●1年間の「さよなら」。

 


私の母は今でこそ立正佼成会ですが、昔はキリスト教徒(カトリック)でした。

 

 

その影響で、私も何回か教会について行った結果、

 

 

所沢の教会で行われていたボーイスカウトに入隊しました。

 

 

ボーイスカウトになるには、小学6年生以上でないとなれないのですが、

 

 

当時もうすぐ6年生でもあった私はカブスカウト(小学3年~小学5年)ではなく、

 

 

特別にボーイスカウトに入れてもらえる事になりました。

 

 

その陰には、教会で知り合った6年生の吉川君が、誘ってくれ、

 

 

ボーイスカウトの隊長に頼み込んでくれた事もあったからでした。

 

 

 


皆さんは、教会、特にカトリックでも大きな教会には、

 

 

信者の方の悩みを聞いてくれ、アドバイスを頂ける場所があるのをご存知でしょうか?

 

 

映画などで、信者の方が個室に入って神父さんに悩みを打ち明ける部屋です。

 

 

その場所は告解堂とか、ゆるしの秘蹟と呼ばれる、ざんげ室です。

 

 

そこで神父さんが無料で信者の方の悩みを聞いてくれる訳です。

 

 


今日は、私が当時印象に残っている神父さんのカウンセリングとも言える、

 

 

ある信者の方へ実際に語った言葉の一例を書いてみたいと思います。

 

 

私もたまに参考にさせて頂いている言葉です。

 

 

 

 

実は、ある信者とは、友達の吉川君その人の事です。

 

 

彼の母親は、肝臓ガンに始まった癌が全身にまわり余命1年が宣告されていたのです。

 

 

だから、学校から帰るとすぐに母親のお見舞いに行くという毎日でした。

 

 

ただ母親のたってのお願いから、ボーイスカウトだけはちゃんと続けて欲しいと言われて、

 

 

今も吉川君は頑張って続けていたのです。

 

 

 


そんな夏の日の事です。

 

 

吉川君のお母さんが宣告された1年が経とうとしていました。

 

 

お母さんの具合も、良くない日が目立つ様になっていましたが、

 

 

ボーイスカウトを休むと、お母さんが怒るので吉川君は毎日曜日参加していました。

 

 

ところが、夏休みを利用してボーイスカウトで、

 

 

二泊三日の富士登山が行なわれる事になったのです。

 

 

吉川君は、最近のお母さんの具合から行きたくないと言ったのだが、

 

 

こんな機会は滅多に無い事だとお母さんに諭され、なくなく参加したのでした。

 

 

私もその富士登山に参加して、小学生にして初めて富士山の山頂に登りました。

 

 

富士登山は、経験すれば分かりますが、5合目から8合目までは比較的簡単なのですが、

 

 

8合目から9合目までが地獄です。

 

 

8合目までは、山小屋が見えるたびに、ああ、7合目だ、ああ8合目だと、

 

 

杖(つえ)に合目達成の焼印スタンプを押してもらい達成感があるのですが、

 

(今で言うところの御朱印みたいなものでしょうか)

 

8合目を出発してからは、山小屋に到達しても、また8合目、また8合目、まだ8合目と、

 

 

永遠に8合目の山小屋なのです。

 

 

9合目に到達すると、そこからはアッという間なのですが、

 

 

リタイヤするほとんどの人は、8合目の無限ループでギブアップしてしまいます。

 

 

時間で言えば、普通の登山者なら、

 

 

5合目~6合目までが、50分。

 

6合目~7合目までが、70分。

 

7合目~8合目までが、80分。

 

そして、

 

8合目~9合目までが、130分です。

 

しかも、後半体力が無くなってきている時の130分なのです。苦しいですよ。

 

ちなみに、登山渋滞が起きるのもそんな8合目です。

 

もう8合目嫌だと、山小屋で動けなくなっていて山小屋が満杯激混み状態なのです。

 

 

9合目~山頂までが、40分と一番短いし、山頂が近いのが分かるのでアッと言う間です。

 

まぁ、これを読んでから行けば、ある程度覚悟して登れるので、

 

ああ、これが地獄の8合目かと冷静になって頑張れるかもしれませんね。

 

(もし、ご友人が富士山登るよ。と言ったら、忠告してあげて下さい。)

 

 

 

 

 


ちょっと話が脱線してしまいましたので、元に戻しますね。

 

 

 

 


そんな吉川君と頑張って登った富士山でしたが、

 

 

帰宅後、彼を待っていたのは、母親の死でした。

 

 

しかも、母親は彼が富士登山していた時に亡くなったので、

 

 

吉川君は、母親の死に目にも会えなかったのです。

 

 

彼の落胆ぶりは、はた目から見ていても激しくて、かける言葉も見つかりませんでした。

 

 

その後、葬式を終えた彼は、告解堂(ざんげ室)で神父さんに言ったそうです。

 

 

「ボクはとんだ親不孝をしてしまいました。

 

 富士山の登っていたので、母の死に目にも会えませんでした。」

 

 


すると、神父様は、こう言ったといいます。

 

 

「そんな事は無いよ。

 

 むしろ親孝行をしたと、私は思いますよ。

 

 聞く所によると、お母さんは亡くなる前、

 

 周りの看護婦さん達に、こう言ってたそうだよ。

 

 息子がね。 私の息子がね。小学生で富士山の頂上に登るんですよ。

 

 と、それはそれは嬉しそうに語ってたって。

 

 君は、親孝行したんだよ。」

 

 

 

「でも神父様、

 

 私はそのせいで、母にさよならも言えなかったのです。」

 

 

 

 

「それは違うな。

 

 世の中には、心臓麻痺や交通事故や火事で一瞬の間に亡くなる人は多い。

 

 でも、君のお母さんは違う。

 

 君は1年間さよならを言えたじゃないか。

 

 だから、決して死に目に会えなかったとか、

 

 さよならを言えなかったと思ってはいけないよ。」

 

 


吉川君は、神父様のその言葉を聞いて、

 

 

そうだ、この1年間、毎日の様にお見舞いに行っていて、

 

 

最後こそ会えてはいないけど、残りの363日は、

 

 

毎日さよならを言っているいる様な日々だった。

 

 

余命宣告はある意味、吉川君に与えられた

 

 

長いさよならを言わせてくれる日々だったのではないかと。

 

 


彼は自分を責める事を止め、神に感謝したそうです。

 

 

「母さん、ありがとう。

 

 さよなら。」

 

END

 

 

画像From:
ボーイスカウトhttps://www.scout.or.jp/
初心者のための登山とキャンプ入門https://www.camp-outdoor.com/tozan/fujisan/course.shtml

 

●急に懐かなくなった猫。

 

 


犬と猫を飼われているという女性からの電話相談です。

 

 

 

 

子供の相談の他に、時間が余ったので飼っているペットの事で相談されてきました。

 

 

彼女は「ミカン」という名のメスの三毛猫を飼っているそうなのですが、

 

 

1ヵ月前から全然彼女に懐いて(なついて)くれなくなったといいます。

 

 

それまでは、ミカンと呼ぶと寄って来てくれたり、

 

 

膝の上に乗ってくれたりしたそうですが、

 

 

1ヵ月前からは、呼んでも来ないし、膝に乗ってくれるどころか、

 

 

彼女の姿を見ると逃げ出してしまう始末。

 

 

今まで食事を与えた恩は、どこへ行ったという感じだといいます。

 

 

他にも気になる事があって、

 

 

ここ最近、彼女自身食欲が無くなってきていて、

 

 

自分の朝食を作るのも面倒になってきて抜かす事が多く。

 

 

掃除もやる気が起きなくなっているという。

 

 

これはもしかしたら、私に何か悪い霊でも憑いて、

 

 

それを察知した猫が、私に近づかなくなったのではないでしょうか?

 

 

 

 

そんな電話相談でした。

 

 

 

 

 

 

 

こういう相談を受けたら、まず気になるのは、

 

 

「いつから」かという事です。

 

 

つまり、1ヵ月前から猫が懐かなくなったというのであれば、

 

 

1ヵ月前に何かがあったと考えるべきです。

 

 

そこで、彼女に何か悪い霊でも憑いたのではと言うので、念の為に聞いてみました。

 

 

「一ヶ月前位に、どこか心霊スポットとか、廃墟とか、

 

 気持ちが悪いという場所に行ったりしましたか?」

 

 

彼女は少し考えてから、「無いです。」と答えました。

 

 

「じゃあ、

 

 一ヶ月前頃から好きな食べ物が急に嫌いになったとか、

 

 嫌いだった食べ物が急に好きになったとか、

 

 今までやらなかったタバコやお酒を飲む様になったとか、

 

 急にお風呂に入るのが嫌になったという事はありますか?」

 

 


「無いです。」と彼女。

 

 


色々聞いてみたのですが、言動もテキパキはっきりしているし、

 

 

質問の答えからも、彼女に霊が憑りついたという感じはしません。

 

 

 

 

そこで視点を霊に憑りつかれた意外で考えてみる事にしました。

 

 

「何か、一ヶ月ほど前に家で変化した事はありませんか?

 

 例えば、何か大きな物を買ったとか、家を改築したとか、

 

 家に新しい住人が増えたとか、減ったとか。」

 

 

すると、彼女は1ヵ月前に、主人が韓国に出張に行ったといいます。

 

 

その他には思い当たる事が無いというので、詳しく聞いてみると、

 

 


猫のミカンは、ご主人が結婚前から飼っている猫で、

 

 

野良猫だったミカンをご主人が保護して飼い始めた猫だそうです。

 

 

彼女の方はもっぱらの犬派で猫は飼った事が無く、そんな二人が結婚して、

 

 

現在の犬と猫が同居する家庭となっているとの事でした。

 

 

つまり、いつも主に犬を可愛がってるのは奥さんで、

 

 

いつも主に猫を可愛がっていたのはご主人だったという訳です。

 

 

 

 

 

そこで私は彼女に、こんな話をしました。

 

 

アメリカで霊能者の方にも教えてもらった事があるのですが、

 

 

可愛がってくれたご主人が急に居なくなった時、

 

 

残されたペットは、自分が捨てられたと思い込んで病気になったり、

 

 

残された家族が、ご主人様を家から追い出したのだと勘違いして、

 

 

懐かなくなったりする事があるという事です。

 

 

実際、今まででも、奥さんがアメリカに1ヵ月旅行に行ったら、

 

 

留守番していた犬が、その日から家中を探す様になり、

 

 

奥さんが帰国したら、目が不自由になっていたというケースもあります。

 

 

今回のケースは、病気では無く後者の、勘違いの方かもしれないと思いました。

 

 

そこでもっと聞くと、決定的だと思う出来事がありました。

 

 

それは、ご主人が出張に旅立つ前日

 

 

些細な事からちょっとした夫婦喧嘩があったそうです。

 

 

そしてその翌日、ご主人は荷物をまとめてスーツケースを持って出かけたのでした。

 

 

喧嘩した後に、ご主人が出張に出発したのは、タイミングも悪かったのですが、

 

 

猫のミカンが、奥さんがご主人を追い出したと思い、懐かなくなったと思われるのです。

 

 

特に夫婦喧嘩をしている場面を愛猫の前でしたり、

 

 

二人の喧嘩の声が聞こえる状態はよけいペットに伝わりやすい状況だと言えるでしょう。

 

 

 

 

こういう事は人間の世界でもあるのではないでしょうか?

 

 

例えば、貴方のお姉さんが、お父さんと激し喧嘩した翌日家出したとします。

 

 

貴方はお父さんがお姉さんを家から追い出した様なものだと思って、

 

 

その日から、貴方はお父さんと口も利かなくなった。

 

 

でも、実際は昨夜ボーイフレンドから電話があり、黙って旅行に行っただけだったとか。

 

 

 

 


では、どうすれば良かったのでしょうか?

 

 

3日位、家を留守にするぐらいならいいのですが、それ以上、

 

 

特に2週間以上旅行や出張などで、貴方の愛猫や愛犬を置いて家を留守にする時は、

 

 

出来れば3日前から、それが出来なければ、出かける前に、

 

 

ちゃんとその子と向き合って、目を見ながら、

 

 

「これから出かけるけど、2週間したら必ず戻って来るからね。
 
 それまでちゃんと待ってるのよ。」と何度も言い聞かせる事です。

 

 

そして、2週間後に家に戻って来るという映像のイメージを愛猫や愛犬に送って下さい。

 

 

まぁ、理解度はそのペットとの親密度や、そのペットの頭の良さにも違いは出ると思いますが、

 

 

霊能者の方いわく、真心で話せば通じる事は多いといいますし、

 

 

仮にその時は通じなくても、次回同じ事があった時には、

 

 

ああ、この前と同じかなと、理解してくれる様になるといいます。

 

 

 

 

 

さて、ではそういう言葉をかけずにご主人が出かけてしまった今回のケースでは、

 

 

どうしたらいいでしょうか?

 

 

 

 

私が彼女にアドバイスしたのは、

 

 

ダメ元で、猫のミカンに話しかけてあげる事。

 

 

「2週間したら帰ってくるのよ。出て行ったんじゃないのよ。」

 

 

そして、ご主人が家の玄関から入ってくる映像をイメージしてミカンに送ってみて下さい。

 

 


いずれにしても、多分ご主人が戻って来るまでの辛抱だと思いますよ。

 

 

 


その後、ご主人が帰国すると、元のミカンに戻ったという。

 

END

 

●心の障害者。

 


1888年、明治21年、3月14日

 

 

大阪の道頓堀近くで、一人の女の子が産まれます。

 

 

すでに二人の兄がいた両親にとっては待望の女の子でした。

 

 

名前を「よね。」といい、とても可愛い女の子です。

 

 

ところが、生まれて間もなく京舞の家に養子に出されます。

 

 

実は、当時の明治期の大阪は特に芸事に熱心な地域で、

 

 

女児が産まれると、幼少の頃から芸事を習わせる家庭が多かったのです。

 

 

こうして両親はよねを小学校へは就学させず、幼時から芸事を学ばせる道を選んだのです。

 

 

よねは、その両親の期待に答え、

 

 

4歳で日本舞踊を習い始めると、めきめきと踊りの才能を開花させます。

 

 

そして僅か11歳で京舞・山村流の名取りを許され、踊りのお師匠さんになったのです。

 

よね

 

そうなると、周りの大人達はほっときません。

 

 

よねの才能に惚れ込んだ、当時の堀江遊郭の実力者だった山梅楼の主・中川万次郎が、

 

中川万次郎

 

是非これからの芸の道の後ろ盾になりたいと、申し出たのです。

 

 

すでに仕事を引退していた両親に、よねを大成させるお金は無く、

 

 

喜んで13歳のよねを、中川万次郎の養女として芸の道へ送りだしました。

 

 

そのお蔭で、よねはメキメキと踊りの才能を上達させ、

 

 

名前も舞妓・津吉(つまきち)という呼び名をもらいました。

 

 

16歳の時には、大阪で行われた第五回内国勧業博覧会で、

 

 

三番叟を披露する栄誉を得たのです。

よね

 

内国勧業博覧会とは、今で言うところの万国博覧会です。

 

 

わずか5ヶ月で530万人もの人々が日本中から集まった大舞台でした。

 

 

16歳の女の子よねの未来は、もはやバラ色でした。

 

 

 

ところが、よね17歳の時でした。

 

 

養父だった中川万次郎の妻・お愛が、自分の甥(おい)の明次郎と、

 

 

駆け落ちして逃げてしまったのです。娘の初光を置いて。

 

 

それは、飼い犬に手を噛まれた様なものでした。

 

 

可愛がっていた甥に自分の若い愛妻を奪われたのです。

 

 

実は中川万次郎(52歳)は、自分の娘ほどの年の若い妻・お愛(27歳)を、

 

お愛

 

強引に自分の妻としていただけではなく、お愛に暴力(DV)も振るっていました。

 

 

それに絶望して娘を置いて、駆け落ちして逃げたのでした。

 

 

妻に逃げられた中川万次郎は、半狂乱になって行方を捜します。

 

 

警察に行方不明届を出し、お愛の母親や兄弟が行方を知っているのではないかと、

 

 

執拗に問いただしました。

 

 

その後、お愛の母親と兄妹は半分人質としてお愛が戻るまで中川万次郎と暮らす様になります。

 

 

しかし一向に、駆け落ちしたお愛の消息が分かりません。

 

 

酒浸りの中川万次郎の商売も段々下火になり、気がおかしくなっていきます。

 

 

やがて、お愛の母親と兄妹は、お愛の行方を知っているのに隠していると思い込む様になり、

 

 

ある夜、刀を持ち出すと、一気にお愛の母親達を切り殺したのです。

 

 

そのトバッチリを受けてしまったのが、当時芸妓として養子になっていた、

 

 

よね他3人の抱え芸妓達でした。

 

 

中川万次郎は娘の初光とその世話係りのせき(13歳)以外の者達6人を切ったのです。

 

 

その中には、20歳の芸妓・梅吉と、17歳のよねもいました。

 

 

切られた6人の内、5人がその場で死亡、

 

 

17歳のよねだけは、かろうじて生きていましたが、

 

 

両腕を切断されていて、虫の息でした。

 

 

これが大阪で語り継がれている、世に言う堀江六人斬り事件です。(明治38年)

 


よねの命は、ほぼ99%絶望的でした。

 

 

なにしろ、当時は輸血の技術など無かった上に、

 

 

切断された両腕からは、血がドバドバ流れ出し、

 

 

そのまま2時間もほったらかしの状態だったのです。

 

 

駆け付けた警官たちも、両腕が無いよねの悲惨な体を見て、

 

 

もはや生きてはいなだろう。と思った程でした。

 

 

一応まだ息のあるよねを病院に連れて行き、止血はしたもののほぼ絶望的でした。

 

 

出血多量で意識は戻らず、ほぼ死んだ状態のままベッドに寝ているだけでした。

 

 

3日が経ち、4日が経ち、医師や看護婦達も諦めかけていました。

 

 

ところが、奇跡が起きます。

 

 

なんとほぼ絶望的と思われていたよねの目が開いたのです。

 

 

それは医師達もをも驚かせる17歳の生命力でした。

 

 

 

しかし、目が覚めて自分の姿を見たよねは絶望します。

 

 

我が身を見て、震えが止まらない。声も出ない。

 

 

泣きたいものの、涙をぬぐう手、そのものが無い。

 

 

よね


犯人の中川万次郎は、その後自首しましたが、

 

 

半年後の裁判で死刑が確定します。

 

 


約1ヶ月後、よねの両腕の傷も塞がり退院の日が来ました。

 

 

よねは婦長室にお礼の挨拶に行きました。

 

 

すると、婦長さんは、こんな事を言ったといいます。

 

 

「いよいよご退院で、おめでとう。

 

 今だから申し上げますけど、あの重態では助かる見込みは無かったのですよ。

 

 奇跡と言いますか、不思議と申しますか、夢のようですね。

 

 貴方が助かれたのは、先生方の力もありましょうが、それだけではありません。

 

 それは神様、仏様です。

 

 神様は貴方という人を助けて、世の為人の為に尽くすようにとお考えになったのです。

 

 神の使い、仏様の御子として、神仏に助けて頂いた事を無駄にしては勿体ないと、

 

 感謝して生きて下さい。

 

 これからの貴方の生活には、なみなみならぬ辛い悲しい年月がありましょう。

 

 人にも言えない世の中の波に溺れる時もありましょう。

 

 それは神仏が、貴方なれば、この使命を負うだけの覚悟が持てるとおぼしめして、

 

 助からぬ命を助けて下さったのです。

 

 私の言いました事を、いついつまでも忘れずにいて下さいよ。」

 


婦長さんの眼は、とても美しく清らかで、

 

 

まるで目の前に尊い女神かマリア様が降りて来た姿に見えたといいます。

 

 


私は、そんな尊い使命とやらを受ける値打ちのある者ではございません。婦長様」

 


「いいえ、あります。」婦長さんはそう断言すると、

 

 

彼女が目撃した2つ事実を指摘しました。

 

 


「貴方の麻酔がさめて、判事さんから、

 

 貴方の両腕を切り落とした万次郎を憎いと思うかと問われた時、

 

 貴方は、いいえ憎しみも怨みもしまへん。

 

 お義父さんの罪が軽くならのやったら、私どんな事でもしてあげたい。

 

 そう言いましたね。

 

 あの言葉、あれが神様の思し召しです。

 

 罪を許す事です。

 

 罪を憎んでも人を憎まぬ心です。

 

 あの重態で、あの言葉が出て来るのは、

 

 貴方の、というよりも、神様のお声です。」

 

 


そして、もう1つの事は、

 

 

「貴方が院内の廊下を歩く様になられた時に、

 

 いつもいつも、患者さんやその他の人々が乱暴に脱ぎ捨ててある草履(ぞうり)を、

 

 貴方はいつも足で行儀よく揃えてあげていました。

 

 あの心持ちが、陰の徳の行ないです。

 

 私は遠くから見ていて感心していました。

 

 五体の整った人の脱ぎ捨てた草履を、両手の無い貴方が揃えている。

 

 尊い徳の行いです。」

 


最後に婦長様は、こう結んで私を見送って下さいました。

 

 

「この事を忘れずに、これからどんな人に虐げられ、辱めらえても、

 

 堪忍するのですよ。

 

 神様仏様の試練と思って、忍んだ上にも忍んで、

 

 強く強く生きてくださいよ。」

 

 

 


婦長さんの最後の言葉は、

 

 

よねが一歩病院を出た瞬間から現実のものとなりました。

 

 

 


病院の人々にお別れし、人力車に乗り帰ろうとした時です。

 

 

大勢の人達が寄って来て、たちまち黒山の様に私を取り囲んだのです。

 

 

「手無しが来た! 

 

 手無しが来た!

 

 みんな早よう来なはれや!」

 

 


「六人斬りの生き残りの手無しや!」

 


「可哀想になぁ。

 

 見てみい、そら、肩がすぼっとしてるやろう。

 

 顔かて、えらい顔やぜ、斬られてお富とお岩と一緒にした様な顔やぜ!」

 

 


私には罪は無いのに、なぜこんな辱めを受けねばならないのか。

 

 

よねは悲しくなりました。

 

 

 

しかし、よねを待っていたのは、それ以上の厳しい現実でした。

 

 

自分一人では服も着れず、食べ物も食べれず、顔も洗えず、

 

 

下の世話も親にお願いしなければ、何も出来ない。

 

 

銭湯に行けば、周りからジロジロ見られ、どんなにか屈辱で恥ずかしかった事か。

 

 

 


生きていたくない。

 

 

死にたい。

 

 

あの時死んだ5人が、むしろ、うらやましい。

 

 

 

そんな状況のよね達を、更なる不幸が襲い掛かります。

 

 

高額な医療費が、よねと両親を破産させたのです。

 

 

日々の食事にも困る生活。

 

 


そんな折、世間の注目を浴びていたよねに、1つの仕事の誘いが舞い込みます。

 

 

それは、見世物の舞台。

 

 

小さい頃から神童として踊りの天才と持てはやされた少女が、

 

 

今、両手が無い姿となって、世間の注目を浴びている。

 

 

これを世間の見世物として、舞台の上で躍らせたら面白いし儲かると思われたのです。

 

 

この失礼な申し出に対して、両親は、

 

 

「例え食わずとも、娘を見世物などにはさせん!」

 

 

しかし、生きるという事は、何と悲しい事でしょうか。

 

 

秋の夜、親娘3人が物も言わずに、ただ座っています。

 

 

食べる物がありません。

 

 

「母さん、父さん、私なら大丈夫よ。

 

 舞台で踊ってみるわ。」

 

 

コオロギが庭の隅で鳴いています。

 

 

母の眼から膝の上に、涙が落ちたのを始めて見ました。

 

 

あの気丈なお母さんが泣いている。

 

 

それを見た私の眼からも、ハラハラと涙が落ちました。

 

 

父は、ふとこちらを見てすぐ顔を背け、立って行きました。

 

 


ついに私は、今話題の事件の被害者として、

 

 

そして、両手が無い身障者である自身の姿を見せながら、

 

 

桂文団治一座に加わり、寄席や長唄と小唄で高座に上がる事になりました。

 

 

こうして全国地方巡業で生計を立て、両親を養う日々が始まったのです。

 

よね

 

高座では、頑張って踊りや長唄を披露したよねでしたが、

 

 

お客への売り物は、「両腕の無い、六人斬りの生き残りの女」でした。

 

 

よねは、高座の上では笑顔で頑張っていましが、心の中では泣いていました。

 

 

毎晩4ヵ所の寄席を務める為に、よねと母は人力車でその間を運ばれていきます。

 

 

すると満員で入りきれない人達が群がって来て、

 

 

せめて私の姿を見てやろうと取り囲み騒ぐのでした。

 

 

「そら出て来た、出て来た、手無しが出て来た。みんな早う来い。」

 

 


そんな巡業を行なっていたよねの元に、1通の手紙が届きます。

 

 

獄中の万次郎からの手紙でした。

 

 

内容は、死刑の執行が迫っていて、近くこの世を去る身だ。

 

 

その前に一目会って詫びを言いたい。

 

 

現世における最後の別れだから、会いに来て欲しいというものでした。

 

 

両親は大反対でした。

 

 

それは彼に会えば、まだ17歳の小さな心をいっそう怯えさせ、将来に渡って、

 

 

悪い印象を残してしまうだろうという親心からです。

 

 

しかし、手紙には、仏様の力にすがっても、

 

 

私の事だけを心から祈っていると書いてありました。

 

 

その気持ちが私には分かるのです。

 

 

私を教育し、4年間育ててくれた彼を、誰よりも一番私よく知っています。

 

 

そんな死にゆくお義父さんに会って慰めの言葉をかけてあげる事が、

 

 

どんなにか彼を安心させて心残りの無い往生が出来る事かと、両親に説き、

 

 

兄に連れられて、堀川刑務所へ出かける事になりました。

 

 

 

「よう来てくれた。本当によく来てくれた。

 

 詫びて済む様なそんな軽い罪では無い。俺はお前の両腕を落としたと聞かされ、

 

 明けても暮れても、その大きな罪に苦しんでいる。

 

 俺は死んで地獄に落ちる。けれども俺は死なん。魂は死なん。

 

 あんたの身を草葉の陰からきっと守る。あんたの成功を見ている。

 

 もし苦しい時があれば俺の名を呼び、一編のお念仏を唱えてくれたなら、

 

 きっと俺は行くべき道を教える。そして成功する人に俺がならして見せる。

 

 今じゃ誰一人として、差し入れ1つしてはくれないのに、

 

 あんたは、俺を恨みも憎みもしないで気をつけてくれる。

 

 勿体ない事だと、俺は泣いて喜んでいる。

 

 あんたの幸せを祈って、心残さず死んでいく。どうか俺を信じて許してくれ。」

 


そう言うと、お義父さんは八つに折りたたんだ手拭いを出して泣くのでした。

 

 

「お義父さん、私(わて)、

 

 誰よりもお義父さんの心を知ってます。

 

 お義父さんは、ただただ魔がさしただけや。

 

 決してお義父さんを恨んだりしまへん。

 

 よねは、名のある人に成れずとも、

 

 何か気の毒な人様の為になる事をしたいと思います。」

 


「ありがとう。ありがとう。

 

 俺はもう、何の心残りもない。

 

 お礼の言葉も分からない。

 

 兄様、どうぞこの娘を頼みます。」

 

 

 


その後、お義父さんの刑が執行された。

 

よねはその後、万次郎の遺骨を引き取り大阪天王寺に墓を建て、

 

永代供養までしてあげたという。

 

 

 

しかし、巡業に戻った彼女には、再び悲しい現実が待っているのでした。

 

 

来る日も来る日も、人々の好奇の眼の的となる不具者というレッテル。

 

 

人々の同情をひき、哀れむ声。大事にされる事もありましたが、

 

 

そうした人情も、たまらなく嫌になる時がありました。

 

 

 

そんな見世物巡業も三年が経った頃でした。

 

 

よねが仙台の青葉城下の小野清という旅館に宿泊していた時の事です。

 

 

同僚達は楽しく花札などをしながら、休みを過ごしていましたが、

 

 

よねには、花札をする手がありません。

 

 

一人だけ、ただ旅館の縁側に座り、ぼんやりと庭を見ていました。

 

 

すると、庭の梅の木に、小さな鳥かごがつるしてあるのに気がつきました。

 

 

その鳥かごを、そっと覗いて見ると、メスのカナリヤが巣の中で、

 

 

卵を抱いていて、オスがメスの口の中にせっせと餌を運んでいます。

 

 

19歳になった私の眼は、そのカナリヤ達に釘づけになりました。

 

 

その日から朝起きると、このカナリヤのカゴの下へ行き、

 

 

小鳥たちの動作を見る事が、何よりの楽しみとなりました。

 

 

やがて卵がかえり、小さな雛になってピイピイ鳴いています。

 

 

そんな雛の口へ親鳥がせっせとエサを運んでいるのです。

 

この鳥たちは、羽があっても手が無い。

 

 

しかも、その羽は小さなカゴの中では自由に使えない。

 

 

それなのに、手の無い事も自由に飛べない事も嘆かず、

 

 

口だけで子供を育てているではないか。

 

 

それに比べて、私は今日まで、この3年間、

 

 

何をして生きて来たのだろうか?

 

 

ただ無意味な日々を過ごし、味気ない世を恨んだり、悲しんだり、

 

 

はかなく時を過ごして来た自分のおろかさが恥ずかしくなりました。

 

 

手の無い事が、なぜ悲しかろう。不具者がなんだ。

 

 

私にはカナリヤと同じ口があるではないか!

 

 

そうだ。私には口があるのだ。

 

 

それに自由にどこにでも行く事が出来る。

 

 

カナリヤの様に、努力しよう。

 

 

「母さん、母さん、

 

 私、私、口で字を書きたい。口で字を書きますのや。

 

 カナリヤさんが教えてくれました。」

 

 

そばで聞いていた母は呆れていましたが、傍らで聞いていた父は喜び、

 

 

「そうか、そうか、

 

 よし、父ちゃんが買って来てやる。」そう言い終わる前に部屋から飛び出して行きました。

 

 

その日から私は何度も何度も、筆を口に咥える練習を始めました。

 

 

しかし、手の無い人が一人で口に筆を咥えるのは、容易な事ではありませんでした。

 

 

すぐ落としてしまうし、それを拾うのも一苦労です。

 

 

それでも筆を咥える事4日目、口で筆をつかみ、墨汁をつける事が出来たのです。

 

 

私も筆で字が書ける。

 

 

この時の喜びは、今でも忘れる事が出来ません。

 

 

「さあ、何という字を書こうか。」と白紙に向いました。

 

 

その瞬間でした。

 

 

私の眼から大粒の涙が紙の上に、ぽたりぼたりと音をたてて落ちるのです。

 

 

この時、私は初めて心の底から泣きました

 

 

 


彼女は自分のバカさ加減に悲しくなりました。

 

 

「私、ひとつも字を知らないんだ。」

 

 

小さい頃から踊りだけを学んだよねは、小学校にも行っていなかったので、

 

 

自分の名前さえも書けなかったのです。

 

 

教育も教養も無い私。

 

 

体ばかりか、頭まで、私は不具者だったのか。

 

 

口から筆を落とし、机の上に泣きふしました。

 

 

すると、私の耳元で誰かがささやくのです。その不思議な声は、

 

 

「泣くな、泣くな、

 

 心を落ち着けて学ぶのだ。

 

 学校へ行け、学校へ行って頼むのだ。」と言うのです。

 


よねは、その不思議な声に導かれる様にして外に出ると、

 

 

夢遊病患者の様に、仙台の町を歩き回りました。

 

 

すると、大きな建物の前に行きつきました。

 

 

門には何やら字が書いてありますが、よねにはその字が読めません。

 

 

よねは意を決して、門の中に入って行きました。

 

 

すると小使いを通して校長先生の部屋に通されたのです。

 

 

そこは小学校でした。

 

 

「私(わて)、今この土地の寄席に出ています両腕の無い芸人でおますが、

 

 カナリヤに字を書く事を教えてもらいました。

 

 先生、どうぞ私に字を教えておくれやす。

 

 筆は口に慣れましたが、字をしりまへんので。」

 

 


しかし、最初の校長の言葉は厳しいものでした。

 

 

「貴方のそのお体で、この学校に入学させてあげる事は出来ません。

 

 いや、日本中どこの学校でも難しい事だと思います。」

 

 


「先生、わての様な片輪者は、入学を許してもらえないのですか?」

 

 

「今の所、文部省ではどうする事も出来ない様です。

 

 不具者は家族の者の責任として保護する事になっています。」

 

 

「先生、お言葉を返して失礼ですが、

 

 不具者は家族に養ってもらっている事だけが幸せなのでしょうか?

 

 私ばかりでなく、多くの不具者は家族の厄介者として一生を暗い気持ちで、

 

 終わらなければならないのでしょうか?

 

 不具者こそ学んで一人立ち出来ように学問が必要ですし、

 

 普通の人以上の教養を高めねばならぬと思います。

 

 不具者は肉体的の悩みから精神的の悶えに、二重の不具者となってしまいます。

 

 先生、私のこの無理なお願いは、私一人の為では無く、

 

 不具者の多くが苦しんでいる願いではないでしょうか?

 

 先生、どうぞ私を学ばせて下さいませ。

 

 わて、どんな努力でも惜しみません。」

 

 


校長先生は、しばらくお考えになっておられましたが、やがて、

 

 

「では、こうしましょう。

 

 3年の男の先生に優しい方がいます。

 

 その先生に頼んで、貴方のおられる所に教えて行ってもらいましょう。」

 

 


先生のお言葉に、嬉しく止めどもなく涙が出ました。

 

 

涙で声が出ず、何度も、何度もただ頭を下げるばかりでした。

 

 


その次の日から、習字の先生が来てくれました。

 

 

19歳の娘が、1年生の学ぶ本から3日間教わりました。

 

 

その次は、いろはの仮名書きの習字の手本を持って来て下さいました。

 

 

それは不具者となって初めて知る幸福感でいっぱいでした。

 

 

ただ巡業の為、その先生ともお別れしないといけません。

 

 

たった8日間の授業でしたが、その日々はよねにとって最大の幸せでした。

 

 

その日以来、よねの文字に対する欲求は、

 

 

溢れ出る湧水の様に次から次へと高まって行ったのです。

 

 

「カナリヤ先生、ありがとう。」
 

 

 

よねは、3年の旅巡業で少しのお金も貯まりました。

 

 

すると兄の提案で昔からのすし屋と割烹の店を開こうという事になり、

 

 

大阪の道頓堀に小料理屋「松川家」を開業します。

 

 

開業当初は、「六人斬り生き残りの店」という事で物珍しさから、

 

 

多くのお客がみえましたが、段々とあきが来て赤字になる様になります。

 

 

ある日、兄に呼び出され、この1年で借金が出来た事、

 

 

お父さんの健康も良くないので、店をたたむと言われたのです。

 

 

商売の事は兄まかせて、そこまで酷いとは思いませんでした。しかも父まで。

 

 

「ああ、どうして私ばかりが不幸に・・・・」

 

 

店を閉めた後、よねはフラフラと深夜の道頓堀をさ迷っていました。

 

 

道頓堀の流れる水をじっと眺めていると、

 

 

それはまるで死神に憑りつかれた様に、飛び込みたいという衝動にかられます。

 

 


すると、その瞬間でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

4万字を超えたので、次のページの●心の障害者 後編に続く。(すでに掲載済です。)

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