10、雪の箱根 仲間の襷(1)
詩織には親族がいなかった為、牧野家で葬儀を開いてあげる事とした。目黒の葬儀場で、詩織の遺体を目の前にしたまどかは、少し涙ぐみながら、その美しい顔に化粧を施した。
「詩織ちゃんて本当に綺麗ね・・・」
そういって時間があれば、顔や頭をなでたりして、まるでお姉さんのように優しかった。
自分よりも若い詩織の死。とにかく可哀想で可哀想で仕方がなかった。
直哉は、直哉で、その美しい詩織の亡骸をぼんやりと見つめていた。
生きているうちに何故もっと優しくしてあげなかったのか。何故もっと幸せに出来なかったのか?そんな想いばかりが募っていく。
遺言に書かれていた通りに、詩織が右手につけていた指輪を、遺品として頂く事とした。そしてその指輪にチェーンを通し、ネックレスとしていつも肌身離さず身に着けるようにしたのだ。
翌日、詩織の葬儀には沢山の学校関係者や、ピアノ関係者がやってきた。
詩織はいつも一人ぼっちだと言っていたが、決してそんな事はなかった。誰からも愛されていたのだ。
そしてこれから木枯らしがやって来ようとしている東京の街、詩織は沢山の人に見送られながら、葬儀場を後にした。
恵一のはからいで、詩織のご両親のお墓は、京都の山科というところにある事がわかった。
実家は、2年前に父が死んだ事により差し押えられ、今は別の人に渡っている事もわかった。
そして東京のお寺でしばらく遺骨を預かってもらい、49日経った12月の下旬、その山科にある霊園へ直哉と恵一とまどかと玲奈の4人で埋葬をしに行った。
こうして詩織は、静寂なる京都の霊園に、ご家族と一緒に眠りにつくこととなった。
これでもう寂しい想いをしなくても済むだろう。そんな事を思いながら、直哉はただひたすら、その墓石の前で手を合わせ続けた。
あの優しい瞳が忘れられない。
あの優しい声が忘れられない。
もしあの時、自分がもう少し大人になれたのであれば、後一か月は詩織とともに楽しく生きる事が出来たのかもしれない。しかし時というものは決して戻る事はない。
ただただ後悔の念だけを感じていた。
そして美月ゆりなは・・・
美月ゆりなは訃報も知らされず、いつの間にかブログも閉鎖され、静かに業界から消えて行った。
猫は死ぬ前に誰にも見られぬよう、そっと姿を消すと言われる。美月ゆりなも、まるで猫の死のように、そっと姿を消して行った。彼女はひょっとして猫の化身だったのかもしれない。
年末が押し迫ったある日、恵一は一人で佐久のとある霊園を訪ねた。その霊園には父の眠るお墓がある。恵一は父の墓前に花と線香を捧げて手を合わせた。
あれだけ嫌っていた父親だ。特に何も言う事もなかった。そして至って事務的に手を合わせ終えると、その場を立ち去ろうとした。すると背後から「恵一」と声が聞こえてきた。振り返ると、そこには齢60の年老いた母親が立っていた。
「お、お母さん・・・」
「やっぱり恵一だったのね。命日になると、お父さんの墓前に花が捧げられているから、きっと恵一だと思っていた」
「・・・」
「お墓に来るんだったら、実家にも顔を出しなさい」
母は優しい口調でそう言うと、恵一同様、父の墓前に手を合わせた。
そして母に無理矢理実家へと連れられ、恵一はお茶と大福を御馳走になった。母は熱いお茶をすすりながら、思い出話を始めた。
「あんたが産れたとき、お父さん物凄く喜んだわ。箱根を走らせるんだって」
「・・・」
「でも、運命ってわからないものね。あれだけ期待を寄せていた恵一が医者になって、直哉がランナーになるんだもんねえ」
恵一は何も言わずに、ただ黙って下を向いていた。この手の話はあまり聞きたくなかった。
父はランナーになれなかった自分を責め続け、医者になった自分をこれっぽっちも褒めてくれなかったからだ。しかし、母はそんな事も気にする事無く、そんな思いで話をひたすら話し続けた。
「お父さんはいつも子供を競争させる人だった。でもね、母親としては兄弟で力を合わせて欲しいと思うのよ」そう言うと、湯気の立つ熱いお茶を少しだけすすった。
「・・・」
そして一時間も経たないうちに、恵一は「母さん。俺、そろそろ帰るよ」と言って立ち上がった。
「泊まっていかないの?」
「ああ、明日病院で手術が控えているから」
そして母親に見送られるように玄関まで来ると、手際よく靴を履き、そして「母さん良いお年を」と言って帰ろうとした。すると母は「恵一」と言って呼び止めた。
「そういえば直哉の学校から授業料の返金があったの。もう卒業まで払込み済だって。あなたが払っているのでしょ?直哉の授業料」
「・・・」
「お父さんもあなたに不満をたれながらも、ずっと大学の授業料払っていた。そう言ったところ、お父さんと恵一は本当によく似てると思うの。あなたはお父さんの事、今でも憎んでいるのかもしれないけど、お父さんがあなたに対してどんな気持ちを持っていたか?それは今のあなたが直哉を思う気持ちと全く一緒だと思う。お父さんの気持ちは、本当はあなたが一番よく知っているはず」