宮原誠一の神社見聞牒(084)
平成30年(2018年)12月01日

 

No.84 朝倉山田の長田大塚古墳は何を語る ⑩


福岡県の筑前朝倉の山田に、円墳としては九州一の規模の円墳があります。まだ未調査の古墳です。それが山田の井上集落(字長田、字井上)にある長田大塚古墳です。
この古墳は三段丘(?)になっており、頂上は円形で平で、祠が鎮座です。
この古墳を中心に、朝倉氏、安倍氏、継体天皇に絡み、朝倉の古代を探ってみました。

 

1.筑前朝倉と越前朝倉氏と継体天皇

越前朝倉氏は但馬国を拠点とした豪族で、後に発展して越前国を拠点とする戦国大名となっている。その朝倉氏は高良の八神官の一人・稲員氏(いにかず 草壁氏)の流れで、その主人が斯波氏(しばし)となります。
朝倉氏も斯波氏も古くは「朝倉」「志波」の出身で、この二氏の名は、朝倉の地名に因むと考えるのです。氏族の流れは高良物部族と北筑後の橘族の流れを兼ねた氏族と想定しています。斯波氏が絡む杷木志波の地は周囲の朝倉の地より上位の地といれていました。

その越前朝倉氏が拠点とした越前国は、古代、日本書記によれば、継体天皇の地といわれています。継体天皇は越前国に住んでいたことになっている。
しかし、継体天皇は越前でなく、筑前朝倉の福井に住まわれ、その古墳は山田の長田大塚古墳であるという、AmeBlo の管理者「うっちゃん先生」が発表されています。

連携ブログ Ame Blo うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
ブログ013「継体天皇」の御陵は福岡にあった 2015-07-09
ブログ014「継体天皇」の御陵は福岡にあった②
による、その概要です。

 

『記紀』に言う「継体天皇」の御陵として宮内庁は、大阪府茨木市の前方後円墳・大田茶臼山古墳を指定している。これに対して考古学研究者の多くは約2キロ東北の高槻市安威(あい)の今城塚を本当の「継体陵」であろうとしている。両方とも『記紀』にいう「三嶋の藍(あい)」に相当する場所にあるからである
「継体」の御陵について『古事記』は「三嶋の藍(あい)の御陵に葬(はぶ)る」と書き、『日本書紀』は「藍の(野)陵に葬る」とだけ記す。国名の表示はない。どこの「藍」なのか『書紀』にいたっては郡名の記載もない。
『和名類聚抄(和名抄)』をあたってみた。するとそこにはっきりと「三島郷」が記されていたのだ。場所は福岡県南西部に位置する朝倉市である。
そこで「明治十五年全国小字調べ」の福岡県分にあたってみた。すると、なんと、そこにはちゃんと大字「宮野」「大福」に小字「ミシマ」「三島ノ下」や「會(会=あい)」も記録されていた。「會」は「あひ」とルビ付きで二か所ある。「合の坂」もあった(『福岡県史資料』第七集)。ここが『古事記』にいう「三島の藍」である可能性 も高い。国名の「筑紫」がカットされていた可能性が考えられた。
この付近に「御陵」にふさわしい古墳があるのだろうか。
実はある。大字宮野から約三キロ東にある列島最大級の円墳・長田大塚古墳である。直径80メートル。高さ30メートル前後ある。筑後川を見下ろす小高い場所にあり、堂々とした姿は一帯を威圧している。九州はもとより全国的にみても、そうない大円墳である。現状では埼玉県・埼玉古墳群の丸墓山(直径105メートル)に次ぐ規模である。発掘調査はされておらず、この地域にもう一基「巨大円墳」があるらしいことだ。「長田大塚古墳」に勝るとも劣らない巨大な円墳だ。付近の人は「宮地嶽」と呼んでいる。墳丘?の頂上部が削られて宮地嶽神社の境内に造りかえられているようだ。

「継体」の出身地は筑紫の「福井」
余談に類するかもしれないが、『日本書紀』は「継体天皇」の出自を「越前の国」、すなわち現在の「福井県」であったと書いている。杷木の東側には宝珠山村(現東峰村)がある。宝珠山村は明治22年ごろ「宝珠山村」と「福井村」が合併してできた。お隣は大分県日田市である。
「福井」は「井戸から米が吹き出した」から「福井」というのだ(宝珠山村史)と説明されている。しかし、金属関係の研究者は「福」は「吹く」である例が多く、タタラに送る息や風を意味するという。「伊福部」など鉄生産に関連した氏族に「福」がついている。
確かに「福井村」にも「鍛冶屋」という小字がある。鉄器を作る伝統が息づいていたのではなかろうか。村の西側には「赤い酸化鉄が多い村」を意味する「赤村」もある。
宝珠山村にはその名にちなむ「宝珠」(隕石であろうとされる)を御神体とする「岩屋権現」があり、この神や英彦山の神を招来したのは「継体天皇」であるという。

 

継体天皇の御陵が福岡県朝倉市にあるのを発見した。「断定」とまではいかないが可能性としては極めて高いと思える、と言われている。

越前朝倉氏は福岡県朝倉から但馬国に移動され、さらに越前国に移動されている。
それに伴い、朝倉地方の地名も越前国に移動したとみることができます。

 

但馬の朝倉氏
兵庫県養父市八鹿町に但馬の朝倉城がある。
戦国時代末期、武将・朝倉大炊(あさくら おおい)が但馬・朝倉城を改修し守りを固めている。朝倉大炊は徳川家康に名産品「朝倉山椒」を献上したと伝わっている。
ここで思い出すのが、
ブログ「ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり 先祖について」の記事
「球磨郡久米郷の古代久米族と神武天皇様は『はじかみ(山椒)』の味を御存じだった」「久米郷岡本村、岡本大炊神山鎮座 歳神神社」
「大炊」「山椒」の共通語句。ここでも、熊本県あさぎり町の宮野と朝倉の宮野が連携していると感じざるをえません。


長田大塚古墳  福岡県朝倉市山田(字長田)

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2.筑前朝倉の山田の安部氏

「あべ」氏といえば、奥州前九年の役の安倍宗任が有名ですが、「あべ」は阿倍、阿部、安倍、安部の姓がありますが、全て同族で、古代天皇家を祖に持つと云われております。
筑前朝倉の安部氏が安倍宗任の子孫とおっしゃられている安倍氏ならぬ安部氏の話です。

安部家の墓
長田大塚古墳の中腹に安部宗任の子孫で安部家の墓地が整備されています。
その子孫で安部宗之の墓石に墓碑銘(釋 宗入)が刻まれています。
その墓碑銘からの紹介です。

安部宗任の子孫で安部三郎右衛門宗之が、江戸時代前期に大分から朝倉郡山田へ越して、山田の土地五町九反を買い子孫に遺しておられる。
その子孫であるアキラ水産社長・安部泰宏氏が発起人となり、朝倉在住の安部一族協力の下に近年、先祖の供養を行なったと墓誌は記しています。
安部家の先祖である安部宗任は前九年の役で敗北し、豊後に流され、国人となったと、宗之の墓碑銘(釋 宗入)は記しています。
豊後に配流され、その子孫の多くは大分県に住まわれています。

 

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墓碑銘(釋 宗入)
安部三郎右衛門宗之は安部宗任の裔なり
後冷泉院天喜年中(1053-57)
蒙 伊予守源頼義により
命 康平5年(1062)9月17日
誅 貞任捕えられ、宗任豊後に流され、遂に国人となる
宗任の裔・宗之は筑前国上座郡山田の田畠五町九反を買い子孫に遺し今に至る
その賜を受け、元禄12年(1699)1月25日93歳にて没
     安部姓中 
     文化7年(1810)7月

 

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安倍貞任・安倍宗任について
安倍貞任・安倍宗任について、歴史的概略を探ってみました。

 

安倍宗任(Wikipedia)
奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う。(前九年の役:源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(康平5年1062年))
一族は奮戦し、貞任らは最北の砦・厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。
四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に3年間居住し、その後少しずつ勢力をつけたために、治暦3年(1067年)に九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。
その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。
また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。そして、嘉承3年(1108年)2月4日に77歳で亡くなった。

長男・安倍宗良
宗良は大島太郎・安倍権頭として、大島の統領を継いだ。その子孫の安倍頼任は、九州の剣豪として知られ、秋月氏に仕え、剣術流派・安倍立剣道を開いた。

次男・安倍仲任
仲任は、薩摩国に行ったとされる。

三男・安倍季任
季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。

子孫
安倍宗任の三男・季任は肥前の松浦一族と姻戚関係となって「松浦実任」と称する。その子孫である松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍した。その為、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘は平知盛の子(遺児?)といわれる平知貞に嫁いだが、源氏の迫害から逃れる為に知貞一族は妻の祖父であり、松浦氏を名乗っていた季任(実任)の本姓「安倍」を名乗ったとされる。ただし平家の家系図には平知貞という人物は存在せず、詳細は不明である。

自民党衆議院議員で外務大臣を務めた安倍晋太郎氏、内閣総理大臣の安倍晋三氏らを輩出した山口県の安倍氏は、源氏の迫害を逃れるために妻側(松浦高俊の娘)先祖・宗任と季任(実任)の本姓である「安倍」を名乗った平知貞の系統とされる。
                        (以上Wikipediaによる)

 

安倍宗任は奥州の役で源頼義に敗北、都へ連行され、四国の伊予国に流され、筑前大島に再配流されている。その長男・安倍宗良は秋月氏に仕えている。
三男・安倍季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり水軍松浦党を構成する一族になっている。その後、季任の子孫は平氏と縁戚になったといわれている。
現代に至って、山口県の衆議院議員の外務大臣の安倍晋太郎、その子の内閣総理大臣の安倍晋三氏が居られますが、こちらの姓は「安倍」です。

安倍宗任の墓
安倍宗任が最後の配流地とされる福岡県宗像市大島に宗任の墓があります。
治暦3年(1067)、宗任が宗像大島に流され、住いを中津宮近くの毘沙蔵に構えている。その後、御所山に移り住み、守り本尊と毘沙門天像を安置する安昌院を建立している。
福津市宮司元町の宮地嶽神社の祭神は、阿部相函、神功皇后、勝村大神、勝頼大神とされるが、阿部相函は開化天皇です。その子孫が安倍貞任、安倍宗任といわれています。その故地に近い宗像大島に宗任が戻ってこられたということは、時代の因縁を感じます。


筑前朝倉の安部一族供養塔
安部宗任の子孫で安部三郎右衛門宗之、更にその子孫であるアキラ水産社長・安部泰宏氏が発起人となり、朝倉在住の安部一族協力の下に先祖の供養法事をされている。
墓誌銘の裏には安部家のそれぞれの名が刻まれています。
大分の安部氏が、福岡県朝倉の山田に江戸時代に帰っておられる。伝承で朝倉の山田が先祖の故国と知っておられたのであろうか。

 

墓誌銘
安部家の先祖の偉業に思いを馳せ、その遺徳を子々孫々まで伝え残すべく、ここに墓所を整備する。祖父・安部栄次郎が福岡市柳町で興した明百貨店の孫、アキラ水産社長・安部泰宏を発起人とし、朝倉在住の安部一族協力の下に先祖の供養を行なう。      建立年月日不明 

 

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3.瑜伽神社と秋葉神社

長田大塚古墳の南側の中腹に瑜伽神社(ゆうが)が鎮座されています。
瑜伽神社は、祭神が宇迦御魂神(うがのみたま)、倉稲魂命で表記されており、天鈿女命(あめのうずめ)です。境内社、脇神として、猿田彦(彦穂々手見命)、久恵比古(事代主)がおられる。これらは彦穂々手見命を祖とする物部一族の神々です。
また、瑜伽神社は社殿の形式から稲荷神社でもあり、神額はクマソ(大山祗)物部の形式になっています。北九州市小倉北区の瑜伽神社の由緒からすると、本質は事代主神社となります。それで、「山田の長田の事代主」がつながることになります。

事代主ゆかりの地名称には、「山田」「長田」「八重津」「桂」「桂木」「桂川」「片縄」「片延」「片田かだ」「蚊田かだ」「大城」「王城」「蛭ヒル」等があり、「カタ」の神であり、この地名称がある所には事代主ありです。ここ朝倉山田近隣には、「山田」「長田」「桂川」があり、事代主色が強くなります。

ここから古墳の頂上部に登りますと、頂部は平な円形をなしており、そこに秋葉宮(祭神金山彦)が鎮座です。明治15年11月20日建立で、古墳南下の井上地区の方々が世話人となっておられます。
世話人は 梅野 関屋 安部 久保山 手島 小林の方々です。方々は物部一族です。
これらの方々と古墳の関係は不明です。
古墳の元地主は吉井町江南(えなみ)の公畑(こうはた)氏で、今は秋葉宮がある頂上部のみを所有され、下の柿畑は久保山氏所有となっています。

古墳の被葬者は? これは古墳の発掘調査を待つしかありません。
まさか、地名からいって「事代主」?ではと思うこともありますが、旧甘木市街一帯、旧三輪町一帯は事代主を祀る神社があちこちにあります。大国主、大山咋と並ぶ影響力を持っておられたと思っています。継体天皇の古墳とすれば、当時としては、磐井の君と並び、前方後円墳を造られた可能性が高いと思いますが、いずれにせよ、高位格者の墳墓の可能性は大きいと想定しています。

事代主(葛城)と朝倉に関係があり、高位格者の考えられる被葬者
 神功皇后(息長帯比売命、母・葛城高額媛)
 天智天皇(天命開別尊、葛城皇子) 天智天皇は別王です

事代主は宮中の御巫(みかんなぎ)八神の一つにもなられ、高格な場所に祀られていて、天皇家の祖先に大きな関係があります。


 

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瑜伽神社(参考資料)
瑜伽神社の神額はクマソ(大山祗)物部を表わす。


瑜伽神社(ゆうが神社)
奈良県奈良市高畑町1059
祭神:宇迦御魂大神
境内社:猿田彦神社(彦穂々出見命)
    久恵比古社(事代主命)

瑜伽神社
福岡県北九州市小倉北区船場町6-17
祭神:倉稲魂命 大国主命 事代主命
元正天皇の御代、養老2年(718)の創起、
社名を蛭子神社といった。
1602年の小倉城築城の際、現在地に移され、
「瑜伽神社」と改まり、現在に至る。

 

瑜伽山
倉敷市児島北部の丘陵地にあり、標高は274m、一般的表記は「由加山」が使用される。古来より磐座信仰・山岳信仰の対象とされていた山である。正式名称は瑜伽山(ゆうがさん)である。
奈良時代(733年)に行基が、この山に阿弥陀如来と薬師如来の二尊を「由加大権現」(ゆうかだいごんげん)として祀り、寺を建てた。



 

4.二系統の物部

<ブログ「No.13 事代主・恵比須神・西宮大明神」からの一部引用です。

事代主は父親(彦穂々手見命・ニギハヤヒ・猿田彦)の立場からみれば物部族である、という性格を持ちます。よって、彦穂々手見命を祖とする物部も二系あり、宇麻志麻遅命とするもの、事代主とするものとなります。
三重県には物部の祖・ニギハヤヒ(猿田彦大神)を祭神とする神社が二つある。
鈴鹿市の宮司・山本氏の椿大神社(つばきおおかみやしろ)と伊勢市の宮司・宇治土公氏(うじとこ)の猿田彦神社である。どちらも猿田彦大神、大田命の直系の子孫であると主張されている。
ニギハヤヒ(猿田彦大神)を祭神とする神社、祠の神紋は椿です。
また、猿田彦大神・彦火々出見尊の神紋は木瓜であり、木瓜紋は高良神奉斎物部を表わします。宇治土公氏の物部は家紋が「五瓜に梅鉢」紋で高良系物部からはずれます。

 

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猿田彦神社
宇治土公が邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦大神を祀っていた。明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社である。本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造である。千木は平削ぎの女千木である。どうして女千木か気になるところです。

 

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5.長田大塚古墳の近隣の墓石から見る家紋

<長田大塚古墳の北隣に朝倉山田地区の安部家(井上区)を代表すると想定される墓地があります。関連する家々の家紋を墓石から調査し解析を試みました。
 

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古墳墓地の安部家、後藤家は、家紋が「抱き茗荷」です。
この家紋は久留米市草野、竹野の中野家が使用されます。高良山ゆかりの氏族で、物部族です。大庭の安部家は「陰陽二段菱」紋で、柳瀬宮原家と同じ紋で、開化天皇の流れになります。
関屋家、梅野家は「木瓜」紋で、高羅神(彦火々出見命)奉斎物部を表わします。
手島家は「三つ丁子巴」紋、小林家は「二重亀甲に三菱」紋で、大幡主系を意味し、事代主系物部と大山祗系物部と推察します。
その他に、土屋家と平田家は「梅鉢紋」で、菅原系(豊玉彦)の物部と推察します。三井郡大刀洗町の平田家は「剣花菱」紋の物部族で有名ですので、朝倉の平田家も同族と推定します。
「剣花菱」紋は高良山一帯の家々でよく見かけます。開化天皇を奉斎する一族です。
参考までに、佐賀県旧北茂安町東尾は仁徳天皇ゆかりの地で、ここに、宮原家、牛嶋家、板谷家がおられますが、これらの家々の家紋は「剣花菱」紋です。
井福家は「木の字」紋で、九州王朝天皇家(姫氏 きし)の流れとみました。

 

浮羽星野氏の家紋(参考資料)
亀甲に三枚笹・裏桔梗
調姓黒木氏支流で大山祗系物部です。
星野氏は妙見を信仰して、居城を妙見城と呼んだことで知られる。
亀甲紋は大幡主系表わします。他方、裏桔梗も用いています。

 

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               長田大塚古墳より高良山を望む

長田大塚古墳の中腹から西を望むと高良山が良くみえます。
朝倉の宮野、菱野を中心とするこの一帯は、高良山と連携した物部族の地域だったのではないでしょうか。高良山一帯に始まり、耳納山麓の旧浮羽郡、草野、竹野、二田、吉井、浮羽。筑後川を渡り、上朝倉一帯は古代物部の地とみています。


再び瑜伽神社について
長田大塚古墳の南側の中腹に鎮座されている瑜伽神社を参拝して、田舎の貧弱な神社と一見思われますが、私にとっては大変な刺激を与えられた神社と思っています。
それは、宮野の宮地嶽古墳、山田の長田大塚古墳がある朝倉一帯の物部の地にあって、物部の象徴的な神社に思えてならないのです。九州で有名な、高格な地方の神社の境内社として祀られている稲荷神社は瑜伽神社ではないか、瑜伽稲荷神社ではないかと思うのです。この神社は物部の象徴神社として鎮座されているのではないかと。
主祭神は宇迦御魂神(天鈿女命)ですが、夫の猿田彦大神(彦穂々出見命)が夫婦神として脇神におられ、この夫婦神は物部の太祖です。さらに次の世代、大宮売神、大田命が親子で祀られ、さらに次の世代、開化天皇に至っては物部の頂点に立たれている。名は「物部保連 やすつら」、月神です。
この世代の流れの神々は北部九州物部を象徴する神様です。その神々が稲荷神社、瑜伽神社に祀られている。私にとって、稲荷神社を再考させられた瑜伽神社でした。

 

稲荷神社【参考資料】
稲荷神社の総本宮は伏見稲荷大社とされる
三大稲荷神社(祭神は神社公表による)
 1.伏見稲荷(京都市伏見区深草)- 宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神
                 田中大神、四大神
 2.笠間稲荷神社(茨城県笠間市)- 宇迦之御魂神
 3.祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)- 倉稲魂大神、大宮売大神、猿田彦大神

稲荷神社の神額の額縁はクマソ(大山祗)物部の性格を表している。

 

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田中大神は高良玉垂命・開化天皇で、伏見稲荷の額縁には半割り門光紋が打ってある。四大神(しのおおかみ)は四公様の猿田彦大神ですが、稲荷神社の祭神は天鈿女命と猿田彦大神が基底にあるようです。天鈿女命と猿田彦大神は夫婦神です。
伏見稲荷の祭神・佐田彦大神は「猿田彦大神」の間違いか、と思うのですが。
もともと、男山・伏見地域は豊玉彦の領域で、稲荷祭神に豊玉彦が隠されているともいわれています。