宮原誠一の神社見聞牒(079)
平成30年(2018年)10月20日

No.79 朝倉須川に月読神社があった ⑤


福岡県旧朝倉町宮野、須川一帯の神社を紹介していますが、旧朝倉町上須川に月読神社が鎮座されていました。私が参拝した神社で福岡県内四番目の月読神社となります。
そして、境内には、社号が「○○天皇」という祠があり、扉には「十二菊」紋が打ってあります。「十二菊」紋は九州王朝の紋とも言われます。

1. 二田の月読神社  福岡県久留米市田主丸町益生田(二田)

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2. 東町の月読神社  福岡県久留米市田主丸町田主丸(東町)546-1

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3. 高三潴の月読神社  福岡県久留米市三潴町高三潴(塚崎)136

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二田の月読神社の公式記録は、福岡県神社誌にも「寛文十年(1670)久留米藩社方開基」にも記載されていない。二田村では天満神社が鎮座され、月読神社は存在しないことになっています。東町の月読神社は、明治13年(1880年)二田の月読神社から勧請、創立されています。
高三潴の月読神社も福岡県神社誌、寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」に記載されていなくて、明治中頃以降に建立された新しい神社と言えます。

4. 朝倉上須川の月読神社  福岡県朝倉市須川1683

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朝倉上須川の月読神社も福岡県神社誌に記載されていません。
福岡県の月読神社は、公式には表に出てこない神社となります。

月読神社の左後方の鳥居は高木神社で、上段に鎮座されており、上格神社となります。その高木神社に由緒案内がありました。

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高木神社
所在地 福岡県旧朝倉町大字須川字上須川
祭神 高皇産霊尊(たかむすびのみこと=高木大神)
別に大行事社とも云い、当須川氏神である。星野家初代の星野胤実の創建とあり、弥生(四月)と菊月(十月)の17日に祭りが行われている。古、此所に大東寺と云う寺ありき、と朝倉紀聞と云う古い本に書かれている。
第98代長慶天皇度々この地に来られ、特に裏山の黒巌がお気に入りであった。応永7年3月17日にお亡くなりになると、星野胤忠は御遺言により黒巌山の頂上に埋葬、その後、この山のことを天皇山と呼ぶようになった。又近くに千代田・亀山と云う地名が残っている。尚、裏山裾には多数の古墳がある。 朝倉町教育委員会

どうやら、月読神社の創立に星野家が絡んでいるようです。
星野家は大山祇系調(しらべ)衆の一人で、物部氏族です。
「No.41 福岡県吉井町の水神・水分神と吉井物部 ③」に触れていますように、星野家は福岡県吉井町横町の妙見社、吉井町富永の富永神社(妙見社)に関わっています。

 妙見社 福岡県うきは市吉井町(横町)908-5
 祭神 天御中主(あめのみなかぬし)

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古祠・妙見社の由来(概要)
富永の妙見城を本拠地に吉井一帯を支配してきた星野氏は、豊臣秀吉の九州侵攻により滅ぼされ、残った星野一族は、ここ災除川(さいのきかわ)周辺の吉井村に南接する形で町造りを進める。星野氏の妙見信仰は初代・胤実(たねさね)以来、守り神として、ここに石祠を建立し奉斎し続けてきた。

うきは市の正平塔と調衆
この塔を建立した調衆(しらべしゅう)一門は、黒木助能(すけよし)を始祖とする星野、黒木、川崎の三氏の総称で、なかでも星野氏は耳納山の複数の山城を拠点として吉井周辺を支配していました。南北朝の戦乱には、肥後の菊池氏と征西将軍懐良親王を奉じて南朝に尽くしました。北朝の武家側とは幾度も戦い、多くの生命が失われました。正平14年(1359)の大原合戦(筑後川の戦い)は、両軍最大の激戦で双方とも多数の戦没者が出ましたが、これらの戦いで散華した両軍将士の霊を供養してこの塔を建立したものです。   (うきは市指定史跡)

             うきは市の正平塔

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富永神社  福岡県うきは市吉井町富永2476番の2

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上須川の月読神社の拝殿に上がりますと神殿です。その扉には月形が切り抜いてあります。
ご神体を見ることが出来ました。
古墳の石室の奥壁(石)が使用されています。その奥壁には装飾の図形が薄らとみることが出来ました。恐らく、この裏山の石室古墳群の破壊された一つでしょう。

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5. 高木神社  福岡県旧朝倉町大字須川字上須川1683
月読神社の左後方の鳥居の扁額は「高木神社」とあり、高木神社です、上段に鎮座されており、上格神社となります。
しかし、境内に入ると高木神社ではありません。
朝倉町教育委員会の案内板にある「星野家初代の星野胤実の創建」とは、高木神社でなく、その前の古宮でしょう。星野氏の勢力が衰えた後に、高木神社にすり替えられたと想定します。その古宮は大幡主を祀る神社でした。

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      山神社        本殿          ○○天皇社 天満宮

境内社が三殿、本殿と並んで鎮座されています。
左が山神社(祭神・大山祇)、右内が「○○天皇」社、右外が天満宮です。
天満宮が境内社として並んで祀られ神社は大幡主か豊玉彦を祭神とする傾向にあります。
向拝の梁には龍と菊の彫刻、拝殿前の両側の二本の松の木は大幡主を祀る神社と想定します。
朝倉一帯の神社は大幡主と大山祇を祀る傾向が強くなりました。


6. 「○○天皇」社
境内社が本殿の右に「○○天皇」社として鎮座されています。
祠の社号が「○○天皇」と読み取れました。最初の一字は読み取り不可能です。
祠に「○○天皇」と刻まれた境内社は初めて見ました。
創建日付、建立者名前、立会人等は刻まれていません。いかなる理由で建立されたか想定できません。
朝倉町教育委員会の高木神社の案内板に記載された「長慶天皇」があります。しかし、社号は「長慶天皇」とは読めません。
その他に朝倉に関係のある天皇は、斉明天皇、舒明天皇、天智天皇、天武天皇が考えられます。誰が、何時、いかなる理由で「○○天皇」祠を建立したのでしょうか。
祠の建造様式は左の山神社(祭神・大山祇)と同じです。
扉には「十二菊」紋があります。

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7.「十二菊」紋
ネットから「十二菊」紋に関する記事を拾ってみました。

霧島岑神社 宮崎県小林市細野
続日本紀に、仁明天皇の承和四年日向国諸県郡霧島神と見える神社。明治6年に現在の場所に遷され、翌年夷守神社と合祀、現在の霧島岑神社となっている。十二弁菊花を神紋として使用。

ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり 先祖について
突然ですが「五七の桐紋」と球磨について
最初に「五七桐の紋」を見たのは「岡原霧島神社」の御神殿の中での事です。3年前、岡原霧島神社の「大祭」の前夜祭に参加した時に、御神殿の中に入りました。岡原霧島神社の御神紋は「違い鷹の羽」紋です。
所が、御神殿の中の大きな柱の中央には「五七桐の紋」が施されていて、数本の柱に「五七桐の紋」を確認しました。
この時に「何故?違い鷹の羽紋」ではなく「五七桐の紋」なのだろう?と不思議に感じた事を今でも鮮明に記憶しています。
【霧島岑神社】
御祭神
瓊瓊杵命 木花咲耶姫命 彦火々出見命 豐玉姫命 鵜葺草葺不合命 玉依姫命
【祭祀対象】本来は高千穂峰を祀る
【祭祀】江戸時代は「霧島中央権現」と称していた
霧島岑神社由来略記 往古、霧島岑神社は高千穂峰の中腹、瀬戸尾の高地に鎮座され、祭神は瓊々杵尊・木花咲耶姫命・彦穂々出見尊・豊玉姫命・鵜葺草葺不合尊・玉依姫命の六柱の神々である。
天慶・天暦(10世紀)の頃、性空上人が霧島岑神社に参籠の折り、山麓四方に夷守神社他四社を創建し、本社である霧島岑神社(別名、霧島中央権現)を合せて霧島六社権現と称した。
天永3年(1112)韓国岳噴火、仁安二年(1167)大幡山噴火と相次いで神殿を焼失したが、その都度元の地に再建された。
文暦元年(1234)には至近の火常峯(御鉢)が噴火し社殿は焼失、この高地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧辺王子神社の辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。
その地に座すこと480余年、享保元年(1716)新燃岳噴火、社殿は焼失 御神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが新瀬戸尾の地は全く荒廃したので享保14年(1729)、夷守岳中腹に社殿を再建、明治初頭まで鎮座された。その地を今に築地と言う。明治5年(1872)県社に列せられ、翌6年細野村に合祀の世論起り夷守神社を先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社の跡地(現在地)に霧島岑神社を奉遷して今日に至っている。


六所神社 福岡県筑後市羽犬塚
承平年中、板東寺より勧請。大棟に十二弁の菊花紋が使用されている。

宇佐八幡宮 大分県宇佐市南宇佐神紋は三巴であるが、御朱印帳に十二弁菊花紋を使用。

菊花紋は天皇家の「裏紋」であり、16弁と12弁がある。
菊の御紋にも十六弁と十二弁があり、東京の「明治神宮」では主に十二弁の菊花紋が使われている。正確に言えば、十六弁の菊花紋も明治神宮の鳥居などに使われているが、神宮の門にある透かし彫りの大菊花紋は十二弁である。また、社殿の奥にも十二弁の菊の紋章が釣られている。古代ヘブライでは十六弁の菊花紋は全世界向けの場合に用いられ、十二弁はイスラエル十二支族に限る場合のみに用いられた。

ユダヤの紋章は「ダビデの星・六芒星」と思われがちですが、昔にさかのぼるほど「菊紋」が使われていた事実が見えてきます。
菊の御紋とまったく同じ紋章が古代イスラエルに存在し、実際、エルサレムの城壁の上にも「十六弁」の菊の御紋が彫られています。
皇室のもう一つの菊花紋である「十二弁」の菊の御紋も存在しています。


肥さんの夢ブログ
12弁の菊花紋は,九州王朝の家紋か?
江田船山古墳出土の銀象嵌太刀には,鳥(鵜と思われる)と魚(鮎と思われる),そして馬(ペガサス)のほかに「12弁の菊花紋」がデザインされている。
私はすでに,『富本銭と謎の銀銭』で紹介されている無紋銀銭のなかに,12弁の菊花紋が刻印されているものがあり,またユダヤ教の12部族を表すのにも使われていたことを調べたが,遠くの西アジアはいざ知らず,無文銀銭と江田船山古墳出土の銀象嵌太刀とくれば、両者とも「九州王朝の家紋」ということでまとめられるのではないかと思った。
ちなみに、皇室が現在使っている家紋は、16弁の菊花紋である。
さらに、もう少し証拠固めをしようと、「12弁の菊花紋」でインターネット検索をしたところ、九州王朝と縁の深い柿本人麻呂にちなむ人丸社という石祠の菊花紋が、12弁菊花紋のものと16弁菊花紋のものとが山口県で混在していることを調べたサイトを見つけた。
「防長人丸社新考」というものだ。
その関連部分を貼りつけてみよう。
「石祠の菊紋」
http://www.geocities.jp/astpa693/kikumon.html
山口県は九州王朝の勢力範囲で、その王朝に仕えた柿本人麻呂に縁の深い地域(九州王朝の都があった)なので、16弁の菊花紋と12弁の菊花紋が「混在している」という様相なのかと思った。
世の中驚くべきことがあるものだ。


日本とユダヤのハーモニー
天皇家の菊家紋の真相
古代文明において神聖文字を図案化したとも思われる紋章は、自然界に住む神々と人間との関係を象徴しているため、菊花紋は当初、天を照らす太陽の神のシンボルとして考案され、次第に菊の形状に整えられていったと推測できます。
また、シュメール王朝の都であったバビロン遺跡には、紀元前600年に建造されたイシュタル門が残っており、これには王家の紋章として多くの菊花紋が描かれていますが、それはまさに日本の菊花紋とまったく同じ形です。そして驚くことに、イスラエルの首都エルサレムの中心にある神殿の城壁にも、菊花紋が見事に刻まれているのです。
さて、この菊花紋は平安時代よりもさらに昔、紀元前より中近東に流行しており、シュメールにおいては王朝を象徴する家紋として使われていたものなのです。例えば紀元前2300年ごろ、シュメール・アッカド王朝の時代に建造されたナラム・シン王の戦勝碑には、菊の紋章に大変類似した文様が描かれています。これがシュメール王朝の菊花紋の原型となったとも考えられます。
シュメールとイスラエル、そして日本の皇室が菊花紋を共有している事実は単なる偶然ではなく、古代日本の歴史を刻んだ大和の民のルーツが、イスラエル、さらにはシュメール文化に由来していたからにほかなりません。世界最古のシュメール文化は、紀元前8世紀、国家を失ったイスラエルの民により高天原(夕カーマガハラ)を経由して大陸を渡り、日本に到来していたのです。
紀元前722年、北イスラエル王国の10部族が国家を失い、離散した民の行方はわからなくなりました。直後、南ユダ王国の滅亡も預言者によって再三、指摘されるようになり、それから約140年後、実際に南ユダ王国も滅びたのです。
ところが、北イスラエル王国が滅びてからおよそ60年後の前660年、南ユダ王国が崩壊の危機に直面している最中、時を同じくして広大なアジア大陸の東の果てに浮かぶ日の出ずる島々では、倭国の皇室史が幕を聞けたのです。イスラエルの文化と古代日本文化には多くの共通点が見受けられ、それが単なる偶然とは言えない理由の原点が、この暦の接点にあります。
北イスラエル民族が歴史から消え去り、南ユダ王国の崩壊が始まってから暫くすると、遠い東の新天地で倭国の歴史が始まり、その文化はイスラエルとの類似点が多々あるという事実を、もはや見逃すことはできません。

天皇家の菊紋は16弁と12弁がある。
九州王朝の紋章が「12弁の菊花紋」である可能性が大である。
天武天皇の白鳳年号は九州王朝の年号である。
「○○天皇」祠は長慶天皇の可能性大です。祠の社号は南朝の天皇・長慶天皇で「寛成天皇」の可能性が強い。南朝の天皇がおられたということは、ここ朝倉宮野が九州王朝の地であることの可能性が強くなります。。
宮野神社の祭神が開化天皇であり、朝倉の宮野、須川一帯は九州王朝の「泉」である可能性が大となりました。

「菊花紋」「桐紋」はユダヤの紋章が起源です。
ブログ管理人ひろっぷ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」の岡原霧島神社に述べておられる神紋、「五七桐紋」もユダヤの紋章であり、九州王朝の紋章の基本となっていきます。「菊花紋」もユダヤの紋章であり、九州王朝の紋章へとつながっていきます。

前回記事「No.78 朝倉宮野の後背地の神社群(北東方面) ④」の5.「宮野と須川」対して「宮原と岡本」の「宮原と岡本」は熊本県球磨郡あさぎり町の旧宮原村岡本村のことです。
ここに多くの「橘族」が住まわれています。久米物部の発祥の地とも言われています。
旧朝倉町宮野須川地区が熊本県球磨郡あさぎり町(旧宮原村岡本村)と繋がりがあることに驚いています。ここに大字宮野があるのです。ここでの宮原村は「みやのはる」です。
球磨郡あさぎり町がいかなる地であるか、ブログ・ひろっぷ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」を読まれると、九州王朝の元祖が見えてまいります。



【参考資料】
「○○天皇」社を精査のところ、朝倉町教育委員会の高木神社の案内板に記載された「長慶天皇」の可能性が強くなりました。
長慶天皇の諱は寛成(ゆたなり)で、天皇の親署を比較しますと、「寛成天皇」と読むこともできます。

長慶天皇(ちょうけいてんのう) 1343年-1394年8月27日
南北朝時代の第98代天皇にて、南朝の第3代天皇(在位:1368年3月-1383年冬)。
諱は寛成(ゆたなり)。
父親 後村上天皇
母親 藤原氏(嘉喜門院)

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