9、命のソナタ(4)
11月。幕張メッセにて、日本ピアノコンクールというものが開催された。
まさに日本ピアノ界の最高峰であるこのコンクールに、詩織は病を押して出場をした。
課題曲はショパンの革命。
詩織は、痩せた体でステージへ現れると、そのまま観客へ深く礼をした。そしてピアノの前に座ると、真剣な眼差しで楽譜を見つめた。
魔法の両手の指が動きだし、パワフルなショパンが流れ出す。詩織にはまだ、気力でピアノを弾く力があった。観客はそのショパンに終始聞き入っていた。
こんな美しい演奏がこの世にはまだ存在していたのか?そんな気持ちになりながら、詩織の演奏に聞き入っていた。
そして演奏が終わると、観客から割れんばかりの大きな拍手が巻き起こった。
この広い幕張メッセの会場に響き渡る拍手の渦。詩織は再度立ち上がり、観客に向けて深く礼をした。
課題曲だけで言えば、間違いなく詩織がトップである。
そして次の日の演奏の自由曲『シューベルトの即興曲』を残すのみとなった。
詩織はその日、幕張のホテルへと泊まった。はっきり言って五反田まで帰るのもかなりキツかった。少しでも体力を残して明日の演奏に挑みたかった。
そしてホテルの部屋の中では、瞑想するかのように深く目を閉じ、ひたすら集中力を高めていた。
そんな中、直哉は品川の居酒屋で、尾崎と酒を酌み交わしていた。少し酔い気味な直哉は、なんとなく尾崎に愚痴をこぼしてしまう。
「尾崎さん。オレ女を信用出来ない・・・」
「なんだよいきなり」
「女って、可愛い顔して平気な顔で嘘をつきますよね」
「まあ・・・そりゃ・・・」
「オレ純真に女を好きになっても、結局は遊ばれてたんですよ」
そう言うと、直哉はビールをグイッと飲んだ。予選会のプチ祝勝会。ランナーの飲酒はあまり許されることではないが、今日だけは飲みたかった。
すると尾崎は「別れ際はキチンとしておけ」と一言だけ口にした。
「別れ際?」
「どんな嘘かは知らない。それが俺なら許せられる事で、お前が許されない事なのかもしれない。でも、別れるなら綺麗に別れろ」
「・・・」
「キチンと話をして、キチンと訳を聞く。それが大人ってもんだよ。酒飲んで愚痴っても仕方ないだろ?」
「はい・・・」
「ただな・・・俺もそんなに経験がある訳じゃないけど、女の嘘は大体が相手を傷つけないようにするために嘘をつくんだよ。相手を想って嘘をつく。だから俺は嘘をつけない女に魅力を感じない。嘘つきは裏返せば気配りってもんじゃないのかな」
そう言うと尾崎は、ジョッキに残っていたビールをグイッとあけ「もう行くぞ」と言って席を立った。そして「おごってやる。元気出せ」と言って、伝票を手に取った。
五反田に帰った直哉は、詩織の部屋の前を訪ねていた。インターホンを鳴らすも、詩織は出てこない。携帯に電話をするも、電話にも出ない。
悩み続けたが、尾崎の言う通りやはり大人になって、本音で話を聞いてみようと思った。きっと理由があるのでは?そんな事を思うようにもなっていた。
しかし、当の詩織は留守。電話にも出ない。
直哉は寂しげにマンションを見上げると、詩織のマンションから立ち去って行った。
「嫌われたのかな・・・」
そんな事を言っていると、詩織が参加するであろうピアノコンクールの事を思い出した。そして携帯電話を手に持って、その日程を調べると、コンクールが今日と明日である事がわかった。