5、完全復活(1)
詩織は今日も何かに取り付かれたように、ピアノのレッスンを受ける。
詩織の通う帝国音楽大学の教室には夕日が差し込む。ショパンの幻想曲へ短調は、一ヵ月後のコンクールの課題曲である。ショパンの中でも難易度の高いとされるこの曲も、全国区のコンクールとなれば、いとも簡単にこなしてしまう。
「岡本!ダメだダメだ!」
教授はそう言って演奏を止めてしまった。
「強弱が不自然すぎる。まるで怒りをピアノにぶつけているようだ」
「はい・・・」
詩織は思わず下を向いて黙り込んでしまった。必死に練習をして、必死に覚えて。だけど、音楽を人に伝えるという事は、なかなか上手くいかない。
怒りをピアノにぶつける?
今の自分は怒っているのだろうか?
そんなつもりは毛頭無い。しかし、教授はそのような酷評を繰り返す。
自分で自分がわからなくなってきてしまった。
音大のキャンパスを出ると、外は薄暗くなっていた。
薄暗くなった東京の空は、孤独な詩織からしてみれば尚更寂しく見えてしまう。
自分で選んだ道。自分で決めた道。そうやって何度も何度も自分に言い聞かせてきたが、時に人の心は限界というものを感じさせる。
そんな時、一通のメールが詩織に届く。直哉からだった。
『只今減量中。5キロ体重を落として、足への負担を軽減する。ああ・・・肉が食べたい』
「ふふふ」思わず笑ってしまった。
直哉も詩織同様何かに取り付かれたように、ロードワークを行っていた。
改造したばかりのフォームを何度も何度もチェックをしながら、自分の体に染み込ませる。
ロードワークが終われば、いつものように筋トレ。後遺症の足に筋肉という鎧をつける。
ストレッチ体操も欠かせない。
人に追われる詩織と違い、これからを目指す直哉。とにかく楽しくて仕方が無かった。
そして以前のような痛みは、少しずつだが消えて行き、段々と走れるようになってきた。
今駅伝に出ろと言われても困るが、秋の予選会までにはなんとか間に合うかもしれない。
そんな思いが直哉の脳裏にはあった。
そして練習を終わると、品川キャンパスから五反田の自宅まで走って帰って行った。
直哉が五反田にたどり着くと、外は真っ暗になっていた。そして家に帰る前にスーパーマーケットへ寄った。
最近はなるべく自炊をするよう心がけていた。スポーツ選手たるもの健康管理は、何よりも大切である。
「煮物でも作るか・・・」
そんな事を思いながら、カレイをじっと見つめていると、ポンポンと肩を叩かれた。
振り返るとなんと詩織が立っていたのである。
「詩織!」
「何してるの?カレイなんて見て」
「あ、ああ・・・その・・・カレイの煮付けでも作ろうかと思って」
「ええ?ナオって自炊するの?」
そして詩織は、直哉に連れられて、ワンルームマンションへとやってきた。
直哉の部屋はきれい好きな性格の為か、綺麗さっぱりと片付いていた。
棚の上には、過去の栄光の遺産であるトロフィーが並べられ、小さなちゃぶ台の上には、ゲーム機。男の部屋といえば、服を脱ぎ散らかしたりしているものだが、直哉の部屋は整理整頓が行き届いていた。
「へえ、綺麗・・・」
詩織は少し意外と言った顔をした。散らかっていると思ったら、意外にも綺麗だった。
「物が無いだけだよ」直哉はそう言うと、コーヒーを詩織に入れてあげた。
「これでも飲んで。インスタントだけどね」
「あ、ありがとう」
「よかったらご飯も食べていく?作ってあげるよ」
「ええ?本当?」
すると直哉はニッコリと笑いながら、料理の準備を始めた。
詩織も女の自分が台所に立たないとと思い、調理場に立とうとするも、いかんせん都内の小さなワンルームマンション。二人も台所に立つと、スペースが無くなってしまう。
「いいよ、いいよ。俺が作るよ」
「でも・・・」
「いいって」
煮付けのあまい香りがただよう直哉の部屋。今日の夕飯はカレイの煮付け。直哉は詩織の為に一生懸命に作ってみせた。
そして小さなちゃぶ台の上に、煮付けと、コーンサラダと、味噌汁が二人分置かれた。
「おいしそう!」
詩織は、煮付けのあまりにもの出来栄えの良さに驚いてしまった。煮崩れも全く無く、とても男の手料理とは思えない。
そして直哉に「食べてみてよ」と言われると、詩織は、そのカレイの煮付けを箸で細かく切り、口へと運んだ。
「おいしい・・・」
「だろ?」
「ナオって料理上手いんだね」
「まあ、基本食べる事が好きだからさ。詩織はよく料理するの?」
「それが・・・」
実は詩織は、全く料理が出来なかった。子供の頃からピアノばかり弾いていて、その手の類は、ほとんどといっていい程出来ない。
「私・・・料理できないんだ・・・」
「え?でもさっきスーパーに・・・」
「実は、お水買いに行っていただけなの。スーパーで買うと安いから」
そう言って詩織が照れ笑いすると、直哉は「あはは」と笑った。そして「料理なんて、いつでも勉強できるよ」と笑顔で言った。
ピアノに没頭する毎日だが、詩織には心のゆとりのような物が全く無かった。
自分と同じ歳の直哉。後遺症に悩みながらも、日々厳しいトレーニングをし、そしてキチンと料理もこなす。
ひたすらピアノを弾くだけが本当に正しいのだろうか?
お金を稼いで投資する事で、豊かな心がうまれるのだろうか?
もっといろんな事に挑戦して、もっと視野を広め、そして社会のいろんな事を理解する事で、自分の音楽は変っていくのではないか?
そんな事を考えながら、一人五反田の街を歩いていると、小さな一件の本屋さんを見つけた。そして詩織は何か思い立ったかのように、その本屋さんの中へと入っていった。