前回からの続きです。

先に「●心の障害者 」をお読みください。

https://ameblo.jp/hirosu/entry-12458385529.html

 

 

 

その時でした。

 

 

 

川に飛び込もうとしていたよねの肩をつかむ者がいます。

 

 

振り向くと、

 

 

「あんた、妻吉(よねの芸名)さんですよね。

 

 こんな夜更けにどうしたんですか?

 

 もう3時過ぎですよ。」

 

 

それは偶然通りかかった顔見知りの巡査でした。

 

 

「わて、持明院へ行きたい。」(当時よねが字を習っていたお寺)

 

 

巡査は、このままだとまた川に飛び込むと思ったのでしょう。

 

 

親切に持明院に着くまで付き添ってくれました。

 

 

よねは、持明院に着くと、

 

 

いっそのこと、尼さんにでもなって、亡き人達を冥福を祈りたい。と、

 

 

当時の僧正・藤村叡雲に、

 

僧正・藤村叡雲

 

 

「先生、わてを尼さんにしとくなはれ。

 

 わて、尼さんにでもならぬと生きてられへん。」と申し出ます。

 

 


「なぜ、尼にならぬと生きられないと言うのや。」

 

 

よねは、店が失敗した事、借金がある上に父が病気になった事を話します。

 


しかし、藤村僧正は、よねに意外な事を言います。

 

 

「それじゃあ、よね子は行き詰って仕方なく尼にでもなろうというのか。

 

 そんな気持ちではダメだ。よした方が良い。」

 

 

「でも先生、わて死んだ人達の為にも尼さんになって冥福を祈り、

 

 不自由な体を持った人達の為にも働きたいのです。」

 

 

「それが今のよね子の考え違いや。

 

 形ばかり宗教家らしくても、他の子が嫁さんになって、

 

 嫁入りする姿を見たら、きっと煩悩の炎を燃やして、

 

 それこそ心の障害者となって、尼僧よねの末路は哀れなものや。

 

 尼になるなら、いつでもなれる。

 

 その前に、人の母となることだ。

 

 子供を育てる母としての経験を持たぬ者が、

 

 どうして不自由な人達の母となる事が出来るのだ。」

 

 

 

 

 


そうは言っても、両手が無い私が結婚?

 

 

そんな自分が結婚出来るなど、今まで考えもしていませんでした。

 

 

こうして、尼になる事さえ断られたよねでしたが、

 

 

不思議な事に、よねと結婚しても良いという人物が現われます。

 

 

それは山口草平という日本画家で、度々よねの店に通っていたお客でした。

 

 山口草平

 

山口は売れない画家でした。それに呆れた奥さんが子供を置いて出て行ったのです。

 

 

やもめ暮らしをしていた山口は、体は不自由でも気立ての良いよねに

 

 

好意を持っていたのです。

 

 

二人は結婚します。よね23歳、山口30歳。

 

 

よねは主婦として頑張りました。洗濯物は足を器用に使って洗いました。

 

 

掃除も足で床を拭き、貧しくても、夫を支える幸せな生活。

 

 

1年後には長男が生まれます。母となった喜びに胸が震えました。

 


 
やがて夫・山口に幸運が舞い降りて来ます。

 

 

画家の登竜門だった文展に入選したのです。

 


 
世に認められる様になり、やっと生活にも余裕が出てきました。

 

 

よねも、夫の絵を口を使って絵筆を持ち、手伝う様になりました。

 

 

そして長女も生まれ、よねは幸せな家庭を手に入れたのでした。

 

 


ところが、絵が売れる様になり、生活にも余裕ができると、

 

 

夫の山口草平は、外に女を作る様になったのです。

 

 

よねの心は張り裂けそうになりました。

 

 

夫が帰らぬ夜は、いつもいつも泣き明かしました。

 

 

それでも何とか自分の気持ちを育児に専念して心を落ち着かせようとします。

 

 

しかし、夫は愛人を家にまで連れて来る様になったのです。

 

 

目の前で堂々と見せつけられる様に浮気される地獄。

 

 

よねは当時の日記に、こうつづっています。

 

 

やはり私も女でした。

 

人並みに、より深くねたみを持っていました。

 

自分の腕を切った人でさえ、憎まぬようにしてきた私が、

 

なぜ、こんなにも、その女が憎いのでしょう。

 

 


それに対して何も出来ない私。

 

 

両手の無い自分が悲しくなりました。

 

 

やがて、愛人に子供が出来ます。

 

 


ああ、なんで私ばかりが不幸に・・・・

 

 

 

よねは、妻としての限界を感じました。

 

 

草平との離婚を決意、二人の子供を連れて家を出ました。

 

 

結婚してから12年後の事でした。

 

 

 


別れたものの、どうやって子供2人を育てていこう。

 

 

その時、画家だった元夫の絵を描く手伝いをしていた事が役に立ちます。

 

 

着物の帯地の図柄を描く仕事を得て、日々の生計をたてる事が出来ました。

 

 

よねは更に絵筆の技術を磨く為に、子供達と東京の渋谷に行き、

 

 

帯地に更紗絵を描いて生計を立てる様になります。

 

 

やがて、よねの努力の甲斐あって、

 

 

口で描いた絵柄が工芸品として認められる様になったのです。

 

 

仕事場も出来、作品も売れる様になります。

 

 

やれば出来る! 両腕が無い私でもやれば出来るんだ!

 

 

なんとデパートの三越で、個展の開催も決まったのでした。

 

 

 

やっと子供を育てられる自信が湧いてきました。

 

 


ところが、その時です。

 

 

大正12年、9月1日。関東大震災。

 

 

よねの仕事場も、何日も掛かって口で描いた個展用の作品も全て焼けてしまい、

 

 

命からがら子供2人と逃げるのがやっとでした。

 

 

もう、私には何も無い。これからどうやって生きていけばいいの?

 

 


ああ、なんで私ばかりが不幸に・・・・

 

 

 

 

 


しかし、周りを見ると、震災後のがれきのいたる所に、死体が転がり、

 

 

手足を失った人たち、親を失った子供、大やけどを負った障害者がいたのです。

 


ああ、私はなんとごう慢な女だったのだろう。

 

 

一人で稼いで生き抜いていけるなんて、自分はなんと慢心していたことか。

 

 

私よりも困っている人達が、こんなにも沢山いるのに・・・・・・・・

 

 

 


よねは、今までの自分の体験を、自分の為にでは無く、

 

 

他の障害者の為に生かして生きていこう。と決意します。

 


昭和8年10月、子供達に手がかからなくなると、

 

 

よねは自分の身を仏の手に委ね、出家し尼僧となり、

 

 

名前を大石順教と改めました。 よね45歳の時でした。

 

 

 

 

昭和11年10月、順教は京都の勧修寺に移住し、

 

 

身体障害者の相談所「自在会」を設立、

 

 

自分と同じ立場である身障者の自立のための教育を行なっただけでなく、

 

 

行く所の無い女性達を保護したのでした。

 

 

この時、食べる事にも困って尋ねて来る障害者の為に、

 

 

自身もお金の無い順教は、どうする事も出来ませんでした。

 

 

そこで、一日一食の断食を始めます。ある時は一日二食の断食を行なって、

 

 

その浮いた一食を、食べ物に困っている人に与えました。

 

 

この断食は、順教が81歳で亡くなるその日まで一日も欠かさず実行したといいます

 

 

私は両腕が無いので、その分人よりも栄養も少なくていいし、なにより、

 

 

下の世話をしてくれる方の負担が少しは少なくなるでしょ。

 

 

大石順教

 

 

 

ある日、順教が庭で足で草取りをしていると、後ろで気配がします。

 

 

振り向くと、一人の男が立っていて、じっと順教の方を見ています。

 

 

「何か、私にご用ですか?」

 

 

「実は私、死ぬつもりでおりましたが、ある人から先生の事を聞きまして、

 

 死ぬ前に一度、先生にお会いしたいと思いました。」

 

 

彼は自分の不注意もあり、右腕を失ってしまったのでした。

 

 

それで仕事も出来ず、女房は片輪者の妻と言われるのが嫌と出て行きました。

 

 

「こんな体では、もう何の仕事も出来ず、生きて行く道が無く

 

 毎日悲観のどん底に落ちてしまい、身も心も疲れ果てました。死にたいです。」

 

 

すると、順教は彼に聞きました。

 

 

「それはようこそ。  それで? その会社の方はどうなってます?」

 

 

こんな体では、会社の仕事は務まりませんので、辞表を出しました。

 

 この体では、もうどうにも生きる道が無くなりました。」

 

 

「ちょっと待って下さい。

 

 貴方、先ほどから、この体だとか、不具者だからとか言われますが、

 

 不具者がなんです! 障害者がなんです!

 

 そんな事は、問題ではありません。

 

 障害は肉体だけで十分!

 

 精神的にまで不具者根性になっていて、情けないじゃありませんか!

 

 

 伺えば、十数年お勤めされているとの事、

 

 ならば腕の仕事よりも、頭の仕事の方がはるかに優れているはずです。

 

 障害者となられても、心まで片輪者になってはいけません。

 

 会社には、貴方が十数年働いた事でつちかった頭の使う仕事が山ほどあるはず。

 

 長く使って頂いた会社の仕事の要領は分かっているはずですよ。

 

 明日とは言わず、今日これから会社に戻って、人事の人にお会いになり、

 

 死ぬ前に大石順教の所を尋ねたら、順教にさんざん叱られたと言いなさい。

 

 守衛でも小使いでも、何でもさせて下さい。と頼んできなさい。

 

 それでもダメなら、私が会社へ行って係りの人にお会いして話しましょう。

 

 片腕を失ったというよりも、会社に一本の腕を差し上げたと思って行きなさい。」

 

 

 

 

すると、翌朝、彼は生き生きとした顔で、順教のもとを訪れて言いました。

 

 


「先生、昨日はありがとうございました。

 

 あれから直ぐに会社に行きまして、先生に言われた通り人事課へ申し出たところ、

 

 確かに頭さえしっかりしていれば、工場内の監督として働いてもらえると、

 

 重役とも相談してもらい、今まで通り勤めてさせてもらう事になりました。

 

 先生、本当にありがとうございます。」

 

 


それから数ヶ月経った頃、

 

 

見違えるほど風格の整った男性が順教の前に姿を見せました。

 

 

「先生、私も男の道を進める様になりました。

 

 今の女房が実に良き主婦で、まことに幸福な家庭を作っています。」

 

 

 

 

 

 

その後、順教は、身体障害者の為の更生施設・仏光院を設け、

 

 

障害者達との共同生活を始めます。

 

 

障害を持って産まれたばかりに捨てられた多くの子供達を引き取り、

 

 

自らその子供達の母となって育て、障害者の母と呼ばれる様になります。

 

 

大石順教

 

 

そして、手足を失ったり、目が見えなくなって

 

絶望の淵にいる人達を勇気づける為に、

 

 

順教は全国を飛び回り講演活動や奉仕活動を率先して行いました。

 

 

 

昭和30年(1955)、口を使って書いた般若心経が

 

日展の書道部に入選します。

 

 

下は、専門家も絶賛する順教が口だけで描いた美人画

 

縦1m70cmくらいの大作

 

 

ある日、順教と暮らしていた足の悪い少女が彼女に聞きました。

 

 

「私、足が悪いからよく転んでしまいます。 悲しいです。」

 

 

すると、順教は、

 

「転ばないで歩ける方法を教えてあげましょうか?

 

 それはね。

 

 悪い足を隠さない事なんだよ。

 

 身体の不自由は、そういう因縁なのだから仕方がないけど、

 

 私達は「心の障害者」になってはいけないの。

 

 だから、足が悪いのは身体の障害、でも、

 

 悪い足を隠しながら歩いて転ぶのは、心の障害なの。

 

 忘れなさいというのは、無理かもしれないけど、

 

 片足が悪いくらいの事に心を奪われてはいけないのよ。」

 

 


「どうしたら、その心の障害者を取り除く事が出来るのですか?」

 

 


「それはね。
 
 自分の事は自分で出来る様にする。のもそうだけど、

 

 世の中の為に、感謝と奉仕の心を持って、心の働きを生かすの。

 

 例え何も出来ずにベッドに伏せっている体でも、

 

 微笑ひとつでも、優しい言葉ひとつでも、周囲の人々に捧げる事が出来たら、

 

 その人は社会の一隅を明るくする事が出来るのよ。」

 

 


「先生、私、何も出来ない人間だと思っていましたが、

 気持ちが明るくなりました。」

 


「その明るさが大切なのよ。

 

 例え健全な肢体に恵まれていても、それを人の為に生かす心を持たず、

 

 欲望の欲しいままに、お互いが傷つけ合う事しかしないとしたら、

 

 それは大変な心の障害者ではないかと思うのよ。」

 

 

 

 

 

 

 

1968年4月21日、

 

 

大石順教は、この日も福祉活動を終えると、家に帰り床につきます。

 

 

そして、そのまま眠る様にして亡くなったといいます。

 

 

81年の波乱万丈の人生でした。

 

大石順教


彼女は生前、自分には3つの宝があり、

 

それが私を幸せにしてくれたと語っています。

 

それは、

■無手
もし私に両手があったら、決してこのような幸せな生活には巡り合わなかったでしょう。
■無学
もし私に学問があったなら、カナリヤの先生に出会う事も無かったし、
文字を学ぶと言う幸せな時間も訪れなかったでしょう。
■無財
そして、どんな人とも一つになれる貧乏な私があったからこそ今の私があるのであります。

 


この三つの無形の財産が、

 

私のゆく道を、どれだけ幸せにしてくれたであろうか。

 

 

 

 

END

参考:無手の方悦 抜粋p86~p92、P104~p105、p112~p116、
p125~p131、p149~p151、p214~218、p292、
p299~p300、
知ってるつもり?!大石順教 https://www.youtube.com/watch?v=rSHAK2JEQ5I