6、ピティナピアノコンペティション(4)
「次は帝国音楽大学の岡本詩織さんです」
美しいドレスに身を包んだ詩織は、ステージへと上がり、そして観客に向けて深くお辞儀をした。この世界では有名なのか、きわだって拍手が大きく感じた。
そして、ピアノの前に置かれた椅子に腰掛けると、優雅に演奏を始めた。
『課題曲 ショパン幻想曲へ短調』
詩織の奏でる演奏は、これまでの演奏者のレベルとは全く違っていた。それは素人の直哉でもしっかりと感じ取れる。美しく、そして心地よい音の強弱が、会場全体に鳴り響く。
まさしく魔法のような指であった。
あまりにもの素晴らしい演奏に、観客たちは固唾を呑んでいた。これこそが、ピアノ界のトップランカーである。
そしてどれだけの時間が経ったであろうか?観客が心地よくその演奏に聞き入っていたその時。
なんと詩織は大きなミスを犯してしてしまう。
完全に音をはずしてしまったのだ。
その音をきいて直哉は「あっ」と思わず声をあげてしまった。
何故このようになってしまうのか?完全なるミスであった。何回も何回叩かれるキー。それをたった一つ間違えてしまった事で、全てがおかしく聞こえてしまう。ピアノとはまさしく恐ろしいものであった。
そして演奏を終えた詩織は、目を赤く滲ませながら、観客に丁寧にお辞儀をして去っていった。
いつもの練習なら絶対に間違えない。しかし、不幸にもこのタイミングで間違えてしまった。
コンクールが終わると、直哉は会場の入口前で、詩織の事を待っていた。
するとショボンと落ち込んだように、詩織が歩いてきた。
「詩織」
「ナオ!」
「詩織の演奏ずっと聞いてたよ」
「・・・全然ダメだったでしょ」
「いや・・・そんな・・・」
「はっきり言ってもいいよ。全然ダメだったから。あ~あ・・・何であんなとこで間違えちゃったのかなあ・・・」
詩織はそう言うと、今の自分の心のような、どんよりとした空を思わず見上げてしまった。
その後、二人して山手線に乗り、五反田へと帰るも、詩織は全くと言っていい程元気が無かった。そしてドア窓から外の風景を見ていると、頬に一筋の涙がスーッと流れ落ちた。
やがてその涙はぽろぽろとあふれ出して、止らなくなってしまった。
「詩織・・・」
「どうして?・・・どうして上手くなれないんだろう・・・どうして私ってこんなに駄目なんだろ・・・いつも後一歩で・・・いつも後一歩で・・・」
ヒック、ヒックと肩を震わせながら、ひたすら泣く詩織。完全に大泣きと化してしまった。
直哉は何も言えず、詩織の肩をそっと抱いた。
そして五反田駅へ到着すると、どんよりとした雲は去り、街は夕暮れと化していた。
泣き止んだとは言うものの、詩織の目は、空と同じく夕焼け色に滲んでいる。
直哉は少し心配しながらも、詩織のマンションの方へと送って行った。
すると詩織は、ぼんやりと歩きながら「ナオ、ごめんね」と言い出した。
「え?どうして?」
「この間はあんな事言ったりして・・・」
「あはは。仕方ないよ。大丈夫、大丈夫。オレ振られるのは慣れているから。でも、詩織の事はいまでも好きだよ」
「・・・」
「俺はやっぱり詩織の事が好きだよ」
そう言うと、直哉は夕暮れの空を見上げながら笑ってみせた。
すると詩織は「ナオはどうしてそんなに人の事構っていられるの?」と聞いてきた。
「それは・・・」
「私なんて、いつも一つの事や自分の事で一杯一杯。ピアノ以外の事何も出来ないくせして。本当に自分が嫌でたまらなくなる・・・」
「そこが好きだよ」
「え?」
「もし、詩織が何でも出来るスーパーマンだったら、オレは好きにはなれないのかもしれない。でも、欠点があるから人は魅力的に見えるのだと思う」
「・・・」
「俺だって欠点だらけさ。でも、だから人を好きになれると思う。弱いから人と共に生きようと思える」
そう言うと、直哉はしっかりとした表情で、夕焼け空を見つめた。そして「詩織。俺、待ってるよ」と言って、少しだけ微笑んだ。
「え?」
「詩織の事を待ってるよ。例え詩織にその気がなくとも、俺は、詩織の事を好きでい続ける。詩織だけを好きでい続ける」
そんな直哉の言葉を聞き、詩織は思わず黙り込んでしまった。決して直哉の事が嫌いなのではない。ただ、今、自分の置かれている環境が、とても恋愛をできるような環境ではなかった。
そんな詩織の表情を見て直哉は「あ、深く考え込まなくてもいいよ。心の片隅にでも置いておいて欲しいだけ」と言って笑った。
そんな事をしていると、詩織の住むマンションの前までやってきてしまった。すると直哉は「じゃあね」と言って、詩織に手を振り、去って行った。