3、鏡の 向こうに写る者(3)
詩織は今日も、帝国音大でもピアノの猛特訓をする。必死に演奏をするものの教授からはいつもダメだしを食らってしまう。音楽の東大とまで言われるこの大学。頑張ってはいるものの、やはり上には上がいる。自分の思うように演奏したつもりでも、教授からは興味すら示されない。
「岡本ダメだ。もう一回」
「はい」
そう言うと詩織は、何度も何度もピアノを弾き続けた。
プロになるために、これまでいろんなコンクールを受けてきた。
国内レベルのコンクールでは入賞多数。しかし、だからと言ってそれで食べていける訳ではない。
本当にプロとして認められるには、やはり国際コンクールに出なければならなかった。
『ショパン国際ピアノコンクール』
2015年、ポーランドで開催される、そのコンクールに出場する事が、詩織の夢だった。
授業料、個別レッスン料で年間300万円もの出費。地方で受けるコンクールの遠征費も馬鹿にはならない。留学でもしようものならその3倍はかかるであろう。
頂点を行くものは、大抵親の支援というものがあるものだが、悲しい事に詩織には親がいない。
AVでも出演しない限り、このような事は出来なかった。
癌という病への不安を抱えながらも、詩織は日々一生懸命に生きていた。
土曜、日曜は、もう一つの顔『AV女優 美月ゆりな』として、秋葉原でサイン会。時には北海道まで足を運んで、イベントを行う事すらある。さらに月一回のビデオ撮影。時間外はファン向けのツイッター、ブログの更新。こんな事では恋人すらも作れない。
時に何故このような苦しみを、自分が味わっているのかがわからなくなってくる。そんな時は鏡に写る自分の姿を見て、自分の決めた道だからと心に言い聞かせる。
そして好きな人は絶対に作らないと心に決めていた。
そんなこんなで疲れた顔をしながら山手線に乗っていると、詩織のピンク色の携帯電話から突然、ブーン、ブーンと振動音が発せられる。あわてて鞄の中から携帯電話を取り出すと、直哉からのメールが入っていた。
『部活に参加した。いよいよ始動だ。箱根駅伝に出場するぞ』
その内容を見ると、詩織は思わず笑みをこぼしてしまった。そしてさらに画面をスクロールしていくと『今日の7時、兄貴の家で焼肉するんだ。よかったら詩織もどう?』というメッセージ。
どうしようか悩んだが、家庭の愛に飢えていた詩織は、なんとなく行きたくなってしまった。そして『うん。行きたい。五反田駅で、待ち合わせでいい?』とメッセージを入れた。
6時半になると、五反田駅で直哉は詩織と出会った。そしてバスに乗ると、二人の会話は大いに弾んだ。
「ナオ、また走るんだね」
「まだリハビリ兼ねてだよ。これからこれから。でも絶対に箱根までに間に合わせてみせる」
「じゃあ、正月までに間に合うといいね」
「正月じゃ遅いよ。秋に予選会があるんだから、もっと早くないと」
「大丈夫。秋までまだ一杯時間あるじゃない。ナオなら出来るよ。私、ナオだったら絶対に出来ると思う」
「そうだといいんだけどね。でも、その前に詩織がもっと遠い所に行ってしまうんじゃないのかな」
「あはは。ないない。ないよ。あはは」
バスの窓の外は、ネオンライトが光る目黒の街。
詩織の事が本当は大好きなのだが、自分とはどうしても吊りあわない。だけど、どうせ実らない恋というのであれば、切ないながらも、この一瞬一瞬を楽しく過ごそうと感じる事が出来た。
あの詩織の一言で、もう一度走ってみようと思える事が出来た。本当に自分が再び走る事が出来るのかはわからない。だけど詩織は混沌としていた自分に夢を与えてくれた。そして詩織が夢を与えてくれるなら、自分は詩織にどれだけの夢を与える事が出来るのだろうか。自分は詩織に対して何をしてあげる事が出来るのだろうか。
そんな事を考えながら、直哉は都営バスの中で詩織と楽しく話していた。
中目黒の恵一の自宅マンションの前にたどり着くと、詩織はそのマンションを羨ましそうに見上げた。
「やっぱりお医者さんだね。立派なマンション」
「そうかあ?頑張って医者になったわりには、ショボイよ」
「そんな事ないよ。目黒でこんなマンションに住むって本当に大変な事だよ」
「まあ、真面目一筋で面白味のない兄貴さ。いつもムスッとしててさ・・・」
「ねえ、どうして直哉とお兄さんて、そんなに仲が悪いの?」
「兄貴は親父と仲が悪かったんだ。それで親父から可愛がられた俺の事を、今でも嫌っているんだよ」
「本当にそうなの?」
「そうだよ」
「でもね。家族がいるって本当に有難い事だよ。私も姉妹がいたらいいなって最近思うもん。だから大事にしなきゃダメだよ」
「まあ、会えばわかるよ。とんでもない偏屈野郎でさ。親父が死んだときも、俺、全然悲しくないって平気な顔して言うんだぜ。お嫁さんがいい人だからなんとか付き合っていけるけど、まあ俺と兄貴の二人だけじゃ絶対に付き合えない」
直哉も兄の事となると絶対に譲らなかった。兄弟の不仲の溝は相当深いものだった。