51になって思うこと その4

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みなさん、こんにちは。 

城本クリニック横浜院院長 野中大樹です。   

 

さて、飯塚病院に赴任しました。

兎にも角にも忙しすぎて、日常の記憶がほとんどございません笑

赴任した年がちょうど新研修制度開始の時期で、卒業後に大学医局に直接入局するのではなく、マッチングといって飯塚病院などの病院に直接就職?するような制度に変わりました。飯塚病院は学生の間でも人気の病院で、それはそれはレベルの高い学生たちが全国の医学部から入ってきていましたね。

その学生を直接指導するような立場でもあり、かつ自らも学んでいかないといけない状況でしたので、もう休みなんかないわけですよ。

それに加えて実働部隊の一番下でしたので、救急車の対応はほぼ全て私が担当。入院するとなるとその患者の状態も把握してないといけないため、毎日が頭フル回転状態・・・・

考えられないような毎日を送っておりました。

あ、高校時代の陸上部の同級生の結婚式、スピーチも頼まれるくらいの間柄でしたのに、その前日とその日の朝に来たくも膜下出血の緊急オペのためドタキャンしましたから。最悪な友だちでしょ笑 でも仕方なかったんですよ。行けるわけないじゃないですか。

当然、前日から約束していた家族とのお出かけなんか、その日の朝に病棟に行った時に救急車が入ってくるもんなら「ごめん、行けなくなった」と言うしかないじゃないですか。

そのため、飯塚病院時代は妻と休みの日の約束をもうしなくなりました。「約束破り」の汚名を着せられてましたもん。

はっきり言って、それくらい飯塚病院には救急車がものすごい数入っていたのです。飯塚病院がある福岡県筑豊地区の最後の砦みたいなもので、救急隊も他院から断られて困った挙句「飯塚病院だったら引き受けてくれる!」って感じで掛けてきますからね。我々が断ったら行き場がないわけですよ。その自負は常にありましたので、しょっちゅうICUやHCUの師長さんと言い合いをしていました。こちらは脳外科全入院患者の把握ができていますから、こちらである程度ベッドコントールをして、何とか救急患者をねじ込んでいましたね。

そのような生活を2年間行ったおかげで相当な経験を積むことができました。

その2年間の中に、私の人生を左右する出来事が偶然あったのです。

 

続く