9、命のソナタ(3)
詩織が入院してから、3週間の月日が経っていた。恵一はもう、詩織を退院させないつもりでいた。癌がどんどんと進行し、またいつ何処で倒れるかわからない。まして身寄りもいない。
ふくよかだった頬は痩せ、体も一回り小さくなったような詩織。生命の灯が消えようとしていた。
「直哉の箱根駅伝の出場が決まったそうだ」
恵一がそう言うと、詩織は「そう・・・よかった・・・」と言って、優しい顔で空を見上げた。
恵一は病院の庭まで、詩織を車いすに乗せて散歩していた。彼は表現こそ下手だが、なかなか優しい男であった。そして「直哉からの連絡は?」と聞くと、詩織はゆっくりと首を横に振った。
恵一は半ば呆れていた。何があったのかはよくわからないが、女性に対して一方的に会わないと言うスタンスを取る事が理解出来なかった。
「あいつは本当にどうしようもない奴だ。大人としてキチンと話す事すら出来ないのか。昔からあいつはオヤジにだけはペコペコして、よそ様への態度が全くなってないんだ」
「いいんです・・・」
「しかし!」
すると詩織は、寂しげに空を見上げて話し出した。
「先生、本当はナオの事好きなんじゃないのですか?不満を言うのは、それだけ相手に期待をしているからだと思います。そして先生がナオの事が好きなように、ナオも先生の事が好きだと思う」
「・・・」
そして詩織は事の発端を、恵一に話し出した。
「私、大学に通いながら、AVに出ていたのです。本当はAV女優なんです」
「え?」
「その事がナオにバレてしまったんです」
「そ、そうだったのか・・・」
「昨年父が死んで、家も破産してしまって・・・それで音大の学費を払えなくなってしまったんです。年間300万円の学費なんてとても払えなかった。それでAVに出演して学費を稼いでいました。私、ナオの純粋な気持ちを傷つけてしまったんです」
「・・・」
「はっきり言って恋愛なんてどうでもよかったの。ピアノだけ弾ければそれでいいと思っていた。でも・・・ナオと出会ってしまいました・・・私、ずっとピアノとナオとの間で板挟みになっていた・・・でもこれで楽になりました・・・これでよかったんです・・・」
「直哉はその理由を知っているのか?」
「何も知らせなくていいの。このままでいいの・・・」
「詩織さん。ちょっと待ってくれ!」
「先生、私、退院します。どうしても次のピアノコンクールに出たいのです」
「待ってくれ。直哉はAVの出演理由も、病気の事も何も知らない。このままにするなんて!」
すると詩織は、目に涙を一杯にためて、感情を高ぶらせた。
「だって私もうすぐ死ぬんだよ!今更会ったところでナオが幸せになれると言うの?ナオが辛い思いするだけじゃない!それならいっその事、このまま終わった方がいいの・・・もうこれでいいの・・・もうこれでいいの・・・」
そういうと、詩織の頬に一筋の涙が流れた。
「詩織さん・・・」
「人を好きになった事が間違いだったの・・・人を好きになったらいけなかったの・・・だからこれでいいの。もうこれでいいの・・・お願いします。退院させてください。お願いします・・・」
そして詩織は、無理矢理に目黒救急病院を退院していった。
詩織はそれから、何かに取りつかれたように、ひたすらピアノのレッスンを続けた。
体からは以前のようなふくよかさが消え、痩せ細り。心はまるで廃人のよう。もう自分の全てを捧げるつもりでピアノを演奏していた。
例え自分の体がボロボロになろうとも、例え生命の灯が消えようとも、まるで自分の全てを犠牲にするかのように、ピアノを弾き続けた。