1、臥薪嘗胆(5)
役員会議が終わり、圭一郎が六本木ヒルズの廊下を歩いていると、一人の中年女性が声を掛けてきた。
「野島部長」
「やあ、寺島課長」
この女性は、圭一郎の腹心の一人であった。しかし深く一礼をすると「長い間お世話になりました」と言ってきた。
「ど、どうしたの?」
「辞めます」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。一体どうしたんだよ」
「これ以上新任の財務部長にはついていけません。とにかく青田社長の言いなりで、何の計画も無くお金をどんどん持っていきます。税法も何も知らないのですよ」
実は青田は、財務の事等何も知らなかった。とにかく圭一郎が用意したお金をM&Aの資金にまわしていただけで、そのお金が何処から来るのか、全くと言っていいほど理解していなかった。あれば使うという考え。しかも新任の財務部長は青田社長の言いなり。
「このままでは資金繰りがズタズタになってしまいそうです。来年初めには資金がショートするやもしれません」
女史はそう言うと、悔しさで目に涙を浮かべた。
圭一郎は咄嗟に「あなたの責任じゃない」と言って留意を求めた。しかし女史は寂しげに首を横に振った。既に結論が出ていたのだ。
「野島部長は、私に、上司が間違った命令を下しても、部下にはNOと言う権利があると教えてくれました。それが経理課長としての責任だとも教えていただきました。でも、その責任も全うできなくなってしまいました・・・これ以上は無理です・・・」
「寺島課長・・・」
「勝手言いましてすみません・・・本当にいろいろとお世話になりました。私、野島部長と出会えて本当によかったです」
そう言うとその女史は、寂しげにこの丸和工務店を去って行った。
この女史だけでなかった。圭一郎の腹心達は、意味もなく地方へ飛ばされたり、全くの畑違いの部署へ異動させられたりで、次々と粛清の対象となっていった。
このまま丸和工務店にいると、他の者に迷惑が掛かってしまう。
圭一郎はふとそのような事を考えた。
自分の甘さ故に、青田の策略にかかってしまった。
自分の甘さ故に、これだけの人に迷惑を掛けてしまった。
そんな反省の念に日々とらわれていた。完全なる敗北だった。
若干28歳の圭一郎には、寝技たるものが無い。しかも相手は40歳の青田幸介。百戦錬磨である。まともに戦って勝てる相手ではなかった。
ただ、御曹司という立場を振りかざして、今まで青田に対して綺麗事を並べていただけであり、社内に父と言う存在が無くなれば、圭一郎は口先だけの負け犬でしかなかった。
「恭子ちゃん。俺、会社を辞めるよ・・・」
「え?」
圭一郎がそんな事を恭子に打ち明けたのは、それから数日経ってからの事であった。
いつものように恵比寿の居酒屋で飲んでいると、圭一郎は酔いがまわってきたのか、頬を少し赤らめながら語りだした。
「沢山の人に迷惑を掛けてしまう。これ以上自分が丸和にいると、また青田さんが粛清を始める。だから・・・もう辞める・・・」
「でも、今辞めたら青田さんの思うつぼだよ!」
「今の自分ではダメだよ!」
「でも!」
「部下も守れない。こんな人間でどうするんだ?いっちょ前に青田さんと喧嘩が出来ても、結局は青田さんの足元にも及ばない。悔しいがこれが今の俺の力だ・・・」
圭一郎はそう言うと、ボトルキープしていた麦焼酎をコップに注ぎ、そのままストレートでグビッと飲んだ。そして「恭子ちゃん。臥薪嘗胆という言葉知ってる?」と口にした。
「臥薪嘗胆???何それ?」
「中国の諺だよ。復讐を誓い、自らを苦境に立たせ苦労に耐え忍ぶ事を言う。薪の上で眠り、吊るした胆を舐め、古の中国の王は、自らをそうやって戒め、屈辱を忘れない事を誓ったんだ。今の俺はどうやっても青田さんには勝てない・・・でも数年後・・・また絶対に戻ってくる。そしてその時は青田さんと戦う」
「野島さん・・・」
こうして圭一郎は、丸和工務店を下野する事となった。
翌日、圭一郎は社長室を訪れた。青田は恐ろしい程セキュリティーに厳しく、社長室に行くだけでも、何重ものロックを解除しなければならなかった。
まさしく権力志向の強い者特有である。
そして、圭一郎は青田に辞表を提出した。
「これは、これは、野島取締役。一体どういうお考えですか?」
青田は、形式的な留意の言葉を述べた。
「書いている通りです。辞職致します」
「わかりました。一応は預かっておきます」
そう言うと青田は、圭一郎から受け取った辞表を、机の中にしまいこんだ。
すると圭一郎は「社長。臥薪嘗胆という言葉を知っておりますか?」と口にした。
「知ってますよ」
「その言葉をお忘れなく」
そう言うと圭一郎は、青田のいる社長室を後にした。