11、大手町で待つもの(1)
翌朝、直哉は旅館の部屋の鏡の前に、一人立っていた。そこに写る自分の立ち姿。今の自分は一体どうなのだろう?
「詩織・・・鏡の向こうの奴は誰だ」
直哉はふと、そんな事を口にした。すると自分の心の奥底から詩織の声が聞こえてきた。
『ナオだよ』
その声を聞くと直哉は、ユニフォームの胸の部分に縫いつけた詩織の指輪へと手を当てた。まるで鏡の向こうの自分を睨みつけるかの形相。そして「それは負け犬で、駄目でどうしようもない俺なのか?」と聞いた。
『ううん。今、鏡の向こうに写るのは、這いつくばってでも何かを掴もうとしているナオ。苦しくても、辛くても、必死になって何かを掴もうとしているナオだよ』
その心の声を聞くと、胸に当てていた自分の手を下ろし、そして「行くぞ」と言って旅館の部屋から出て行った。
その直哉の目は、これから何かを掴もうとする男の目であった。
ユニフォームに縫い付けた詩織の指輪。ともに大手町にゴールするつもりでいた。
今日は1月3日。
箱根芦ノ湖の朝は、昨日の雪の影響で、あちらこちらが凍結していた。気温はなんとマイナス4℃。吐くと、白い息がまるで瞬間凍結するかのようにキラリと光る。
選手達が集うスタート地点。暖めたばかりの体からは、温泉のような湯気が立ち込める。
大会は二日目となり、今日で総合優勝も、来年のシード校も決まる。
決戦を前にした選手達は皆静かにスタートの時を迎えていた。
いよいよスタート。
「用意!」
大会委員はそう言いって、スターターピストルを空へと向けた。
そしてバン!という音とともに、前日の往路優勝チームである、中央大学の選手が走り出していった。これから6区の山下りが始まる。まさに5区と並ぶ要所である。
そして中央大学に続き順天堂大学もスタート。さらには早稲田大学もスタート。
スターターピストルの音と共に、次々とスタートしていくランナー達。
そして東部工業大学の選手も8番目でスタートしていった。
東部工業大学の復路のラインナップは、予定通りだった。
6区 小島 卓也 箱根芦ノ湖~小田原中継所
7区 手塚圭一郎 小田原中継所~平塚中継所
8区 鷲尾 優作 平塚中継所~戸塚中継所
9区 尾崎新太郎 戸塚中継所~鶴見中継所
10区 牧野 直哉 鶴見中継所~大手町
8区の優作から、10区の直哉までエース級を揃え、相模平野を一気に快走していこうと考えた結果だった。
直哉は尾崎と優作とともに、東海道線の上りの電車に乗っていた。真っ黒のグラウンドコートの背中には『TOBU』という緑色のロゴ。乗客からは「箱根駅伝の選手じゃない?」というヒソヒソ話。
しかし直哉と尾崎と優作の3人は、そんな言葉を気にする事無く、ワンセグの画面をひたすら注視していた。
6区山下りを走る東部工業大のランナーは小島卓也と言う3回生。平均的な選手であるため、ある程度の後退は覚悟していた。
そしてなんとか6区、7区を12位以内で走ってくれたら、シード権を狙えるのでは?そんな考えを持っていた。そして尾崎の読み通り、6区では順位を二つ落とし、第十位。先頭は依然として中央大学。
電車が平塚駅に近づくと、優作は席を立ち「頑張ってきます」と言って、右手こぶしを突き出した。
「たのむぞ」
尾崎もそう言うと、右手拳を出して優作の顔をじっと見つめた。
そして平塚駅に到着すると、優作は「必ず上位でつなぎますからね」と言って、駅を降りて行った。
7区は小田原から平塚までの短いコース。およそ20kmの距離で、比較的走りやすいコースと言われている。
トップは中央大学。そして現在、東部工業大学の順位は第10位。ここで頑張って堪えてくれたら、なんとかシードまで手が届くかもしれない。
平塚中継所で待つ8区のランナー優作は、ずっと大磯の方角を見つめていた。海沿いに続く134号線。すると白いユニフォームを着た、トップの中央大学の選手が見えてきた。
「いよいよだな」
優作はそう言うと、頻繁にストレッチ体操を始めた。
現在東部工業大学は、トップと6分遅れで走っている。そして次の戸塚中継所では、トップとの差が10分以上になると、自動的に繰上げスタートとなってしまう。
しかし優作には自信たるものがあった。トップの中央大学の選手より、自分の方が早いと確信していたからだ。そしてここで一気に差を縮め、尾崎、直哉とつないで来年のシードを取ろう。そんな思いで7区のランナーを待っていた。
そして大磯の方からグリーンのユニフォームを着たランナーが見えた。
「来た!」
現在順位は11位。優作は腕時計でタイムを確認すると、トップとの差は5分。
「行ける!」優作はそう言うと「手塚さん!早く早く!」と言って、両手を高々と振り上げた。
そして平塚中継所で襷を受け取ると、優作は相模湾の風を全身に浴びながら134号線を走っていった。
トップとの差は8分。優作は軽快に134号線を走り、そのまま相模川の橋を渡った。
高速ランナーの優作。まさに恐ろしい程の勢いだった。
相模川の橋を渡ったところで、10位の国士舘大学を抜き去り、藤沢では9位の青山学院大学をも捕らえた。