●親父のハゲ頭
今日、母をインフルエンザの注射をさせに病院に連れて行った。
平日の午後は空いているだろうと、行ったのだが、大外れだった。
3連休明けで、おお込みである。
1時間以上待ちそうなので、とりあえず母には、
「食べるマスク」のアメを1つなめさせて、私は病院の付近を散歩する事にした。
このアメをなめる事によって、体の内側から抗菌作用を発揮するような
乳酸菌を摂取するので、マスクをしている以上に風邪予防になるという。
母はマスクは息がしにくいと嫌がるので、この商品は助かっている。
私も病院に行く時は、このアメを1つなめた上でマスクもしている。
病院の付近を散歩していると、目の前に理容店(床屋)の円柱の看板が目に入った。
あの赤と青と白の線がクルクル回っているあれである。
そう言えば、この前、クイズ番組でこの看板の名称は何?
という出題があった。
何だっけ?
そうだ、サインポールだ。
赤は人間の動脈を現し、青は静脈、そして白色は包帯の色を表しているという。
世界共通のマークらしい。
別に行きたい訳ではないが、理髪店はシャッターが降りていて休業だった。
そういえば、今日は月曜日だったな。
日本の理髪店の多くは、月曜日が休業日な店が多い。
実はこの休業日に月曜日が多いというのには、少しだけ深い理由がある。
事は、日本がまだ第二次世界大戦中にさかのぼる。
当時、日本は石炭不足などにより、深刻な電力不足に陥っていた。
そこで、政府は1週間の内、1日だけ休電日を設けた。
つまり、週1日だけ、電力の供給をストップさせる日を決めたのである。
それが月曜日だったのだ。
そこで理容業界でも、電気が来ないのなら仕方が無い。
私達理容業界も月曜日を休業日にしようという事になったのである。
勿論今では休電日など無いが、理髪店が月曜日が休みなのは、その時の名残りだという。
そんなシャッターの降りた理髪店を見ていた時、
なぜか私は、父の事を思い出していた。
父は、約7年前に他界している。
その父が、毎月足しげく通っていたのが、この理髪店だったのだ。
大きな理髪店では無い。
夫婦二人でやっている、ごく小さな理髪店だ。
それなのに料金も3500円と強気だ。
別に、親父がどこの床屋に行こうが、かまわないのだが、
正直言って、親父はハゲだ。
それも白髪のハゲだ。
だから、遠くから見たら、坊主とそう変わりは無い。
私が思うに、どんなにこの床屋の腕が上手いのかは知らないが、
多分、そこらの安い1000円カットに行っても結果同じになるに違いなかった。
それなのに、親父は毎回決まった様に、あの理髪店に通った。
何かの会合で集まりがあったり、町内会があったりすると、
それにかこつけて、親父は決まって理髪店に立ち寄って髪をカットしていた。
だから、多分ならすと、20日間に1回位のペースで行っていたんじゃないだろうか。
無駄だ。
3回で一万円を超えてるじゃないか。
母も、内心3500円も出して床屋に行くのは無駄だと思っていたが、
母も私も、その事をはっきりと父に言う事は出来なかった。
父は一度決めた事は、家族が反対しても余り聞く耳を持たない人だった。
一度だけ、私が「もっと安い床屋が近くにあるよ。」と教えた事があった。
しかし父は、その場所や値段を聞きもせずに、ただ、
「まぁ、いいじゃないか。」と言うだけだった。
それが父の口癖だった。
それに父は、サービスに対して、ややバカ正直な所があった。
家族でバス旅行に行った事があったのだが、
途中でバスがトイレ休憩に寄った道の駅での事である。
道の駅では、よく試食コーナーがあったりして、
特産品を一口味見出来たりする。
その時、ちょうど自家製の海苔の佃煮の味見を一人の老婆がやっていた。
私も一口味見したのだが、イマイチだ。
当然、買わずにスルーだ。それが試食コーナーというものだ。
それからトイレに行ってから、バスに駆け込んだ。
少し経ってから、父がバスに戻って来た。
何か買ってきた様なので、母が袋の中を調べて見ると、
あのイマイチだった海苔の佃煮だった。それも3つも。
母が、「貴方、海苔の佃煮なんて余り食べないじゃないの。」と言うと、
父が、「味見したから・・・」という。
ボクが「味見してからって、別に買わなくてもいいんだよ。」と言うと、
「まぁ、いいじゃないか。」と父。
父にはそういう所がある。
海苔の佃煮は、3つ1500円だから、まだ大した損害では無いが、
今でも忘れない出来事がある。
それは東京から千葉に引っ越して来た時の事だ。
2社に見積もりに来てもらい、最終的にある引っ越し業者に頼んだ。
うる覚えだが、多分18万円くらいかかったと思う。
トラックが朝来て、千葉の新居に荷物が収まる頃には日が暮れていた。
業者の人が3人ぐらい来て、汗だくになりながら、丁寧に父の家具を運んでいた。
父はその様子を、ずっと見ていて、多分感動したのだろう。
全ての荷物が、家に運び終わると、
父は3人の内、リーダーらしき男性の側に近寄って行き、
「ご苦労様。」と労いの言葉を言うと、
「3人で何か食べて。」と言って、なんと2万円を手渡したのである。
これには呆れた。
何というお人よしかと思った。
渡さなくてもいいお金である。
サービスも含めての18万なのだから。
しかも、食事代なら、3人で3000円でも十分だ。
相手は明日からは、もう会う事も無い他人になる人達に・・無駄だ。
私が父に、「なんで2万円もあげたの?」と聞くと、
父は、「まぁ、いいじゃないか。」と言うだけだった。
父は、アメリカ、マレーシアと海外勤務の多い人だったので、
チップを渡すという文化が身についてしまっていたのかもしれない。
父は支社長をしていた関係から、
毎年、お歳暮には沢山の品物が家に届いたが、
父が、引退すると、お歳暮は来なくなった。
お歳暮は、父に来たというより、会社の父という肩書に来ていたのである。
しかし、父が引退したというのに、
それでも2人だけ、いつまでもお歳暮を贈って来る人達がいた。
なんでも、父には本当にお世話になったと言う。
そういえば、マレーシアでも、
家での父は、無口で家族サービスも余りしない人だったが、
会社では、「かやさん、かやさん」と社員にとても慕われていたらしい。
父が帰国して、マレーシアとは関係がまったく無くなったのに、
マレーシアから何十人もの元社員から、クリスマスカードが来るのも不思議だった。
そんな父は、よく5千札を集めていた。
普通はお財布に万札が沢山詰まっているとカッコが良いものだが、
父の財布には、なぜか5千円札ばかりが詰まっていた。
今から考えると、それは、
もしかしたら、床屋でも5000円札を出して、
お釣りはいいからと言っていたのかもしれないし、
髭剃りなどの他のサービスを追加していたのかもしれない。
父は人に会う用事が無い月であっても、欠かさず床屋だけには行った。
ある時なんか、台風が近づいて来ていて、雨が降っているのに、
床屋に行くと言う。
母が、「何もこんな時に行かなくてもいいじゃないの。」と言うと、
「こういう日は、客も少ないだろうから、丁度いいんだ。」
と言って傘をさして出かけて行った。
そんなある日、父は町の健康診断で引っかかり、
手遅れの肝臓がんがある事が判明した。
肝臓に約8cmの癌細胞。
当時、千葉に重粒子線治療をしてくれる所があったので、
最後の頼みの綱と思い、すぐにそこに駆け付けた。
しかし、父の癌は場所が悪く他の臓器にすごく近いので、重粒子線治療が出来ないという。
それを聞いて、父がボソッと、
「年貢の納め時かな。」と言ったのを今でも忘れない。
余命、半年。
それまでは、町内に住んでいる飲み友達と、毎週の様に飲みに行っていたのだが、
ガンが分かってからは、行かなくなった。
ところが、なぜか床屋だけに通ったのである。
父はガンになってから、人と会う機会がめっきり無くなって、
今更、髪型を決めても何の役にも立たないのに、いつも髪型を気にしていた。
そして、ちょっと散歩に行ってくると言っては、帰ってくると多分あの床屋に寄ったのだろう。
髪型だけを決まて帰って来た。
母も私も、床屋に行くのは無駄だと思っていたが、
余命少ない父に、進言する事はなかった。
そんな父の床屋通いは、父が歩けなくなるまで続いた。
父は歩けなくなって自分が床屋に行けなくなったからか、
一度私にこんな事を言った事がある。
「ひろし、あの床屋はとても上手だから、一度行ってみるといいぞ。」
だが、私は心の中でこう思っていた。
「誰が、あんな高い床屋行くかよ。
オレは1000円カットで十分だぜ。親父。」
6月。父は静かに息を引き取った。
父は密葬でいいと言っていたが、生前見栄っ張りだった親父の為に、
私はお坊さんを呼んであげ、近くの斎場を借りて葬式をしてあげた。
親戚や元同僚という方に混じって、
生前飲み友達だったという近所の人達も、最後のお別れに来て下さった。
その中に、一人だけ
会った事も見た事も無い男の人が参列に来られていた。
近所の人に、聞いてみると、どうやら床屋のご主人だという。
父が足しげく通った、あの床屋のご主人だ。 泣いていた。
そして、この夜、
ハゲ頭だった父親が、なぜあの床屋を利用し続けたのか、
その本当の理由を、初めて知ったのである。
近所の方の話に寄ると、
夫婦でやっている、その床屋さんには、
一人娘が居るそうだが、
その子が、難病で生活が大変だという。
父は家では仕事の話などしない人で、気難しい人だった。
しかし、もしかしたら、親父は私達の知らない所で、
会社ではみんなに慕われる人だったのかもしれない。
そう思った。
今では、時々、
私も父と同じ、
あの床屋に行く事がある。
END

