6、ピティナピアノコンペティション(5)
詩織が部屋に帰ると、今日も一人ぼっち。その一人ぼっちが寂しくて仕方が無く、時に我慢が出来なくなってしまう。辛いとき、悲しいとき。一人でいると耐えられない事ばかりだった。
夕焼け色に染まる部屋の中で、詩織はただぼんやりとしていた。
そしてふと思い出したのかのように「あ、ブログ更新しなきゃ」と言い、机の上においていた小さなノートパソコンを開いた。
美月ゆりなのファン向けのブログ。画面には、絵文字混じりの可愛い文章が敷き詰められる。勿論、ピアニストを目指している事等書けるわけもない。音大生は勿論、大学生である事すら一切ファンには公表していない。
そしてコメント欄には、今日もファンからの暖かいメッセージ。嬉しいと思う反面、なんとなく騙しているような気持ちにもなってしまっていた。
直哉は自分の事を待ち続けると言ってくれたが、自分でも、もうどうしていいのかがわからなくなってしまった。AVの仕事をしている。それにいつまで生きられるかすら分からない。こんな自分の事を何もわからずに、告白してくる直哉に対し、罪悪感を感じてしまう。
棚の上には、昨年亡くなった最愛の父とのツーショット写真。その背景にはベネチアの泉が写っていた。高校を卒業する前に、共にイタリアへ行った時の写真だった。
『ママが早く死んで、詩織にもいろいろな苦労があったと思うが、パパはいまでもママと結婚してよかったと思っている。一人の力なんて弱いものだよ。詩織、ピアノもいいけど、本当の良きパートナーを見つけなさい』
そんな父の言葉を思い出すと、詩織は思わず涙ぐんでしまった。
父は、詩織がピアニストになる事を望んではいたが、パートナーを見つけて幸せになる事をもっと望んでいた。
今自分が、父親の望んでいた生き方をしているかと言えば、答えはNOだった。
恵一は、お昼休憩を済ませると、病院の庭でいつものようにタバコを一服。
最近は健康増進法とやらの影響で、院内にあった喫煙所も完全に撤去されてしまった。なので今や5分もの移動時間をかけて、この庭までタバコを吸いにいかなければならなくなった。
患者の健康の向上を職業とする医師である為、院内でも医師は全員禁煙せよとの指導があるが、恵一は一向にタバコが止める事が出来ない。
そしてふうとおいしそうにタバコの煙を吐き出すと、後ろから「先生」と声が聞こえた。
ふと振り返ると、恵一の後ろには、いつのまにか詩織が立っていた。
「こんにちは」詩織がそう言って愛想よく挨拶をすると、恵一もそれにつられるように「こんにちは・・・」と気まずそうな挨拶。
この間、詩織に死亡宣告をしてしまった為、恵一は少し罪悪感に苛まれていた。しかし当の詩織は、この間とは打って変わって、とても元気そうだった。
そして「抗がん剤打ってたんです」と言うと、恵一の隣にチョコンと座った。
「この間、ナオに会いましたよ」
「ああ、あいつですか。あいつは自分勝手な奴だから、どんどん叱ってやってください」
「そんな事ないです。とても優しい人ですよ」
そして詩織は、五月晴れの空を見上げると「私、ちょっと追い込まれすぎてるのかなって思うのです」と言い出した。
「追い込まれる?」
「はい。いつも心に余裕が無くて、ピアノの事ばかり考えて。しまいにはピアノを弾き続けて死ねれば本望だとも思ってた。でも、人生ってそれだけじゃないですよね」
「・・・」
「もっと笑ってもいいですよね。もっと泣いてもいいですよね」
その言葉を聞くと、恵一は珍しく微笑んだ、そして「その通りですよ」と言って、詩織を励ました。
「寂しい時は、好きな人の名前を何度も呼んで、そして嬉しいときは一緒に笑って。時には甘えてみたり・・・人生ってそんなんでもいいのかなって」
「岡本さん・・・」
「私、ずっと恋愛するのが怖かったんです。自分が長く生きられないのを知っているから、それで恋愛するなんて相手を傷つけるだけだと・・・でも・・・私、一人で死にたくない。せめて死ぬ時ぐらい好きな人に看取ってもらいたい」