7、海の上の空気(1)
7月に入ると、東京の街は毎日少しずつ気温を上げていった。梅雨明け宣言は出ていないものの、外に出るとジリジリと真夏日が肌を焦がす。
詩織は淡い水色の日傘を差して、渋谷の駅前を歩いていた。今日詩織が渋谷の街へとやってきた理由。それは、自分の所属するプロダクションに、AV出演を辞める事を告げる為だった。
辞めてしまえば生活は一転してしまうかもしれない。音大も辞めざるを得ないかもしれない。しかし、直哉と付き合い始めた以上、もうこれ以上この仕事を続ける訳にはいかなかった
それにひょっとして・・・。
ひょっとして病気が完治して、直哉と幸せに暮らせる可能性だってあるかもしれない。
そんな淡い希望すらも寄せていた。
詩織は、自分の所属する渋谷にあるプロダクション事務所の中にいた。気品あふれるアジアン風の応接室。そしてセレブっぽい女社長を目の前にすると、詩織は「辞めたいんです」と一言。
その言葉を聞き、社長は驚くわけでもなく「そう・・・」と言って、しばらく天井を見つめていた。
「勝手言ってすみません。勿論契約期間はちゃんと守ります。でも、契約期間が終わったら、この世界から卒業したいのです」
詩織はそう言うと、ひたすら「すみません」と言って、何度も何度も頭を下げた。すると社長は諦めたのか「わかった」と言って、少しだけ微笑んだ。
「いいよ。制作会社との契約が今年一杯だから、9月の撮影で終わりにしてあげる。そうしたら12月発売分まで完成するから、それでなんとか終われるようにする。その後のイベントも、なるべく短期間で終われるように交渉してあげる」
「ほ、本当にいいのですか?」
詩織がそう言うと、社長はニコリと笑い、そして優しい眼差しで詩織を見つめた。
「惜しいね。ゆりなちゃんなら、芸能界まで行けると確信していたんだけどね」
「・・・本当に勝手言ってすみません」
「でもまあよくある話よ。女だから、いろんな事情って言うのがあると思う。ましてや彼氏が出来てしまえば、大抵の女の子は辞めてしまうからね。だからこの世界は、沢山女の子を毎年デビューさせるの」
沢山デビューさせて、残るのはごくわずか。これがこの業界のスタイルだった。そして「9月まで撮影があるけど頑張ってね。彼氏がいたら辛いかもしれないけど、そこはお仕事だと思って、しっかりと割り切る事」社長はそう言うと、優しい瞳で詩織を見つめた。
「わかりました。頑張ります」
その後詩織は、マネージャーとともに都内の撮影現場へと向った。撮影現場は、お台場にあるマンションで、これから三日間にも及ぶ撮影が待ち受けていた。
撮影中はとにかく直哉の事は一切考えず、思いださず。そして自分は岡本詩織ではなく、美月ゆりなであると心に言い聞かせて撮影に臨んだ。
そして仕事が終わると、詩織はマネージャーに車に乗せられて、自宅のある五反田の街へと帰った。
首都高速のレインボーブリッジを渡ると、東京タワーが正面に見えてくる。その東京タワーの灯りをみると、何故か心が悲しくなってきてしまった。
そして「ナオ・・・ごめんね」と心の中で呟いた。
そんな中、直哉は居酒屋でのバイトで、狭い店内を走り回っていた。勉強こそ手抜きをしているものの、それでもバイト、部活となかなか大変だった。
そしてバイトを終えると、詩織からのメールが届く。
『今日会えないかな?』
時刻は既に、夜の12時になっていた。二人は、レンタルビデオ屋で、シーズン24を数本借りてくると、直哉の部屋の中で、ぼんやりとそのDVDを見続けた。
別に内容がどうこうと言うわけでもなく、見られるならどんなDVDでも良かった。
ただ、同じ空間で、同じ時を過ごせる事が出来るなら、それだけで十分だった。
やがて二人は、お互いの疲れた体を癒すように、小さなソファーで身を寄せ合って、眠りへとついた。
ふと直哉が目を覚ますと、窓の外は夜明けの紫色と化していた。そして詩織は、直哉の胸の中で静かに寝息をたてながら眠りについていた。
小さなソファーの上で、二人して眠った為か、体が少し痛かった。
すると「ん・・・」と言って、詩織は目を覚ましてしまった。そして「あ、寝ちゃった・・・」と言い、眠気眼を目で擦った。
「いつの間にか寝ちゃったね」直哉がそう言うと、詩織は眠たそうな目をして「そうだね・・・」と言った。
「詩織、今日から合宿なんだ」
「あ、そう言えば長野まで合宿に行くって言っていたよね」
「うん。俺の故郷の佐久で合宿するんだよ。知り合いの家の民宿借り切ってさ。一回目は7月に2週間。二回目は8月に二週間」
「そうなの大変ね。頑張ってね」
「ああ、頑張るよ」
詩織が直哉の部屋を出ていくと、東の空から日が昇ろうとしていた。その美しい夏空を見ると、詩織は気持ちよく大きな伸びをした。
そして「頑張れ直哉!そして頑張れ私!」と言って、美しく上る朝日を見つめた。
しかしその時、詩織の胸に急に激痛が走った。そして呼吸が段々苦しくなり、胸を押さえたまま、地面にベッタリと座り込んでしまった。