前回のブログ『 球磨・守った人達、消した(隠蔽した)人達 』 より続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12418016445.html
前回そして前々回のブログで『次回書かせて頂く予定』を書いていましたが
実は私の調査の大きな契機を迎える出来事がありました。
今回は、この大切な出来事を書かせて頂きます。
11月17日・18日。
この二日間は調査の大進展を迎える『特別な日』となりました。
私のブログにありがたい御教示を頂いている
ブログ『ひぼろぎ逍遥』の古川様とブログ『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様が、
17日に私の自宅にお越し下さり、さらに18日は地元旧岡原村内の神社数社・宮原観音堂・曾祖母の実家「深水家」・旧奥野村の白木神社・中山観音堂・旧免田町の岡留熊野坐神社・久鹿の天子神社・ 多良木町の王宮神社等を御一緒に探索して下さったのです。 お二人の御調査を拝見して、私は心から敬服致しました。
日頃、私は何も考えずに地元の宮原観音堂や岡原霧島神社などにお参りしていましたが
お二人の深い知識からの「視点」では、そこに残された「古代の顔」がしっかりと見えていらっしゃいました。
驚きの連続である「二日間」であり、とても有意義なそして楽しい時間を過ごさせて頂きました。
この二日間でお二人に御教示頂いた事を私は自分の調査の中の「宝物」だと思います。
その「宝物」を有効に生かさせて頂き、これからは、しっかりと勉強して、さらなる「先祖の真実」・「球磨の古代」に迫って行きたい!と気持ちを新たにする事が出来ました。
二日間で知り得た事を数回に渡って、皆様に御紹介させて頂きます。
今回は、まず、身近な所に「古代の顔」が見えたお話からさせて頂きます。
①稲積妙見(稲積神社)御鎮座地から見えたもの
18日の探索の最初は、神社見聞牒の宮原様からの御勧めで、まず、稲積妙見の御鎮座地跡に立ってみる事から始まりました。
私にとっては、「その地」は、元宮原家があった場所のすぐ近くであり、普段から慣れ親しんだ「地」であります。と言うか「慣れ親しんだ地だけ」であったのです。
しかし、その地に立った時、ブログ神社見聞牒の宮原様から
『黒原山山頂近くに御鎮座の「雨引山王(雨引神社)」・「宮原観音堂(前には中嶋大権現社)」そして「稲積妙見」は直線で結ばれていますよ』
と言うお言葉がありました。
確かに、稲積妙見御鎮座跡地から黒原山を見上げると、真正面であり、頂上付近に御鎮座の雨引山王神社様がラインで繋がっていました!
「初めて気が付きました・・!!」 私は感動してしばらく黒原山を今までとは違った視点で眺めていました。
その聖域に、建っている家はうちの宮原家のみ、そこに家は建っていたのだ・・・
そう考えると、今までブログで書いていた事がようやく、納得出来ました。
『稲積妙見御鎮座地”府内(馬場田)”は、家の宮原家の本籍地となり、今は、外園に住んでいますが、父曰く、「本籍地は馬場田から絶対に動かしてはならない!」という掟(おきて?)をきつく言われております。』
別の場所に動いても、宮原の本籍は「この聖域、この地」でなければならない・・
そう言う事だったのだ・・
私は、古来からのうちの「宮原家」の役割が見えて参りました。
うちの「宮原家」はこの「聖域ライン」に御鎮座の神社様にお祀りの神様を奉斎する氏族であったのだ・・・ようやく理解出来ました。
位置関係は、ブログ「旧宮原村古地図と岡原村の神社様」を参考にされて下さい。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12413388345.html
うちの宮原家のすぐ近くに御鎮座であった稲積妙見の御祭神は『 天之御中主神 』
中嶋大権現の御祭神は霧島岑神社同體 霧島岑神社御神紋は『十二弁菊花紋』
黒原山頂上付近に御鎮座の雨引山王社 御祭神は
『雨引明神(罔象女命ミツハメノミコト) 山王権現 八大龍王』
十二弁菊花紋
神社見聞牒 宮原様のブログ
『 No.79 朝倉須川に月読神社があった ⑤』を拝読すると良く理解する事が出来ました。
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12412561595.html
『「十二菊」紋は九州王朝の紋とも言われます。』
②祖母方(平川家)の曾祖母の実家『深水家の御堂』にお祀りの御神像は『神皇産霊尊(かみむすびのみこと)』様でした!
以前より、祖母方(平川家)の曾祖母の実家「深水家」にお祀りの御神像については何度かブログの方で書かせて頂いていました。
御神像の中でも特に「将軍地蔵様」についてはどうして、曾祖母の実家にお祀りなのか?、
私は全く意味が理解出来ないでいました。
そこで、『ひぼろぎ逍遥』の古川様と『神社見聞牒』の宮原様に、ぜひご覧頂きたいと思い、
曾祖母の実家「深水家」へとお二人を御案内させて頂きました。
深水家に到着する前に、実はお二人から
『御神像が白い色で施されているのであれば、将軍地蔵様ではなく、神皇産霊尊(かみむすびのみこと)となるのですが・・』
と伺って、子供の頃の記憶しかないので「色・・?? どうだったかな??」と、考えながら
「もしかして・・?」とは思っていたのです。
深水家に到着して、深水の私の父のふた従弟(私は通常●●兄ちゃんと呼んでいます)に御堂を見せてもらいました。
扉が開いて、目に飛び込んできたお祀りの御神像は・・・「白で施されていました!!」
馬も白、上に乗られる神様も白。 白でした・・・!!
以前、ブログにアップしていた写真は、地元の歴史研究家の方に頂いていたもので「色」が解りづらかった事が、目の前で御神像を見て気が付きました。
御一緒して下さった『ひぼろぎ逍遥』の古川様と『神社見聞牒』の宮原様から
『御神像は将軍地蔵ではありません。「神皇産霊尊」神像ですよ。』
と伺い、私も深水家の当主(●●兄ちゃん)も、本当に驚いてしまいました。
深水家の●●兄ちゃんに後で聞くと
「元々、家では、こちらの神様を将軍地蔵様とはお呼びしていなかった。」との話で
私もビックリ、おそらく、何方かが思い違いをされて、私が頂いた資料に「将軍地蔵」と書きこまれていたのだと推測します。
深水家の「神皇産霊尊」像は、深水家から少し離れた所(50m程)にある江戸時代からの代々の深水家墓地に建てられていた古い御堂にお祀りであったのを、深水家敷地内の御堂にお連れしてお祀りされるようになったそうです。
さらに、私の曾祖母の実家「深水家」には驚く物が残されていました。
以前の深水家は茅葺屋根と瓦の江戸時代に建てられた武家屋敷でした。
以前の深水家の写真
深水家右側の造り
家を建て替える際に茅葺屋根の下の瓦部分の『大事な二枚』を深水家の現当主である
●●兄ちゃんが残していて、家の前に飾っていたのですが・・・
写真をご覧ください。
宝珠と兔(うさぎ)が施されていました。
兔(うさぎ)アップ
「宝珠」と「兎(うさぎ)」が大事な家を守る「瓦」に施されていた事が解りました。
「兎(うさぎ)」・・月・・月読命様
月読命様と言えば・・・
祖母の実家「平川家」の氏神様をお祀りの「御神殿」(通称 御堂)
木札には
天津彦火火出見尊
天津彦火瓊々杵尊
月讀廿三夜比賣尊
『 天之御中主神 』様を奉斎する、うちの「宮原家」
『月讀廿三夜比賣尊』様を氏神様の一柱とする、祖母の実家の「平川家」
『神皇産霊日神』様をお祀りする、曾祖母(祖母方平川家)の実家の「深水家」
「宮原家」・「平川家」・「深水家」は姓は違っても堅い絆の一族なのだ!と、平川家から祖母の姉が養女に入って継いだ「椎葉家」のおじは私に言います。
私は今まで「通説」に従って先祖の調査を行っていました。もし、そのままであれば
私は一生かかっても、椎葉のおじの言う「固い絆」の意味が解らないでいた事でしょう。
しかし、この「謎」はようやく解く事が出来たのです!
それはブログ『ひぼろぎ逍遥』の古川様と『神社見聞牒』の宮原様が御研究なさっていらっしゃる九州王朝論の立場からの『「百嶋神社考古学」神社研究』、この御研究こそが、私の先祖、『姓は違っても堅い絆』を解く為の大切な『鍵』であった事がようやく解りました。
尊敬する『ひぼろぎ逍遥』古川様のブログの御一稿である
428 奥出雲の神々 34 郡村の大領神社
http://hiborogi.sblo.jp/article/182471932.html
一番最後に百嶋由一郎氏極秘神代系譜(部分)を載せていらっしゃいます。
私の先祖調査の最も重要な部分の一つでもありますので、勝手ながら転載させて頂きます。
百嶋由一郎氏神代系譜(部分)を拝見して解る事は
①『 天之御中主神 』様は = 白川伯王の妹君 (白山姫・小河大神・天之常立神)である。
★『 天之御中主神 』様を奉斎する、うちの「宮原家」
②『 神皇産霊尊 』様は = 大幡主命様である(熊野速玉大神・大若子命)
※白川伯王の御子息であり、『 天之御中主神 』様は叔母にあたられる。
※姉妹に玉依姫命・埴安姫命(草野姫命)がいらっしゃる。
★『神皇産霊尊』様をお祀りする、曾祖母(祖母方平川家)の実家の「深水家」
③『 月読命 』様は = 大山祇神様である。
※母は白川伯王の妹君『天之御中主神 』様であり、父は金越智(日本名はウマシアシカビヒコチ)
※『 月読命(大山祇神) 』様、妻は白川伯王の娘であられる埴安姫命(草野姫命)
※子女に罔象女命・木花咲夜姫命
※子息に大国主命(武蔵大国魂命)
上記より『月讀廿三夜比賣尊』様とは『 月読命(大山祇神) 』様の子女「罔象女命」もしくは
「木花咲夜姫命」となられる。
★『月讀廿三夜比賣尊』様を氏神様の一柱とする、祖母の実家の「平川家」
つまり、椎葉のおじが言う「堅い絆の一族」(宮原家・深水家・平川家)が奉斎し、さらに
氏神様の御一柱とお祀りする神々様は
『 天之御中主神 』様(宮原家が奉斎)は『 神皇産霊尊 』様(深水家が奉斎)の叔母であり『月讀廿三夜比賣尊』様(平川家の氏神様)は『 天之御中主神 』様(宮原家が奉斎)の御孫様であり『 神皇産霊尊 』様(深水家が奉斎)の姪にあたられる!!
と言う事が解りました!!
本当に、古代に遡ると、家の親戚関係「宮原家・平川家・深水家」は堅い絆の一族でした!!
百嶋由一郎氏神代系譜に出会わなければ、私は一生先祖の調査「入口」で迷い、私の調査は迷宮入りとなっていたと思います。
ブログ『ひぼろぎ逍遥』の古川様と『神社見聞牒』の宮原様と、こうしてブログを介して出会う事が出来た事を心より感謝申し上げます。
ここで、おそらく全国の方々が私と同じ「疑問」をお持ちになられたと思います。
それは、その3軒が何故?球磨郡久米郷宮原村(みやのはる)に仲良く住して来たのか?
でしょう・・・
ここからは、私はまだまだ不勉強で勉強の「べ」の文字まで到達出来ていませんので
『神社見聞牒』の宮原様から送って頂いた、ある写真をご覧頂きたいと思います。
中嶋大権現・切畑大明神・大炊霧島神社・稲積妙見 他、旧宮原村・旧岡本村に御鎮座の神社様を合祀されて創建された「岡原霧島神社」の御神額の写真です。
お解りになられる方がご覧になられれば一目了然のようです。(私はまだまだ不勉強です)
実は、ブログ『ひぼろぎ逍遥』の古川様と『神社見聞牒』の宮原様からは、メールを介して沢山のありがたい御教示を頂いて参りました。
『神社見聞牒』の宮原様から頂いた御教示では
①額縁はクマソ物部を表現している。
②クマソの惣頭領は大国主命であり『大国主命を主神に祀る神社の神額額縁と同じ』
である。
③次世代のクマソ惣頭領は開化天皇であり、開化天皇は九州王朝仕上げの天皇で、クマソ物部の頂点に立たれた方であり名は「物部保連 やすつら」、月神でいらっしゃる。
と言ったお話を伺う事が出来ました。
そこで、私は気が付いた事がありました。
岡原霧島神社の御祭神に関する資料(一部)
こちらの資料には続けて
『上記の他、葉山神、若山大神、豊嶽神の23柱を御祭神としています』と記されています。
さらに
『飛び地境内社として熊野地区の熊野座神社、伊勢元地区の皇太神宮、
檜山地区の天満宮、長岡地区の菅原神社、岡麓地区の諏訪神社があります』
と記されています。
皆様、資料をよくご覧になられて下さい。リスト下から三番目の記述です。
大地主神(おおとこぬしの神) その土地を治めておられる神様
とあります。
ウィキペディアを見て気が付きました。
地主神より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E7%A5%9E%E7%A4%BE
主な地主神より
大国主神(おおくにぬしのかみ)
葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)の大地主神(おおとこぬしのかみ)とされている。
岡原霧島神社 御祭神 御一柱
大地主神(おおとこぬしの神) その土地を治めておられる神様
大国主神(おおくにぬしのかみ)
葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)の大地主神(おおとこぬしのかみ)とされている。
家の親戚「堅い絆の一族」が住まう、この地、古代、何方がこの土地を治めていらっしゃったのか私にはようやく解りました。
国は譲られて、「その方」は別の地に動かれたのですね・・・
本当の国譲りの意味が見えたようです。
記紀では、何らかの問題を回避する為に、神代の歴史をうやむやにしてしまわれたのですね。
所で・・・・
※球磨郡久米郷は古代元祖的久米氏の本拠地であった。
※球磨郡久米郷は久米物部氏の住めりし處なるべし。
元祖的久米氏と久米物部氏の関係が今一つ理解出来なかったのですが
今は、ようやく「鍵」となられる御方(神様)を理解する事が出来ました。
参考 日本の苗字七千傑様 サイトより
神皇産霊尊裔氏族綱要
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02107.htm
そうか・・・・ニコッ(^'^) (何がニコッなのかは・・・(^'^) )
さらに 日本の苗字七千傑様 サイトより 神皇産霊尊裔氏族
【久米氏/波多門部氏/山部氏】 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02129.htm
久米氏と久米物部氏の関係は・・・とても近いようですね ニコッ(^'^)
次回も先祖と故郷の歴史の「真相究明」 心して頑張ります!
次回 『 祖母の実家に伝承された「物」と筑前朝倉 』に続きます。