4、兄貴の心(1)
「あの子は直哉の彼女なのか?」
恵一がそんな事を聞いてくるのは、とても珍しい事だった。いつもは直哉の話題など、これっぽっちも触れようとはしない。なのに今日に限って何故そのような事を聞いてくるのか?
まどかは少し不思議そうな顔をした。
「友達って言っていたよ」
「そうか・・・」
「何?直哉君が女の子連れて来るってそんなに珍しい事なの?」
「いや・・・」
「変なの。ひょっとして詩織ちゃんに一目ぼれ?」
「馬鹿か」
詩織の病状の悪さは、恵一が一番よく知っていた。99%助からないだろう。そのように思っていた患者が、なんと自分の弟の友達とは・・・。
しかし医師としてその事を誰かに話す訳にはいかなかった。患者の個人情報守秘義務というものがあったからだ。
詩織は詩織で、まさか担当医の恵一が直哉の兄であるとは、思いもしなかった事である。
あの後二人でバスに乗って五反田へと帰るものの、恵一の顔を見たとたん急に元気の無くなった詩織。そんな詩織を見て、直哉は少し不思議な気持ちになっていた。
5月に差し掛かると、直哉の足の状況は、更に良くなっていった。しかし、全力で走るとどうしても振動で痛みを感じるのである。
軽く10kmはぐらいは流せるものの、全力で800mを走れなければ、やはり競技選手として走る事は不可能。
さてどうすれば良いか?直哉は部室を掃除しながらそんな事を考えていた。すると尾崎が、部室に入ってきた。
「おう」
「あ、こんにちは」
「お前って、意外に真面目なんだな。まめに部室を掃除するしさ」
「昔からの癖ですかね」
すると尾崎は一枚のチラシを直哉に見せた。
『スポーツ整体 ナカムラ』
そのチラシを見た直哉は、一瞬キョトンとした。「尾崎さん。これ何ですか?」
すると尾崎は自信に満ち溢れたような表情で話し出した。
「これさ、オレの友達のお父さんがやっているんだよ。結構名医らしい。一度見てもらったらどうだ?」
「でも・・・手術するお金なんて」
「誰も手術するなんて言ってない。一度診てもらおうって言ってるんだよ」
「はあ・・・」
そして部活が終わると、直哉は尾崎に連れられ、そのナカムラと言うスポーツ整体に連れて行ってもらった。
川崎駅前にあるこの整体治療院は、雑居ビルの一室にある。いかにも怪しい作りで、本当に名医なのか疑ってしまった。
「ふんふん」
そう言って、直哉の足首をグルグルと回すのは、この治療院の院長の中村である。院長といえど一人しか整体師がいない。勝手に院長と名乗っているだけである。
不安げな顔をしてベッドで寝る直哉の顔を気にする事なく、足首を回したり、アキレス腱を伸ばしたり。すると「また派手にやっちゃったんだね」と言ってきた。
「はい・・・」
「おそらく伸び縮みさせるのは平気なんだよ。問題は縦への衝撃なんだね」
「はい」
「これは手術で直るもんじゃないね」
「そうですか・・・」直哉は少し残念な顔をした。すると中村院長は優しそうな顔をしながら「体重を5kg減らしなさい」と言った。
直哉は身長178cmで、体重65kg。しかし中村院長は、これをさらに5kg減量しろと言う。
「減量ですか?」
「うん。脚力トレーニングをするのはいいけど、減量も平行して行う事。それで上体を骨と皮と筋肉だけに変える」
「は、はあ・・・」
「それともう一つ。フォームを改造しなさい」
「フォームを?」
「そう。あなたは恐らく、大またで、リズムよく走るタイプ。だから足への負担が人一倍大きい。これを、足を高く上げず、小またで地面を滑るようなフォームに変えるのです」
「地面を滑る???」
長距離ランナーにしては、体の大きい直哉。確かに足の長さを利用し、大またで、しかもピョンピョンと跳ねるようなフォームである。
中村院長は、これを、地面を滑るようなフォームに改造しろと言うのである。
整体院を出ると、外はもう真っ暗になっていた。直哉と尾崎は、川崎駅前をぶらぶらと歩いていた。
直哉は半信半疑であった。果たしてそんな簡単にフォーム改造など出来るのであろうか?
そんな事を考えていたら、尾崎が「牧野、走ってみよう」と言ってきた。
「え?今ですか?」
「ああ、やってみようぜ」
直哉は尾崎に付き添われながら、まるで地を這うかの如く走り出した。
そしてしばらく走ると、多摩川の橋へと差し掛かった。
「牧野、どうだ?」
「痛くはありません。でも、何か変・・・」
「そうか・・・明日一緒に考えよう」
「わかりました」