4、兄貴の心(3)
そして五反田のファミレスで食事を済ませると、二人はスタバで話し込んだ。
「もうすぐピアノコンクールがあるの」
「そうなんだ」
「その時はナオにも見に来て欲しいなあ」
「行くよ。絶対に見に行く」
そう言うと、直哉は思わず目を輝かせた。しかし、ピアノコンクールなど見に行った事もない。
「コンクールってどんな方式でするの?」
「ええとね、課題曲と自由曲の2曲を弾くの。課題曲は大体ショパンが多いかな。自由曲はいくつかの候補の中から選ぶの。勿論演奏時間も決められている」
「ふんふん」
直哉は興味深く詩織の話を聞いていた。なにしろ全く未知の世界である。
「そして、コンクールによって違うんだけど、2次予選、3次予選とあって、それに勝ち残ると本大会に出場する事ができるの」
「でもさ、ピアノのプロになるのにプロテストってあるの?」
直哉のその質問に、詩織はゆっくりと首を横に振った。
「ピアノにプロ資格というものは無いの。だから私プロピアニストと名乗っても全然構わない。でもピアノで食べていく事が大変なの。ピアノで食べていけるようになるには国際大会で入賞する事」
「こ、国際大会???」
「うん。ショパン国際ピアノコンクールというのがあって、5年に一度ポーランドで開かれる大会があるの。それで上位に入れば、おそらくプロとして食べていける。私、この大会に出たいんだ」
直哉は詩織のスケールの大きさに思わず圧倒されてしまった。箱根駅伝は毎年決まって正月に開催される。しかし、ピアノコンクールは毎年ある訳ではない。プロピアニストになるには、何年かに一度のチャンスをものにしなければならない。しかもその時間はたった数分。その狭き門に、思わず驚いてしまった。
「それって物凄く緊張するんじゃないの?」
「だからコンクールに馴れる為に、ひたすら出場する。ひたすら人前で演奏するの。そうやって自分を強くする」
翌日詩織は、目黒救急病院へ診察を受けに行った。そして診察だけでなく、紹介状を書いてもらい、病院そのものを変えようと思ったのだ。担当医が直哉の兄と知り、この事を知られたくなかった。
「先生、病院を変えたいのです」
詩織の第一声はそれだった。すると恵一は至って冷静な表情で「何故ですか?」と聞いた。
「その・・・」
詩織が返答に困っていると、恵一は「直哉の事ですか?」と単刀直入に言った。
「はい・・・」
「病院を選ぶのはあなたの自由だと思います。紹介状も書きます。だけど私が思うに、どうして隠さなければいけないのですか?」
「・・・」
黙り込む詩織。しかしどういう訳か、今日の恵一はいつものように淡々としてはいなかった。
「何故直哉に相談しないのですか?友人なら相談するべきでしょう。それとも相談するにふさわしくないのですか?」
「いえ、決してそんな事は・・・」
「困った時に、力を合わせる事こそが友情ではないのでしょうか?辛いときに励ましあって、助け合って。それが友情ではないですか?」
「・・・」
恵一のその言葉を聞き、詩織は思わず言葉を失ってしまった。そのとおりだった。
何故隠す意味があるのか?
自分は何故こうやっていろんな事を隠しながら生きているのだろうか?そんな疑問に苛まれてしまった。
AV女優としてお金を稼ぎ、そのお金は音楽大学の学費に投資。しかも病気で命すらも危うい身。
一体自分が何の為に生きているのかが分からなくなってきてしまった。
恵一とまどかのように幸せな家庭を持てる可能性も薄い。
こんな事をしながらピアノを弾き続ける自分は一体何なのだろうか?
結局、病院を変える事も出来ず、詩織はそのまま診察室を後にした。
そしてその日の夕方、恵一は、詩織の精密検査の結果を再度見直した。
99%助かる見込みは無い。
しかし、ひょっとして、少しでも可能性があるのではないかと思い、いろいろと思案をしはじめた。
詩織をなんとかしようと思ったのだ。