3、鏡の 向こうに写る者(2)
尾崎に案内され、駅伝部の部室の中へ入った直哉。中は、物凄い散らかりようだった。砂やホコリが積もる床の上には、漫画やエロ本が雑然と積み上げられていた。
とても戦う者が使用する場所とは思えない。これでは高校生がこっそり麻雀でもやる部屋と変わりはない。
そして直哉は、部室の隅のホコリまみれの鏡の前に立った。
そして「鏡の向こうに写る自分。一番戦うべき者。それは自分」と言い、直哉は鏡の向こうの自分を睨みつけた。
そこに写ったもの。それは負け犬の自分だった。いや、負け犬でありながら這いつくばってでも何かを掴もうとする自分であった。
そんな直哉の姿を見ると、尾崎はしばらく黙り込んでいた。直哉の気迫に終始圧倒されていたのだ。
ランナーとはいつも一人で走る者。だから人一倍自分に厳しくなければならない。そしてその一人一人の孤独な走りの結晶が駅伝である。
すると突然、直哉が口を開いた。
「尾崎さん。入部させて下さい」
「え?」
「俺を駅伝部に入部させてください」
「牧野・・・」
「必ず走れるようになってみせます。絶対に走ってみせます。約束します。だからみんなで箱根に行きましょう。いや・・・必ず行きましょう。そして意地でも大手町まで襷をつないでみせる」
直哉はそう言って、鏡の向こうの自分にそう決意した。
ランナーにとって必要な心。それは自分自身と戦う心である。
詩織の言うように、たとえ天才のようにスマートでなくとも、たとえ美しく優雅でなかろうとも、どんな形であれ、這いつくばり、そして時には倒れ、そしてボロボロになりながらでも、それでも夢を追い続ける。それこそが真のランナーだ。
恵一が自宅に帰ると、既にまどかと娘の玲奈は食事を済ませていた。
「恵ちゃん。遅かったのね」
「ああ」
恵一は相も変らず無口な男であった。そして背広の上着を脱ぐと「まどか。これクリーニング」と無愛想に言った。
「え?その背広、昨日卸したばかりじゃん」
「帰ろうと思ったら救急車が来てしまって、背広の上に白衣着て処置していたら血がついてしまった」
「時間外なのに?」
「交通事故だったんだ。担当医と二人でやった方が早いだろ」そう言うと恵一は黙々と部屋着に着替えた。
「患者さん大丈夫だったの?」
「ああ、処置が早かったからな」
無愛想にそう言う恵一を見て、まどかは思わず「ふふふ」と微笑んだ。
「どうした?何故笑うんだ?」
「ううん。恵ちゃんて、損な性格しているよね」
「?」
「もっと愛想よく振舞っていれば、いい人って思われるのに」
「別に、好かれる為にこの仕事やってるんじゃない」
そう言うと恵一は、テーブルの上に置かれた夕飯に箸をつけた。
するとまどかは、思い出したかのように「あ、恵ちゃん。直哉君また陸上始めたみたいよ」と言って、携帯画面に表示された、直哉からのメールを恵一に見せた。
『まどかさん。俺、もう一度陸上部に入るよ。東部工業大学を箱根駅伝に出場させてみせる。応援ヨロ』
「だからお正月はみんなで箱根駅伝見に行こうね」
まどかはそう言って笑うも、当の恵一はまったくの無視。
「ねえ、恵ちゃん、応援してあげてね」
「しない」
「どうしてよ」
「あいつは親父に似て口先だけだから、箱根駅伝なんて絶対に無理だ」そう言うと恵一は、黙々と夕飯を食べ続ける。どうしても直哉の事が気に食わなかったのだ。
「またそんな事言う・・・」
「大体あいつは昔から世渡り上手なんだ。駅伝はチームワーク。あんな自分勝手な奴がいたら絶対に勝てない」
「はああ???そんな事言って、自分は陸上挫折したくせして」
「親父が陸上しかさせてくれなかっただけだ。本当は野球がやりたかったんだ」
「嘘つき。本当は直哉君に嫉妬しているんでしょ。自分には無い才能があるものだから。馬鹿みたい。そんなんだから恵ちゃんお父さんに嫌われたのよ」
「うるさい」
「直哉君はあんなに素直なのに、恵ちゃんはどうしてそんなにひねくれているの?」
「うるさい」
「このひねくれ者」呆れた表情でそう言うと、まどかは娘の玲奈を抱きながら「玲奈、パパってひねくれてるよねえ」と話しかけた。
「うん。パパ、ひねくれ者。ひねくれ者」
2歳の玲奈が『ひねくれ者』の意味なんて知る訳がない。しかし事あるごとに「パパひねくれ者」と言う。これはもう玲奈の口癖となってしまっていた。
そしてしばらく時間が経つと、恵一はおもむろに「まどか。癌検診受けたか?」と聞いてきた。
「受けてないよ」
「ちゃんと受けておけ。若年性は怖い。あっという間に転移するぞ」
「大丈夫よ。大げさだよ」
「そんな事はない。現に、今患者でいるんだ。まだ19歳なのに肺癌を患っている」
「そうなの?ねえ、その人助かるの?」
「99%助からない。レントゲンで陰影が発見されてからじゃ遅いんだ」
「可哀想・・・」