前回のブログ 『 地元に古代の「顔」が見えた 』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12421028635.html

※2018/12/09 23:45 誤字の修正、内容の一部変更を行いました。

 

前回のブログで

『 天之御中主神 』様を奉斎する、うちの「宮原家」

『月讀廿三夜比賣尊』様を氏神様の一柱とする、祖母の実家の「平川家」

『神皇産霊日神』様をお祀りする、曾祖母(祖母方平川家)の実家の「深水家」

百嶋由一郎氏神代系譜(部分)を拝見して解った事は

無題.png

『 天之御中主神 』様(宮原家が奉斎)は『 神皇産霊尊 』様(深水家が奉斎)の叔母であり『月讀廿三夜比賣尊』様(平川家の氏神様)は『 天之御中主神 』様(宮原家が奉斎)の御孫様であり『 神皇産霊尊 』様(深水家が奉斎)の姪にあたられ

古代に遡ると、家の親戚関係「宮原家・平川家・深水家」は堅い絆の一族であった!

と言う事でした。

 

大国主命様の父は月読命(大山祗)様

実は、『神社見聞牒』の宮原様より、メールで曾祖母の実家「深水家」の瓦についてメールで御教示を頂いておりました。

※「ウサギ」のシンボルについて、これは月読命のシンボル動物です。
月読命を祀る月読神社で「ウサギ」はよく見かけます。
※「宝珠」は大国主のシンボル(紋章)です。

 

曾祖母の実家「深水家」の瓦は『月読命(大山祗命)様』と『大国主命様』のシンボルが施されている・・と言う事が良く理解出来ました。

 

さらに「相良氏」は

ブログ『古代 全ての始まり・・ようやく理解した方程式の変数』で書いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12416481119.html

「神社見聞牒」様の御調査

『No.59 高良大社に開化天皇(玉垂命)の神紋を発見した』を拝読して理解出来た事は

※三階松紋 = 九州王朝の紋であり、特に開化天皇と宮地嶽神社が使用される。

※門光紋 = 開化天皇(高良玉垂命)の神紋である。

 

「相良氏」・「相良氏先祖伊東氏(工藤氏)」・「工藤一族・天野氏」の家紋

  「長剣梅鉢」     庵に木瓜      三階松に三日月

私の先祖でもある一族の全ての始まりが古代「九州」にあった!と言う事がようやく理解出来ました。

この事を、今後の調査で「実証」して行く事が、先祖から与えられた私の役割の一つではないのか?と考えました。

所が、その「実証」の一つが、自分の身近にあり、今まで私が調べてきた「先祖」に関する調査の中に「あった」と言う事に気が付きました。

それは、祖母の実家に「伝承」されてきた「絵巻物」に秘められていたのです。

 

初告白

祖母の実家「岡原平川家」に伝承されていた「絵巻物」について

祖母の実家、「岡原 平川家」には、ある「剣」と「御先祖様が描かれた絵巻物」が先祖代々伝承されており、この「絵巻物」は長男以外は決して見る事は出来ませんでした。

「ある剣」については、昭和50年代の初め、その剣を探しに来られた方が実はいらっしゃるのですが(何かを研究している方だったと聞いています)

その剣を、祖母の兄は第二次世界大戦中、朝鮮半島に持って行き、半島の何方かに渡してしまったので、祖母の実家には、残っていませんでした。

剣を探しに来られた方は『その「剣」は「国宝に値する剣であったのに、何故?その方(祖母の兄)は朝鮮半島に持っていかれたのですか!?』と凄く残念だと落胆されたそうです。

先に書いたように「御先祖様が描かれた絵巻物」は長男(当主)以外は決して見る事は出来ない状態で先祖代々が大事に保管・伝承をしてきた物でした。

所が、残念な事に明治時代に岡原平川家で火事があり燃えてしまったそうです。

(当時、この地区では付け火が頻繁に発生しており、祖母の実家の火事の原因である可能性もあるようですが、剣は持ちだして無事でした)

実は、長男(当主)以外は決して見る事が出来ない「その絵巻物」を火事以前にこっそり見てしまった人がいました。

後に、私の祖母に「この事を伝えた」人から推測すると、平川の曾祖母か高祖母だと推測しています。

「岡原平川家の御先祖様が描かれた絵巻物」を見て驚いた「その人」は、「一体どう言う事か?」と当時の当主(私の曾祖父か高祖父)に内容を確認したそうです。

その絵巻物には
『小さな男の子が、沢山の従者(男性や十二単を着た女性達)を連れて大きな屋敷に入って行く姿』が描かれていました。
祖母の実家「平川家」の伝えでは
『この屋敷は平川家の御先祖様の屋敷であり、岡原の平川家の先祖様はこの小さな男の子でいらっしゃる』

と言う事だったそうです。

球磨の平河(平川)氏は「良峯氏」を称していますが、祖母は、私に、自分の先祖は

「平家(平氏ではありません)」の方であると教えてくれていました。

 

①平安時代末期の球磨

球磨は平安末期まで「王家領 球磨御領」で荘園主は天皇様です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8%E8%8D%98

つまり、平家全盛の時代、平家都落ちの前の荘園主は安徳天皇様
都落ちの後は後白河法皇が荘園主となります。
開発にあたったのは「平家一門」の方々。
私が住む、旧球磨郡久米郷宮原村宮麓の切畑大明神(切畑神社)を平安時代末期に中興されたのは平清盛公の弟「平頼盛」この方です。
平頼盛が球磨の神社で中興されたのは、何故か宮麓の切畑大明神(切畑神社)のみでした。

補足すると平頼盛が唯一中興された「切畑大明神(切畑神社)」に平景清(伊藤景清)の母君が鎌倉時代初頭合祀されていらっしゃいます。
平景清(伊藤景清)姫君のお墓を守り続けたのは宮麓区内切畑の「宮原家」です。家の遠縁となります。



平頼盛は源頼朝に許された唯一の人物であり、
孫娘の持明院陳子が後高倉院の妃となり、後堀河天皇の母君となられています。
平頼盛の嫡流は平光盛(八木光盛)が従二位となりますが衰退し、やがて姿を消すことになります。
平光盛(八木光盛)の子息が「平川景家」と言う方です。平川景家と言う方は宮崎の高鍋から人吉の隣、大口まで来られている事が解っているのですが、その先は不明です。

「平川景家」の父、「平光盛」(八木光盛)この方は鎌倉時代初頭の人吉庄の預所でいらっしゃいました。

鎌倉時代、『平頼盛の曾孫であり』鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物であった『西園寺公経』は自らの所領地「球磨郡久米郷」を宮原一族の先祖

『橘公業』の所領地『伊予宇和郡』と替地されました。

 

②平頼盛と平川景家
先にも書いたように平頼盛の御孫様は「平川景家」と言う方でした。
「平川景家」の父、「平光盛」(八木光盛)この方は鎌倉時代初頭の人吉庄の預所でいらっしゃいました。
平頼盛の嫡流は平光盛が従二位となりますが衰退し、やがて姿を消すことになります。

平頼盛 ウィキペディアの記述をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B


※4月の安徳天皇即位に伴う叙位で、頼盛は従二位に叙せられた。この時、平氏一門で叙位されたのが頼盛だけだったことも、政権内部において頼盛の存在が重みを増していたことを示すものといえる。
※翌治承5年(1181年)正月14日、高倉院が池殿で崩御する。幼児の安徳帝が政務をとることはできず、後白河院の院政再開は避けられなくなった。
清盛は畿内惣官職を設置して宗盛を任じ、2月17日には「警衛のため」という理由で安徳帝を八条に新造された頼盛邸に遷すなど、矢継ぎ早に対応策を講じていた。
※4月10日、安徳帝が八条の頼盛邸から閑院に行幸し、邸宅を提供した功で頼盛の子が加階されることになった。

安徳天皇様 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

福原行幸
治承4年6月2日(1180年6月26日)、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれた。
※主な史跡
安徳天皇行在所趾の碑(平頼盛山荘趾、荒田八幡神社境内)


私は『安徳天皇行在所趾の碑(平頼盛山荘趾、荒田八幡神社境内)』が非常に気になりさらに調べました。
安徳天皇行宮(あんとくてんのうぎょうぐう)

http://bittercup.web.fc2.com/08yatabe_ge/antokugyougu.html
安徳天皇行宮(あんとくてんのうぎょうぐう)荒田村にあり。
もとは池大納言頼盛(よりもり)の領地にして、山荘あり。福原遷都の時、しばらくここに幸(みゆき)あって、仮皇居としたまふ。

荒田八幡神社(あらたはちまんじんじゃ) 神戸市兵庫区荒田町3-99
当八幡神社古くは高田神社といい、荒田村字一町田に鎮座し、熊野権現を祀っていたからその森を権現の森といったが、のちに、すぐ西にある宝地院境内にあった八幡社を神仏混淆をさけて、明治31年2月24日兵庫県知事の許可を得て、ここに合祀して荒田八幡神社となった。
この土地は池の大納言平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。
いわゆる今日でいう皇居であり、今の境内に行在所跡の標石が建っている。
この頼盛の別荘については、高倉天皇の「厳島御幸記」に「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(荒田)という頼盛の家にへ笠懸(かさかけ)、やぶさめなど仕うまつらせ、御覧せらる。日暮れ帰らせ給う。」と記しているので広い邸内であったことがわかる。
本殿 祭神:応神天皇・素戔嗚尊・安徳天皇

宝地院(ほうちいん) 神戸市兵庫区荒田町3-17-1
薬王山 宝地院(浄土宗)
安徳天皇の御菩提を弔うため弘安2年(1279)に創建さる。 
当寺域はもと平頼盛の山荘にして治承4年6月3日安徳天皇入御あり。


祖母の実家に伝わった絵巻物
『小さな男の子が、沢山の従者(男性や十二単を着た女性達)を連れて大きな屋敷に

入って行く姿』
『この屋敷は平川家の御先祖様の屋敷であり、岡原の平川家の先祖様はこの小さな男の子でいらっしゃる』


平頼盛の子息「平光盛」(八木光盛)。平光盛の子息が「平川景家」この「平川氏」はその後所在不明。
平光盛は人吉庄の預所。
平光盛(八木光盛)。父の頼盛が安徳帝が八条の頼盛邸から閑院に行幸し、邸宅を提供した功で頼盛の子(光盛)が加階されることになった。


私は、此処までを調べて、まさか!?と動揺しました。

しかし、冷静に考えると、祖母方の平川家の伝承は約700年以上は続いてきた事であり、何れかの段階で、「この屋敷は平川家の御先祖様の屋敷である」に「屋敷に来られた小さな男の子が御先祖様である」が加わってきたのではないか?と考えます。

しかし、祖母の実家の御神殿(通称お堂)の前には以前「塔」が建てられており、その塔に書かれた銘文には非常に気になる「言葉」が記されていた事を父や親戚は記憶しているのですが、この件については、もっと調査を進めて時期が来れば、こちらのブログに書かせて頂こうと思っています。

一つ気になるのは
球磨の平河氏の所領地「現錦町木上荒田」には「荒田大王神社」が御鎮座である 

と言う事です。
神戸の荒田八幡神社 この土地は池の大納言平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。
御祭神には安徳天皇様

もしかして・・・球磨の現錦町木上荒田の「荒田大王神社」様の御祭神は・・・・

この部分は「現段階」では何とも言えない想像の範囲にしか過ぎませんが・・・

 

③平川景家の父 平光盛(八木光盛)

何故?平光盛は八木姓を名乗ったかと言いますと
平光盛は建久4年(1194)に頼朝の下文により、但馬の国八木郷を知行することになり、同地へ下向したからです。
ただ、但馬の国八木郷を知行したからだけではありません。
以前、関東在住の歴史研究家の方から頂いたご教示では

但馬発祥の八木氏は日下部氏と桓武平氏頼盛流の二流があるが本来は同族と考えられる。
なお頼盛流八木氏の子孫は薩摩に下向している。
と伺っています。

但馬八木氏  参考 日本の苗字七千傑様サイトより

【日下部氏】姓氏類別大観
開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、但馬国造家の後裔である。 孝徳天皇裔とする系図が多く見られるが、大日本史の説に従う。 
越前の戦国大名朝倉氏は、日下部氏の後裔を称する。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01212.htm
★開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、但馬国造家の後裔

さらに《日下部氏》 姓氏類別大観に進むと「朝倉氏」に繋がる事が解ります。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01212.htm#001

ここで、見える家紋は「三盛木瓜」と「鶴」

 

日下部氏 姓氏類別大観から 《糸井氏/朝倉氏》 に繋がります。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01212a.htm#001

家紋は「三盛木瓜」
「朝倉宗高」この方の孫「安高」と言う方から「八木氏」を名乗られた事が解ります。

時代は平安末期の事です。

※丹羽氏が見えます。  鳥肌が立つほど驚きました・・・

丹羽氏と言えば「良峯氏」を継いだ方は「古代系丹羽氏」の方でした・・・


《八木氏》
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01212b.htm
家紋は「三盛木瓜」

 

朝倉氏・八木氏は「三盛木瓜」紋

※三階松紋 = 九州王朝の紋であり、特に開化天皇と宮地嶽神社が使用される。

※門光紋 = 開化天皇(高良玉垂命)の神紋である。

※木瓜紋は門光紋でないと奉斎氏族(彦火々出見命・ニギハヤヒ)の紋となる。

 

続けて【桓武平氏 頼盛流】 姓氏類別大観

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm#000

系図に見える「財部氏」は日向高鍋(旧名財部)を所領された事にちなみます。

下村氏は財部氏と同じく日向児湯郡。

鬼丸氏は鹿児島大隅半島一部および現えびの市の一部を所領

平頼盛、子息「光盛」この方から「八木氏」に進みます。

 

《平頼盛流 八木氏》 平光盛(八木光盛)子息「平川景家」が見えます
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm#001

 

★但馬発祥の八木氏は日下部氏と桓武平氏頼盛流の二流があるが本来は同族と考えられる。

つまり、開化天皇様の後裔を称する「朝倉氏」、さらに「八木氏」は朝倉氏と同族であり、その八木氏と姻戚関係を結んだ方が平頼盛子息「平光盛(八木光盛)」である。
「平光盛(八木光盛)」の子息が、人吉の隣「大口」近辺までは確認出来る「平川景家」である。 と言う事になります。

 

④ 筑前朝倉と但馬朝倉氏・越前朝倉氏

神社見聞牒 宮原様の

No.84 朝倉山田の長田大塚古墳は何を語る ⑩ を拝見すると

https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12422562401.html

 

1.筑前朝倉と越前朝倉氏と継体天皇
越前朝倉氏は但馬国を拠点とした豪族で、後に発展して越前国を拠点とする戦国大名となっている。
その朝倉氏は高良の八神官の一人・稲員氏(いにかず 草壁氏)の流れで、その主人が斯波氏(しばし)となります。
朝倉氏も斯波氏も古くは「朝倉」「志波」の出身で、この二氏の名は、朝倉の地名に因むと考えるのです。
氏族の流れは高良物部族と北筑後の橘族の流れを兼ねた氏族と想定しています。

とお書きになられています。

 

さらに 皆様、ぜひ 神社見聞牒 宮原様の

No.085 福岡県朝倉市杷木志波の宝満宮と志波彦 ⑪ をご覧頂きたいと願います。

https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12424528738.html

ブログ「神社見聞牒」 の宮原様は 1.朝倉市杷木の志波 の中で

但馬国を拠点とした豪族で、後に越前国を拠点とする戦国大名となった越前朝倉氏は高良の八神官の一人・稲員氏(いなかず 草壁氏)の流れで、その主人が斯波氏(しばし)となります。朝倉氏の古代の先祖は「朝倉」の出身で、その名は、この朝倉に因むものです。と書かれた後、

「筑前朝倉の志波」と「斯波氏」の検証、さらに「筑前朝倉」と「朝倉氏」の検証を行われていらっしゃいます。

その結果を以下のように記されていらっしゃいます。

但馬朝倉氏の先祖
稲員氏(いなかず)は高良の八神官の一人・草壁氏(日下部氏)の流れで、朝倉氏はその末裔。高良の神官・草壁氏の流れであることは開化天皇の子孫ということになります。その主人が斯波氏(しばし)となります。朝倉氏の古代先祖は「朝倉」の出身です。
朝倉氏の本願地は但馬国養父郡八鹿町朝倉(養父市八鹿町朝倉)で、ここの城跡が朝倉城です。平安時代末期、朝倉宗高が地名をとって朝倉氏を称したという。

085-20

朝倉氏の家紋「三盛木瓜」
  木瓜紋の氏族は開化天皇を奉斎した彦穂々出見命系の物部となります

と検証なさっていらっしゃいました。

さらに、ブログ『ひぼろぎ逍遥』古川様の

144 「朝来」地名について ①“兵庫県朝来市の朝来山から”

https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12000851743.html

145 「朝来」地名について ② “但馬、朝倉、養父、志波” 

https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12002424825.html

146 「朝来」地名について ③ “朝倉氏と小佐氏”

https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12003711006.html

 

を連続してお読み頂ければ、「筑前朝倉」と「朝倉氏・八木氏」の関係・繋がりが

しっかりと皆様にもお解り頂けると思います。

 

 

ブログ「神社見聞牒」の宮原様の御調査、ブログ『ひぼろぎ逍遥』古川様の御調査と

私の祖母方に伝わる「絵巻物」からの調査が

ここで繋がった!事になります。

さらに、

★稲員氏(いなかず)は高良の八神官の一人・草壁氏(日下部氏)の流れで、朝倉氏はその末裔。高良の神官・草壁氏の流れであることは開化天皇の子孫ということになります。

上記の「稲員氏」。実は、私の住む旧岡原村(現あさぎり町岡原)には数軒の稲員氏がお住まいになられているのです!

 

⑤岡原村の稲員氏

実は私、今まで凄く重要な事に気が付いていませんでした!
稲員家(いなかず家)
祖母が親しくしていた方がいらっしゃり、私の一つ上の先輩にもいらっしゃったので
懐かしい苗字だなぁ~と以前から思ってはいたのです。

所が、岡原の稲員家がここに来て非常に気になり、調べたのですが

https://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E7%A8%B2%E5%93%A1&firstname=&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD

「稲員家」は全国に94軒しかなく
最多が福岡県の「69軒」
次に多いのが、ぐっと下がって熊本県の「5軒」
その内、3軒は・・岡原です! 岡原の岡本に3軒です!
他の県では、県内に最多で3軒(山口県)。後は、県内に2軒ないし1軒の「稲員家」。
つまり、福岡県の69軒以外に、突出して「稲員家」が一つの地域にあるのは
旧岡原村の岡本地区でした!!

稲員家は凄く身近な「姓」だったので、重要な事であったのに、全くその「重要性」に気が付いていませんでした。

別のサイトで調べてみたのですが
https://name-power.net/fn/%E7%A8%B2%E5%93%A1.html

小地域順位
1 福岡県 八女郡広川町 新代(約100人)
2 福岡県 八女郡広川町 太田(約70人)
3 福岡県 八女郡広川町 久泉(約10人)
3 熊本県 球磨郡あさぎり町 岡本(約10人)
5 福岡県 飯塚市 多田(約10人)
5 福岡県 筑後市 蔵数(約10人)
5 福岡県 筑後市 山ノ井(約10人)
5 大分県 日田市 刃連町(約10人)
9 鹿児島県 曽於市 岩川(ごく少数)
9 熊本県 人吉市 願成寺町

 

神社見聞牒 宮原様にお伝えした所

宮原様のブログ『No.71 高良九体皇子と坂本命と二人の門神様 ②』に稲員氏について詳しく記されている事をお伺いして、拝見致しました。

https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12397336764.html

以下は宮原様のブログより、抜粋して転記させて頂きました。

 

6.金島(鏡)の坂本神社 (福岡県久留米市北野町金島(鏡)82)

福岡県北野町大城に稲数区があります。
止誉比咩神社本跡縁記 成務天皇の5年9月
筑紫の道中に勅して、背面地(そとものち)を分けて御井郡となし、稲置を置き楯矛を賜い表(しるし)となし、道主貴の神地に充て、中瀛宮(なかつみや)に別府を起(たて)て、影面地(かげものち)を割きて水沼郡となし、国乳別皇子に封(ことよ)さして筑紫中国の蕃屏長(かくしまがきのかみ)に任じ、水沼別君の姓を賜い、筑紫別府司となす。
これにより、中瀛宮を別府八幡宮と称す。稲置の所の跡を稲数村と曰し、楯矛を収めし兵庫の跡を陣屋村と号(な)づく。
広川町郷土史研究会の稲員家文書によると、稲員氏は高良大明神の神裔を称し、延暦21年(802)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
その稲数村の東隣に鏡村があり、坂本神社が鎮座し、坂本命を祀る。

高良玉垂宮の八人の神官
「高良玉垂宮神秘書」343条に八人の神官の名前が記載されている。
田尻、小祝、外湯、諸司代、印塚、福成、両福成、稲員の諸氏が記載されている。

中略・・・

このうち近世、最も勢力があったのは稲員家で、神管領家を称し、八人の神官を指導した。また、当社の重器三種の神宝出納職となっている。第二子朝日豊盛命の子孫が高良山を居所として累代続き(稲員家もその子孫)、稲員家はその前は草壁氏を名乗っている。

 

7.広川(古賀)の高良坂本神社 (福岡県八女郡広川町新代1987)
広川町郷土史研究会の稲員家文書によると、稲員氏は高良大明神の神裔を称し、延暦21年(802)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在の北野町稲数)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
正応3年(1290)鎌倉幕府の下知により、稲員良参(よしなが)が上妻郡古賀村(現在の広川町新代)に移り館を構え田戸70町を領している。

正応5年(1292)稲員良参は、坂本命を祭り坂本宮(現在の高良坂本神社、広川町古賀区)創立している。稲員家は朝日豊盛命の流れといわれているが、坂本命を祀っている。

 

宮原様のブログ『No.71 高良九体皇子と坂本命と二人の門神様 ②』に稲員氏についてを

拝読して稲員氏について勉強させて頂きました。

さらに

『稲員一族は江戸時代初め、有馬藩の命令で広川の古賀村に総床払いとなられたようで

稲数村と東隣鏡村には稲員家、高良関係者は一戸もありません。』

と伺う事が出来ました。

何故?旧岡原村に、「稲員氏」がいらっしゃるのか、今の段階では由縁は不明ですが

『筑後・筑前朝倉』と『球磨』、さらには宮原(みやのはる)と岡本の「御縁」を考えると

単なる偶然とは到底考えられません。

神社見聞牒 宮原様の御調査にあった『福岡県朝倉市杷木志波』と斯波氏・志波氏

実は、江戸時代前期の時点で、すでに相良藩内には「志波氏」が相良氏家臣として球磨に住されていらっしゃいます。

人吉城下の給士であり、さらには知行地を旧平河氏の所領地である「山田村」に持たれていた事が分限帳にて確認出来ます。

 

皆様、この事を、「単なる偶然」とお考えになられますか!?

 

祖母の実家に伝わった絵巻物
『小さな男の子が、沢山の従者(男性や十二単を着た女性達)を連れて大きな屋敷に

入って行く姿』
『この屋敷は平川家の御先祖様の屋敷であり、岡原の平川家の先祖様は・・・』


平頼盛の子息「平光盛」(八木光盛)。平光盛の子息が「平川景家」この「平川氏」はその後所在不明。
平光盛は人吉庄の預所。
平光盛(八木光盛)。父の頼盛が安徳帝が八条の頼盛邸から閑院に行幸し、邸宅を提供した功で頼盛の子(光盛)が加階されることになった。
平頼盛の曾孫「西園寺公経」は所領地球磨郡久米郷を宮原の一族の先祖「橘公業」と替地された。

「平光盛」(八木光盛)、但馬国朝倉氏の流れ「八木氏」との姻戚関係より「八木」を名乗る。

但馬国朝倉氏・・稲員氏(いなかず)は高良の八神官の一人・草壁氏(日下部氏)の流れで、朝倉氏はその末裔。高良の神官・草壁氏の流れであることは開化天皇の子孫。

私の住む岡原村には、岡原平川家の娘である私の祖母と親しくされていた「稲員家」が在る。

 

ここまでが、私が調べていた「先祖が描かれた絵巻物」に纏わる調査から見えた

「筑前朝倉」との繋がりです。

 

検証の結果、私は祖母方の岡原平川家の先祖を「平頼盛」この方だと確信を深めています。

絵巻物に関わる方は「平頼盛」この方だと考えるに至り、さらに平頼盛の子息「八木光盛」この方の子息「平川景家」、この方は見ての通りの平川氏です。

球磨郡久米郷宮原村は平頼盛の曾孫「西園寺公経」の所領地であり、替地をした相手が

宮原一族の先祖「橘公業」であると言う事。

さらに西園寺公経の父「藤原 実宗」と「平川景家」、この方々が従兄弟関係にあると言う事は明白な事実であるからです。

 

但し、球磨に多数ある「平川氏」が祖母方と同じ系であるのか?は今の所私には解りません。

平安時代末期の球磨の「平河氏(平川氏)」を継いだ鎌倉時代の系(異なる系)は「多数」あると私は考えているからです。

 

しかし、何故?祖母方の先祖は口伝では「平家」であると伝えておきながら、「良峯氏」を称していたのか?

隠さなければいけない事があったのか?・・それは、「八木光盛」の系である事を公にすると

古代の謎、隠された事に直結していまうからではないのか?

などと、私は想像をしてしまうのです・・・

さらに今回、筑前朝倉と但馬国朝倉氏・八木氏との関係を調べて、良峯姓丹羽氏との姻戚関係が解った事は、大きな成果であったと思います。

 

次回 『消えた縄文晩期の大都市「球磨」と大国主命様』に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12423455121.html