6、ピティナピアノコンペティション(1)
『詩織が好きだから。俺は詩織の事が好きだから』
詩織は白昼の山手線に乗りながら、ぼんやりとしていた。直哉の言葉がずっと耳から離れなかった。
好きと言われる事は、やはり嬉しい。そして、直哉の事も人として大好きである。しかし、今の自分の立場を考えれば、とても恋愛どころではなかった。
身体的、金銭的な悩みをいろいろと抱えている。ましてや自分がAVに出演している事等、直哉は全くもって知らないのである。そんな闇の部分を包み隠している自分を見ると、まるで直哉を騙しているかのような気持ちになってしまった。
直哉は、詩織の綺麗な部分しか知らなかった。
そして渋谷駅を降りると、人ごみの中を流されるようにして歩き、自分の所属するプロダクション事務所のあるビルの前へとやってきた。
やくざっぽい業界と思われがちなこの業界だが、決してそんな事はない。
事務所はとても綺麗だし、きちんと受付嬢までいる。どこからどうみても普通の会社である。しかも社長はなんと女性。
去年自分の父が死に、家が破産した為、この世界に応募する事を決意した。
そして500万円のお金を前借りして、なんとか大学に通い続ける事が出来た。
確かにこの世界に憧れて入ってくる人もいる。たまたまAVを見て「女優が可愛い」と憧れの心を持って応募したり、また、全くの無名女優が有名になりたいが故に応募したり、動機はさまざまである。
しかし一番多い応募理由は、やはり詩織と同じく金銭的理由である。
事務所の社長は、42歳の女性である。この世界とは全く無縁な業界出身者であり、あくまでこの仕事をビジネスとしてとらえていた。
「ゆりなちゃん。これが来月の予定よ」
そう言うと、社長から予定表を貰った。
見ると一週間平均3日~4日の休みがある。学業と両立させるには、ちょうどよかった。
そしてそれと一緒に給与明細も貰えた。先月で500万円の前借の返済を済ませ、今月からようやく給与をもらえるようになった。その金額はなんと150万円。
明細に記載された金額を見て、詩織は思わず驚いてしまった。すると社長は「ゆりなちゃんのDVD売れているから、まだまだ稼げると思うよ」と言ってきた。
「出版社も、ゆりなちゃんを週刊誌のグラビアに載せたいと言っているの。どう?」
「あの・・・」
「何?」
「これぐらいで、収めておきたいのですけど」
「?」
「あまり有名になりすぎると、逆に困ってしまうので・・・程々にしてもらえると助かるのですけど」
「そうなの?勿体ない。ゆりなちゃんが本気でやれば、芸能界も夢じゃないのに」
「いえ、私は芸能界なんて・・・」
「そう。わかった」
社長はそう言うと、テーブルの上に置いてあったコーヒーに口をつけた。すると詩織はふと思い出したかのように、社長に質問をしてみた。
「あの・・・もし、彼氏が出来たとしたらどうなるのですか?」
「彼氏?う~ん・・・。契約期間だけ守ってくれたら辞めてもいいよ。何?彼氏でも出来た?」
「いえ・・・ただどうなのかなって・・・」
何となくそんな想定も考えるようになってしまった。
直哉も直哉で、あれからずっと詩織の事を考えていた。なぜあそこまで積極的になれたのか、自分でもよくわからなかった。勿論付き合ってくれるとも思ってはいなかった。ただ、好きと伝える事が出来たので、少しは胸のつかえが取れたような気がした。
東部工業大学内のトラックには、今日も駅伝部員達が必死に練習していた。
関東インカレポイントもあるが、まず20kmの距離を、全員で平均1時間1分で走れるようになる事が、予選を突破するラインになると尾崎キャプテンは認識していた。
各々の腕時計でタイムを計測し、上位10名の結果はこうだった。
鷲尾 優作 58分31秒
牧野 直哉 1時間00分24秒
尾崎新太郎 1時間01分16秒
小野寺 武 1時間02分07秒
久保 義人 1時間02分17秒
岡野 雄志 1時間03分00秒
富良野 久 1時間03分16秒
大貫 啓太 1時間03分27秒
小島 卓也 1時間03分52秒
手塚圭一郎 1時間04分06秒
今の東部工業大学は、とても箱根駅伝の予選会を突破できるような実力ではなかった。