勿論、霊能者が土地に問題があると言ったからというのも大きな支えでもあるのだが、

 

私の今までの経験から見ても、土地が問題だという感じがしていた。

 

田中さんはご両親と暮らしていて、このアパートの土地もご両親のものである。

 

そこで、田中さんのご両親にお話を伺う事にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田中さんの家に着くのが、丁度お昼時と重なってしまったので、

 

 

家だけ教えてもらって、私は近くで昼をとり、改めて午後1時にお伺いする事になった。

 

 

田中さんは、昼食もどうぞ言ってくれたのだが、

 

 

これからご両親に色々と聞くにあたって、見ず知らずの私が急に訪問して、

 

 

昼食までご馳走になったのでは、かなり印象が悪くなる。

 

 

 

 

 

 

 

小平には、今もあると思うが当時、

 

 

小平糧(かて)うどんという手打ちの美味しいうどんがとても有名だったので、

 

 

それを食べてから、田中さんの家に赴いた。

 

 

 

 

 

 

田中さんのご両親は、とても穏やかで親切な方達だった。

 

 

まぁ、私がアパートの2部屋の問題の解決にやってきた人だと、

 

 

きっと聞かされていたのだろう。

 

 

 

私が、アパートが建つ前の様子が分かるものがあれば見せて欲しいとお願いすると、

 

 

何やら押し入れの中を探して、当時が分かる写真を探し出してきてくれた。

 

 

 

 


昔、田中家はこの辺一体の地主だったという。

 

 

田中さんの祖父は、かなり先見の目を持っていた人だった様で、

 

 

戦後、土地開発や住宅建築で財を成した方だったという。

 

 

第ニ次世界大戦後、都心部の住宅難に対応するため、

 

 

小平に都営住宅の建設や一般住宅の増加が急速に増え、同時に工場の誘致、

 

 

大学の誘致などが活発となり、お祖父さんの会社も急成長したという。

 

 

当時の自宅の写真を見せてもらったが、かなり立派な作りだった。

 

 

 

 

私がその自宅の写真を見ながら、

 

 

「もしかして、あのアパートは、この自宅を取り壊して建てたものでしょうか?」

 

 

と聞くと、違うと言う。

 

 

そう言うと、もう1つ別の角度から自宅を写した写真を取り出して見せてくれた。

 

 

その写真には、立派な自宅の奥の方に、もう1つ平屋の家が建っていた。

 

 

離れの家だという。

 

 

当時建設作業員や徹夜の仕事があった時の為に建てた家だという。

 

 

その離れの家を取り壊して、現在のアパートを建てた言うのだ。

 

 

つまり、その取り壊す前の離れの家があった場所こそが、

 

 

あのアパートの怪奇現象が起きる西側の2部屋があった場所だった。

 

 


「なるほど、離れの家を取り壊して、あのアパートを・・

 

 

 


ちょっと聞きにくい事だったのだが、聞かない訳にはいかなかった。

 

 

その為に、ここまで来たと言ってもいいのだ。

 

 

 


「ちょっと聞きにくい事を、お聞きしますが、

 

 これもあのアパートを怪奇現象の謎を解く為だと思って、

 

 よろしければ、教えて下さい。」と前ふりをしてから、私はご両親に尋ねた。

 

 


「もしかして、

 

 

 その離れの家で、誰か亡くなった事はありませんか?

 

 もしくは、惨劇や悲劇が起きたという様な事はありませんでしたか?」

 

 


すると、しばらくして、お父様が重い口を開いてくれた。

 

 

 

 

「実は、あの離れの家で、

 

 私のお義母さんが、自殺しています。」

 

 

 

 

それは今から約50年も昔の出来事だったという。

 

 

 

 

当時、父は建設関係の仕事で大成功を収めていた。

 

 

ところが、母が病気で亡くなってから、田中家に悲劇の暗雲が漂い始めたと言う。

 

 

母亡き後、父は一回り年下の従業員の女の子(和子さん)と大恋愛して、

 

 

親戚一同が猛反対する中、そのまだ二十歳にも満たない和子さんと結婚したのである。

 

 

だから、結婚当初から、和子さんに対する姑や小姑の風当たりは強かったという。

 

 

一緒に暮らしていても、無視したり、陰口をしたりと冷たかった。

 

 

しかし、父親の和子さんに対する愛情はすごく、たった1日でも暇が出来ると、

 

 

旅行好きな和子さんを連れだって、二人で全国に旅行に出かけたという。

 

 

 

 

 

 

 


そんな折、小平に日本脳炎が大流行した年があったという。

 

 

その時に父も日本脳炎にかかり、入院したのだが重症で全身麻痺にまで。

 

 

若妻の和子さんは、毎日毎日病院に通って看病したという。

 

 

 

 

当時、日本脳炎のワクチンはまだ開発されていなかったという。

 

 

もはや父の命も長く無いと悟った祖父母や小姑達は、

 

 

今までにも増して、和子さんをイジメる様になった。

 

 

なにしろ、もし父が亡くなると、その遺産は若い和子さんの総取りとなるのである。

 

 

普通、父親が亡くなると、その遺産は、妻と子供に引き継がれる。

 

 

つまり、遺産は、親や兄弟姉妹には配分されないのだ。

 

 

しかし、その亡くなった父親に妻や子供が居なければ、親や兄弟姉妹に配分される。

 

 

だから、和子さんさえ居なければ、父の遺産は親や兄弟姉妹が貰える訳です。

 

 

 


その時、私は「あれ?」と思って、お父様に聞いてみました。

 

 

「でも、和子さんだけでなく、子供である貴方も、相続出来るのでは?」

 

 

すると、お父様が、

 

 

「実は、私、父が結婚した時、母の連れ子だったんです。」という。

 

 

「連れ子は、相続権が無いのですか?」と聞くと、

 

 

連れ子は、相続権が無いのだという。

 

 

ただし、結婚後、養子縁組をすれば、連れ子であっても実子として、

 

 

相続権が与えられるのだが、お父様の場合、養子縁組をしていなかったという。

 

 

よって、もし父親が亡くなった場合、

 

 

父の遺産は、妻である若い和子さんの総取りとなるという。

 

 

 


それから、親や兄弟姉妹による和子さんイジメが本格化したという。

 

 

怖かった父が、下半身不随で入院している今、誰もそれを止める者はいなかった。

 

 

彼は当時まだ中学生で、祖父母や叔父叔母の言う事に逆らえず、

 

 

和子さんがイジメられているのを見ても、見て見ないふりをしていたという。

 

 

彼にとっても、若い継母に親しみが持てなかったと当時を振り返った。

 

 

まず最初に、和子さんを実家の立派な家から、離れの家に追い出したのだ。

 

 

そして、経理を担当していた伯母が、父親の入院費などで、お金に余裕が無いと言い、

 

 

余り和子さんに生活費を渡さない様にしたばかりか、

 

 

離れに通じる電気をワザと切断して、離れに電気が行かない様に細工したのだった。

 

 

だから、和子さんは電気の無い生活を強いられ、ラジオも聞けなくなり、

 

 

冬は寒くさぞかし辛かったと思われた。

 

 

そして、そんな生活に耐えかねたのか、ある日その離れで自殺してしまったという。

 

 

その事を人づてに聞いた父は、病院で怒りながら、1ヶ月後に亡くなった。

 

 

 

 

私はその話を聞いて、

 

 

原因はそれだと感じた。

 

 

 


なぜなら、

 

 

問題のアパートで起きる電気が点いたり消えたりする現象と、

 

 

自殺した和子さんが受けた、電気を切られた生活を強いられた話が、

 

 

妙に一致するのである。

 

 

 


こんな偶然は無い。

 

 

 

 


電気の怨みは、電気で返しているのだ。

 

 

霊障は、時にこうした一致をみせる事がある。

 

 

 

 


電気に関する霊障を起こす事によって、

 

 

霊障を起こしているのは、私だぞ!という事を訴えているのである。

 

 

 


ちょうどルパン三世が、宝石を盗んだ後に、

 

 

ルパン三世参上と名刺を置いていくのと似ている。

 

 

 

 

 

さて、原因が大体分かったが、あとはどう対処したらいいかという問題だ。

 

 

 

 

まず、アパートの2部屋に霊障を起こしているのは、誰かという問題だ。

 

 

これは間違いなく2人の内、どちらかの霊だろう。

 

 

■イジメで自殺した和子さん。もしくは、

 

■日本脳炎で亡くなったお父さん

 

 


そう考えた時、私は和子さんの霊では無く、お父さんの霊ではないかと感じた。

 

 

それには3つの理由がある。

 

 

■まず、和子さんの霊なら、自殺した場所に地縛霊として残っていたりするのだが、

 

その場合、跡地に建てられた場所に居る訳だから、

 

和子さんの幽霊を見たとか、ラップ音がするとかの現象が起きてもおかしくないが、

 

そういう目撃情報は、全く無い。電気の異常現象だけである。

 

 

■霊能者が解決した後、再度電気の異常現象が始まったのが、

 

家族会議で、もう1つの部屋を貸し始めようと話し合った直後だったというのが、

 

偶然過ぎる。これは家族の話を霊が聞いていたのはないだろうか。

 

そうなると、現場を離れられない地縛霊には出来る芸当では無い。

 

 

■そして、最後に、

 

もしあのアパートに居る地縛霊だったのなら、

 

霊能者の行った除霊や供養で、解決されたはずではないだろうか。

 

 

 

 

よって、アパートで起きる怪現象は、

 

 

日本脳炎で亡くなった父親の霊ではないかと思ったのである。

 

 

 


そうなると、あとはどうやって父親の霊をなだめて、霊障を終わらせるかである。

 

 


まずは、父親の供養が前提になるが、

 

 

それだけでは収まらない感じがした。

 

 

 

かなり強烈な怨みである。

 

 

なにしろ、大恋愛の上、親族の反対を押し切って愛し合った妻を、

 

 

イジメられ自殺に追い詰められて亡くしたのである。

 

 

 

 


私は少し考えてから、田中さんにこうアドバイスした。

 

 

 


それは、今日から毎日、自宅の仏壇と問題のアパートで、

 

 

亡き父親(田中さんの娘さんにとっては祖父)の供養をする事。

 

 

その時に、水をお線香を供えながら、

 

 

「お父さん、和子さんに冷たくしてしまいどうもすみませんでした。

 

 どうかお許し下さい。

 

 そして、どうか成仏なさって、来世も和子さんと一緒になって下さい。」

 

 


ここまでは、私がよくアドバイスする供養の文句なのだが、

 

 

今回は特別な一言を加えて供養してもらう様にアドバイスした。

 

 

 

 


すると、その一言に効果があったのか。

 

 

1ヵ月ほど供養をすると、アパートでの怪現象が治まった。

 

 

今では、あの2部屋も無事人に貸せているという。

 

 

 

 

 

 

私が田中さんにアドバイスした、特別な一言

 

 

 

それは、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「お父さん、貴方の近くに光が見えますか?

 

 

 もし見えたら、どうか光の方に行ってみて下さい。

 

 

 

 

 

 

 


 そこで、貴方が愛した和子さんが、待っていますよ。」


END