フォーエバー・フレンズ -108ページ目

1、愛されなかった兄(3)

兄の家を後にすると、直哉はぼんやりと中目黒の街を歩いていた。




『俺に言わせればお前は走らないだけだ。お前の言っている事は負け犬と同じだ』




負け犬・・・。



兄貴は俺の事をいつもそのように言う。でも、兄貴だって才能がないからと言って、走ることを諦めた負け犬じゃないのか?本当に死にもの狂いで走った事の無い兄からそんな事言われたくない。

でも、兄貴の言う通り走れなくなった俺は、植物と何ら変りはない。

それはだけは当たっていた。

その通りだよ。走れなくなった俺に一体何が残っているのだろうか?




そんな事を思いながらも、直哉も自分が今何をすれば良いのかがわからず、ただただ迷える子羊となっていた。




ふと、とあるバーの横を通ると、扉の向こうからピアノの音がほんのりと聞こえてきた。クラッシクであろうか?直哉はその奏でられるピアノの演奏に引き寄せられるようにして、そのお店の中へと入っていった。

薄暗い照明で照らされたカウンターバー。日曜日の店内には、誰一人客が入っていなかった。


そしてピアノの前では、白いふわふわのカシミアセーターを着た女性が、優雅にピアノ演奏をしていた。

その女性は、多く、そして綺麗な黒髪を、肩まで伸ばしていた。

ふくよかな唇は、引き締めても、とても自然な感じに見える。瞳はキリッとしっかりしているものの、決して刺々しくは見えない。それどころかどことなく優しさや懐かしさを感じてしまう。この女性の事は何もわからない。しかし、まるでその存在が心の奥底にしみ込んでいくような気持ちになった。

直哉は、不思議な気持ちになりながらカウンター席に座り、その女性が奏でるクラッシックに終始聞き入っていた。音楽の価値というものはよくわからない。ただ、その女性があまりにも透明感があり、美しくて存在感があり・・・ただただ見とれるようにして、その姿をぼんやり見つめていた。


演奏が終わると、直哉は思わずパチパチと拍手をしてしまった。するとその女性はスッと立ち上がり、笑顔で直哉に深く礼をした。少し目を細めて笑うその笑顔は、先ほどのピアノ演奏中とは違い、とても親しみのある感じであった。

そしてその女性は「いらっしゃいませ。何飲まれますか?」と言って、カウンターの向こう側へと回っていった。

「お店の人?」

直哉がそう聞くと、その女性は目を細めた笑顔で、愛想よく「そうです」と答えた。






どれくらい時間が経ったであろうか。直哉は、その女性とお店で、夜が更けるまで話し込んでいた。女性の名前は『岡本詩織』と言う。なんと直哉と同じ19歳だったのだ。

そして二人はなんとなく気があい、いつの間にかお互いを呼び捨てで呼び合っていた。


「へえ、詩織って帝国音大なんだ。じゃあ、お金持ちじゃん」

「あはは、そんな事ないよ。お金持ちだったらこんなところで練習しないで、家でピアノの練習するよ」

「え?じゃあ、バイト兼練習だったの?」

「うん。日曜日は、いつもここでピアノの練習をしているの。バイト代は安いんだけど、そのかわりタダでピアノ使わせてもらえるから。大学の授業だけじゃついていけなくて」

「そうなんだ。じゃあ、プロ目指しているの?」

「うん。プロピアニストになりたいの。だから今、いろいろとコンクール受けているの」

「へえ、夢があるんだなあ。じゃあ練習しなよ。俺の事なんて放っておいてもいいからさ」

「いいの。いいの。ムキになって練習しても上達しないから。あくまでお仕事優先」


そして未成年であるにも関わらず、二人は軽くカクテルを飲んだ。




夜が明けると、五反田の街は一瞬だけ眠りにつく。地面と空の色が同色となる夜明けの街を、直哉と詩織は肩を並べて歩いていた。

「へえ、ナオって高校時代、長距離の選手だったんだ」

「うん、でもアキレス腱切ってしまって、それで引退しちゃったけどさ。国体で優勝した事だってあるんだよ」

「すごい!でもそれって勿体無いよね。そうかあ・・・才能があっても、環境や時の運に恵まれない人って、どの世界にもいるんだね」

すると直哉は、夜明けのグレーの空を見上げながら、寂しげに語りだした。

「走れなくなった俺に、一体何が残っているのかなって最近思うんだよ。さっき兄貴に言われた。走れないお前なんて植物だってさ」

「そんなひどい・・・」

「あはは。あの毒舌にはもう慣れたよ。昔から偏屈な兄貴だからさ・・・でも、今思うと、子供の頃から走る事で自分を表現していたと思うんだ。走る事で社会を学んで、走る事で友達を見つけてきたと思うんだ。でも、走れなくなった今、俺は言葉を無くしてしまったような気がする。喜びも悲しみも無くしてしまったのかもしれない。兄貴の言う通り、今の俺は植物なのかも・・・」

そういうと直哉は、悲しそうに空を見上げた。


そして二人は、詩織の住むマンションの近くまでやって来てしまった。

「私、家この近くだから。今日はどうもありがとう」

詩織はそう言って、少し目を細めて微笑んだ。その美しい笑顔に少しドキッとするも、このままお別れもと思い、直哉は少し緊張気味に「またお店に行ってもいいかな。詩織のピアノがまた聞きたいんだよ」とお願いをしてみた。すると詩織は「うん」と小さくうなずいた。

「いいよ。日曜日の夜はいつもあのお店にいるから。じゃあまたね」そう言うと詩織はニコリと微笑んだ。

そして彼女は夜明けの五反田の雑踏へと消えて行った。

直哉はぼんやりとその後ろ姿を見つめていた。詩織の優しい瞳。やさしい言葉。一つ一つが胸の中から離れなかった。

一目ぼれとはこういう事なのだろうか?

直哉はずっと不思議な気持ちになっていた。