仏光寺通りをずっと西へ、西新道通りを越えてまもなくのところに

その昔、イハラさんという眼鏡屋さんが、ありました。

 

<メガネのイハラ>いう黄色い看板やったかな、がかかっていて、

眼鏡鑑定士のおじさんが、根気よう、何時間でも、自分に合うた眼鏡を作るのに

つきおうて、くれはりました。高校生の頃から、眼鏡を作るときだけやのうて

ちょっとつるがゆがんだとか、鼻パッドが汚れてきたとか、ほんまに

ちょっとしたことがあると、この眼鏡屋さんに、寄ったもんです。

 

おじさんは、四国のほうの出身で、子供の頃は、ガキ大将で、一日中

野山を子分を連れて駆け巡っていたと聞きました。京都へ来はってからは、

最初は、新京極のなかで眼鏡屋さんをやってはったそうで、

新京極で喧嘩騒ぎがあると、止めてくれ!いうて、いつも

呼びに来られたりしたんやと、懐かしそうに話してくれはったり、

 

もっと若い頃に、日本中、世界中、いろんなところへ旅していた、その

時々のエピソードを、話してくれはるのを聴くと、羨ましいなぁ~と

思ったものでした。

 

お店の外から見ると、入口の大きな1枚ガラス越しに、

お客さんが来てはるかどうかわかるのですが、

このご近所の人だけやのうて、以前、このあたりに住んでいて

今は、遠方へ行かはったお客さんまで、遠いところは名古屋からとか

来てはったので、いつ通りかかっても、誰かしらお店にはやはって

 

そのみんなが、ただ眼鏡を作りに来てはるだけやのうて、

自分の近況やら、家族の愚痴やら、悩み事や延々と話さはるもんやから、

ひとりのお客さんの滞在時間が、半端なく、長うて(笑)

 

かくいう私も、いつも、お店に入ると、

<ちょっと、ここでゆっくりしていき!>いうて

奥の冷蔵庫から、オロナミンCを出してきて、飲むようにすすめてくれはる

もんやから、ついつい親の介護の愚痴などを、聴いてもろたもんでした。

 

介護のことで悩みは尽きひんけれども、愚痴は山ほどあっても、

案外、誰にでもこぼせる、いうもんやありません。

 

けど、おじさんに話をすると、いつも

 

<えらいなぁ~。何がえらいって、いつでも、こうして笑てるやろ。

 しんどいときは、みんな笑顔にはなれへんで、暗い顔になって

 いくもんやけど、いつ来ても、そうやって、笑うてるのは、なかなかできひん。

 よう頑張ってる、えらいなぁ~って思うわ。> と、言うてくれはるので

 

そう言うて、ほめてもらうと、<もうアカン!限界や!>って、

さっきまで、思うてたんが、不思議なことに、すっかり元気になって

<また明日からも、頑張ろう!>いう気持ちにしてもらえるのでした。

 

けど、おじさんとのお別れは、突然にやってきました。

 

ある日、しばらく忙しいて、寄れへんかったので、そろそろ眼鏡の調整を、

と思って、お店まで行ったところ、お店には、シャッターが下りていました。

そのシャッターの真ん中に、新聞屋さんへ向けた小さな紙1枚のメモが。。。

 

   しばらくしたら、またお店開けるので、

   そのときまた、連絡します。

 

けど、その後、何回通っても、通っても、シャッターの開くことは

ありませんでした。

 

そして、このメモを目にした、数年後、同じようにお店の前を通りかかった

ときのこと、解体屋さんが、お店の中を、次々と壊してはったんです。

驚きのあまり茫然としつつ。。そんな、アカンって。。。と、

離れたところから、その様子を見つめていたときのこと

 

ふと見ると、ショーウィンドーはもう壊されていたけれど

まだ、あの、いつもの、見慣れた<メガネのイハラ>の黄色い看板は、

そのままお店の前に残っていたんです。

 

慌てて、スマホを取り出して、せめて看板だけでも!!と

写真を何枚も、撮りました。

 

休業の後、お店を閉店してしまわはった、おじさんのその後を

私は存知上げません。尋ねたら、わかることではありますが、

 

初めは、聞くのがただただ恐かった。。。けど、聞けへんまま何年もたった今は、

おじさんが、その後、どこかで余生をエンジョイしてはろうと、

彼岸へひと足先に、渡ってはったとしても、どちらでもええ、

そんな気持ちに、次第に、なってきました。

 

此岸でも、彼岸でも、どこにやはったとしても、おじさんはいつも

私の心の中には、やはるんやし、いつでも話ができるんやから。

 

そのとき撮った<メガネのイハラ>の看板の写真は、L版に印刷して、

部屋の机の上の、小さな写真立てに、今も、飾って、あります。

 

介護でしんどいことがあると、今でも、おじさんにオロナミンCを飲みながら

聴いてもらえたらなぁ~と、思います。けど、それは寂しいけれども

かなわへんことやから、

 

<メガネのイハラ>の馴染みの看板を見ながら、おじさんがいつも、

私を励ますのに言うてくれはった、<アンタは、いっつも笑うてるから、エライ!>

いう言葉を思い出し、なんとか今日1日を、乗り切ろう!!笑うて、いこう!

と、昔と変わることなく、今でも、ずっと、おじさんから、元気をもろてます。

 

いつかまた会えるときに、褒めてもらえるように、笑うて、頑張り、ます。

 

 

 

 

 

先日、書かせてもろた、いまなかさんのお酒屋さんの隣には、

その昔、はっとりさんの御茶屋さんが、ありました。

 

おじいさんと、おばあさんと、ふたりやはって、なんというてもお店の前を

通るたびに、いつも、ほうじ茶を煎じてはる、え~~え匂いがしてくるので、

小さい頃から、お店の前を通るのが、とても好きでした。

 

寂しいことに、おじいさんは、少し前に鬼籍に入らはって、しばらくして

おばあさんも、ひとりになってしまわはったので、おうちを出てしまわ

はったと聞きましたが、今は、お店の目を通っても、カーテンが閉まった

まんまなんは、ほんまに寂しいなぁ~と、思います。

 

今でこそ、ペットボトルで、お茶を買う、いうようなことが、ごく普通の

ことやけれど、私の小さい頃には、お茶は、お茶の葉を買うてきて

うちでおやかんで沸かしたり、急須に入れて飲んだり、それが、ふつう

やったので、お茶屋さんには、よう、御つかいに行かされたもんでした。

 

そのせいか、今でも、和菓子がうちにあるときには、ほっと一段落した時

都路里の玉露のお茶を入れて、いただいたり、します。

 

ただし、ティーパックなんですけど(笑)、それでも、至福のひととき、です。

 

 

 

壬生京極商店街の中でも、中新道よりに、そうそう、田中州鶴医院いう

内科のお医者さんが今あるところの、ちょうど向かい側に、小さな

ギャラリーが、あります。

 

入ったことはないのやけれど、週末などに、よく絵画の展覧会の

ような催しをやってはるらしく、お医者さんの帰り道に、表にはってある

ポスターが目にとまることが、あります。けど。。。

 

あの場所いうのは、私にとっては、小学校の同級生やった、

<いまなか君のおうち>いうより他にはのうて、

近くにあったそろばん教室に、幼い頃一緒に通っていたので

 

いまなか君を誘いにいくと、いまなか君にそっくりな、色が白うて

ほっそりとして上品で、きっと大声出して、怒鳴ったりは絶対に

しゃはらへんのやろうなぁ~と思われる、いまなか君のお母様が

いつも、微笑みながら、出てきてくれはるのでした。

 

  うちのお母ちゃんとは、全然違う!! 

  そやそや! お母ちゃんいうのは、本来、こういうもんやないの!!

 

と、当時は、我が家の母と比べて、なんやら、腹立たしいような

損したような(?)気持ちになったものでしたが、今やったら、

よ~~う、わかります。

 

いまなか君のお母さんが、観音さまのように穏やかやったんは、

いまなか君が、大人しいて、賢うて、優しい、そういう子供やったから、

であって、

 

うちの母が、阿修羅のごとく怒りながら、私を追いかけまわしていたんは

わたしが、どうしようもない、やんちゃな子供やったから、なのでした。

 

私は、そろばん教室も、その他の習い事の例にもれることなく

<落ちこぼれ組>やったので、賢うて、スマートな、いまなか君とは

全然レベルのちがうクラスにいて、中学校も、ええ学校へ行かはったからか、

小学校以来、いまなか君と一緒にいた想い出いうのは、あらへんのやけれど

 

今でも、週末にお客さんのよう来てはる、

あの、白い壁の、お洒落な<隠れ家>のようなギャラリーの前を

通るときには、

 

いまなか君の、とても美しいて色白で、優しかったお母さんと、

いつでも、私のおかしな話を、穏やかに相槌を打ちながら、聴いてくれてはった

<ええとこの子>そのものの、いまなか君のことを思い出します。

 

壬生京極商店街で、仏光寺通と東新道通の交わる南東の角っこには、

今は、コーヒーやお弁当、ソフトクリーム、その他いろいろ美味しい

<KADO>さん、いう喫茶店があって、

 

お話上手で、きさくで親切なマスタ―と奥様がやはるお店は、

いつも常連さんや、旅の途中らしきお客さんなどで、にぎわっているのですが、

 

その昔、この場所には、おのさんの<散髪屋さん>が、ありました。

 

今と違うて、昭和の時代には、小さい女の子は、美容院というような

ハイカラ(?)なところやのうて、髪の毛を切るのは、お父さんや男兄弟と一緒に、

<散髪屋さんで>が、ふつうのことで、

 

ましてや、私は、今でいうたら、いわば

サランラップかクレラップかのCMに出てくるような、はたまた最近

始まった<スカーレット>の朝ドラの主人公の子供の頃にそっくりの

もしくは、<ちびまる子ちゃん>のような、といえばわかりやすいでしょうか

 

いわゆる典型的な<おかっぱ>頭やったので、散髪屋さんで

髪の毛を切ってもらうのは、ごくごく自然なこと、やと思うてました。

 

さて、おのさんのおじさん達がやってはった、この散髪屋さんですが、

仏光寺通に面した玄関を入ると、すぐに待合室があって、

ソファーやったか、椅子やったかが並んでいて、壁にテレビが

あって、そしてまた、た~~~くさんの漫画の本が、置いてあったので

 

いつ行っても、はやっていて、順番待ちせんならんのやけれど、

ここで漫画の本を読めるので、待つのがちっとも苦にならへんかった

記憶があります。

 

そして、なんというても、美容院では味わえへん、散髪屋さんならではの

至福の時間!! それは、<お顔そり>の前の、あのたっぷりの白い泡を

太ーい刷毛で、顔にのせてもらうときの得も言われぬ心地よさと、

 

最後に、熱~~~いタオルを顔の上にのせてもらったときの、あの

なんとも言えへん、おもわずため息が出そうな<癒し>の瞬間、です。

 

大人になったあとも、散髪屋さんのそばを通るときには、いつも

<あ~、もいっかい、あの感じ、味わいたいなぁ~>と思います。

 

おそらく、<幸せを感じる瞬間>とかいうテーマで、街頭インタビューが

あったとしたら、間違いのう、上位にランクされるであろうほどの

生涯忘れへんほどの心地よさ、を、小さい女の子にも、ちゃんと

与えてくれはったのが、おのさんの散髪屋さんのおじさん、でした。

 

 

 

掛け値なしに、<最高の焼きそば>!! やったと、思います。

 

西新道錦商店街の真ん中あたりに、その昔、リーダーストアー

いう、2階建てのスーパーマーケットがあって、1階で食料品、そして

2階には、日用雑貨のありとあらゆるものが、売ってありました。

 

不思議なんは、2階に上がるときだけ、エスカレーターがあるんやけれど

降りてくるときは、階段、やったんです。降りるときのほうが、荷物があったり

するんやけれど(笑)

 

そのリーダーストアーの向かい、細い道の角に、一軒の

お好み焼き屋さんが、ありました。小さいおうちの玄関先にお店があって

ちょっとだけ、そこで焼いて食べたりもできるんやけれど、私はいつも

持ち帰り専門で。。。そのお店に、

 

今まで、半世紀以上、生きてきたなかで、間違いなく、一番大好きな

焼きそば!!を焼いてくれはるおじさんが、やはったんです。

 

仏光寺通と西新道通の角まできて、のぞきこむと、営業してはるときは

いつもお好み焼き屋さんの店先に、<紫ののれん>が、見えました。

 

メニューのなかで、ラードの味を生かした、<ぶたの焼きそば>が大好きで、

晩ごはんの前でも、1つでも、2つでも、実際、食べられたので、

おかげさんで、子供の頃、ものすごう太ってしもたことさえ、ありました。

 

おじさんとおばさんが二人で、やってはるお店で、

やきそばができるまで、大きな鉄板の前で、おじさんやおばさんと

世間話をするのが、とても楽しい時間でもありました。

 

最初に行ったときに、幼稚園ぐらいやった娘さんが、

最後の頃にはもう、大学生になってはって。。

ほんまに、長いこと、美味しい焼きそばを、食べさせてもらいました。

 

近くの病院に入院したときにも、どうしても、あの焼きそばが

食べたい!!と無理を言うて、母に買ってきてもろたりもしたもんです。

 

今も、美味しい焼きそば屋さんは、ぎょうさんあるのやろうけれど、

あの、お店の<焼きそば>に勝る味は、ありません。

 

ずっと、ずっと、ずっ~~~と、食べたかったんやけれど、

おじさんが、突然、倒れて旅立ってしまわはったことで、

お店を、閉めることになったと、後に、おばさんから聞きました。

 

その頃、うちの親も入院していて、しばらく行けへんでいるうちに

ある日、通りかかったところ、お好み焼き屋さんやった玄関先が

ふつうのおうちの玄関に変わってしまっていました。

そのときの、茫然とした、気持ちは、今でも、忘れません。

 

  あの焼きそばが、もう二度と、食べられへん!!!

 

それは、どうしても、受け入れられへん現実で。。。

 

その後、自分なりに、思い出しながら、いろんなラードを使って

試してみたけれど、似たようなもんには、なっても

あの味を再現することは、できひんかったです。

 

あれからもう、長い年月が経ちますけれども、

ときおり、無性~~に、あの、おじさんの焼いてくれはったやきそばが

食べとうなります。

 

あ~、おじさん、あの焼きそばを、もいっかい、食べたいです!!!

 

 

前回、お話した、米山診療所のの2軒東の先に、その昔、毎日

お昼前に、ぎょ~~~うさんのお客さんで、いっぱいになる、お総菜屋さん、

<もみいさん>が、ありました。

 

今、廃止や有料化やとよう話題になってる<レジ袋>いうのは、

私の子供の頃には、のうて、代わりに、どこの家にも、ひとつは、

今のスーパーの買い物カゴよりもひと回り小ぶりな大きさの

<買いもんカゴ>いうのがあったんです。

 

<買い物にいく>いうときには、誰しも、そのうちの<買いもんカゴ>

を手に提げて、財布を持って出かけたものでした。そして、

 

もみいさんには、昼前になると、何十種類という、お惣菜が、

銀色のボールに、入れて、店先に、ずらっと、並べられるのです。

 

子供の頃、忙しい家業の手伝いのために、学校が休みになると

お昼前に、子供にはかなり大きめの、竹で編んだ買いもんカゴを下げて、

もみいさんのお店へ向こうたものでした。

 

いかんせん、小学生の私は、背が小さいさかいに、

ぎょうさんのおばさん達(?)が、何重にもなってはる後ろからは

まったく、お惣菜が、見えません。人、人、人!!!

 

そのうち、すいてくるやろうし、仕方なく、人が減っていくのを待って、

後のほうに立って待つよりほかあらへん。時折、おばさん達のすきまから、

見え隠れするお惣菜を見ようと、一生懸命背伸びして、

首をあっちへ、こっちへと、動かしながら。

 

そうこうしていると、いつも、もみいさんのお姉さん、

背の高いお姉さんと、小柄でぽっちゃり系のお姉さんのどっちかが、

大人の間から顔をのぞかせている小さい女の子を見つけてくれはって、

(ときおり、ぽっちゃりしたおばあちゃんの時もあり)

声をかけてくれはるのでした。

 

というより、おかずを決めて(?)くれはるのでした。

 

  あんたとこは、きのうはこれやったし、今日はこれにしとき!

  家族は6人やから、このぐらいでええやろ?

 

と、私が口を挿む間もなく、数種類のお惣菜を、ビニールの

袋にいれて、次々と買い物かごに、ほりこんでくれはって

手に持っている、大福帳に、お勘定を書いてくれはるのでした。

 

錦市場のなかにある、井上さんのお惣菜も、そのなかにあって、

今でも、錦通りの井上さんの店先に、当時と同じおかずが

白いタッパーに入っているのを見ると、ほんまに懐かしい気持ちになります。

 

サイコロに切ったじゃがいもとピーマン、小そうて、丸いウインナー、それとちくわ

が炒めてある、素朴なお惣菜が、私の一番のお気に入り、でした。

 

家族で、忙しい家業を営んでいた子供の頃、うちのお昼ごはんを

ずっと助けてくれてはったのが、<もみいさん>のお総菜屋さんでした。

 

 

 

壬生京極商店街のちょうど、真ん中あたり、仏光寺通りと交わる

東新道通りと中新道通りの中間地点に、その昔、<米山診療所>さん

いう、内科のお医者さんが、やはりました。

 

玄関の上に、しつらえられた色鮮やかなステンドグラスの小窓が、

当時、子供心にも、とてもハイカラ(?)に思えたものでした。

 

玄関を入って少し行くと、さらに、子供には、高うて、上がるのが

なかなか大変な、足台があって、そこをよっこらしょ!っと

 

踏んで上がると、ようやく左手に、受付の小窓、

ほんまに小さい、お金やらお薬やらをやっとこさ、やりとりできるだけの

隙間しか、開いてへん、

 

まるでパチンコ屋さんの裏手にようある、交換所ような(?)

小さな、受付の窓口が見えてくるのでした。

 

その小さい、受付の窓をそおろと開けて

<こんにちは!>と声をかけると、とても上品で、美しいて

子供心にも、声をかけるのが、なんとのう畏れ多いような、

米山先生の奥様が、ちょっと経ってから、顔をのぞかせてくれはって

 

まもなく、左手にある、診察室へ入るように、

米山先生から、お声がかかるのでした。

 

物心ついたころから、大学生になった頃まで、ずっと家族みんな

先生に診てもろてたので、風邪からお腹痛から、なんでも、

とにかく、からだの具合の悪いときはなんでも、母から

 

<ほな、米山先生とこ、行っといない!>と言われて駆け付ける

今でいう、うちのホームドクターの先生でした。

 

赤ちゃんの頃から知ってもろてるせいで、20才を超えても変わらず、

診察に訪れると、先生は、まず、椅子に座った私のほっぺたを

両手で、はさんで、にっこりとし、<はい、はい、今日は、どうしたんや?>

と、顔を近づけてきゃはるのが、なんや面映ゆい気がしたもんやけれど

 

優しい、おじいちゃん、のような、先生でした。

 

また、米山先生は、私の通っている小学校の校医さんでもあったので

学校で、定期的にある内科のお医者さんの検診のときには、

保健室に入って、聴診器の順番を待っている列に並んでるときに、

<あっ!あんたかいな!>という感じで、

ニッコリと笑うてくれはるのが、とても、嬉しかったのを覚えています。

 

熱が出たり、風邪ひいたり、いろんなことでお世話になりましたが、

なんでや知らんけれど、おぼろげな記憶のなかでは、

いつでも、なんでも、おしりに注射!が効いてたような(笑)

 

実は、この米山診療所さんの建物は、今はもう他の方が

お住まいなので、内装はきっと変わってしもてるんやろうけれど

少なくとも、玄関のところの外観は、私が通っていた頃と

ほぼ、そのままに、変わらず、仏光寺通りに面していて

 

その前を通るときには、つい、玄関上のステンドグラスに

目がいって、懐かしい、気持ちになります。

 

ちなみに、この米山診療所さんのはす向かいには

長いこと、<ひびの魚店>さんいうお魚屋さんがあって、

店先で、いつもおじさんや、おばさんが、魚を焼いたり、

お造りを用意したりしながら、お客さんの相手をしてはって

 

私が米山診療所の玄関に入ろうとすると、いつも背中に

<ともちゃん、どうしたん? どっか、具合悪いんか?>

とその店先から、叫んでくれはる声がして。。。

 

今はもう、その、お魚屋さんも、あらへんで、

マンションになってしもてるんやけれど、

米山診療所の前を通る時には、背中に、お魚屋さんのほうから

大きい呼びかける声が、今にも、聞こえてきそうな気が、するのでした。

 

その昔、壬生京極商店街が、ちょうど東新道通と交わる、角から2軒目に

<上甚(ウエジン>いう、名前のお肉屋さんが、ありました。

 

同級生のおうちやったこともあって、お肉はいつもこの

ウエジンさんで、買うてました。恰幅のええ、いかにもお肉屋さん

らしいふっくらしたおばちゃんと、小柄で、まあるい顔をしたおじさんが

やはるお店やったんやけれど

 

そのお店の端っこに、小さい<揚げもん>のコーナーがあって

そこで、おばあちゃんが、揚げてくれはる、コロッケが、

ほんまに、美味しい!! 味やって。。。

 

塾に行きしなに、いつも、ウエジンさんに寄っては、

コロッケをひとつ揚げてもろて、茶色い紙袋に入れてもろては

友達と歩きながら、食べたもんでした。

 

残念なことに、最高のコロッケを揚げてくれはった

おばあちゃんだけやのうて、おじさんも、おばさんも、

そして、同級生やったぶーちゃんも、なんでやしらん

大急ぎで、鬼籍に入ってしまわはったので、

 

今お店の前を通っても、、閉まったシャッターの上にある

傾いた<ウエジン>の看板の文字だけしか見られへん

のが、ほんまに寂しいのやけれど、

 

今でも、<どこのコロッケが美味しい?>という話になると

ウエジンさんの、あの、おばあちゃんの揚げたてのコロッケのことを

最初に、思い出します。

 

もいっかい、あの、あつあつのコロッケ、食べたいなぁ~ と

お店の前を通る時には、いつも、思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

壬生京極商店街には、昔からずっと変わらんとあるお店も、

もちろん、いくつもあって、

 

ちょうど商店街の真ん中あたりの、

仏光寺通の角っこに、<盛好湯>いう、お風呂屋さんが

今も、営業してはって、そのお向かいには、マツモトさんの

散髪屋さんが、あります。

 

その、散髪屋のマツモトさんのちょうど、小さい道をはさんで

向かいあたりに、その昔、おじいさんとおばあさんとでやってはる

ちいさな<おでん屋>さんが、ありました。

 

<おでん屋さん>いうても、小さな古い家の軒先に

おおきなお鍋がひとつ、台にのせてあって

そのお鍋のなかに、おでんの具が、ぎょうさん煮込んであるだけの、

お店でした。

 

こんにゃく、じゃがいも、ちくわ、にぬき、厚揚げ。。。

奇をてらうもんやのうて、具も、素朴なもんばかり、です。

 

<おじいちゃん、こんにゃくと、厚揚げ!>やとか

<おばあちゃん、今日は、たまごとちくわ!>とか

 

大きな鍋をのぞきこみながら、取ってもろたら

小さながま口の財布から、お小遣いを出して、手渡します。

たしか、ひとつ、5円とか、10円とか、そんな値段やったように思います。

 

お金をはろたら、お風呂の風呂敷を抱えて、手におでんの串を握ったまま、

お鍋の向かいに置いてある、板を張っただけ、みたいな、

古~い長椅子みたいなもんに、ちょこんと腰かけて、

夜空を見上げながら、おでんを味わう、んです。

 

おかげさんで、

小学生の頃には、もう家にお風呂は、あったんやけど

友達や家族といっしょに、銭湯に行くのが、ほんまに楽しみでした。

 

あの頃、楽しみは、実は2つ、あって。。。

 

ひとつは、銭湯で、上がった後に飲む、あのやけにスマートな(?)瓶の

バイヤリースオレンジ、もしくは、ちょっぴり大人の味のするコーヒー牛乳!!

 

そして、この<てんたつ>さんのおでん!!

 

どちらも、最高!でした。

 

<てんたつ>さんのおでんは、ほんまによう味が浸みてて、

お風呂帰りに、まだほてった身体で

洗面器や手ぬぐいやらをつつんだ風呂敷を脇に抱えて、

 

夜空を見上げながら、串にさしたおでんをほおばっていると、

ひんやりと通っていく夜風がほんまに心地良うて。。。

 

子供時代の、<至福の時間>のひとつ、でした。

 

最近、コンビニのレジに並んでいると、ふと

レジの前に置いてはる<おでん>がよう目にはいってきます。

 

そんなとき、

 

 あ~、あの、

 <てんたつさんのおでん>が、もいっかい食べたいなぁ~!!と

 

美味しかったおでんの味はもちろん、

どれにするか、なかなか決められんと、いっつもグズグズしてた小学生を、

優しい待ってくれてはった、おじいちゃん、おばあちゃんのことを、

懐かしい思い出しています。

 

 

 

 

昭和初期の古い映画館、<壬生館>のあった、仏光寺通と、中新道通

の交わる角に、その昔、<だるま薬局>さんという薬局がありました。

 

最近あちこちで見かける<ドラッグストアー>とは様相が違うて、

玄関を入ると、小さいお店のど真ん中、子供には、少し高い場所に

透明の受付カウンター(?)があって

 

こんにちは~!言うて、声をかけても誰も出てきゃはらへんときには

カウンターの上のベルをチン!と鳴らすシステムになっていました。

 

ベルが鳴ると、奥のほうから、ほっそりした、だるま薬局の奥様が

(国語の先生みたいな)出てきてくれはって、

 

  陀羅尼助がん、下さい!

 

言うと、奥のほうから、板状のなんやら笹の葉で巻いたような

薄っぺらいお薬を、持ってきてくれはりました。

 

お腹の具合の悪いときに、胃がすっきりしいひんときには、

これが、不思議なほど、すっきりと効いたものでした。

 

奥さんとちごて、少し大柄のぽっちゃり系のだんな様は、

カウンターの奥で、よう、天秤ばかりのようなもんに、粉薬をのせては

小袋に入ったお薬を、太い指で、そうろと、作ってはりました。

 

子供心に、あれは、なんのお薬なんやろう。。。魔法のお薬とか。。

いつも、勝手に、色々と、想像したものでした。

 

なんやわからへん薬が所狭しと、積んである薬局に行って、

粉薬を調合してはるおじさんの姿に出逢うのが、

子供心に、なんやしらん、ワクワクするので

 

だるま薬局へのおつかいは、いつも大好きでした。