1、愛されなかった兄(2)
すると突然、部屋のインターホンが鳴った。
モニターの画面を確認すると、画面の向こうには、30前ぐらいの女性が小さな女の子を抱いて佇んでいた。
「あ、まどかさんだ」そう言うと直哉は、喜んで玄関の扉を開いた。
『まどか』とは、兄恵一のお嫁さんである。体こそ小さいが、とてもガッツがあり、しかも庶民的でとても面倒見が良い。その姿は、とてもお医者様の若奥様とは思えない。
「直哉君、チャーシュー煮込んだの。今日の晩御飯のおかずにしてね」そう言ってまどかはニッコリと笑う。
「まどかさん、いつも有難う!さあ、上がってよ」
「ううん。この後区役所行かなきゃいけないから。ここで失礼する」
「そうなの」
「うん。それと直哉君、今週の土曜日ウチに来てね。手巻き寿司するから」
「え?でも兄貴が・・・」
「いいのいいの。恵ちゃんの事なんて気にしちゃダメ」
「う~ん」
兄の恵一は、中目黒に住んでいる。歳は28歳。3年前に、大学時代から交際していた、まどかと見事ゴールインし、今は2歳の愛娘『玲奈ちゃん』との3人暮らし。
まどかは、どういうわけか直哉の面倒をよくみてくれた。そして家でお鍋をするとか、焼き肉を食べに行くとかになると、いつも直哉に声をかけてくれる優しい女性である。
本当は恵一とは会いたくもないが、親切で人懐っこいまどかに誘われると何か断りづらく、ついついお言葉に甘えてしまう。
あの冷徹非情な兄に、何故このような良妻がつくのか?世の中とは全く不可解なものだと、直哉はいつも思っていた。
「あんな奴をどうして家に呼ぶんだ?」
恵一は不機嫌そうにそう言いながら、朝食のパンを食べていた。そんな恵一をみるとまどかは「兄弟でしょ」といつものように言う。
「あいつは口が上手くて調子のいい奴だ。俺はあんな人間は信頼出来ない」
「恵ちゃん!またそんな事言う!ちょっと自分より直哉君が可愛がられたからって」
「そんなんじゃない」
4月になったばかりの東京の街はまだ肌寒い。今日は約束の土曜日であった。直哉は五反田駅からバスに乗り、兄の住む中目黒へと向かった。
兄とは相変わらずの不仲である。口を開けば喧嘩になるだけなので、いつも直哉は、まどかという存在を通して兄と付き合っていた。
これでもし兄が亭主関白であれば、直哉は一切関係を持たなかったであろう。なにせ事あるごとに「あんな男、家に呼ぶな」と言う始末。しかし、まどかはいつも「兄弟だからそんな事言わないの」と言って半ば強引に直哉を自宅へと招いていた。
今の二人の関係を繋いでいるのは、血のつながりではなく、まどかと言う一人の女性であった。
兄の家は2LDKのマンションである。救急病院で働く兄の給与は、開業医のように決して高いものではなかった。なのでお医者様と言えども、まだまだ贅沢の出来るような身分ではないのである。ただ、腕だけは確からしく、若くして院内でも名医として評判高かった。
兄、まどか、れいな、直哉の4人で、手巻き寿司パーティー。しかし恵一は、相も変わらず黙々と巻いては食べ、巻いては食べの繰り返し。相変わらず弟の直哉とは一切話そうとはしない。勿論直哉も恵一とは話そうとしない。ただ、まどかと玲奈の「キャアキャア」と言った声だけが、まわりの雰囲気を明るくしていた。
そしてある程度の量を食べると、兄は休憩がてらにベランダまでタバコを吸いに行った。
部屋は10Fにあるのだが、高層マンションの立ち並ぶ東京では、10Fでも決して眺めが良い訳ではない。
ぼんやりとタバコの明かりがともるベランダ。すると、直哉もタバコを吸いにベランダへとやってきた。そしてシュボッとライターでタバコに火をつけると、兄と同じように外へ向かって煙を吐き出した。
すると恵一は、直哉のくわえていたタバコを取り上げ、水の張った灰皿へと投げ捨てた。
「何すんだよ!」
「未成年だろ」
「あと2か月で二十だよ」
「未成年は未成年だ」
「ちぇっ・・・」
そういうと直哉は、部屋に戻ろうとした。すると恵一は「直哉」と言って呼び止めた。
「なんだよ?」
「お前、もう走らないのか?」
「ああ・・・走らないんじゃなくて、走れないんだよ。知ってんだろ?」
「タバコを吸うという事は、自ら走れないようにしているのと同じだ」
「じゃあ、俺、一生禁煙かよ」
「走れなくなったお前なんて、植物と一緒だ」
「植物?」
「空気を吸って吐いているだけだ」
「はあ???なんだよその言い方は」
「じゃあ今のお前に一体何が残っているんだ?医者から走れないと言われても、それでも走ろうとした事がお前にはあるのか?無いだろ。俺に言わせればお前は走らないだけだ。お前の言っている事は負け犬と同じだ」
「・・・」